えびす組劇場見聞録:第14号(2003年9月発行)

第14号のおしながき 

「ハムレット」 世田谷パブリックシアター 6/17〜7/26
「tick, tick...Boom!」 アートスフィア 6/12〜22
「レ・ミゼラブル」 帝国劇場 7/6〜9/28
江戸あやつり人形芝居結城座「伽羅先代萩」 シアタートラム 7/9〜13
「芝居と食事の関係」 「ハムレット」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「男優だけの『ハムレット』」 「ハムレット」 by C・M・スペンサー
「適役ふたつ」 「tick, tick...Boom!」
「レ・ミゼラブル」
by コンスタンツェ・アンドウ
「人間とは似て異なるその魅力」 「伽羅先代萩」 by マーガレット伊万里

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「芝居と食事の関係」 ジョナサン・ケント演出★野村萬斎主演『ハムレット』
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 芝居と食事はよく似ている。限られた時間と空間のなかで、どのように味わい、楽しめるか。主演に野村萬斎を迎え、小劇場、新劇、歌舞伎とさまざまなジャンルの男優だけの配役に河合祥一郎の新訳と、今回の『ハムレット』は話題性も期待度もチケット代も今年上半期ナンバーワンであろう。
 テレビドラマ『花の乱』も『あぐり』もほとんど見たことがないわたしにとって、狂言、近代劇通じてこれが萬斎デビューである。
 いつも予約でいっぱいの大評判のレストランにやっと来たような心持ちだ。巨大な舞台装置(ポール・ブラウン)に圧倒されつつ、胸を高鳴らせて萬斎ハムレットの登場を待った。
 が、第一幕第二場、箱形の装置の右下で奇妙なポーズを取っている人物がハムレットだと思ってしまったのである。台詞を聴くまで彼がレアティーズ(増沢望)とわからず少し焦る。ハムレットはいずこ?探してようやく、憂鬱そうに壁にもたれている人物に気づいた。
 萬斎ハムレットは長髪と洋服姿に違和感があり(パンフレットに掲載されている稽古時の素顔のほうが素敵)、演技もとくに台詞まわしに馴染めず、聞き取りにくい。とらえどころがなく、それだけに観客の好奇心と憧れを掻き立ててやまないハムレットという一人の男性の肉声だと受けとめるのが難しいのだ。歌舞伎俳優の演じる近代劇は何度か体験があるので想像がつくが、萬斎ハムレットには戸惑うばかり。彼を受けとめて楽しみたいのだが、心が動かない。
 それに対して歌舞伎の女形中村芝のぶ演じるオフィーリアには目を奪われる体験をした。
 「尼寺へ行け」の場である。
 ハムレットに散々いたぶられたオフィーリアが地に倒れ伏しているのに父親のポローニアス(壌晴彦)は娘を助け起こそうともせず、王クローディアス(吉田鋼太郎)とひたすら政治的な話(業務連絡か)を続けている。その挙げ句「どうした、オフィーリア」だなんて、どうもこうもないですお父様。考えてみればハムレットの心情を試すためにわが娘を囮に使ったわけで、オフィーリアはまるで人形、男の道具に過ぎないのだ。
 マクベス夫人やジュリエットなら頑張れば頑張っただけ手応えがありそうだが、オフィーリアは女優にとって、演じ甲斐という点でどうなのだろう。若くて多少美しければマルなのだろうか?若さも美しさも女優本人がもともと持っている資質的要素が大きいし、とすると頑張りようがないではないか?
 中村芝のぶは「眼目はオフィーリアの狂乱の場ですけど、そこまでの精神の流れをつかむのが難しい」と語っている(日経新聞五月二十九日夕刊)が、難しいのは演じる側だけでなく、観客も同じである。ハムレットは自分の考えていることをいろいろしゃべってくれるのでまだいいが、オフィーリアは相手に対するリアクションしかないので、この人の性格がよくわからない。精神の流れがつかめないから、狂乱の場は「若くてキレイなだけじゃないの。わたしはお芝居もできるんです」とばかり、張り切って演じている女優を冷めた気分でみることになる。
 わたしは「尼寺へ行け」と捨てられた中村芝のぶの虚ろな表情にしばし見とれた。 
 まるで抜け殻である。父親は王様と話に夢中だし、兄レアティーズはハムレットと決闘するほど妹を愛してはいるのだろうが、どうもずれているような気がするし、誰も彼女の心を受けとめる者はいない。オフィーリアの心はこのあたりからすでに壊れ始めていたのではないか。この箇所には台詞も卜書きもないが、中村芝のぶの表情から伝わってきたのはオフィーリアの確かな体温、息づかいである。
 人形のように男たちの言いなりになってきた娘が、自分でも知らなかった心の奥底をさらけ出し、初めて自己主張するのが狂乱の場なのだ。狂わなければ自分になれない悲しみと虚しさ。これが本役の核ではないか。
 今まで「ハムレットの相手役」とだけ捉えていたオフィーリアが、ようやく生身の存在として感じ取れるようになってきた。それほど中村芝のぶのオフィーリアは忘れがたく、今後のわたしの『ハムレット』体験に大きな影響を及ぼすことだろう。
 成駒屋、お見事。
 今回の『ハムレット』は視覚的な面ではたしかに観客を引きつけた。しかし舞台装置が立派だというのは、食事に行って店構えや食器だけを褒めるような気がするのである。
 蜷川幸雄演出の舞台を思い出してみると、毎回さまざまな趣向を凝らしているが、舞台装置や衣裳や照明や音楽すべてが舞台を構成する生きた要素であることが客席に伝わってくるから、お料理じたいの味はもちろんのこと、盛りつけも食器も素敵で「楽しい食事だった」と幸せに思えるのである。
 あるいは出口典雄演出のシェイクスピアシアターの舞台を思い起こす。裸舞台といってもいいくらいの簡素なセットに、俳優はほとんど普段着姿だったが、そこから発せられる力強さと勢いは大変なものであった。
 食事というより賑やかな酒盛りだ。強い酒を一気にあおったような昂揚感は今だに忘れがたい。
 趣向は趣向でしかない。
 今回の『ハムレット』は趣向が趣向を越えて、舞台から熱を発し風を起こして客席を巻き込み、劇場ぜんたいが熱く盛り上がるには至っていなかったことが残念である。
(七月三日観劇)

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「男優だけの『ハムレット』」
C・M・スペンサー
 シェイクスピアが戯曲を書いていた時代、役者は男性だけに許された職業だった。それからすると、今回の野村萬斎をハムレットとする同作品でガートルードやオフィーリアをはじめ出演者が全員男性であることに、作品自体の違和感は無いとも考えられる。日本にはまだ歌舞伎という男の役者だけの伝統の舞台が存在するではないか。
 このジョナサン・ケント演出の『ハムレット』は、女性としては客観的に表現された「女性像」を見られることが大変興味深かった。例えばオフィーリア、演じる中村芝のぶは歌舞伎の女形である。様々な『ハムレット』が上演され、最近は元気のいいはっきりと物を言うオフィーリアが多かったように思うが、ここでは親や男性に従順な、決してでしゃばることのない、しとやかなオフィーリアが見られた。だが、ここまで自分の意思を表現できずに感情を抑えなくてはならない状況では、彼女はかなりのストレスを感じていたことだろう。女一人では生きて行けない状況で、父ポローニアスが亡くなったと同時に発狂してしまうのも理解できないではない。これまでに女優の演じたオフィーリアの発狂シーンは涙を誘う美しい場面であったが、中村芝のぶは少々違った。発狂、つまりは羞恥心も失っており、凝視するのも哀れな最期であった。
 ガートルードにしても、暗殺された夫の弟クローディアスと立場上しかたなく結婚したのかと思いきや、男性社会では生きていくには当然、求婚されたら結婚するという選択の自由のない女性、オフィーリアともども男性の装飾品のように男性の側らで豪華なドレスを着て微笑む女性像がそこにあった。演じたのは篠井英介。最近ではテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』で、やはり女性のブランチを演じている。住む家もお金も無くなった彼女には、頼れるのは男性しか考えられなかった。ブランチもオフィーリア同様、仕舞いには狂ってしまうのだが、娼婦のようなことをしてまでも男性に頼ろうとしていた姿が、今回のガートルードと重なって見えたことが、女性の立場からすると大変悲しく思えるのである。
 さて、四百年も昔に男優ばかりの劇団のために書かれたこの作品。今回の試みは、結構当時の様子がうまく再現されているのかもしれない(ただ一つ、豪華なセットを除いては)。ハムレットもオフィーリアも演じるのは現役の古典芸能の役者で、彼らの舞台も男の世界というところが大変似通っている。この作品では、彼らはセリフを自然な口調で語るのではなく、古典的な狂言のような言い回しで淡々と語っている。そして、怒りの場面では声を荒げ、悲しければよよと泣く。そんな表現がかえってハムレットの人物像はこうあるべき、という固定概念を解き放っていたようだ。
 新劇の俳優も多く参加している。ローゼンクランツとギルデンスターンが、(実は狂ってはいない)ハムレットの狂気の言動の真意をはかりかねている様子が、萬斎の言い回しとは対照的に映った。感情を伴うリアルな話し方が、ハムレットに振り回されているように見えたのが滑稽だった。
 レアティーズもしかり、まじめな物言いに対してハムレットがはぐらかしているかのような淡々とした口調なので、ただでさえ敵意を抱いている彼にとって、それだけでも腹立たしく思えたことだろう。
 しかし感情が高まると、ハムレットがオペラ『エレクトラ』さながらに大声で自分の主張を発していたのが気になった。彼が熱くなればなるほど、がなりたてているようにしか聞こえないのが残念であり、ついにはハムレットがどんな人物だったか全体像まではぐらかされてしまった感じがある。固定概念もないが、理解もできなかったという結果を招いたのではないか。
 日本での一ヶ月半にも及ぶ公演の後、見聞録が出る頃にはイギリスでも同キャストで上演されたところだろう。古典作品の上演と捉えられるのか、新旧の融合として新しい感覚をイギリス人に与えるのか、観客の見方によって様々な解釈ができる作品である。
(七月十八日観劇)

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「適役ふたつ」
コンスタンツェ・アンドウ
 『tick,tick...BOOM!』=チック、タック、バーン!物騒なタイトルだ。もちろん、テロリストの話ではない。時は一九九○年、三十才を目前にしたジョナサンの頭の中で、時限爆弾が音を刻む。ミュージカル作曲家としての成功…そのタイムリミットへのカウントダウンである。
 ジョナサンを演じるのは山本耕史。私が山本に興味を持ったのは二○○○年の『BOYS TIME』で、それ以降の舞台は殆ど見ているが、代表作(と言っても主演ではない)の一つ『RENT』は見逃している。二○○○年の来日版『RENT』をブレイクスルーシート(当日抽選の最前列半額券)で観劇、二○○二年の『RENT GALA』(山本を含む日本人キャストに加え、アメリカのキャストを招き、コンサート形式で『RENT』の一部を再現した舞台)も見て、日本版に間に合わなかったことが更に悔まれた。『tick,tick...BOOM!』は、『RENT』の作者ジョナサン・ラーソンが、『RENT』以前に自らを主人公にして書き、演じ、『RENT』後に改めてオフ・ブロードウェイで上演されたミュージカルである。(訳・演出 吉川 徹)
 ミュージシャンを除く出演者は、山本、TRFのYU―KI(ジョナサンの恋人スーザン他数役)、大浦龍宇一(ジョナサンの友人マイケル他数役)の三名。派手な舞台ではない。夢・恋愛・友情・家族・仕事・不安・挫折…描かれるのは、三十才目前でなくとも、作曲家志望でなくとも、肌で実感できる身近なものばかり。ストーリー的には単純ながら、音楽の魅力と、出づっぱりで歌い・語る山本の、軽やかだが底力を感じさせる演技で、楽しく見た。
 演じるということの制約、歌うということの制約、舞台という空間の制約。そこにあるはずの様々な制約を乗り越え、山本も、ジョナサンも、とても「自由」に見えた。山本はジョナサンという役を通じ、ジョナサンは山本という俳優を通じ、共に自由を得て、存在を高めあう。「適役」とはこういうことを言うのだろう。山本が『RENT』で演じたマークにも、ジョナサン本人の姿が投影されていた。
 演劇の道を諦め、ビジネスマンとして成功したマイケルは、自分がHIVポジティブであることを告白する。それを聞いたジョナサンは、ニューヨーク中を走りまわり、やがて自らに必要なものを再確認する。特別なセットなどはないのだが、以前旅したニューヨークの風景が目に浮かび、非常に印象的なシーンとなった。一九九○年と比べ、現在は「HIV」に対する感じ方は落ち着いてきているが、特定の時代のキーワードとするにはまだ早いだろう。
 三十才のバースデー、ジョナサンは自分の作品がミュージカル界の大御所、スティーブン・ソンドハイムに認められたことを知る。ジョナサンの夢に関しては、ハッピーエンド。しかし、本物のジョナサンは、『RENT』の初日を前に、その成功を確かめることなく、三十五才で急死してしまうのだ。舞台は希望を伝えているのに、事実が一抹の淋しさを運ぶ。それを知っているか否かで、観客の印象は変わるだろう。ジョナサンは自らの死を作品に織り込んでいたわけではないので、知らない方が良いのかもしれない。しかし、事実をひっくるめ、私はこの舞台がとても好きになった。いい舞台だったな、と素直に思えた。再演があれば、必ず足を運びたい。(YU―KIと大浦については詳しく書く紙幅がないが、一長一短。別のキャストで見てみたい。)
 ジョナサンは、従来のミュージカルと一線を画した作品づくりを目指していた。その意向を汲んだのか、ロック・ミュージカルと銘打たれているからか、日本版『RENT』と『tick,tick...BOOM!』のキャストには、ミュージカルによく出演する俳優の名前はない。しかし、山本は、『tick,tick...BOOM!』の直後、『レ・ミゼラブル』に出演した。ジョナサンの作品とは対極に位置する、大型ミュージカルの代表である。(作 アラン・ブーブリル、クロード=ミッシェル・シェーンベルク 潤色・演出 ジョン・ケアード、トレバー・ナン)
 有名な話だが、山本は十一才の時、『レ・ミゼラブル』日本初演(一九八七年)にガブローシュ役で参加し、十六年後の今年、マリウス役でカムバックした。作品の息の長さを感じさせる出来事だ。八八年・八九年・九九年に続き、私にとって四度目となる今年の『レ・ミゼラブル』は、クワトロ・トリプル・ダブルキャストが入り交じり、観劇日の選択に悩んだ。真夏の三ヶ月、一日二回公演も多く、出演者の健康を考えれば仕方ないのかもしれないが、期待していたジャン・バルジャンとジャベールの組合せがなく、残念な思いをした。
 山本耕史のマリウス。話題性や一般的なイメージの面で「当然」と言える配役だが、最近山本が演じてきた一癖ある役に比べると、ストレートすぎて退屈ではないだろうか、帝劇という大きな箱で、充分な声量や存在感を出せるのだろうか、そんな気がかりがあった。
 しかし、舞台の上にするりと現われたマリウスを見て、気がかりもするりと消えた。薄汚いパリの下町の中で、マリウスの周囲には清潔感が漂い、コゼットに一目惚れされてもおかしくない、と思わせる。劇場の壁をビンビン鳴らすようなボリュームには乏しいものの、少しハスキーでソフトな歌声は逆に新鮮に響き、マリウスの人物像にも合っていた。マリウスは、鈍感で不器用で、うっかりすると観客に「何故コイツばかりチヤホヤされる?」と疑われかねない役だ。しかし、山本は、マリウスが「想いを託される者」であることを違和感なく納得させてくれた。これは重要なポイントだろう。二十六才という若さも幸いし、マリウスの膝でエポニーヌ(新妻聖子・二十二才)が死ぬシーンでは、若い二人の、若かったからこその悲劇が際立った。舞台には、技術だけでは表現できないものもある。
 私の頭に、また「適役」という言葉が浮かんだ。山本のマリウスは、適役だった。満足している。ガブローシュを演じた者がマリウス役を得ることは、俳優としての成長の証明になる。マリウスは一つの目標だったのかもしれない。しかし、山本には、大型ミュージカルを今後の活動のメインに据えてほしくない、と思っている。ふたつの適役を並べた時、より強い魅力と適性を感じるのはジョナサン役なのだ。ジョナサン・ラーソンのように作る側に回るという意味ではなく、演じる側として、マイナーでもイキのいい海外ミュージカルの紹介や、新しい舞台の創造に携わってほしい。それらは、大型ミュージカル路線に乗るよりも興味深く、個性や経験を存分に発揮できる仕事ではないだろうか。もちろん、まだ先の話。様々なフィールドで更にキャリアを積んだ後に本人が選ぶことだ。
 山本の次の大きな仕事は二○○四年NHK大河ドラマ。土方歳三を演じるとは夢想だにしていなかったが、意外性の勝利で「適役」と思わせてくれるだろうか。そして、また舞台へ帰ってきた時に、どんな役を見せてくれるのだろうか。楽しみに待とう。
(観劇日 『tick,tick...BOOM!』六月十四日、『レ・ミゼラブル』八月三日)

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「人間とは似て異なるその魅力」
マーガレット伊万里
 目の前でわが子を殺された母親。しかし母親はそれを制するでもなく、身を引き裂かれるほどの苦しみをぐっとこらえたまま立ちつくす。身もだえするほどの悲惨な光景。江戸糸あやつり人形芝居結城座による古典公演『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の「御殿の場」である。
 結城座は、一六三五年に旗揚げし三五〇年以上の伝統を受け継ぐ糸あやつり人形芝居の劇団である。出演する人形は、文楽の人形などと比べてとても小さい。上から吊すと、背丈は大人のひざ上ぐらいほど。文楽の人形遣いは浄瑠璃(地の文とせりふ)に合わせて人形操作に専念するが、結城座では人形遣い自らもせりふを言う。無数のあやつり糸を操作しながらのせりふ回しは熟練の技を要するものだろう。
 歌舞伎の演目としても有名な『先代萩』は、徳川幕府の時代、仙台は伊達家のお家騒動をもとに作られたお話。ただし、時代設定や人物名は変えてある。
 舞台は、隠居の身の足利義経公や幼君・鶴喜代の命をねらう者があるという話を庶民のやりとりでみせる「花水橋(はなみずばし)の場」から始まり、幼君毒殺をおそれ、乳母の政岡自らが飯を炊く「飯炊きの場」、そして「御殿の場」では幼君を守るため政岡はわが子を犠牲にする。最後は悪事を企む仁木弾正と忠実な家臣荒獅子男之助との睨み合い「床下の場」。今回は以上四場の上演だった。
 『先代萩』といえば「飯炊きの場」が有名とのこと。しかし今回は人形の登場がなく、浄瑠璃だけだったので、やはり「御殿の場」に強く引きつけられた。
 鶴喜代の命をねらう一味の栄御前と八汐が毒入り菓子を持参してくる。執拗に菓子をすすめているところへ、政岡の子・千松がかけ寄ってそれを食べてしまう。悪事がばれるのを恐れた敵は、その場で千松の息の根をとめる。
 かねてより政岡は、幼君に危険がおよんだときは自ら命を捧げよとわが子に言い聞かせていた。自分の子どもを他人の子どものために殺せる親など聞いたことがない。いまの価値観ではどうにも説明できないお話ではないか。封建社会、忠義が美徳とされた時代だからといわれればそれまでだし、幼い子どもに忠義のため死んでおくれと平然と言う母親の肩ももちたくはないが、無惨なわが子の死を受け入れなければならない母親の哀れさには、心をわしづかみにされてしまった。
 子どもの首に刀がつきつけられた瞬間、政岡の顔に衝撃が走るのを見た気がした。一人残された政岡が、千松の亡骸にとりすがって泣く。危機一髪で幼君を救ったわが子の手柄を誇らしく思うと同時に、幼い子どもを死においやった母親としての負い目、そしてやり場のない悲しみ。
 一つのはりついた表情しかもっていない人形の、頭の傾き具合やささいな仕草によって微妙な感情のゆれを見てとれるのが不思議だった。物理的にはあるはずのないものを私たちが自由に読みとっている。それは人形芝居にしかつくり出せない際だった世界ともいえる。
 こんな哀れな場面とは対照的に、刺客たちの首がピョンと飛んだり、体が頭から真っ二つになったり、人形でしか見られないような仕掛けも用意されており、子供に戻ったようでゆかいな気分だ。かと思えば、忍術で人間大(人形大)のネズミに化けた悪役が登場したり。各場の独立性が非常に高いので、さっきの涙もひっこむほどだ。
 人形劇というと「子ども向け」、ひろく言って「ファミリー向け」をイメージしがちだが、今回の『先代萩』では、人形の限られた動きからは想像できない劇的な効果を感じる。
 人形と人形遣いと浄瑠璃それぞれが観る者の中で一つになったとき、それはそれはビビッドな驚きと発見の連続なのだ。
 (七月九日観劇)

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