えびす組劇場見聞録:第12号(2003年1月発行)

第12号のおしながき

「授業」 下北沢OFFOFFシアター 2002年10/29〜11/6
「今度は愛妻家」 俳優座劇場 2002年11/14〜24
「マンマ・ミーア!」 電通四季劇場[海] 2002年12/1〜
「月の向こう側」 世田谷パブリックシアター 2002年10/19〜27
「今度の『授業』はいつ?」 授業 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「時にはセンチメンタルに」 今度は愛妻家 by コンスタンツェ・アンドウ
「日・英『マンマ・ミーア!』楽しみ方それぞれ」 マンマ・ミーア! by C・M・スペンサー
「『ルパージュ・マジック』の使い手」 月の向こう側 by マーガレット伊万里

作品一覧へ
HOMEへ戻る

「今度の『授業』はいつ?」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 わたしは中村伸郎の最晩年に夢中で劇場に通った観客である。別役実や太田省吾の舞台に佇む飄々とした姿は今でも忘れられない。
 そのとき、イヨネスコの『授業』が渋谷のジャン・ジャンで毎週金曜日夜十時から十年以上も上演されたことはすでに伝説化しつつあったように思う。わたしはとうとう中村の『授業』をみることはできなかった。
 念願の「初授業」は二〇〇〇年三月、ジャン・ジャン閉館のファイナル公演の千秋楽である。教授は中山仁、女生徒は中村まり子、女中は岡本瑞恵。超満員の客席の最前列桟敷席で膝を抱えてみた『授業』は、ブラックな笑いと長年この舞台にかかわってきた多くの人々の温かい眼差しに包まれた楽しいものであった(演出は大間知靖子)。
 冒頭、誰もいない舞台の奥から何かを激しく叩く音が響いてくる。
 舞台にはテーブルと椅子。教授はやってきた女生徒を丁重に迎え、極めて紳士的に接するが、授業が進むにつれ、女生徒の出来の悪さに苛立ち、混乱した末に殺害してしまう。
 しかもこれまでに何十人もの女生徒を同じ目に会わせているらしい。はじめからその計画だったわけではなく、教授としてはできればそうしたくなかったようだし、女中も一応忠告をしたのだが、今回も殺してしまった。
 教授と女中は死んだ女生徒を奥へ運ぶ。
 聞こえてくるのが冒頭で聞いた激しい音。
 木槌で棺桶に釘を打っていたのだ!
 教授は感情の振幅が激しく、出ずっぱりのしゃべりっぱなしである。晩年の物静かなイメージの中村伸郎からこの教授を想像するのはなかなか難しいが、さぞおもしろかっただろうと、見逃したことを改めて悔やんだ。
 柄本明が『授業』を上演すると聞いて、わたしは次のことを自分に課した。ジャン・ジャンの『授業』とむやみに比較せず、白紙の心で柄本明の『授業』を楽しもう、と。
 女生徒と女中は東京乾電池の女優が日替わりで出演する。観劇一回め(十一月一日)は女生徒に上原奈美、女中は中村小百合、二回め(十一月四日)の女生徒は矢澤庸で、女中は同じ中村小百合であった。
 柄本教授は登場の様子からしてすでに危ない雰囲気を醸し出しており、最後に凶行に及ぶのも無理ないと思わせる。膨大な台詞のなかにアドリブも入って、若手女優を相手に大熱演である。かといって決して暑苦しくなく、相手が変わっても自分のペースは崩さずに女優たちの若さを生き血のように吸い、彼女らの未熟ささえ自分のエネルギーに転化させているようである。
 ひとつ気になったのは、本番中に素になって笑う箇所が多かった点である。
 相手をじーっとみつめ、はじめ目から笑い出して、台詞の最後でふふっと吹き出す。
 アドリブにみえるが、もしかしたらこれも周到に用意された演技のひとつなのかとさえ思わせる。映画やテレビドラマでは笑い出したり台詞を失敗したりすればNGになるから、舞台でしかこのようなお楽しみはできないわけであろう。
 たしかにそれがおもしろいときもあるが、連発しては興ざめである。
 終幕、殺した女生徒を舞台奥まで運ぶ場面は、柄本も女中も汗だくの大奮闘になる。
 重たい女生徒(とくに上原さんは!)を必死で抱え、「タイミング合わせてくださいよ」「ここが地獄の曲がり角だ」「も、もうこのへんに置いていいよ!」とアドリブ全開で客席も大爆笑である。わたしもおおいに笑ったが、笑いすぎて話が終わったような感覚になり、最後の最後、舞台奥から聞こえる木槌の音が何であったかに気づくときの驚きやおもしろさがすっかりなくなってしまった。女生徒を運ぶところで、ここまで笑わせる必要があるだろうか。ジャン・ジャンの舞台とは比較せずに、と自分を諌めていたが、やはりわたしは木槌の音で笑いたかったのである。
 舞台ならではのアクシデントやアドリブや素の表情もおもしろいが、それよりも俳優柄本明が戯曲と格闘して、そこで醸し出されるものをこそ楽しみ、笑いたいのである。
 授業を受けに来た女生徒は、教授にとって雇い主でもある。教授は生徒の上に位置していながら、生徒からの授業料を気にしなければならない。はじめの丁重な態度は媚びへつらいの裏返しであり、そうかと思えば居丈高に女生徒をどなりつけ、最後には殺してしまう。こいつの出来が悪いからだと教授は泣き言を言うが、こんな調子で四十人も殺しているのだから、いったい何がほんとうなのだろう。理由のあるようなないような、計画的かつ発作的殺人。矛盾しているが、その通りなのである。
 初演が四十年も前の作品といっても古さは感じられず、むしろ今のほうが現実味があって、笑いながら不気味な心持ちになる。
 さらに今回実感したのは、女生徒役の難しさである。教授とともにほぼ全編出ずっぱりなのに、台詞はずっと少ない。教授のわけのわからない長台詞を一方的に聞かされ(ほんとうに気の毒だ)、後半は「歯が痛い」台詞と痛がる演技をずっと続けなければならない。
 教授も変人だがこの女生徒もそうとうにヘンだし、性格があるようなないような、女生徒が教授役の俳優並みに巧くてはかえって作品として成立しにくいように思うし、かといって記号的ではおもしろくないだろう。
 中村伸郎は七十代なかばまで教授を演じた。
 柄本は五四歳、乾電池の女優たちを全員殺しても、まだまだまだまだイケるではないか。不定期でも「下北沢名物」のように上演が続けば嬉しい。
 このつぎはもっとこちらも勉強して、教授に負けない女生徒、いや観客になるため励みたい。柄本教授に殺されるのではなく、逆に彼を食ってしまうくらいの気合いで。
(十一月一日・四日観劇)

TOPへ

「時にはセンチメンタルに」
コンスタンツェ・アンドウ
 「ネタバレ」という言葉をよく聞くようになったのは、この数年だ。映画・演劇・ライブ等について「見る前に読むと面白味がなくなる可能性がある」記述をすることで、即時性を特徴とするインターネットの世界で主に使われている。
 『今度は愛妻家』(作・中谷まゆみ、演出・板垣恭一)は「ネタバレ厳禁」の舞台だ。しかし、その「ネタ」を抜きにしては多くを語ることはできないので、ここではバラす。公演終了後だから断る必要はないのだが、再演の可能性はゼロではない。まっさらな気持ちで再演を待ちたい人は注意してほしい。
 俊介(池田成志)はスランプ中のカメラマン。その妻・さくら(長野里美)は健康オタクの専業主婦。二人はセックスレス状態で、子供が欲しいさくらは、渋る俊介を「沖縄子作り旅行」へ連れ出そうと必死だ。俊介の事務所兼自宅には、俊介の助手で人のいい誠(横塚進之介)、オーディションに失敗ばかりしている女優志望の蘭子(真木よう子)、年配のゲイで世話好きな文太(高橋長英)が出入りする。
 沖縄へは行ったものの子供に恵まれず、夫婦の仲は更に冷えてゆく。仕事をせず浮気グセも治らない俊介に愛想を尽かしたさくらは、弁護士を雇って離婚を申し入れ、「他に好きな人ができたの」と言って家を出る。
 ここまで見ながらこう考えていた。「作品が描いているのは、現代の都会に暮らす夫婦の悲喜こもごも。夫婦のやりとりは面白く、他の登場人物との絡みも楽しめる。話の運びも悪くはない。もう一山あってよりを戻すか、離婚してそれぞれが新しい道を歩むのか、結末はどちらかだろう。でも、どこか曲がないな…。」しかし、そんな印象は、直後に覆される。
 玄関から外へ出ていったさくらに向かって、俊介が声をかける。「いるんだろう、出てこいよ。」すると、二階の寝室のドアを開けてさくらが現われる。俊介が呟く。
 「お前、なんで死んだんだ?」
 私はそれまでの芝居を一気に振り返り、自問した。「いつ死んだんだ?」
 やがて、一年前の沖縄旅行中にさくらが事故にあって死んだことが明らかになる。
 作品の中ではかなり早い段階であり、それ以降、俊介と喧嘩を繰り返していたさくらは、俊介の目だけに映る幻影だったのだ。どこにでもありそうな夫婦の揉めごとに見えていたものが、急に非現実味を帯びてくる。
 虚を衝かれた気分だった。確かに、変な場所からさくらが出てくることがあったのだが、幻影だとは思いもしなかった。舞台上の家具や小道具の殆どが町で購入できそうだったり、「みの(もんた)」や「ロマンスカー」などという固有名詞が会話の中で使われたりすることが日常生活を強調し、抽象的なものの存在を感じさせない。また、長野の明るさ、池田の軽妙さは、「死」というネガティブなイメージと結びつかなかったのだ。
 これが今回の「ネタ」なのだが、映画の宣伝文句によく使われる「結末は決して人に話さないでください」とは少し違う。まだ「結末」ではない。
 さくらの命日であるクリスマス、酔っ払ってお坊さんを呼ぼうともしない俊介に対して、文太は怒る。言い争い、傷つけあう二人。文太が出ていくと、側で聞いていたさくらが口を開く。「お父さんに優しくしてあげて」。文太は、ゲイであることを隠して結婚し、四十歳過ぎてカミングアウトした、さくらの父なのだ。(それが観客にわかるのも、作品の後半。)
 さくらの死後、俊介は家に閉じこもり、さくらの幻影と向き合っている時だけ、生きているような気持ちになっていた。二人の会話は切ない。クリスマスツリーを飾りつけながら楽しい思い出話をしても、「何故あのときに…」「何故もっと早くに…」という後悔が滲む。
 後悔は、誰もが抱いたことのある感情だろう。些細な後悔から諦めきれない後悔まで、度合いの差はあれ、後悔したことのない人間はいないはずだ。だから、実際に経験しなくとも、死んでしまった人に対する後悔がいかに苦しいか、俊介の心は容易に想像できる。そんな俊介を慰めるためなのか、それとも自分を慰めるためなのか、達観できずに姿を現してしまうさくらの行動も、否定できない。俊介を案じながらどうにも上手くいかない文太や誠の苛立ちも、手に取るようにわかる。
 ひとりひとりが自分の中に傷を抱え、それでも相手を思いやろうとする。思いやりの歯車がズレると、お互いの心がギシギシと音を立てる。誰も悪くないから、余計につらい。登場人物達の感情の揺れが、観客の胸に響いて波を起こす。
 「こんなことはよくないから、もうやめよう」と言ってさくらが消えると、文太がケーキを買って戻ってくる。痛みを認めあい、心を寄せあう義理の父と子。俊介の再スタートが近いことを感じさせる。しかし、俊介に呼ばれると、さくらはまた姿を見せてしまう。文太が待つ居酒屋へ出かける俊介を見送るさくら。寂しげな笑顔が心にしみた。
 この手のストーリーは決して珍しくない。やや感傷が勝ち気味かもしれない。しかし私は、すんなり騙され、作品に浸れたことが嬉しかった。刺激的ではないけれど、暖かく、少し苦しく、ひとに優しくなれそうな芝居。前売りを買いそびれて当日券狙いにしたのだが、残業になったら諦めるつもりだった。見逃さなくて良かった、と思っている。
 『今度は愛妻家』は、『ビューティフル・サンディ』『ペーパーマリッジ』に続く「THIRD STAGE SHOW CASE SERIES」の三作目で、作・演出と主演の長野は同じ。(前二作は未見。)四作目にも期待するが、『今度は愛妻家』を、もう一度見たい気もする。ストーリーを全部知っていれば、違う発見ができそうだ。さくらの死が観客に伝わってからが少し長く感じられることや、暗転が多いこと、真木の演技が単調なことなど、手を加える余地も残っている。
 中谷があて書きしたのだろうか、さくらは長野にぴったりの役柄で、前半は明るく騒がしく、後半は穏やかな中に母性を感じさせた。池田は、クセモノっぽい派手な芝居を見せつつ、その裏側にある内面の繊細さをも表現していた。この二人は共に「第三舞台」出身。現在の演劇界に欠かせない舞台俳優を何人も輩出した「第三舞台」を、封印公演を除くと、私は一度しか見ていない。そのことが、ふと悔まれた。
 俳優座劇場のまん前に地下鉄大江戸線六本木駅の出入り口がある。来た時は「便利だな」と思った。しかし、帰る時は「もっと遠くにあればいいのに」と思った。芝居を見て泣いた後は、少し歩きたい気分になる。
(十一月十九日観劇)

TOPへ

「日・英『マンマ・ミーア!』楽しみ方それぞれ」
C・M・スペンサー
 新年を迎え、えびす組劇場見聞録も今回で十二号を迎えた。改めて自己紹介すると、私は他のメンバーとはちょっと違って劇評というよりも、読んだ方がこんな舞台もあるのかと興味を感じてくれればと思って書いている。今年は新年をミュージカルの話題から始めよう。
 昨年九月二十五日にロンドンのウエストエンド地区にあるプリンスエドワード劇場で『マンマ・ミーア!』を観た。ミュージカルナンバーが全曲ABBAの作品である。そして、同年十二月に劇団四季が電通四季劇場[海]のこけら落とし公演として同作品を上演した。それも四季にしては珍しく十一月にプレビュー公演を三日間行うなど、熱の入ったオープンである。
 ロンドンでは三年ほど前から上演されていたが、全曲がよく知られたABBAの曲ということで、なんとなくミュージカルらしくない印象があって敬遠していた。それが日本に輸入されるというのだから興味をそそられた。劇場へ行くとダフ屋が出るほどの大盛況ぶり(こんなのは『オペラ座の怪人』以来見たことがない)。当日はロンドンの地下鉄が二十四時間ストライキの真最中にもかかわらず、遅れる人はほとんどいなかった。劇場内を見渡すと、どうみても五十代六十代が大半を占めている。男性の観客も多い。
 ストーリーは母子家庭の娘がどうしても自分の結婚式に父親に参加してもらいたいと望んで、父親の可能性のある人物とのロマンスが書かれた母親の古い日記を手がかりにその男性に招待状を送ったのだが、それが三人いたものだからいったい翌日の結婚式はどうなるのか・・・というコメディタッチの物語である。メインは母親のドナ。結婚式前日には母親の昔の友人も二人かけつけ、それがかつて一緒にグループを組んで歌っていたという設定でABBAが歌われたり、うまく話の流れでABBAの歌詞をあてはめたりと、使われる場面によっては大爆笑だったが、結構ミュージカル作品として成立していた。
 この作品は若い世代から中高年まで楽しめる。母娘が主役というところが、そこまで観客の年齢層を広げたのだろう。ABBA世代ってこんなに高齢だったかしらと思っていたら、隣の席の二十代の娘の父親らしい男性が、ABBAの曲で盛り上がったところではハンカチをポケットからごそごそと探り出し、目元に当てていた。休憩後にその紳士のポケットを見たら、しっかりとCDが入っていた。そんなだからカーテンコールでの「ダンシング・クィーン」は観客全員スタンディングで大合唱。随分ロンドンでミュージカルを観てきたが、観客が一体になってのミュージカルを観たのは、これが初めてだった。
 さて、日本では全曲歌詞は日本語である。ミュージカルナンバーが場面にあっているので作品として違和感はないものの、ABBAの曲を原文で場面ごとに聴くという面白さを感じられないのが残念だった。フィナーレに話が飛ぶが、事前に劇団の会報等で情報を得ていたからなのか、少なくとも一階席の観客は全員スタンディングだったものの、誰一人としてこの日初めて聴く日本語の歌詞を一緒に口ずさめるはずはなかった・・・。
 日本の舞台でとりわけ楽しかったのは、娘のソフィ(樋口麻美)とフィアンセのスカイ(阿久津陽一郎)のチャーミングな登場である。「Lay All Your Love On Me(愛の全てを)」の二人のデュエットは聴き応えがある。そしてソフィが父親探しにやっきになって結婚前夜を悪夢でうなされている間、観客は樋口ソフィに釘付けだった。しかし二十年以上劇団でヒロインを演じてきた母親ドナの保坂知寿も同じ舞台にいる。存在感をアピールするのに時には母娘の間に火花が散るほどの迫力があった。
 日本の公演のもう一つの特徴は、メインキャストに複数の組み合わせがあることだ。往年の劇団のファンには待ち遠しいキャスト、保坂の先輩世代の久野綾希子や前田美波里とのコンビネーションもある。
 演出はロンドン版をそのまま日本に持ってきてはいるが、笑わせる場面など表現に遠慮が感じられる。もっとオーバーにしてもいいのではないかと思うほどだ。そうすれば、フィナーレでは歌詞を口ずさめない観客も喜んで踊りだすに違いない。
 ロンドンでは中高年の観客が自分たちの青春時代とオーバーラップさせていたかのように歌詞を口ずさみながら懐かしそうに観劇していたが、もしかすると日本ではABBAを乗り越えてミュージカル作品として自立するかもしれない。そんな期待を込めて。
(十二月三日観劇)

TOPへ

「『ルパージュ・マジック』の使い手」
マーガレット伊万里
 まず目に入るのは、舞台上を横断する回転式鏡のパネル。ドラム式洗濯機のまん丸い扉、そして脚のついたアイロン台など。
 一見シンプルな物がロベール・ルパージュ(作・演出)の手にかかると、私たちをめくるめくイマジネーションの世界へと旅立たせる装置に変身する。(『月の向こう側』世田谷パブリックシアター 英語上演/日本語字幕)
 洗濯機の扉の中をのぞくと、のぞいた人間の体がそのまま宇宙へ飛び出したかのように壁に映し出される。映像と実像が織りなす不思議な世界への前奏曲だ。
 物語に登場するのは中年の兄弟。兄フィリップは文化論の研究をしているがいまだ学生で定職がない。なんとか論文を認めてもらおうと売り込みに必死だが、シャイな性格が災いして思うようになかなかいかない。一方世渡り上手な弟アンドレは、TV番組にコーナーをもつ人気気象予報士。
 二人は母の死をきっかけに連絡をとり合うのだが、性格も生活も異なるゆえウマが合わず、電話口では争ってばかり。この電話を使ったモノローグのシーンがいくつかあり、鏡や映像や人形を使ったりと散漫になりそうな芝居全体を引き締めている。
 アルバイトで新聞の勧誘をしているフィリップが電話をかけた相手は、すでに結婚した元恋人。彼は動揺し、せりふのはしばしからは、彼自身の近況や悩み、自分への苛立ちなどが十二分に伝わってくるのだ。 電話という一方通行を利用して、人物の心情をうまく引き出す効果的なシーン。
 これをたった一人で演じているのが、カナダ出身の俳優イブ・ジャック。兄と弟役、時にはドレスにハイヒール姿で母親役など五役を演じ分ける活躍ぶり。
 さらに印象的だったのは、アイロン台を使ったフィットネスジムのシーンだ。腰をかけてこぎ出せばエアロバイク、あお向けになればウエイト・トレーニングに早変わりする。
 子どもだましのようなアイデアとわかっていても、完璧な手つき無駄のない動きで彼がそれをやってのけると、思わずニヤリとしてしまう。もうこれは演技を見せられるというよりも、子供が真剣に遊ぶ姿に近いのではないだろうか。アイドル歌手を真似てその気になって唄い、カーテンをかぶってお姫様を気取った幼い頃の自分を思い出す。
 それらしい演技に納得できるかということではなく、どれだけ一緒になって面白がることができるか――こんなささやかなところに舞台を見る喜びの一因が潜んではないだろうか。アイロン台にまたがり無心にペダルをこぐ彼を見てそんなふうに感じた。
 が、果たしてイブ・ジャックは舞台でひたすら遊んでいるわけはなく、観客の想像をはるかに超える役者としての素質や才能、鍛錬がそこにはある。けれど良い意味で汗の部分を全く感じさせない柔軟性は驚きだ。違う役で登場するたびに、本当に一人芝居なのかと目を疑った。
 ルパージュの前人未到のアイデアや才能には脱帽だけれど、それ以上に主演したイブ・ジャックの演技は見事だった。「ルパージュ・マジック」は実際に板の上で体現する存在がいるからこそ成立し、観客を真に魅了することができるのだから。
 そしてラストシーンは宇宙遊泳。床に寝転がった姿を鏡に映し出し、宇宙を泳いでいるように見せる。すべて見えているのだから、タネも仕掛けもありゃしないのだけれど、静謐な音楽にのせて浮遊する体を見ていると、胸にこみ上げてくるものがある。
 映像と実像が織りなす不思議な世界へ導かれたと思ったら、ローテクパフォーマンスに釘付け、モノローグで全体を引き締め、最後は宇宙遊泳のシーンへ着地。一つ一つのシーンがジグソーパズルのピースとして一枚の絵を形作るのではなく、それぞれが独立した様相を呈し、イメージや意味が幾重にも降り積もっていく。
 ラストの宇宙遊泳は種々のイメージが頭の中で次々とよみがえる。その意味で何とも忘れがたい幕切れだ。
 満月をながめるたび、床にはいつくばって宇宙を泳ぐイブ・ジャックの姿をきっと思い出すに違いない。
(十月二十三日観劇)

TOPへ

HOMEへ戻る