えびす組劇場見聞録:第13号(2003年5月発行)

第13号のおしながき

「ワーニャ伯父さん」 青山スパイラルホール 2003年2/8〜16
「ホームバディ/カブール」 文学座アトリエ 2003年4/19〜5/1
「実朝」「斑雪白骨城」 国立劇場 2003年3/8〜24
「マッチ売りの少女 新国立劇場小劇場 2002年4/8〜27
「チェーホフ劇希望の持ち方
祝・鴎座活動再開『ワーニャ伯父さん』」
「ワーニャ伯父さん」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『ホームバディ/カブール』〜無関心という罪悪」 「ホームバディ/カブール」 by C・M・スペンサー
「昨年、今年、そして未来へ」 「実朝」「斑雪白骨城」 by コンスタンツェ・アンドウ
「見えないものを見る」 「マッチ売りの少女」 by マーガレット伊万里

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「チェーホフ劇希望の持ち方
祝・鴎座活動再開『ワーニャ伯父さん』」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 
 演出家佐藤信主宰の劇団「鴎座」が六年ぶりに活動を再開、旗揚げでも手がけた本作を、今回は柄本明を主演に迎えて上演した(神西清訳 青山スパイラルホール)。
 劇場の中央左寄りに床から一段高く舞台が作られ、階段状に組まれた客席が両側からそれを挟むようになっている(美術も佐藤信)。全席自由なのでどこに座るか少し迷ったが、入り口側の前から二番めの席についた。
 通路にちょっと変わった雰囲気の女性がいるのに気づく。ジャージの上着にジーンズだ。煙草をくわえた。あれ?と思っていたら彼女はそのまま舞台に上がり、柔軟体操をはじめた。この人は女優で、これは演出なんだなとわかった。
 やがて舞台中央の大きなテーブルに少しずつ出演者が集まってくる。手に台本を持っており、普段着というより稽古着姿だ。
 これから『ワーニャ伯父さん』の本読みが始まるという趣向らしい。さっきの女性はソーニャ役の前川麻子であった。
 いつのまにか台本を離し、本式に芝居が始まったか?と思うと出番のない俳優が舞台脇のベンチに座っていたり、また台本を持ったり、場面転換では出演者総出で小道具を片づけたり、舞台空間が自在に変化する様子がおもしろい。女優前川麻子が初見だったことも幸いした。よく知った顔が開演前の劇場通路にいたらすぐに演出だとわかって、少し白けた気分になるだろう。
 それほど大きくないホールで、客席にも照明がしっかり当てられる場面では、向こう側の観客の顔もよく見える。しかしわたしは自分が見られていることも気にならず、奇妙な居心地のよささえ感じていた。
 稽古場風に上演する試みは、これまで何度か体験したことがある。なかなかおもしろいがどうも気恥ずかしく、これならまったく正面からやってくれたほうが気楽なんだがな、と思うときもあった。「稽古をしている役者を演じています」というところがあざとく感じられるのである。
 今回おもしろかったのは、舞台脇で待機している柄本明の様子だ。舞台で起こっていることを見ていないようで(戯曲の上ではワーニャはその場にいないのだから)見ている。聞いてないようで聞いている。何を考えているのか、表情から読むことができない。
 ここにいるのは劇中人物ワーニャとしてなのか、演じる俳優柄本明としてなのか。鬼気迫る目つきでどこかを睨んでいたり、辛そうに涙ぐんでいたり、しかし決して次に自分が登場するときの段取りをしているのはないのである。いや、しているのかもしれないのだが、準備の手つきをこちらに見せないのだ。
 柄本は助走しない(ように見える)。
 突然走り出す。
 これほど戯曲に対して黙々と取り組み、アドリブや素の顔を見せない柄本体験は初めてかもしれない(日頃が不真面目でケシカランというわけではありません、念のため)。それでいていつものアブなさやお楽しみもちょっぴりあり、目が離せなかった。
 たとえばエレーナの歩く姿をうっとりと眺めながら「歩くにも、さももの憂さそうにしゃなりしゃなりとやっている」という台詞の「しゃなりしゃなり」をたしか四回くらいも繰り返す。いったい何回言う気だ、どのへんで笑い出すかとちょっと気を揉んだが、まじめに徹したのでおもしろくなった。家族会議の場で、激昂して両手を高く掲げてかーっと叫ぶ動作(『ガリレオの生涯』でもなさいました)も、どんなに激していてもついおかしなことをしてしまう人はいるもので、重苦しい場面のいいアクセントになっていた。
 『ワーニャ伯父さん』は何度みてもやりきれない話だが、今回はリラックスして舞台稽古を見学しているうちに、いつのまにかワーニャの心情に寄り添っている自分に気づいた。見終わったあとに、温かな心持ちになれるチェーホフ劇は珍しいのではないか。
 過度の感情移入を阻む趣向が自然な印象を与え、「さぁこれからチェーホフを鑑賞するのだ」という観客の緊張を解きほぐしたためといえよう。
 しかし何度も使える手ではないから、次に『ワーニャ伯父さん』を上演するときはまた別の方法が必要になる。そのとき柄本はどんな表情を見せるのだろうか。
 カーテンコールの柄本は「今日の出来が気に入らないのかな?」と思うくらい不機嫌そうだが、わたしには「こんなものではありませんぞ」という挑戦的な面もちにみえる。
 受けて立ちましょう。
 柄本明にわたしはチェーホフ劇の希望を夢みる。
 次の『ワーニャ伯父さん』が待ち遠しい。
(二月十五日観劇) 

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「『ホームバディ/カブール』〜無関心という罪悪」
C・M・スペンサー
  作品のチラシに、こう書いてあった。「この作品が『9・11』以前に書き上げられていたということが、すでに痛烈な皮肉。なぜ、私たちは注意を払おうとしないのだろうか、目に見えていることにすら・・・。」
 最初はその意味がわからなかったが、舞台を観て、注意を払おうとしなかった、という言葉の重みに衝撃を受けた。
 文学座アトリエ公演で上演された本作品は、アメリカがイラクを制圧後の四月十九日に幕を開けた。アメリカ人の作者トニー・クシュナーによるオリジナル作品は、9・11同時多発テロ直後の二○○一年十二月から三月までニューヨークで上演された。そして本作品を文学座で演出した松本祐子は、ハワイで9・11の事件を知り、報道の見出しが一日で「ATTACK」から「WAR」に変わったことに衝撃を覚えたという。
 物語は、一九九八年にロンドンに住むある孤独なイギリス人主婦が、古いカブールのガイドブックを手に空想の世界に身を置き、彼女がカブールに関心を抱いて、旅行を決意するまでを一幕で語っている。二幕では状況がガラリと変わり、その翌年、夫と娘がカブールにやってくる。殺害されたと伝えられた母親の遺体を引き取りに。しかし、遺体は不明だということに不審を抱いた娘が、実は母親は生きているのではないかと思い、タリバン政権下のカブールで、危険を顧みずに母親の足跡を訪ね歩いていく・・・というものである。
 カブールはアフガニスタンの首都である。恥ずかしながら私自身、9・11の事件が起きるまで、アフガニスタンに関心を寄せたことがなかった。それがテロ事件や戦争によって、その国の人々には私たちが当然の権利だと思っていることにも制約があり、今まで救いを求めていた人々の悲鳴にも気付かなかったことを思い知らされている。そしてアメリカのテレビ局が二十四時間放送している報道を見て、与えられた情報を全て鵜呑みにしていいものかをようやく考えるようになった。
 演劇は事実を再現することとは違う。この作品の作家もアメリカ人であり、作品自体もタリバン政権下の人々の生活を事細かに描いているわけでもない。行方不明になった母親を探しに来た父と娘の関係を通して描かれている。
 ロンドンでは父・母・娘、それぞれ気持ちがバラバラで互いに理解しようと努めることにも無関心であった。しかし失ったと知った今、実は母親に似ている自分を否定していた娘が、母の心理を理解したいと思うようになった。その核となる気持ちを通して、異国の地の状況が徐々に浮かび上がってくる。
 娘も数々のトラブルに遭遇して、その土地の人の生活、人々の苦悩に関心を持って接するうちに、問題の核心に近づいていく。ロンドンでは他人との関係も疎ましいと感じていた娘が、自分の力でコミュニケーションを図り、試行錯誤していく中で彼女自身が成長していく姿が描かれている。
 そしてもう一つ、今年の三月に始まった戦争においても、家族を失った人々の様子が連日テレビに映し出されている。どちらの側に立っても、家族を失うとはどういうことなのか。本作品でも「死んだ」と聞かされていても、娘は必死に母親の姿を探し求めている。そんな気持ちは誰にでもある。
 この国の政治がどうのということではなく、家族の関係を中心におくことによって、三時間二十分の芝居も、自分だったらどうするだろうなどと考えながら感情を移入して観ることができた。この作品により、テレビの報道以外の視点で、戦場となっている国を持つ人、廃墟となってしまった故郷を持つ人、自由を制約された国の人、そんな人々が存在することに目を向けて、自分の力で物事を判断しなければならない時代に置かれていることに気付いてもいいのではないか、と思った。
 演出の松本祐子は、二○○○年六月の『ペンテコスト』で、テロリストを扱った作品を骨のある演出で見せてくれた。(マーガレットが見聞録第八号に評を載せているので、是非、ご一読ください)。今回も数ヶ国語が話され、リアリティのあるセリフが生かされている。演劇を通じて、決して答えを押し付けるのではなく、新たな視点で世の中を見る目を観客に与えてくれる、厳しいが貴重な演出家である。
(四月二十日観劇)

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「昨年、今年、そして未来へ」
コンスタンツェ・アンドウ
 二○○三年は「歌舞伎四百年」。おめでたい区切りの年であると同時に、過去から未来へ繋がる道の一つの通過点でしかない、とも言える。三月、国立劇場では昨年同様、「新作歌舞伎脚本入選作品集」として二つの舞台が上演された。華やかではないが、着実な歩みを感じさせる企画が継続されたことを喜びたい。
 一本目は『実朝』(岡野竹時・作、織田紘二・演出)。岡野作品の上演は、『忠度』・『冬桜』に続き三度目(『冬桜』については「えびす組劇場見聞録 第十号」に劇評を書いたので、ご興味のある方はこちらへ)。鎌倉幕府三代将軍源実朝(梅玉)が、鶴岡八幡宮境内で甥の公暁(歌昇)に暗殺されるまでの約三十時間を描いた、一幕三場の台詞劇である。
 叔父・実朝を殺してでも将軍職に就き、幕府の実権を握る北条氏を滅ぼそうとする公暁。実朝は、北条氏を恨みながらも、鎌倉が戦火に包まれることを防ぐため、あえて公暁に討たれ、その死をもって公暁の心を変えようとする。
 私が観劇したのは三月二十二日。アメリカがイラク攻撃を開始した直後だった。「どうすれば争いを止められるか」という同じ問いに対して、現代の権力者達と実朝が出した答はかくも違うのか…と感傷的にならずにはいられなかった。
 しかし、自己犠牲の描かれ方については、気になる点もあった。実朝の敵は公暁ではないし、公暁の敵は実朝ではない。二人の共通の敵・北条氏に実朝の真意が伝わり、影響を与えてこそ、実朝の死が大きな意味を持つのではないだろうか。叔父と甥とがわかりあえました、公暁もいい人でした…というのでは、スケールが小さく感じられる。芝居は実朝の死で幕となるが、歴史の本によると、公暁は二代執権北条義時の命により、御家人の三浦氏に討たれている。実朝の死が公暁を変えた。公暁の死は誰を変えるのか。そこまでを見たい。義時の嫡男で三代執権となる泰時(弥十郎)は、思慮深い人物として芝居の前半に登場する。実朝と公暁の思いを受け取る者としての役割を泰時に負わせ、もう少し深く描き込んでほしかったと思う。
 私は、実朝の胸の中に、平和への希望ではなく、自らの一族への絶望を見た気がする。実朝は、肉親同士で争いを重ねてきた源氏の血を絶ちたかったのではないか…と思うのは、悲観的すぎるだろうか。
 『実朝』の舞台は非常にシンプルである。演出の織田は筋書に「現在の歌舞伎を歌舞伎たらしめている要素のほとんどをマイナスして、さて、何が残るのか」をテーマにしたと書いている。役者と衣装以外は歌舞伎らしいものを用いないことで、お馴染みの「新歌舞伎」風に仕上がりそうな作品に新鮮なイメージを与えていたと思う。象徴的な舞台美術もなかなか美しい。ただ、道具が少ない割に場面転換に時間がかかるのが不思議だった。小椋佳に依頼した音楽を聞かせるためではないだろうが…?。
 硬質な芸風と柔らか味とを併せ持つ梅玉は、武士であり歌人でもある実朝には適役。歌昇は口跡の良さを生かした熱演だが、歌昇自身の持つ雰囲気か、初めから公暁が「実直でいい人」に見えてしまったのが少し残念だった。
 やや理が立ちすぎて単調な面もあるが、『実朝』は一幕ものとしてまとまっていたと思う。演出も興味深い。しかし、この作品が国立劇場のサイズと合っていたかは疑問である。不要な空間と不要な時間を削ぎ落とした『実朝』を見てみたい、と思う。
 休憩を挟んで『斑雪白骨城(はだれゆきはっこつじょう)』(岩豪友樹子・作、中村梅玉・演出)。岩豪作品の上演は『大力茶屋』に続き二度目。戦国時代を舞台に、父の敵(黒田如水・梅玉)を愛してしまった姫(鶴姫・孝太郎)の壮絶な生きざまが描かれる。
 『実朝』とは反対に、「現在の歌舞伎を歌舞伎たらしめている要素のほとんど」が入った三幕五場の作品で、波瀾万丈な物語に舞踊劇仕立てのシーン(「凶首塚夢の場」)を折り込むなどして、観客を飽きさせないよう工夫をしていることが伺える。
 作品の芯になるのは鶴姫と如水の恋愛感情。敵同士が思い合うことに不自然さはないが、物語の始まりから終わりまで十二年、その間に二人が言葉を交わすのは四回だけ、という設定がしっくりこなかった。
 如水は、息子・長政と鶴姫の婚儀(実は謀略)を祝う席で、鶴姫の父・鎮房(坂東吉弥)を殺す。その二年後、鶴姫は如水を狙撃して失敗、更に十年間、如水と会うこともなく零落し、憎悪と愛情を溜め込み続ける。それを「長すぎる」と感じる私は薄情なのだろうか?如水にとっては戦に追われた年月だったはずで、鶴姫のことを忘れてしまってもおかしくはない。
 思い詰めた鶴姫が、自らの存在を如水の心に刻みつけるため、如水が建築している城の天守閣の人柱に立つことを願うシーンが三度目の出会いで、如水の目前で鶴姫が埋められるシーンがラスト。この二つのシーンで如水の感情が大きく動くはずなのだが、その感情は「愛情」よりも「哀れみ」に見えた。時間の経過、年齢差、立場の違いなどの要素が、恋愛のカタルシスを伝える力を弱めてしまったように思う。
 鶴姫の内面を表わす「夢の場」の中で、鎮房が如水に変わるというくだりがあり、鶴姫はファザコンであることを匂わせてはいるが、鶴姫が思う相手を長政にして、もう少し短い期間の物語にした方が良かったのではないだろうか。
 「夢の場」は、森英恵がデザインした衣装が売り物。きらびやかな衣装や大きな鬼百合を配した装置は宝塚を連想させ、やや違和感があるものの、長い芝居の息抜き的に楽しく見た。また、鎮房の家臣が皆殺しにされた合元寺の白い壁に血が流れる場面も、当時の噂話・現在の伝説を歌舞伎らしい方法で具現化して面白かった。ラストで、鶴姫は板に縛られて天守の石垣の中へ埋められるが、板の上部がそのまま残り、舞台へ突き刺さったような形のまま幕が閉まるのは余りにも無粋。絵面は大切にするべきである。
 如水を演じた梅玉は、淡白な風情が勝ってしまったのが惜しいが、二作に主演、一作は演出も兼ねた功労は大きい。孝太郎は、男を迷わすようななまめかしさはないものの、渾身の力を込めて、情熱的で一途な女性像を表現していたと思う。他に印象的だったのは鎮房の吉弥。「夢の場」では色気も感じさせた。最近は老け役が多いが、もっと色々な役で活躍してほしい。
 『実朝』と『斑雪白骨城』は、趣向が違うとはいえ両方とも悲劇的な時代物で、続けて見るのはやや苦しかった。最後に短い踊りでも見て気分を変えて帰りたい、と感じたのも事実である。どちらも、ずば抜けて面白い作品ではないかもしれない。しかし歌舞伎四百五十年、五百年に向けて、意味のない新作は、一つもないはずである。
 芝居の内容から離れるが、今回の公演の筋書には、作者のプロフィールや、脚本が入選した年度、国立劇場が上演してきた新作の記録などが掲載されていない。今後の歌舞伎の新作について考える上で、いつ、どこで、誰が、どのような作品を作ったのかという情報は不可欠である。来年三月の筋書には、それらの情報を整理して掲載してほしいと思う。
 「来年三月」と書いたが、もちろん私は国立劇場の来年の予定を知っている訳ではない。あくまでも期待である。どんな新作に出会えるだろうか…楽しみにしている。

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「見えないものを見る」
マーガレット伊万里
 わかっているつもりでいたのに。そんな傲慢さはひと吹きでどこかへ行ってしまった。『マッチ売りの少女』(別役実作 坂手洋二演出)を見ていて思い知る。
 波紋の広がりが床いっぱいに描かれた舞台の真ん中に、ダイニングテーブルが置かれている。夜のお茶のひとときを過ごす初老の男とその妻(猪熊恒和、富司純子)の部屋に、ある雪の降る晩、見知らぬ女(寺島しのぶ)がやってくる。親切心から夫婦は女をお茶に招き入れる。
 女はテーブルに着くと、しばらくして身の上話を始める。自分は幼い頃にマッチを売っていた。しかもただマッチを売るだけではなく、マッチの火がともっている間、男たちにスカートの中を見せていたという。さらには自分はあなたたちの娘だと言い出す。
 はじめは女の言っている意味がよくわからなかった。小さい頃に死んだはずの夫婦の娘が、成長して帰ってくるわけがない。この女の訪問は、いたって個人的な思惑からなされたもので、真相がいつか明かされるのではないか?それはいつ?そんな一筋縄ではいかないはずと思いながらも、ハラハラドキドキ、まるでサスペンスの様子で目が離せなくなった。
 女は嘘をついているのか?それとも思い違いをしているのか?この善良そうな夫婦には何かもっと隠された秘密があるのだろうか?疑問が疑問を呼び、言いしれぬ不安がひたひたと近づいてくる。
 口を一文字に結んで言葉数少ない女。まさかと否定する夫婦が質問しても、肝心なことには答えない。
 女はいかに自分がいかがわしい仕事をして貧しい生活を送ってきたか、自らを責めるかのように声高に訴える。その身をふり絞るような様は、ひどく痛々しい。夫婦も必死になだめるが、彼女の存在には覚えがないだけにとまどうばかり。
 ただ、妻が女のことを肯定的にとらえた瞬間、待ってましたとばかり女の表情が豹変した。しまいには、女の弟(手塚とおる)までが登場し、執拗に、次第に確信をもって夫婦にせまる。すると人間の不思議な心理ではなかろうか、夫婦は逆に不安になり始める。身に覚えがないのに、自分たちはもしかして大事なことを忘れているんじゃないか……と。
 そしてだんだんと混乱し、疲れ切った女のそばで、耳をつんざくような爆撃の音が鳴り響く。
 ここで私も、はっと気がついた。
 女が言っているのは日本でおきた戦争のことなのだと。
 しかしこの爆撃を聞くまでは、全くといっていい、戦争のことだと認識できなかった。
 夫婦のしあわせそうな雰囲気やあたたかいダイニングには、戦争を意識させるものは何一つない。突然やってきた女は、はっきりいって陰気だが、グレーのスーツも、肩に自然に下ろした髪型も、きわめて現代的。彼らの会話に戦争を連想させる事柄や直接的なイメージがほとんどなかったと思う。ただ時折、「その頃」とか「あの時」といったあいまいなせりふが登場していたことに、すぐにはピンと来なかったのだ。
 自分には戦争の記憶がないし、戦後の貧しさもわからない。ところが、かの地での戦争はリアルタイムに映像を見ることができ、新聞やインターネットでさまざまな情報を得られる。見たり読んだりするだけで、戦争についてわかったつもりになっていたが、果たしてどれだけわかっていたというのだろう。
 女が体中から叫び声をあげている悲しみを、私はそれとわかってあげることができなかった。想像した以上に戦争は遠い記憶だったことに気づく。思い上がっていた自分の愚かさに目が覚めた。
 それだとはっきり見せぬ方法で、それを痛烈に印象づける。軍服も、日の丸も、焼け野原もない芝居。
 冒頭で夫婦は女にほほえみかけ、「私たちは、善良にして模範的、しかも無害な市民なんです」と言って彼女を家へ入れる。そこで一瞬、空気が変わった。なんだか少しきもちが悪い夫婦だなと違和感を覚えたのを後から思い出した。
 まじめで控えめな夫とその妻は、女たちがいなくなると、まるで何事もなかったようにお茶の時間に戻る。その無邪気すぎるほどの妻の笑顔に、深い恐怖を感じた幕切れだった。
(四月八日観劇)

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