[医療制度を考える(2)]

[劇映画 日本の青空2 「いのち輝く里」] 映画製作と上映協力の呼びかけ
[沢内村奮戦記ー住民の生命を守る村] 太田祖電/田辺順一 著(あけび書房 1983年出版)
[「診療報酬改定」中途半端に終わった勤務医対策] 朝日新聞 社説 2008年2月15日
[米国の二の舞いだけは、ごめん被りたい] 中国新聞 「天風録」 2007年10月22日
[医療崩壊] 広島県医師会速報(第1944号)2006年7月5日
「社会的共通資本としての医療」 宇沢弘文(日本学士院会員・東京大学名誉教授)日医ニュース 2007年6月20日
[医療制度『改革』をどう見る、どうするか] 東北大学大学院経済学研究科教授 日野秀逸 2007年5月20日
[診療報酬改定] リハピリ中止は死の宣告 東京大名誉教授 多田富雄 朝日新聞 2006年4月8日
[利害の抵触:泥棒が裁判官に] 李啓充 2005年5月15日兵庫県保険医協会評議員会特別講演
[今後の医療と混合診療] 福山循環器病院院長 島倉唯行 光彩 第47号 平成17年7月1日
[社会的共通資本・社会保障としての医療]「日本の医療制度について(4)」日医ニュース No.1050 2005年6月5日
[市場原理と医療、米国の失敗から学ぶ](別ページ) 李 啓充 医師/作家(前ハーバード大学医学部助教授)
[病院屋台] のれんをくぐれば え!?ここ病院? 松村秀樹 著(2001年10月1日初版)
ユーモア溢れる近未来医学小説
[理想の医療を作るには] 広島市民病院小児外科 高田佳輝先生 1999年12月25日

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[劇映画 日本の青空2 「いのち輝く里」]
映画の力で憲法第25条を生かそう!
映画製作と上映協力を広く呼びかけます
医師 長谷憲(広島県保険医協会理事長)

国がすすめる医療費抑制政策によって、患者負担は増加し、地方の医療供給体制は縮小を余儀なくされ、「医療崩壊」が広がっています。過酷な労働と診療報酬の度重なる引き下げに医療現場も悲鳴をあげています。「入院先がない」「安心して出産できない」「救急の搬送先がない」という日本は、憲法25条の生存権をも脅かされる状況です。「日本の青空π-いのちの輝く里」は、「生命尊重の行政」という理念を掲げ、老人・乳幼児医療費無料化に踏み切った岩手県沢内村の姿を描いた映画です。後期高齢者医療制度に象徴されるこの国の医療を変えていく手掛かりとなるべく、映画製作と上映のご協力を広く呼びかけます。

ストーリー「日本の青空2-いのち輝く里-」
"豪雪・多病・貧困"とてつもなく大きな問題を抱えていた、山間の小さな里・沢内村一(岩手県、現・西和賀町)

長く無医村で、父親から医者になることを期待されつつ村を離れていた深澤晟雄はある日、妻と帰郷する。昔と変わらず悲惨な村の状況を前に晟雄は、何とか村をよくしたいと立ち上がる。苦難を打破しようと住民に語りかけ、自らの信念である『生命尊重』行政の在り方を説いていく。そして、当時は国民健康保険法違反であった医療費無料化を晟雄は、住民のいのちを守るため、何としてでも実現させようと憲法25条を盾に「少なくとも憲法違反にはならない。国がやらないから、村がやるんです!」と、全国に先駆けて、老人・乳児医療無料化に踏み切る。さらに、全国でも最悪の乳児死亡率であったこの村を、全国初の乳児死亡"ゼロ"という記録に導くまでに。そこに辿りつくまでには、晟雄と住民たちの奮闘の日々と、数々のドラマがあった…。

沢内村奮戦記ー住民の生命を守る村
太田祖電/田辺順一 著(あけび書房 1983年出版)

はしがきにかえて
序 章 「豪雪・貧困・多病」との闘い 「宿命の村=沢内」にいどむ 太田祖電
農民学校設立/豪雪・貧困・多病の村/雪とのたたかい/
 医者がやっときたけれど…/村づくり四原則/健康チェックは健康管理課で/
乳児死亡率ゼロ達成/深沢村長ガンで逝去/国保会計黒字へ/
全村民を人間ドックへ/老人医療費無料を続ける/“体”から“心と環境”へ/人と自然は一体
第一章 「生命を守る村」自戦記 “沢内生命行政”哲学と実践 増田進
生命尊重は政治の基本だ/日本最初の老人医療費無料の村
沢内医療を支える健康管理課/住民参加の草の根医療
「人間ドック沢内方式」の哲学/健康は住まいから−住宅改善運動
往診の話−患者にとって医者とは/“病院栄えて村亡ぶ”でいいのか/明るい未来
第二章 看護婦・保健婦35年 村民の健康とともに歩む 田中トシ
はじめての沢内村/行き倒れの弘法様/沢内村保健婦第一号/
吹雪の部落訪問/天からさずかった寿命/オバアチャン努力賞/
赤ちゃん救出雪中行軍/一人のある産婦さん/結核対策/集団就職列車/
学生さんと保健活動/健康相談/装い新たに部落巡回/健康台帳
第三章 沢内村から学ぶこと 草の根民主主義と住民本位の“行政改革” 上坪陽
なぜ、いま、沢内村なのか/希望と勇気と連帯の哲学/住民の連帯と科学の力/
村民本位の行政姿勢と機構/沢内村にみる真の“行政改革”
補 章 沢内村いのちの村史 高橋典成 照井富太
資 料 参議院での増田進証言録 1982年3月27日予算委員会にて
あとがきにかえて

旧沢内村(岩手県西和賀町)視察レポート
真下紀子(日本共産党) 2009年5月17日
岩手県西和賀町沢内(旧沢内村)で「生命尊重の行政」の取り組みを視察

いのちの作法 沢内「生命」行政を継ぐ者たち

合併によって町全域に広がった「生命尊重の地域づくり」

沢内村関係資料

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診療報酬改定」中途半端に終わった勤務医対策
朝日新聞 社説 2008年2月15日

これで勤務医不足に歯止めをかけられるだろうか。中央社会保険医療協議会(中医協)が、2年に1度改定される診療報酬の配分を決めた。政府は昨年来、診療報酬の総枠については、医師の技術料など「本体部分」をO・38%引き上げることを決めている。引き上げ幅は小さいが、苦しい財政下での8年ぶりの総枠拡大だ。過酷な状況にある救急医療や産科、小児科、外科といった分野の病院勤務医に報酬面で手厚く配慮すべきだ、との声に応えた措置である。中医協は、手術料や産科救急の報酬を引き上げるなどして、約1500億円を病院勤務医向けに重点配分した。限られた財源の中で、最低限のメリハリをつけたとは言えよう。だが、本気で勤務医対策に手を打つのならば、開業医の既得権に大胆に切り込むことで、もっと多くの財源を確保できたはずだ。今回の改定は、中途半端に終わったと見られても仕方あるまい。

最大の焦点は、開業医の「再診料」の見直しだった。現在、病院と開業医の初診料は2700円で同額だが、2度目以降の診察料は病院570円に対して開業医は710円と、140円も高い。この差は、開業医が地域医療を包括的に担っていることへの評価分というが、納得する人は少ないだろう。むしろ再診料の低い病院へ患者を向かわせ、多忙な病院勤務医をさらに疲弊させる。厚生労働省は当初、開業医の再診料を引き下げ、その分を勤務医対策の重点配分にあてる方針だった。しかし、日本医師会が強硬に反対し、見送られた。結局、再診料は病院分を30円引き上げることでわずかに差を縮めたものの、依然として110円の開きを残した。開業医を一律に優遇する報酬体系は、抜本的に見直すべきだ。

例えば、ビルの一室に構えた診療所に昼間だけ通勤する開業医の報酬は、大幅に削る。地域の中核病院と連携し、休日・夜間や救急医療を支えようと粉骨砕身している開業医には、もっと思い切った報酬で報いるー。こうした改革で、勤務医の負担軽減を図る必要がある。超高齢時代に必要な医療費は、野放図な膨張を抑制しながらも、きちんと財源を確保していかねばならない。報酬の総枠が拡大されたのは、そうした認識を国民が共有しつつあるからだ。しかし、再診料の引き下げを見送ったことは、この流れに逆行しよう。開業医全体の既得権に固執し続ける日本医師会の体質が、改めて浮き彫りになったのではないか。

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[米国の二の舞いだけは、ごめん被りたい]
中国新聞 「天風録」 2007年10月22日

小津安二郎監督の名作「東京物語」(1953年)に、こんな場面がある。東京で暮らす子どもたちを訪ねた夫婦が尾道に戻って間もなく、六十八歳の妻が脳卒中で倒れる▲昏すい睡が続く妻は、自宅に寝かされている。往診のほかは、氷のうを替えるぐらいしかない。駆け付けた子どもらが見守る中、妻は息を引き取る。開業医でもある長男から容体を告げられた夫のつぶやきが印象的だ。「そうか、いけんのか」▲愛する人を失うかなしみは、いつの世も変わるまい。ただ、今のように病院で治療を受けられたら、命を失うことはなかったかもしれない。高齢者医療に詳しい岡本祐三医師によれば「短い在宅療養で往診医に脈をとられながら亡くなるのが、老人にとって普通の結末だった」(「医療と福祉の新時代」)▲入院が当たり前になるのは、六一年に国民皆保険が発足してからだ。世界有数の長寿国になったのも、保険証一枚で誰もが一定の医療を受けられるおかげだろう▲対極が民間保険中心の米国。無保険者は約五千万人に上り、毎年一万八千人が治療を受けられず亡くなっているという。支払い能力がないと病院から放り出された女性…。上映中のマイケル・ムーア監督の新作「シッコ」は、病む米国医療制度の現実をえぐる▲医療費抑制を進める日本でも昨今、高額の自己負担分が払えず、抗がん剤治療を見合わせる患者が増えていると聞く。米国の二の舞いだけは、ごめん被りたい。

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[医療崩壊]
日本医師会は組織と意識の改革を!
広島県医師会速報(第1944号)2006年7月5日

蛙を水の入った釜に入れて、ゆっくりと下から熱してゆくと蛙は熱さを感じず、気がついたときにはゆで上がってしまっているというたとえ話(?)を聞いたことがありますか。昨今の子どもが家に放火したとか親を殺したとか、または逆に親が子どもを殺しただのといった事件の多発に、またかと自分の耳が慣れきってしまいそうで恐ろしいものがあります。気がづいたときには手遅れ、日本崩壊!というのはごめん被りたいものです。

ところで、日本の医療情勢も特にこの数年、なにか変ですね。勤務医の過重労働や、治療には限界があるのだという事実への患者の無理解、これら多くがストレスとなって勤務医の士気の低下を招き、ついには現場からの逃散・開業・そして病院での医師不足、という悪循環…。

一生懸命に治療しても病気が重くて助けられなかったら、すぐに訴えられるとか、時にはこともあろうに警察に逮捕されたりするなんてこともありになってしまいました。マスメディアや厚労者は医療の安心・安全を、と言いながら、その対策に当然かかるであろう人件費やその他諸々の費用の手当はなく、それどころか逆に診療報酬をカット!「安全な医療をめざしてください、そのためには少しくらいお金がかかってもいいです」というのが普通だと思うけど、こんな相矛盾する施策を強いられるなんて馬鹿にするにもほどがあります。そろそろお湯が沸点に達してきているのではないかと思います。

いま「医療崩壊ー立ち去り型サボタージュとはなにかー」という本を読んでいますが、ずいぶん触発されます。著者は虎の門病院泌尿器科部長の小松秀樹先生でバリバリの現役の医師です。約300ページのちょっと読み応えのある本ですが、内容は日本の医療の問題点を多方面にわたって論理的に論じられており、とても共感できるところが多く、医療関係者には必読の本だと思います。(4)「イギリス医療の崩壊」ではいままさに日本が同じレールを崩壊に向かって走っている危機感を感じましたし、(5)「安全とコスト」のところでは日本医師会のあり方などについても耳の痛いことを書かれています。会員の半分を占めるに過ぎない開業医と、医師会活動や医政にそっぽを向く勤務医、日本医師会組織の中身がバラバラなのは官僚には見え見えです。これでは「日医は日本の医師の集まりでございます」と言っても、足下を見られてしまいます。これが続けば日本の医療関係者はこれからも医療保険行政を握った官僚にいいように手玉に取られるだけでしょう。

いまこそ、勤務医たちも目を覚ますときで、「これが自分たちの医師会だ」と開業医・勤務医を含めて会員のみんなが自覚できるような組織作りをしないといけないのではないでしょうか。そのためには勤務医の意識改革と共に日医も小手先ではない、選挙権を含めての根本的な組織大改革をする覚悟が必要だと思います。勤務区会員は払っている会費は少ないかもしれませんが、そのかわり学術面では大いに貢献しているわけですし、勤務医の会費負担云々を問題にしていてはいつまでもらちがあきません。日医が名実ともに日本の医師の総意であることを内外に示してこそ初めてまわりも一目置いてくれる存在になるのではないでしょうか。いまこそ日医がしっかりとその存在を示して日本の医療の崩壊をくい止めるべき時だと思います。(高田佳輝)

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「社会的共通資本としての医療」
宇沢弘文(日本学士院会員・東京大学名誉教授)
日医総研創立10周年記念シンポジウム「日本の医療の未来像―希望の構想―」
日医ニュース No.1099 2007.6.20

宇沢氏は、「かつてイギリスは医療をすべて税金でまかなっていたが、財政負担が大きくなったために、1960年代半ばから医療費抑制策を推し進めた。70年代には、市場原理主義の経済学者フリードマンに賛同した当時のサッチャー首相が、医療費と教育費の抑制、官僚による管理を強めた。その結果、優秀な医師・頭脳が国外に流出し、医療の荒廃を招いた。90年代後半になってブレア首相が医療費抑制策の失敗に気付き、2000年からの五年間で医療費を1.5倍に増加したが、一度壊れた体制は容易には改善せず、いまだに医療への社会的信頼感が回復しないまま現在に至っている」と解説した。そのうえで、宇沢氏は、「日本でも今日、倫理的・社会的・文化的価値を無視し、人生の最大の目的は金を儲けることであるという、市場原理主義の流れがあり、教育と医療が最大の被害を受けているとの危機感を強く抱いている。日本は、イギリスの失敗に学び、決してイギリスの過ちを繰り返してはならない。そのためには、市場原理主義の対極にある、"社会的共通資本"の考えを導入する必要がある。

"社会的共通資本"とは、人々が豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にする社会的装置である。市民の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由が最大限に確保できるような社会を形成するために必要不可欠であるという視点に立つもので、医療と教育が最も重要な構成要素である。

医療と教育は、社会全体の共通財産であり、利潤追求の対象にされたり、官僚に管理されてはならない。"社会的共通資本"の管理は、職業的専門家の知見と倫理の下で行い、財政面を国が考えるべきである。医師の職業的知見に対する高い社会的評価は、社会の安定に必要である」と述べ、政府の医療費抑制策を強く非難した。そして、「医師が"ヒポクラテスの誓い"に沿って医療を行い、なおかつ経済的安定を維持し、同時に人間としての生き様を全うできるような制度的条件とは、『経済に医を合わせるのではなく、医に経済を合わせる』という言葉に言い尽くされる」と結んだ。

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「過労状態の医師と医療従事者が使命感と犠牲的精神で支える貧しい日本の医療」
[あなたの子供のいのち、疲れ切った小児科医にまかせますか?] →「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」

[地方医療、専門医より一般医の充実を] 済生合熊本病院副院長 副島秀久 朝日新聞「私の視点」2006年3月1日
[危険な医療]:医療は危険なもの・病院は危険なところ、自分の健康・自分の命は、自分で守る!
→日本の医療を正しく理解してもらうために 川崎市立川崎病院 鈴木厚

医療・福祉(社会保障)、教育、環境保護などの社会的共通資本は、国の責任で供給されなければならない。
憲法第25条 (1)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
→日本国憲法

(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
[診療報酬改定] リハピリ中止は死の宣告 東京大名誉教授 多田富雄 朝日新聞 2006年4月8日
…一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか…
[利害の抵触:泥棒が裁判官に] 李啓充 2005年5月15日兵庫県保険医協会評議員会特別講演、小泉内閣はアメリカの傀儡政権か?


[医療制度『改革』をどう見る、どうするか]
東北大学大学院経済学研究科教授 日野秀逸
患者の権利オンブズマンNEWSLETTER「患者の権利」第45号発行2007年5月20日
http://www.patient-rights.or.jp/

[医療が持つ特徴] [格差をどう捉えるか] [スウェーデンの取り組み] [医療分野の格差] [医療「構造改革」の現段階] [日本医療に対する高い国際評価] [日本の医療を良くする道筋] [医療を良くする原動力] [憲法25条の実態化]

医療が持つ特徴

医療のことを考える場合、衣食住というような着る物・食べる物・家など、或いは自動車などの消費財とはかなり違う点があることを押さえることが大事です。つまり、医療というのは個人の主観や支払い能力と関係なく発生するということです。一般の消費であれば懐具合と相談して、今はお金がないからバイクで我慢して、お金が貯まったら軽の四輪車、次に国産の大型車、或いは外車を買おうということでやっていけます。しかし、医療の場合は、お金がないから最初は胃炎の治療で抑えてみて、お金が貯まったら胃潰瘍に切り替えて、しっかりお金を貯めてから胃癌の治療をしようというわけにはいきません。

昔から「疾病と貧困の悪循環」という言葉があります。むしろ生活に余裕がなくていろいろ無理をする、そして無理をすることによって身体を痛める、すると収人が減るし、治療のためにお金が出て行くというように、貧困が重なってきます、従って、医療の必要性は個人の懐具合で解決するのは無理だということが経験的に分かっており、そのために個人的負担ではなく社会的な仕組みや社会的な扶養という仕組みでやっていかなければいけないのです。

大げさに言えば人類はいろんな仕組みを工夫して、いろんな事をやってきたということになります。福岡県ですと、宗像地区の有名な『定礼』という一種の共済組合などが江戸時代から知られております。その他に社会保険、或いは税をもって賄う国民医療事業方式など、いろいろな社会的な仕組みを考えてきました。日本では社会保険を中心に医療或いは年金などを細み立てています。

産業革命を経験した後、労働運動の前進などを背景にしながら、資本側と労働側と政府の一種の妥協の産物として、或いは過渡的な仕組みとして社会保険が出来ました。しかもドイツやフランスやイタリア或いは日本など、社会保険の仕組みを使って医療をはじめ年金等に取り組んでいる国も依然として多いということを押さえておきたい。

格差をどう捉えるか

2006年の秋、日本学術会議の経済学委員会のシンポジウムがありました。格差が拡大しているということは学者の間では認識が一致していますが、原因が何であるかという点ではいろんな議論がありました。例えば、グローバリゼーションが原因なのでこれはどうしようもない、小泉さんや安倍さんという構造改革派の経済政策があるから、格差拡大をこの程度に止めているという議論をする人たちがいます。逆に、そうではなくて構造改革が格差を押し広げることになっていると主張する人たちがいます。シンポジウムではこの二つが厳しく対立していました。言うまでもありませんが、政府や財界筋は国際的な経済のあり方が格差を必要としているのであって、必要とされる格差をむしろ講座改革で弱めているから、もっと構造改革を進めて行き大企業を中心に潤えば、いずれその雫が滴って下々まで潤っていくだろう、それまでもう少し我慢して侍っていなさいという意見です。これは大阪大学の大竹教授をはじめとする議論です。一方で京都大学の橘木教授や私もそうですが、確かにグローバリゼーションの影響もあるけれど、スウェーデンで典型的に見られたような、格差を是正しつつグローバリゼーションに対応するという政策を、日本はとらなかった、そこに問題があるという考えがあります。

ここで、格差そのものがどのようになっているのか押さえておきます。2005年までの統計資料によると、大企業の経常利益は10年間で2倍になっており、その大企菜の役員一人当たりの報酬も約2倍になっています。一方、中小企業の役員はかなり報酬が減っており、全企業の従業員一人当たりの給料も減っています。株主への配当は3倍に増えて、法人税の税収は落ちています。収入は落ちていますから当然住民税等も減っています。消費税は1997年に税率が5%に引き上げられました。誰が勝ち組かということで言えば、明らかに大企業関連、そしてその株主達ということになります。

ジニというイタリアの学者が開発した統計指標である「ジニ係数」が格差の大きさを表すものとして使われています。ジニ係数が1に近いほど格差が大きく、0に近いほど格差が小さいというものです。1981年から小泉さんが登場した翌年の2002年までを見ると、碓実にジニ係数は大きくなっています。それから税等社会保障負担による所得の再分配がどのくらい評価を持ったのかということで見ますと、1981年にはかなり効果を上げています。国際比較でいうとそれほどでもないですけど、日本の歴史的な時系列で見ると改善をしている。それから次第に改善の幅が落ちてきまして、2002年には改善の度合いが1%を切っています。現在では、分野によってはマイナスになるという状況です。累進課税法、応能負担を原則とした社会保障負担が実行されなくなり、日本における所得の格差は拡大して、今やアメリカに匹敵する格差拡大を示しております。大体0.5というのがッ世界のトップクラスになります。年齢層ごとに所得のジニ係数を計算したグラフによると、この5年問でどの年齢層においてもジニ係数は大きくなっており、幅の差はあっても格差自体はどの年代をとっても広がっています。

スウェーデンの取り組み

大企業を中心とした勝ち組と、それ以外の多くの中小企業や大企業の労働者も含めて所得が横ばいから低下し、格差が大きく広がったという日本の状況を念頭に置きながら、同じようなことを経験したスウェーデンの取り組みを紹介します。

1990年代の前半にはスウェーデンの失業率が8%もあり、10%を超えた年もありました。財政も赤宇で、その割合は現在の日本の財政赤字にほぽ匹敵する数字でした。1984乍頃からそれに対する対策の準備を始め、1995〜6年から取り組みが動き出しました。何をやったかというと、こういう厳しい時代であるから能力のある人々に税の負担をしてもらおうということで、裕福な人達や利益を上げている企業に対して増税を行いました。日本では逆に、史上最高の経常利益を上げているトヨタ等に減税をしようという話になっているのです。さらに、所得税の課税最低限度額を引き下げて、もっと多くの貧乏人から税を取ろうとしています。そして消費税率も10%に上げようとしています。

こういう日本の政策とは全く逆のことを訴えて、スウェーデン国民の支持を得て実行されました。そして、集めたお金を政治家の懐に入れるようなことはせずに、教育・ITの基盤整備と社会福祉に集中的に使ったのです、社会福祉を充実させることによって安心してチャレンジ出来る、失敗しても何とかなるという仕組みを作っていきました。次の世代のことを考えて、国民の生活にとっても産業にとっても重要であるIT基盤整備をきっちりと実施し、離れ小島まで光ファイバーを整備しました。そして何よりも生産力の基本になる人的な能力を高めようということを集中的に行い、結果として生産性が上がりました。

ダボス会議と言って、世界の大企業のトップが集まって自らを賢人会議と称している非常に図々しい人達がいますが、その事務局がスイスにありまして、生産性の世界ランキングを毎年出しています。それによると日本は15〜6位です。必死になって国際競争力をつけようと言っている割には上がっていない。上位10ヵ国に北欧の5カ国が人っています。北欧の閣僚会議は、福祉を厚くし教育を充実させて生産性も高めようという一致した歩調で政策を進めており、北欧の国は世界でも生産性の高い、競争力の強い国になっています。統計の取り方が日本よりも厳しいですが、失業率も日本よりも低いところまで持ってきました。

財政も単年度で黒字まで持ってきました。どんな政策をやったかと言いますと、あまり先行きの見通しのない企業を退場させ、そこで働いていた従業員が新しい企業に移っていく際には最長で1年6ヵ月、それまでの賃金を保障しながら国・労働組合・自治体・企業の4者が責任を持って職業教育をするという仕組みを実行したわけです。1年6ヵ月の職業訓練というのは、今の日本の大学の4年間でやっているものにほぼ匹敵する位に、密度の高い集中した内答になっています。労働組合との約束で、このような倒産した企業の労働者を優先的に採用するという仕組みも含めて、哀退産業から見通しのある産業に大胆に労働力を移す、その際に労働者が不利益にならないような仕組みを作る等、これが増税で得た財源をもって行った福祉の内答の一つです。

このような広い意昧での教育を徹底して行うことを通じて、敗者復活で全体を底上げしようということです。勝ち組と負け組を作るのではなく、皆で立っていこうというフィンランドの教育は有名ですが、スウェーデンの労働政策も同じです。結局、どっちが勝ったのかと言うと、データの上で明らかなように、少なくとも今の時点では連帯を軸にして杜会の生産性も高めていくという北欧の人達の方法が勝っています。

医療分野の格差

いろいろな自己負担があって十分な医療を受けられないという、所得に由来する格差があります。それから年齢によって医療内容が限定される、特に高齢者医療に見られるような格差や、小児の場合に小児科医が少なくなってきているという絡みで生まれてくる年齢の格差もあります。さらに地域格差、職業による危険度の差や所得の差が医療を受ける場合の格差に結びつきます。診療科によっては診療報酬の上で不利益等があるためにその分野の充足が十分に得られない。これは産科に集中的に表れているものです。このような複合的な格差が絡み合って全体として医療の格差を拡大しているというのが現在の状況だと思います。

所得格差はいうまでもありません。患者の自己負担がこの5〜6年間に右肩上がりになっており、それがまた格差を持ち込む。支払うお金はあったとしても、地域によって利用できる医療サービスがなければ、やはり格差が生まれます。高齢層の場合は心身の特性からしてあちこち傷んでくる。70年も80年も身体を使っていれば傷むのは当たり前ですけれど、それを悪事であるように扱って、若い人達に比べると4倍も医療費を使ってけしからんなどと、言いがかりをつける医療政策が行われています。このような医療格差をもたらしたのが、いわゆる医療構造改革で広く言えば構造改革路線ということになります。

経済のグローバル化と、アメリカ資本による圧迫をスウェーデンも日本も受けたわけですが、逆にグローバリゼーションで得をする人達もいるわけです。スウェーデン政府は、その得をした人達には、累進課税の原則と近代市民社会の税の基本原則である応能原則に基づいて負担してもらいました。しかし、生活に必要なものについては税を掛けないということも含めて税制の基本に立ち返りました。スウェーデンではお金があるところから出させて財源を確保し、グローバリゼーションの中でも立ち向かっていける仕組みと人間を作るための基盤作りをやることによって、格差是正に向かっていると思います。

日本は全く逆で、グローバリゼーションで儲けた勝ち組の人達にとってますます有利な政策を行う基本的なスタンスを持っています。儲けることができる人達がどんどん儲けていけば、その儲けが国民のところにも滴り落ちていくという理屈ですが、実際は全然滴りません。たくさんのお金を懐に人れた人はそれを投資に回して、配当金でますます肥え太るということで、いわゆるしずくが滴り落ちる経済論「トリクル・ダウン経済論」というのは完全に失敗しているのです。

医療「構造改革」の現段階

1995年の構造改革の準備期には村山内閣が規制緩和推進計画を策定しました。そして、1997年には橋本さんが経済大失政をしました。1996年というのは日本の経済が90年代になって初めて5%を超える経済成長率を示し、サミット参加国の中で対前年比トップの経済成長をした年です。そのプラスを個人消費が増えるような政策にまわすのが経済政策の常道ですが、橋本内閣は1997年に消費税卒を5%へ引きl上げ健保本人の自己負担割合を1割から2割へ引き上げ、老人医療費の有料の度合いを引き上げるなど、9兆円の負拒を国民に押し付けたのです。金融不況も絡んで山一證券が倒産し、あれよあれよと経済成長率がマイナスになるという経済失政のために、翌年の選挙で負けて橋本さんは退場することになりました。この大失政が原因で1998年からは自殺者が3万人の大台を突破しました。

その後、小泉さん、梶山さん、小渕さんが総裁の椅子を争い、小渕さんが総理になりましたが、累積の財政赤字は大変なものになっています。小渕さんは世界の借金王などと言って反省の色もなく、病気で死んでしまいました。その小渕さんの病床の枕元で何故か森さんが総理大臣になることが決まり、森さんも訳の分からない経済政策をやったわけです。はっきりしない人達が政治を行い、訳の分からない内に財政がどんどん悪くなるので国民は嫌気がさしてきたという気分のところに、中身はどうあれ、はっきりだけはしている小泉さんが上手い具合に出てきました。

頓挫していた構造改革が動き出し、2001年から2004年までの3年問は「集中調整期」として、年金と介護を中心に構遣改革を行いました。この間、自殺者の急増など国民には大きな痛みがありました。2005年から2007年を「重点強化期」として医療と障害者福祉に切り込む。2008年に消費税率の大幅引き上げと75歳以上を対象とする高齢者医療保険を創設すれば、社会保障に関して言えば構造改革は一応完成するというものです。

このシステムが順調に動けば、2010年以降は日本経団連や経済同友会など大企業にとっては安定成長軌道となり、左団扇でやっていけるという未来図を描いています。しかし、この構造改革にとって最も厳しいハードルとされているのが、2007年に実施される一斉地方選挙と参議院選挙です。財界としてはこの選挙結果が大きな分かれ目という付置付けをしており、多額の献金も辞さないという構えです。

こうした医療構造改革の現在の到達点として2006年6月国会で一連の法律が成立して、現作施行に向けて準備がなされています。最も重要な影響があると思われる75歳以上を対象とする新たな医療保険の運営を担う広域組織の議員を選ぶ大事な選挙が、あちこちで行われています。県会議員枠や市町村会議員枠などから選ばれますが、こういう運営機構に国民の視点から医療を良くする立場の議員を多く出すことも重要な運動だと忠います。また、療養病床を大幅に減らすという動きについても、これからの国民の運動に関わる部分が大きいのです。

健康保険料を引き上げ、一部負担金も引き上げる、また健康保険の効かない分野を拡大していくなど、労働者や住民の負担を重くするような医療構造改革は、明らかに改悪です。これらの施策は他に選択肢がなくて、苫渋の選択の結果で仕方なくやっているというような可愛らしい話ではなく、言わば確信を持ってやっているということを碓認しておく必要があります。

経済同友会が1997年に発表した「市場主義宣言」という文書では、経済社会の運営を可能な限り市場に委ねるということを強調しています。医療でも教育でも福祉でも、とにかく市場でやれということです。裁判とか泥棒を捕まえるとか、戦争するというのは市場でやる訳にはいかないので政府がやるが、後は大学から小学校の運営などは基本的に市場でできると宣言しています。この発想が源になっていろいろな特区ができました。大手の株式会社が病院や学校の運営にも乗り出しましたが、潰れかかっている大学が既に2つほど出てきています。

その後、経済同友会は2001年にサブタイトルで「自立国家構想」というものをまとめています。日本経団連は企業単位の加盟ですから、自分の会社や業界のことをいろいろ考えないといけない。経済同友会は資本家の個人加盟の組織ですから、資本家の立場から言いにくいこともずばりと言うのが特徴だと、「現代用語の基礎知識」などに書いてあります。経済同友会の終身代表である牛尾電気の牛尾さんが、経済財政諮問会議の場で小泉さんに「自律国家構想」を手渡しました。これは有難いということで小泉さんが骨太方針をまとめ2001年に第1回目の「骨太方針」が出ましたが、現在に至るまで経済財政諮問会議の国家構想として採用されています。その名前から分かるように、国民の自助努力と自己責任を前提とする自律的な国家、ほっといても国民が自分の努力と自分の自覚で動いていくような国家という意昧ですが、これは日本憲法の条項に違反する話になります。この自律国家においては、市場メカニズムを活用できるサービスは全て市場に委ねるべきだとしており、農業も製造業もサービス業も、医療や教育も民間にまかせるのが筋で、社会保障分野で行政がやるべきは生活保護だけという大変なものです。こういう考えを経済財政政策の基本として、日本をこのような姿にしようと明確な意思を持ってやっており、とりわけそういう明確な意志をはっきり語るのが経済財政諮問会議の民間委員です。

日本医療に対する高い国際評価

辞書で「構造改革」の意味を調べてみると、現作の仕組みや制度がどうしようもないほど機能不全に陥ったときに、根本的に立て直すことと載っていました。日本の医療はそれほど根本的に悪いのでしょうか。WHO(世界保健機関)が毎年出しているワールド・ヘルスレポートでは、日本の医療や保険医療政策は健康の達成度という点で一番上位にあります。これは周産期死亡率が人きな物差しとなっており、成績が良いのです、保険証一枚あれば必要で十分な医療をどこでも受けられるということで、平等であるという点でも上位の方で評価されています。

医療費はどうかと言うと、中くらいの資本主義諸国が加入している組織であるOECD(経済協力開発機構)加盟国24カ国の中で18位と、日本の経済力から見てもずっと低いのです。アメリカは医療費を世界で一番使っているのに総合成績では15位とかなり悪く、平等性では32位と相当悪い。人種別に数字をとると、ヒスパニックやアジア系はもっと下がっていきます。大相撲では殊勲・技能・敢闘の三賞がありますが、お金を一番使いすぎて、成績が悪く、不平等、これはマイナスの三賞ではないかと思います。医療体制のマイナス三賞を独占しているアメリカを真似する必要は全くありません。アメリカ大統領候補のヒラリー・クリントンさんは、日本のような医療を目指すということを演説で言っているのです。こんな状況ですから、根本的に土台から直すという構造改革は不要です。むしろ、日本医療の良い点を伸ばし弱点を直すというのが、最も熟練した臨床医、の診断ではないかと思います。まだ良い所はいっぱい残っているのに、みんな切ってしまえというのはヘボ医者のやることです。

それでは、悪い点はどこから出ているのでしょうか。OECD諸国における人口10万人当たりの臨床医の数は300人強ですが、日本は何と200人そこそこですから大変な差があります。看護師も同じように差があり、日本は少ないです。また、WHOで統計をとっている194力国の中で、国民10人当たりの医者の数では日本は67位、看護師27位、歯科医師28位と、いずれにしても非常に少ないのです。医療にお金をかけないということは、医療従事者が少ないということに直結しています。

日本の医療は医療従事者の超人的な頑張りで、なんとかもっているという状況です。ある病院の小児科長代理だった医師が過労のため、うつ病となり自殺しましたが、つい最近、労災として認定するとの判決が出ました。その一方で、患者側は長い時間侍たされ、十分な説明もないという中で我慢を重ねています。その我慢も崩れつつあるのではないでしょうか。統計的には出てこないのですが、患者側から罵声を浴びるというような局面が随分と増えているようで、外科医・小児科医・産科医を中心にトラブルが多くなりました。

高い水準にある日本医療が医療従事者の頑張りと患者の我慢で支えられており、それが限界にきているというのが、今の状況ではないでしょうか。その背景を簡単に言えば、お金をかけない医療政策のため医者も看護師も少ないことです。国民はこの点にも目を向けた上で、いかに患者の権利を守っていくかを考えないと、共倒れというか共食いになります。共食いさせようとしている人達から見れば、むしろ一番有難いことではないでしょうか。

英国においては10年程前から医療従事者と患者とのトラブルが相次いでおり、人口5,O00万人のイングランドで年間に数十万件の暴力事件が発生しています。患者や家旅が医師や看護師を殴る・蹴る・罵声を浴びせる・唾を吐きかけるなど、もう限界を起えるところまでいってしまいました。何とかしなければというので、ブレア政権が急速に医療分野に金を投じていますが迫いつきません。信頼関係というのは、一旦崩れてしまうと簡単には戻らないのです。

日本の医療を良くする道筋

社会保険としての医療保障を全うなものにするのが、医療を良くする基本的な方向だと考えています。しかし、社会保険に対する誤解が意識的に振りまかれているのではないでしょうか。一つは、社会保険は共済・助け合いの組織だという間違いの議論です。共済組合を作っていろんなことをやっていた時期は19世紀の後半です。共済というのは労働者たちがお金を出し合って、いざという時に備えるというものですが、恐慌・大失業・戦争等が起きると掛け金を払う人はいなくなり、引き出す人ばかりで共済組合は吹っ飛んでしまいます。そういうことを何度か繰り返しながら共済では駄目だ、もっと資本側も国側も責任を持てとストライキや街頭での衝突等いろいろな社会運動を形成した上で、資本側・労働側・政府がその段階での妥協で過渡的な解決策として社会保険を作ったのです。ですから、社会保険はうんと良くもなれば悪くもなる、そういう意昧では暖昧なところがあります。

スウェーデンの国民健康保険は労働者も含めて一本の保険で、その保険料の85%は資本側・企業側が出します。残りの15%は政府が負担しますので労働者個人には負担がありません。国民は税金を払っているので、その税金から国が負担するのは当たり前だという理由です。もう一つの理由は、労働者が十分に働いて企業が利澗をト上げているのだから、その利澗から保険料を支払うのは当然だということで、これが国民的合意になっています。社会保険でもいろんなものがあり、企業負担はイタリアでは約7割でフランスは6割と、簡単に言ってしまえば労働運動を始めとする社会運動の影響力と国民的合意で決まるのです。

ところで、社会保険というのは何であるのかということを、社会保険庁が毎年「社会保険の手引き」で何十年間も同じ説明をしています。第一に、社会保険というのは労働者が保険料を出すという意昧では労働者の相互扶助という側面がある。第二に、企業主も負担するから企業主の従業員に対する福祉の責任という意昧もある。第三に、税金も投入するし、国が責任を持って運営するという点で民間保険とは違う。また第四に法律で加人を義務付けている点でも民間保険とは違う。第五に、所得に応じて保険料を負担し、必要に応じて給付を愛け取る。応能負担の原則と必要に応じた給付です。

日本の医療を良くする基本点は、この5つの特徴を素直に実行していけばいいと思います。所得の低い人から取らずに、所得に応じて保険料を負担する。今の国民健康保険は所得の低い人からもたくさん保険料を取っているので、これはやめさせる。また、必要に応じて給付を受ける。お金がなく自己負担できないので、給付が受けられないということをなくす。厚生労働省の社会保険庁がずっと言ってきたこの中身をしっかりと実現させていくことでは、多くの人々が一致できると思います。

この間、誰がどのように負担しているかというと、要するに金持ち優遇税制で所得の高い人たちの最高税率が半分以下位まで減ってきました。法人税率も大幅に下がりました。その一方で、導入以来の消費税額は175兆円となり、法人税の減収分にほぼ匹敵しています。このような状況ですから、今後はどこからお金を出すべきか、自ずから出てくるのではないでしょうか。つまり、スウェーデンがやったように合理的に能力に応じて負担すればいいのです。

国民が医療に対して萎縮する、自分の要求をなかなか出せなくする仕掛けの一つは医療費による恫喝論です。厚生労働省は「医療費亡国論」と言って少子高齢化がピークになる2025年を目安に予測を発表してきました。1995年段階では2025年の医療費が141兆円になるという予測を立てました。そのわずか2年後には40兆円割り引いて101兆円だと言っています。その3年後には81兆円と20兆円下げました。そして2005年の予測はこの時点での制度に基づいて計算するのがルールなのに、昔の制度で計算して多く出るような小細工をしています。

2005年度に実際に行っている制度で計算すると43兆円ということです。日本がOECD諸国の平均位の医療費を出すと、現段階でも42〜3兆円になります。ですから2025年の少子高齢化のピークのとき、日本はOECD諸国並みの医療費を出せば何とか間に合うので、そんなにびっくりすることはないのです。OECD諸国の10位までの平均がGDPに対して約9.8ポイントで、日本をこの数値に近づけるためには2.2ないしは2.1ポイントですから、日本のGDPを500兆円〜510兆円として計算すると約11兆円となります。現在の医療費31兆円に11兆円をプラスしても約42兆円ですから、政府が予測している少子高齢化がピークのときでも、OECD諸国の10位までの平均ぐらいの医療費を日本が出していれば大丈夫だということです。日本の経済力は世界第2位ですから、これでもまだ余裕があるということになります。

日本の企業が、社会保険で社会保障を行っているドイツ・フランス・イタリア並みの保険料を負担するとどうなるかというと、日本は15ポイント負担が低いので賃金俸給のトータル240兆円に、この15ポイントを上乗せしますと約35兆円になります。法人税の控除対象分を差し引くと、ざっと21兆円あまりの財源を年金・医療・介護・労働保険に使うことができることになります。

医療を良くする原動力

歴代の厚生大臣や事務次官、局長経験者の証言をまとめた「戦後医療保障への証言」という本があります。私たちの年代ですとBCGは接種した後に醜い潰瘍ができて問題になり、社会的に批判され騒がれた結果、経皮接種という針で押すだけのやり方に変わったと彼等は言っています。国民が騒がなかったら、ずっと続いていたのかもしれません。

以前、ポリオ(小児麻痺)が流行していた当時、有効性のあった生ワクチンを実際に使っていたのはソ連だけで、イギリスは実験段階でした。自民党も内閣もソ連から恩を受けるわけにはいかんと、ずっと反対だったわけです。その時の古井嘉実厚生大臣が「一方ではポリオが増えてくる、騒ぎが大きくなるし、これは困ったものだ」と、事務次官は「ねんねこ半纏に子どもさんを背負ったお母さん達が、毎日、毎日厚生省の中庭にまで入って来て、薬務局長を引っ張り出して吊るし上げる、仕事にもなにもならない」と語っていました。結局、閣議及び自民党の党議に反してソ連から2,000万人分の生ワクチンを入れることに決めました。これは、小さい子どもを背負ったお母さんたちの運動がポイントだったのです。

ここで騒ぎと言っているのは役人達の感覚です。私たち国民側から言えば日本国憲法25条等に立脚して、医学的根拠を持った要求を個々ばらばらではなく大きく組織立って政府に訴えるというのが、騒ぎの中身です。そういう事をしないと医療は良くならない。

10県に限り将来の医師養成数を前倒しの形で10年間10人を限度として、2007年から増やすことを2006年8月、総務・財務・文化・厚生の4大臣が認めました。1997年に閣議決定で医師養成数を削減するということを決めており、これは今も生きています。1982年に医師養成を抑制すると閣議決定されて以来25年ぶりに、医学部の定員を増やすことが可能になったのです。深刻な医師不足に対して、保守も革新も共同して村長・町長・知事に至るまで文字通り大きなうねりのような要求によって実現できたということです。また、リハビリテーションの180日制限の見直しを修正させたのも、パーキンソン病と潰瘍性大腸炎を難病から外させていないのも、明らかに患者運動による成果です。

憲法25条の実態化

私は経済政策の領域が専門ですので、その目から話をまとめたいと思います。現在に限らず日本経済の大きなアキレス腱は個人消費が弱いということです。なぜ個人消費が弱いかというと、将来への不安があります。病気や老後のための備えや、子どもの結婚資金や住宅の資金など、日本の社会保障制度が貧弱であるために、もっと言えば憲法25条が形骸化されているために、国民は止むを得ず財布の紐をきつくしておかないと先行きが不安なのです。ですから、憲法25条をしっかり実態のあるものにして、個人消費を上向きにさせるというのが健全な日本経済の姿です。

物やサービスを作るのは経済の基本です。その作った物やサービスを消費しなければなりませんから、消費と生産が循環して順調に回っていくというのが経済の健全な姿です。その最後の消費をどこがやるのかというと、まずは個人消費で、これは一番大事です。現実にGDPの6割は個人消費です。次に公共事業として知られている政府の最終消費がありますが、これは野放図に増やすわけにはいきません。今でも日本は他のサミット参加国の中ではとび抜けて多いのですが、まだまだ必要なところもありますので、これは十分に世論を聞いて選択的にやっていくという方向が大事です。例えば、千葉県でキャベツを作っている農家の皆さんが、出荷すればするほど費用がかさむのでキャベツを穴に埋めてしまうとか、津軽の農家が穴を掘ってりんご埋めてしまうということがありましたが、これは選択すべき政策ではない。政策が失敗した結果です。もう一つは、他の国に輸出して消費の下駄を預けることです。これも度が過ぎると世界の孤児になり、アメリカやヨーロッパからも叩かれるので、これもどんどん増やすという選択はできません。

そうしますと、個人消費を上向きにするという政策を行なわないと経済は健全な回り方をしないのです。一方で、勝ち組の人達のように、これをやらせたくない人々もいます。格差が広がっても構わないという人達は、個人消費が冷えても構わないということになります。こういった人達は、もう一つの残された消費である軍事的消費、軍事的破壊による消費を強く支持する傾向があります。自衛隊で使っているジェット戦闘機1機が150億円するそうですが、演習で衝突して2機破壊されますと300億円も消費します。1個6円の小銃弾が1分間に360発が発射されるとすると、1日の演習で合計いくらになるか計算すると大変な消費になります。

しかも、イラクなどに自衛隊を派遣すると旅費と宿泊費等とで膨大なお金がかかりますが、払うのは政府ですから企業としては取りはぐれがないという事で、軍事的な消費をもって経済の困難を切り抜けようとする企業の衝動が非常に強まっています。これが憲法の改憲、特に9条の第2項を取りはずしてしまえという声と結びついています。そういう点では、9条を改憲させずに25条を実態化するということが、戦争経済ではなく平和経済のもとで国民の生活を重視した経済を進めるために不可欠なポイントになっています。

ちなみに2004年度の防衛省御用達の企業を順番に紹介しますと、三菱重⊥、川崎重工、三菱電機、NEC、石川島播磨工業、東芝電気、もっと順位を下げていきますと、トヨタやキャノンも出てきます。トヨタよ特車という名前の戦車を作っています。大砲が付いていないので、輸出国で大砲を乗せればそれで戦車になります。双眼鏡、鉛筆の芯、黒鉛も軍事転用ができます。国民が考えているよりも、軍事に関わる企業の裾野は非常に広いのです。アメリカの企業でロッキード、ボーイング、グラマンという防衛大手3社はイラク戦争のおかげで史上最大の収益を上げています。ブッシュ政権の中枢にはこういう軍事産業の重役経験者達がいますので、イラク戦争はこういった人達がやらせているのです。日本においても同じように、御手洗さんは防衛省昇格を手放しで喜んでおりますし、宇宙にしても核にしても平和利用原則という条項はどの分野でも邪魔だ、軍事利用できるようにしろと言い出しています。

1947年に文部省が出した「新しい憲法の話」という中学生向けの本では、憲法で最も大事なことは2つの規則を決めたことだと書いてあります。一つは国の治め方を決めた主権在民で民主的な手続き、もう一つは国民の一番大事な権利、すなわち基本的人権です。「新しい憲法の話」ではこれが憲法の最も大事なことだと説明しています。私たち国民は改めて戦後の日本の出発点を思い起こし、再度確認して取り掛からなければいけないのではないでしょうか。憲法9条と25条を守り、平和と人権の砦としての医療を作っていくために、医療従車者と患者、住民、国民が一緒に取り組んでいくことがポイントだと、私は思っています。

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[診療報酬改定] リハピリ中止は死の宣告 東京大名誉教授 多田富雄
朝日新聞「opinion◎news project」 2006年4月8日

私は脳梗塞の後遺症で、重度の右半身まひに言語障害、嚥下障害などで物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。ところがこの3月末、突然医師から今回の診療報酬改定で、医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。私は当然リハビリを受けることができないことになる。

私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルは歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。身体機能はリハビリをちょっと怠ると瞬く間に低下することを思い知らされた。これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかはない。その先はお定まりの、衰弱死だ。私はリハビリを早期に再開したので、今も少しずつ運動機能は回復している。ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。

そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。今回の改定は、「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである。実際の現場で、障害者の訓練をしている理学療法士の細井匠さんも「何人が命を落とすのか」と3月25日の本紙・声欄(東京本社版)に書いている。ある都立病院では、約8割の患者がリハビリを受けられなくなるという。リハビリ外来が崩壊する危機があるのだ。私はその病院で言語療法を受けている。こちらはもっと深刻だ。構音障害が運動まひより回復が遅いことは医師なら誰でも知っている。1年たってやっと少し声が出るようになる。もし180日で打ち切られれば一生語せなくなってしまう。口蓋裂の子供などにはもっと残酷である。この子らを半年で放り出すのは、一生しゃべるなというようなものだ。言語障害者のグループ指導などできなくなる。

身体機能の維持は、寝たきり老人を防ぎ、医療費を抑制する予防医学にもなっている。医療費の抑制を目的とするなら逆行した措置である。それとも、障害者の権利を削って医療費を稼ぐというなら、障害者のためのスペースーを商業施設に流用した東横インよりも悪質である。何よりも、リハビリに対する考え方が間違っている。リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は、人間の尊厳を踏みにじることになる。そのことに気づいて欲しい。

今回の改定によって、何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。そして一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか。◇34年生まれ。医学博士(免疫学)。「生命の意味論」「独酌余滴」など著書多数。

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[利害の抵触]
元ハーバード大学助教授李啓充氏
2005年5月15日兵庫県保険医協会評議員会特別講演兵庫県保険医協会「医療を滅ぼす混合診療」より抜粋

「利害の抵触」。日本では馴染みの薄い言葉だが「ある職務に就いている人が、その立場や権限を利用することで、個人的な利得を得ることが可能となる状態」。例えば、泥棒が裁判官になって、自分を裁き、無罪にするような状況。

「利害の抵触」の最たるものが規制改革会議。宮内義彦氏はオリックスの総帥だが、オリックスは保険業を大々的に営んでいる。リースが本業だが、融資する場合に、オリックス保険会社のがん保険への加入を条件にする。民間の医療保険のマーケットが自動的に増えるのが、混合診療の解禁。自分の企業が潤う立場の人が、混合診療の解禁を推進している。高知医療センターは県立病院と市立病院を合同させPFl(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)で設立されたが、医療の本体以外のすべて、病院の建物の建設、医療機器のリース、何から何までオリックスが仕切っている。そういった立場の人が株式会社の病院経営を認めると言っており、こんなことを許してはならない。

初代の議長代理でセコム総帥の飯田亮氏も、日本中で病院を買収している。非常に恐ろしいことが進行している。日本の医療は、ビジネスチャンスの創出と、公的医療費の抑制という二大政策で動かされようとしているが、これは間違っている。医療のあるべき姿を基本にすえて政策を考えるべきだ。

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[今後の医療と混合診療]
福山循環器病院院長 島倉唯行
光彩 第47号 平成17年7月1日

国民に増税、年金、医療費削減を押しつける根底には、世界一の財政赤字700兆円があるが、この期におよんでも国会審議素通りのままの公共事業や特殊法人に流れる特別会計260兆円にメスを入れるそぶりはみられない。相変わらず日本は世界の経済大国として国連やODAへの拠出金は未だに世界でトップ、さらに公共事業にはどの国よりも多い50兆円、大銀行救済には70兆円も費やしている。ちなみに国民医療費は約30兆円である。無駄使いと悪名高い特殊法人へ流れる特別会計予算のたった10%を見直すだけで20兆円以上が浮く。米・英・仏寺先進国の国家予算はGDPの2-3割以下に対して、日本の一般・特別会計を足した国家予算342兆円はGDP484兆円の7割を超えていて、日本政府は発展途上国なみに私たちの税金を使っている。小さな政府に断行すれば医療・福祉にまわす金は充分あるのに。

医療費削減は本当に最優先課題なのか疑問でもある。高齢化社会を迎えて増大する医療費が世間では目の敵にされているが、医療現場の人手と金不足は悪化の一途である。

苦悩する医療現場に「混合診療解禁」(保険診療と保険外診療の併用)の嵐が吹き荒れた。確かに現在の日本の国力に見合わない貧しい医療体制では患者さんが希望する医療を提供することは困難だが、安易に混合診療を導入し、国際的に見て割高な実質的患者負担をさらに押し上げて良いものか? むしろ治療材料や薬価を国際レベルまで引き下げるよう国民に説明責任を果たす必要があるのではないか。

一方で、昨今の医療技術の急速な進歩と患者二ーズの多様・高度化ゆえに、そして財源問題から新しい制度への期待と不安は様々であるが、動き出した流れはもはや後戻りはできないようである。高度先進医療の承認のスピードアップと利用拡大、国内未承認薬はもとより、様々な移植医療、遺伝子医療、ロボット手術、レーザー治療などの承認がスピードアップされ、新たな財源枠組みの中で実地医療の普及・促進される可能性に期待したい。「混合診療解禁」により、いわゆる選定療養の拡充にも期待がもてる。これまでも差額ベッド代や予約診療・アメニティーやサービス部分など患者の選択の委ねることが適当なものについて、自ら選択肢して費用を負担する制度はあった。しかし、これも患者ニーズの多様化と高度化に現行の保険制度では追いついていけない。事実、病院を訪れる患者さんの不満は頂点に達している。患者クレーム繚乱の時代、そして医療事故に対する医療訴訟の件数も鰻登りに増え続けている。患者さんの不満は[症状や治療について充分に説明してもらえない][長時間待たされた][医師や看護師の態度が不親切だった]などであり、また、積極的な要望も多い。「セカンドオピーニオンを受けたい」「入院してもベッドサイドのインターネット端末から仕事をしたい」「家族の宿泊施設が欲しい」「入院中にマッサージを受けたい」などである。他の業界なら自由にこうしたサービスを構築できるが、現行の保険制度ではなかなかままならない。これらの実現に向かう患者中心の病院改造運動は北米では少しずつではあるが広がりつつあるようである。

[患者と医療従事者が共有するカルテ](オープンカルテ)、「クリィティカルパスという疾患別治療計画の患者との共有」「患者に医療情報を提供する情報センターや患者図書館の設置」、[患者家族のリビングや併設宿泊施設]「ボランティアの活用による音楽療法」「ハーフガーデンなどの癒しの院内環境」「患者家族が栄養士の指導のもとに患者食を作る病棟キッチン」「リビングのようなナースステーション」[一般家具の院内取り入れ]などである。患者さんの入院生活の質の向上や患者本位の病院への改造が今後の病院モデルといえよう。しかし、こうした大胆な病院改造の実施は現行の保険制度の中での対応は難しい。やはり、新たな財源や制度の枠組みが必要なのであろう。

今後の医療の舞台の袖には、新しい医療技術や新サービスが目白押しであるが、こうした医療技術やサービスの導入が患者の利益に本当につながるのか、それが地域や国の公益にもかなうことなのかを、国民一人ひとりが医療の現状を知り、今までの国民皆保険制度の恩恵をも忘れずに正しく利用し、医療に対して不満ばかりを言う前に、医療費抑制が国民と医療従事者を直撃している以上、真剣に満足できる医療を築くべき、そのあり方を早急に論議すべきである。(2005.5)

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[社会的共通資本・社会保障としての医療]
「日本の医療制度について(4)」 日本医師会・日医ニュース「診察室から」No.1050 2005年6月5日

医療・教育などの社会的共通資本については、その基盤整備こ国が責任を持つべきだと考えます。国民が健康で、安心して住める社会を作ることは国の責務です。現在、一部の経済界の人たちによって、経済優先の政策が進められています。経済の分野においては、市場原理に基づく競争原理がきわめて有効に作用しますが、その市場経済の欠点を補うのが社会保障の考え方です。社会保障を否定することは、市場経済そのものの崩壊を招きかねません。国民の健康があってこそ国民の幸せがあり、それが国の経済を支えているのです。国民一人ひとりが、そのあり方を議論して、より良い日本を築き上げていく必要があります。

<ドクターちゃびんの解説>たしかに正しい主張ですが、医療は(1)医療消費者(2)医療提供者(3)医療システムの三つの要素から成り立っています。医療システム(医療制度)を良くすることは重要なことですが、医療消費者(患者)と医療提供者(医療従事者)に対する評価も必要です。さらに医療システムは(1)アクセス(2)質と安全(3)コストの三つの要素から成り立ちます。日本でも今後は医療の「質と安全」ということが大きな問題となってきます。そのためには「いつでも、だれでも、どこでも」という過去の幻想にとらわれずに、きちんとした評価と適切な対応ができる制度にしなければいけません。つまり医学的・客観的な基準に基づいた制限をもうけることが必要となってきます。コスト(医療費)についても、社会保障、保険、自費をどのように使うかということを考える必要があると思いますが、政府・財界がおしすすめようとしている混合診療の完全解禁は、すべてを市場原理にまかせるというもので、日本医師会の上記の文章はそれに反対する内容となっています。日本医師会の主張が国民に対して説得力に欠ける原因は、医師自身に対する厳しい評価に基づいた医療の質と安全に対する担保がないことです。

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[病院屋台] 松村秀樹 著(2001年10月1日初版、小学館文庫533円)
のれんをくぐれば え!? ここ病院?
20xx年、日本。老人自殺の急増や科学の発展により、医師の大失業時代が到来、従来の医療制度は完全に崩壊した。そして新たな制度下では、なんとなんと、試験に落ちた仮免医師たちによる、屋台経営の病院が誕生した。新宿・歌舞伎町に屋台を設置し、本免許取得を目標に、日々診療に励む者たちのあいだで巻き起こる、難題、疑惑、珍事件。一体、医学界はどうなってしまうのかー。ユーモア溢れる近未来医学小説。

日本の医療に、一体何が起こったのか?それには、一九九〇年代初頭のバブル経済の崩壊に話を戻さなければならない。土地神話の終焉とともに資産デフレヘと急降下した日本の経済は、先の見えない長い不況のトンネルに入って行った。それに拍車をかけるかのように、団塊世代の高齢化、女性の晩婚化などによる出生率の急激な低下がその後の労働人口を激減させ、日本経済を根底から疲弊させることになる。

天文学的な国債の発行と、いつまでも減らない不良債権の山で次第に苦しくなった国は、段階的な消費税率の引き上げと超緊縮予算を余儀なくされた。加えて、際限なく膨らんでいく医療費の赤字をいかに削減するかが、国家の浮沈をかける重大な問題となっていたのである。二〇一〇年には、医療保険の自己負担率は五〇パーセントになったが、この年に、病気をいくら治療しても支払額を一定にする「完全包括払い」制度が導入され、医療機関が受けたダメージは深刻であった。

「ドリーミー」と呼ばれる高性能な自殺マシンがインターネットを通じて、実に安価に手に入るようになったことも忘れてはならない。最初の自殺マシンは、一九九〇年、米国のジャック・キーボキアン博士が考案したが、装置が大きく重いという欠点があり、一般に普及するにはほど遠いものであった。改良されたハイテク自殺マシンは小型で値段も安く、楽しい夢を見ながらあの世へ行けるという評判がロコミで伝えられ、中世ヨーロッパを席捲した黒死病のように、またたく間に巷に広がっていった。

この「ドリーミー」を最も歓迎したのは、六十歳以上の老人たちであった。年金制度の崩壊、家族の解体と孤独化、テクノロジーの進歩による人間性の否定、懸隔化する世代間格差、犯罪社会……。理想に燃え、高度成長期の日本を支えて働いてきた老人たち。理想とあまりにもかけ離れた現実の社会に絶望した彼らが、自らの命を絶つことに躊躇することはなかったのだ。こうして二〇〇五年に、癌を抜いて死亡原因のトップに立った自殺は、年を追うごとに加速度的に増加し、年間二百万人を突破するまでになっていた。

包括払いによる受診率の低下、自殺の増加、著しい少子化、DNAの解明による病気そのものの減少が、崩壊寸前であった日本の医療に最後の鉄槌を下したのであった。二〇一五年ごろには全国にある病院・医院のうち、約半数の約十五万の医療機関が倒産し、野放図に医師の増産に突っ走った保健省は、強烈なしっぺ返しを見舞われることになったのである。二〇〇〇年代に入って急速に増加した医師数は、すでに百万人を超えていたが、必要な定員は約三十万人。結局、残り七十万人は免許を持ちながら働く場所がないという大失業時代が到来したのである。すでに中高齢者の就職難は社会的な問題になっていたが、横柄でなんのつぶしもきかないリストラ医者を雇ってくれる業種などあるはずがない。それなりの技術を持っている者か、よほどの幸運にめぐまれた者は、タクシーの運転手、バーテンダー、ファストフードの店員、宅配便の業務などに就けたものの、その数は微々たるもの。その年の失業者数万百五十万人の、実に一割を医者が占めるまでになったのは必然の成り行きであった。霊感詐欺治療、健康診断強盗、リハビリストーカー、安楽仕置人などと、ひと昔前には想像さえできなかった医者絡みの特異な犯罪が新聞を賑わせるようになったのも、このころのことである。

危機感を抱いた保健省は、専門の捜査官を組織し犯罪防止に躍起になったが、焼けくそ医師に水。医療犯罪は失業率に追随するように年を追って増加することはあっても、減ることはなかった。しかも、刑務所に収監された犯罪医者たちは、持ち前の医学的知識を駆使し、仮病を使い、病気持ちの看守を抱き込み、給食に自ら培養した食中毒菌をばらまきと、素人の手に負えるものでない。手を焼いた法務省は、全国十か所に無法医師専用の特別刑務所を新設したが、これも数年を待たずして満杯となる始末である。国民の轟々たる非難の中、ホームレス医者を収容する収容所の建設や、離島に隔離する「医者島」確保の議案が国会に提出されるに及んで、ついに来るべきものが来てしまった。絶望した五十人ものホームレス医者や隠れ医者たちが、神社の境内で互いに健康診断をした後、毒薬を処方し合って自殺する「集団検診自殺」という衝撃的事件が、元日の列島を震憾させた。十名を越える初詣での一般市民が、毒薬から発生した毒ガスにより、巻き添えを喰って死亡したからである。

ことここに至っては、政府も重い腰を上げ、法律を改正し医師免許制度を根底から見直さざるをえなくなった。不良医師の排除を目的とした、検定試験制度の創設である。それは、四年に一度行われる検定試験に不合格の場合と、医道審議会により問題があると認定された者は仮免許とし、最低四年間の移動回診業務を続けなければ、次の受験資格がないという厳しいものであった。法律制定前後の、医師や医学生たちの反対運動はすさまじく、全国の国立病院や大学を拠点とするデモやストライキは、一九七〇年代の学生運動を彷佛させるものがあつかった。が、医者に対する積年の恨みがあるのだろうか、国民の心を掴むことができないまま、反対運動も次第に先細りとなり、二〇一七年、ついに法律が制定されたのであった。日本医師連合の猛烈な反対にもかかわらず、このような強引な法律が国会を通ったのは、それまで潤沢であった医師連からの政治献金が、長く続く不況のため極端に少なくなったからだといわれている。

そして、八年前に第一回の検定試験が行われ、すべての臨床医師免許保持者約九十五万人がこの試験を受けることになった。その結果、五十五万人が不合格となり、裕福な者、医業をやめた者、自殺した者を除く、約四十万人が移動回診業務従事者になったのである。移動回診といってもエンジン付きのものは認められず、できるだけ簡単で質素なものという規定から、いきおい屋台の形態をとらざるをえなかった。すなわち屋台医者の誕生である。日ごろから研鎖を怠らない優秀でまじめな医師、真の人間愛に溢れている医師たちの多くが検定試験に合格したのは当然である。彼らは真に選ばれた聖職者として国民の尊敬を受け、サラリーマンの何十倍もの年収を得ることができた。そして医師になれる可能性がある限り、屋台医たちは、どんなに辛く苦しくとも、四年に一度の検定試験合格をめざして移動回診業務に励むのであった。医療ミスも激減、医者による犯罪もなくなり、ここに奈落の底へとまっさかさまだった日本の医療制度は、一応の決着をみたのである。

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「理想の医療を作るには」ー医師会に贈る国民啓蒙の一モデルー
広島市民病院 小児外科部長 高田佳輝
1999年12月25日 広島県医師会速報(第1709号)

外来はすべて予約制、従って待ち時間はなし。医者は親切で、いくらでも説明に時間をとってくれる。その上、色々な専門医に紹介してくれて徹底的に自分の身体のことを調べてくれる。おまけにほかの医者にセカンドオピニオンを聞けとすべての検査データを渡してくれる。

病院は広々としてとてもきれいで、もちろん個室。プライバシーも完壁。庭園や休憩室も完備していてとても良い住環境。人院したら親切ですてきな看護婦さんが係りになってくれ、入院から退院までのスケジュール表を見せて説明してくれる。優しい看護婦さんの数も多くてどこかの国とは比べものにならない。さらにソーシャルワーカーが訪ねてきてくれて何か困ったことはないかと相談に乗ってくれる。

食事は暖かくて、家の食事よりおいしいくらいだ。おまけにレストランみたいにメニューがあって好きなものを選択できる。人院期間も短くて手術した翌日には帰らせてもらえる。こんな医療体制、いいでしょう?私たち医者のほうもこんなシステムのもとで働きたいと思います。こんな環境、とても日本では実現不可能と思われるでしょうがそうではありません。

国民のみなさまがその気になれば明日からとはいきませんが、それほど時間をかけなくても現実のものにすることはできます。実際アメリカではこんな医療が行われているのですから。そのためにはどうしたらよいでしょうか。まず、国にお世話になろうという気を捨てて少し金額ははると思いますが、白分で保険に入ってください。安い保険はいい病院、いい医者を選べないかもしれませんからできれば高い保険がいいと思います。それでも医療費のうち一割ぐらいは自分持ちになるかもしれません。入院費は一日百万円ぐらいするかもしれませんが、入院期間が短いので救われます。間違っても「居心地がいいのでもう少し人院していたい」などと言わないようにしてください。

そのほか医者からも手術代などの請求書がくると思います。医者はこれで自分の生活費および訴えられても対処できるだけの保険料を払っていますので安くはないと思います。たとえば今の日本だと虫垂炎手術料は六万円ぐらいですが、アメリカ並の二十五万円ぐらいにはなるかと思います。でも命を買ったと思えば、パチンコに一回五万円も使うのに比べとても意義のあるお金の使い方だと思いませんか。通院になってもそんなに病院に来ることはありません。大勢の患者さんが来るとどうしても待ってもらわなければならなくなりますし、医者も少ない患者さんで生活を成り立たせるためには一回の診察料も今の四、五倍にはせざるを得ないので、その分みなさまの負担が大きくなります。

大した病気でなければ薬局で薬を買って飲むのが賢いやり方です。どうしてもそんな高い医療保険にはいるのはいやだ、とほかに色々出費がいるので健康なんかあまりお金をかけたくない、水と空気と病院はただがいいと考える人もおられることでしょう。そういった場合でも病気になったら仕方ありません。その種の病院でちゃんと治療を受けられます。ただし上述のようなアメニティと今の日本で行われているような上クラスの医療はできないかもしれませんが、少なくとも最低限度の医療は国が保証してくれるはずです。さあ、みなさまはいかが思われましたか。

アメリカのマネージドケアー、インフォームドコンセント、セカンドオピニオンも取り入れなければならないよいシステムだとは思いますが、それにはそれが生まれてきたそれなりの背景があるのです。背景を無視しておいしいとこ取りをするのには無理があります。今日、日本の医療制度は多くの問題点を抱え、抜本的な改革を迫られています。前述のような良いシステムが無理なく導入できるような制度に変えてゆかなければなりません。今までのように医療側だけ、あるいは患者側だけに負担が被さってくるようなやりかたではとても長続きしないでしょう。

現在の制度はこの資本主義の日本にあってあまりに社会主義的になってしまいました。そのため自助自立の精神が失われ、もらわなければ損、介護を受けなければ損という風潮が蔓延し、それがまた医療費を圧迫してきています。風邪を引いたり、膝小僧をすりむいたくらいでは病院に行かないぞといった人たちや日頃から精進して介護されなくてもいいように努めている人たち、自宅で親をまじめに介護している人たちが報われるような制度になってほしいものです。

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