えびす組劇場見聞録:第19号(2005年5月発行)

第19号のおしながき

劇団風琴工房「機械と音楽」 ザ・スズナリ 2005年3/9〜16
「ホテルグランドアジア」 シアタートラム 2005年3/8〜17
初春浅草歌舞伎「封印切」 浅草公会堂 2005年1/2〜26
演劇集団円「東風 ステージ円 2005年4/14〜24
「なぜか下北沢」 「機械と音楽」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「アジアの中の『アジア』」 「ホテルグランドアジア」 by C・M・スペンサー
「『封印切』のバリエーション」 「封印切」 by コンスタンツェ・アンドウ
「古い傷の治し方」 「東風」 by マーガレット伊万里

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「なぜか下北沢」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 自分がこの世に生きた証を残したいと願うのは人間の自然な気持ちだろう。
 それがもの作りに携わる人ならばなおさらである。
 詩森ろば作・演出の風琴工房公演『機械と音楽』は、生きた証を残そうと苦悩したロシアの建築家たちの姿を描いた舞台である。
 昨年五月上演の『記憶、或いは辺境』がとても印象深い舞台だったので、次の公演も必ず行こうと決心した。
 年明けに劇団から公演案内の葉書が届いた。待ちに待った新作だ。迷わずチケットを予約した。友人も誘った。相当な期待と気合いをもって観劇に臨んだのだが、まさかロシア・アバンギャルドの世界とは。
 翻訳ものではなく、詩森ろばのオリジナル戯曲である。実在の人物が登場するいわば評伝劇なのだが、それでは井上ひさしかというと当然のことながら趣きは大きく異なる。
 予備知識のないものにとって親しみやすいとは言いがたく、時代背景についての簡単な用語説明と本編の中に登場する建築物の図面や写真のコピーが客席に配布されているが、それを読んでもやはり難しい。結果二時間をほぼ茫然と過ごしてしまった。
 なのに二日後の夜、定時で職場を飛び出し、当日券を求めて下北沢の商店街を走る自分がいるのだった。
 普通はとてもおもしろかったから是非もう一度となるのだが、一回めは完全に「負け」の気分だったし、かといって今度こそリベンジの気合いもなかった。
 ひとことで言えば突然予感に襲われたのだ。もう一度みることができるなら、今夜ならきっとあの世界に近づけるのではないかと。
 ロシア革命からスターリンの独裁政治の嵐の中で不器用に生きた実在の建築家イヴァン・レオニドフと彼を巡る人々が登場する。
 幕開けは一九一七年十月、ペトログラードの路上である。十月革命の夜、十五歳の少年イヴァン(山ノ井史)は群衆の中から幼なじみの少女オーリガ(笹野鈴々音)を救い出す。銃声のような激しい音楽に合わせて奇妙な動きをみせる俳優たちが(振付も詩森ろば)、群衆の不気味な迫力を感じさせる。これから始まる物語への期待を抱かせる、刺激的なプロローグだ。
 が、そのあとは戸惑いの連続となった。
 まず今回の舞台では「フォルム」という試みがなされている。一人の俳優がさまざまな役をギリシャ劇のコロスのように演じる趣向なのだが、これがうまく飲み込めなかった。
 さらに主人公のイヴァン役を前半の少年時代を山ノ井史が演じ、後半の青年時代は久保田芳之(reset-N・客演)が演じるというもうひとつの趣向がある。  
 一人の人物を複数の俳優が演じ継いでいくのである。
 舞台右上にスクリーンがあり、時や場所が映し出されるので、目の前の場面がいつのことか、前の場面から何年後かということはわかる。
 頬のふっくらした少年イヴァンは革命を信じ希望に溢れているが、絵画から建築に転向した青年イヴァンは神経質で気難しげな印象である。時がたてば人の心も変化していくことはわかる。しかしどこかに似通ったところがあればその変化もよく伝わってくるだろうが、二人のイヴァンが外見的に似ても似つかないため、にわかにこの二人が同一人物に見えず混乱した。
 そのふたりのイヴァンが同じ場所で出会う場面がある。
 一九二七年のレーニン研究所にいる青年イヴァンのところに少年イヴァンが迷い込んでくるのである。青年は少年に告げる。「ここは君にとっての未来、僕にとっての過去だ」と。十月革命の冬に病気で死んだはずのオーリガも現れ、「わたしの絵を描いて」と木炭を差し出す。ここは過去と未来が交錯する記憶の部屋なのだ。
 イヴァンは希有な才能を持ちながらそれを開花させることができない。多くの斬新な図面を描いたが、ほとんどが建築物として実現しなかった。恩師や同僚の気遣いや思いやり、妻の愛情も素直に受け止められない様子は実に痛々しい。晩年は酒に蝕まれ、不慮の死を遂げたという。
 ラストシーン、少女オーリガの「わたしね、炭で描いてくれるヴァーニャ(注:イヴァンの愛称)の絵、好きよ」という声が聞こえる。
舞台中央がぼんやりと明るくなり、絵をみつめながら微笑み合う幼い二人の姿が浮かび上がる。
 過去の自分たちを茫然とみつめる現在のイヴァン。静かなギターの音楽がゆっくりと流れる。
 ほとんど苦行と言ってもいい最初の観劇の中で、演劇的仕掛けとして興味を持てたのが二人のイヴァンが会う場面、心に響いたのはラストシーンだった。  
 一回めがなぜ完敗だったかというと、本作の背景についてほとんど知識がなかっただけでなく、親しみやすく優しい『記憶〜』が好きなあまり、その世界に甘えていたとも考えられる。気楽な国内旅行のつもりが、何の準備もなく突然言葉の通じない外国へ連れて行かれたようなものである。
 それでは観客に対してもっとわかりやすくする工夫、たとえば説明台詞や詳しい用語集が欲しかったかと考えると、そうでもないように思えるのだった。
 二度も劇場に足を運んだとは、余程深い印象を残した舞台だったのでしょう、と人に言われる。そのはずなのだが。
 やむにやまれぬ自然な衝動とでも言おうか。平日に当日券で芝居に行くなど、一年に一度あるかないかのことなのだ。しかし突然決心したわけではない。完敗した最初の日から少しずつ無意識に、いや深いところで意識的にか、二度めの準備をしていたようにも思える。自分のしたことなのにわからない。
 はっきりしているのは、あの日下北沢に行かなければきっと激しく後悔しただろうということだ。
 行くしかないの決意であり、わたしは必ず行くのだという、ほとんど運命の力のようなものを感じたことも確かである。
 下北沢駅前の雑踏をかきわけ、商店街を抜けたら通りを左折だ。
 茶沢通りを走りながら、スズナリまでの道がこんなに遠いかと思った。
 しょっちゅう歩く道なのに。
 なぜか下北沢。劇場のある町がもつ不思議な力と、詩森ろば、風琴工房の魅力がわたしを走らせる。あれは一種の恋だったのだ。
(三月九日〜十六日 下北沢 ザ・スズナリ) 

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「アジアの中の『アジア』」
C・M・スペンサー
 この作品が上演されるまでに、過去2年間に渡り国内外で五回、ワークショップが重ねられたのだという。アジア出身の十六人のアーティストによる芝居が、三月八日から十七日までシアタートラムで上演された。
 日本からは川村毅と鐘下辰男の二名が参加。舞台の上では俳優として活動していた。
 上演に先駆けて、二月中旬にこの作品のセミナーが行われた。これまでの経緯、ワークショップでの出来事、製作過程で起きたアジアの天災=津波を急遽盛り込んだいきさつ、この時点でも結末はまだどうなることやら・・・という話を川村、鐘下の両氏が語っていた。公演は目前である。
 日本の顔ぶれからもわかるように、インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアなどの参加者全員が、既に自国で実績のある演出や脚本、俳優もこなす演劇人ばかり。(アメリカからの一名は、日本での活動経験があるということで、このアジアのプロジェクトに参加)演者の肩書を忘れさせるような一途な演技も見所である。
 全てがワークショップから産まれたオリジナルである。セミナーでは、彼らのプロ意識から話がまとまりにくかったことも語られたが、アジアという大きなくくりの中で、各々の主張が盛り込まれた独自の発想が感じられる作品になっていた。劇場入口で手渡される資料に、シーンリストの項目があるところなど、参加者の「作る側」としてのこだわりを感じる。
 「アイデンティティ」のありかを探すという一つのテーマがあり、登場人物はそのアイデンティティを探す旅に出る。それゆえ、芝居のタイトルが『ホテル グランドアジア』なのか。アジアとは、漠然としていそうで、特殊な単位であるように思う。
 シーンごとに、オムニバス形式で上演。フィリピンから芸能人としての出国が認められず、まだ男のままのニューハーフが、自称「カラユキさん」と一緒に日本に密入国する話がある。その彼が働くのは、風俗店。入国が許可される「芸能人」とは・・・。一方だけが負う問題ではない関係が存在する。
 フィリピンとシンガポールの出演者によるシーンでは、豊かな者が貧しい者を助けるという考えを持った観光客の青年が、フィリピンを訪れる。彼は首からカメラを下げて街を歩き回る。そして、親切そうに近づいてきた現地人に心を許した末に、身ぐるみをはがれてしまう。しかし、彼は、その後もあっけらかんとして、旅を続けている。脳天気な観光客が、日々必死に生きている人々の中にいる姿は滑稽だが、へこたれない青年の姿に、期待できる何かがあるように映る。
 別のシーンでは、自分というものを小説のように書き残そうとするカップルがいる。男が自分の最期を想像し、相手のリアクションに注文をつけることに躍起になっている。しかし、彼女には、今ひとつ男の要求する意図が伝わらない。
 そして、様々なシーンの後に、津波。人々の思いや生活、すなわち「生」を断ち切るものの象徴のように見える。
 残念ながら、彼らが探し求めていたものを見つけられたのか、舞台の出来事からはわからなかった。
早くも上演から二カ月が経とうとしている。その間にアジアは、いや日本は、隣接する国々との関係で新たな問題を抱えてしまった。時間の流れが、過去に比べて格段に早くなり、問題自体も難解になっている。
 今後、このプロジェクトが、新しいアジアのメンバーを加えて、継続していくことを願う。独りの主観ではない筋書きに、アジアで生きる当事者が、問題提起できる場になっていると思うから。この作品は製作過程が一番、価値あるものなのかもしれない。
(三月十七日観劇)

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「『封印切』のバリエーション」
コンスタンツェ・アンドウ
 十年ぶりに新春浅草歌舞伎へ出かけた。お目当ては上方和事の『封印切』。一部は成駒屋型、二部は松嶋屋型、違う型・違う配役で上演するという企画に食指が動き、一日通しで見た。
 大坂の飛脚屋・亀屋の養子忠兵衛が、公用金を横領して馴染みの遊女・梅川を身請けし、二人で大和へ落ちて行く…これがいわゆる「梅川忠兵衛」。実際に起きた事件をもとに、近松門左衛門が人形浄瑠璃『冥途の飛脚』を発表、その後改作された浄瑠璃が歌舞伎に入り『恋飛脚大和往来』として現在に至っている。同じ題材を扱った作品に、秋元松代作・蜷川幸雄演出『近松心中物語』、菅沼潤脚本・演出『心中・恋の大和路』(宝塚)などがある。
 『封印切』は、忠兵衛が公用金の小判の封印を切ってしまう幕で、今までに大勢の忠兵衛を見る機会を得た。仁左衛門・鴈治郎・翫雀・扇雀・菊五郎・勘九郎(現勘三郎)・右近・染五郎、そして今回の亀治郎と愛之助。ついでに、蜷川版の平幹二朗・八十助(現三津五郎)・阿部寛、宝塚版の瀬戸内三八も数えれば十四人になる。
 一部の配役は、忠兵衛・亀治郎、八右衛門・愛之助、梅川・七之助(全員初役)。鴈治郎に教わったという亀治郎の忠兵衛は、台詞回しや身のこなし、癖のような部分まで鴈治郎に良く似ていた。普通ならば関西弁や和事らしさの有無などに注文が付くところを、大御所・鴈治郎に「そっくり」と思わせただけでもたいしたものである。これをステップに、「亀治郎の忠兵衛」を作り上げてゆくことだろう。
余談だが、亀治郎は叔父の猿之助にもそっくり。猿之助の忠兵衛は見たことがないし、猿之助と鴈治郎は特に似ていないのだが・・・。血縁とは不思議なものである。
 八右衛門は、忠兵衛を煽って封印を切らせる敵役。仁左衛門や我當が数多く手がけ、松嶋屋とは縁の深い役である。(鴈治郎は忠兵衛しか演じない。)愛之助は、鼻持ちならない成金のボンボン風で、忠兵衛に金を貸したときの様子はライブ感たっぷりと、忠兵衛を貶める長台詞はとことん嫌味っぽく、澱みのない関西弁でまくしたてた。
 成駒屋型では、二人が言い争ううち、なかば偶然に封印が切れてしまうのだが、それまでのやり取りをいかに見せるかが重要で、今回はとても面白かったと思う。忠兵衛より年長の役者が八右衛門を演じると、大人が子供をいじめているように見えることもあるが、亀治郎と愛之助の組合せはバランスも良く、二人のかけ合いはテンポがあって盛り上がり、客席を沸かせた。
 七之助の梅川は華奢で健気。『封印切』の梅川には、あまりしどころがない。
 幕切れ。忠兵衛は、梅川を先に店から送り出し、一人でゆっくり花道へ入る。二人が手を取って花道へ入る松嶋屋型の方が好みだったのだが、こちらも意外といいな…と再発見。しみじみとした唄が流れる中、うつろな面持ちで歩を進める亀治郎に、何ともいえない風情があった。この引っ込みを仁左衛門で見てみたい。
 近年の『封印切』は成駒屋型が多いため、いつもの『封印切』を見たという印象。若手公演としてはレベルの高い舞台だった。
 二部の配役は、忠兵衛・愛之助、梅川・亀治郎、八右衛門・男女蔵(全員初役)。もう一人の重要な役である井筒屋おえんは、一部二部とも門之助が演じている。
 愛之助は、忠兵衛と八右衛門の二役を仁左衛門から教わったとのこと。梅川も経験済みで三役制覇になる。もともと容姿が仁左衛門に似ており、忠兵衛の拵えが美しく映える。滑稽味の強い成駒屋型と比べ「憂いのある二枚目」の要素が濃く、井筒屋の裏口を入る場面や、二階の座敷で悪口に耐えるあたりは、綺麗な優男ぶりを見せた。柔らかさと愛嬌の点ではもう一歩だが、そこまで言うのは高望み過ぎるだろう。愛之助も、これからの人だ。
 忠兵衛と八右衛門のかけ合いが始まると、他の人物は皆押し黙り、殆ど大道具の一部と化す。しかし今回は、ふとした瞬間に、奥に控えている梅川に目が止まった。忠兵衛が、繰り返し梅川の方を振り返ったからである。梅川は、八右衛門とすったもんだしている忠兵衛を、微動だにせずじいいっ、と見つめていた。
 ドキッ、とした。絶望的なまでの無表情からは、忠兵衛に金はないという確信と、最悪の事態への覚悟すら漂う。忠兵衛は、八右衛門に対してよりも、石像のような梅川に心を乱し、疑われているのではないかと焦りをつのらせる。忠兵衛の気持ちの昂ぶりと共に、私の心拍数も上がる。見慣れた筈の『封印切』に、信じられないほどハラハラしてしまった。ついに梅川が泣き出し、忠兵衛は決心したかのように封印を切る。梅川は忠兵衛に駆け寄って煙管を渡す。「良くやった」と言わんばかりに…。
 その後、金の出所を聞いて梅川は驚くので、「最悪の事態への覚悟」は私の妄想だったのだが、「梅川が封印を切らせた」という、初めての、やや異質な感覚が残った。
 男女蔵の八右衛門は、一所懸命さは伝わるのだが、忠兵衛を死の淵まで追い詰めるだけの押しが不足。 関西弁もこなしきれておらず、二人のかけ合いが弾まなかった。八右衛門の弱さが、梅川の存在を際立たせることに繋がった、と思えなくもない。
 成駒屋型はもちろん、仁左衛門の『封印切』でも梅川の存在を意識した記憶がない。仁左衛門に見とれていたのか、忘れてしまっただけなのか・・・と思い、古いビデオを引っ張り出した。一九八九年、南座顔見世の中継で、忠兵衛・孝夫(現仁左衛門)、梅川・秀太郎、八右衛門・我當。忠兵衛は、常に梅川を気にしている様子がうかがえるものの、そう何度も振り返ってはいない。梅川は、泣き出すまでの間、画面に全く映らず、どんな状態で忠兵衛を見ていたのか(見ていなかったのか)は確認できなかったが、今回ほど忠兵衛に影響を与えていたとは思えなかった。
 六月歌舞伎座の『封印切』は、忠兵衛・染五郎、梅川・孝太郎、八右衛門・仁左衛門という配役なので、松嶋屋型だろう。改めて、じっくりと見るつもりである。
 成駒屋と松嶋屋の型の違いは、大道具・小道具・衣装・脇役の人数など多岐に渡り、それを一日で見比べるという経験は非常に興味深かった。他にも延若型・吉右衛門型があり、二〇〇一年に染五郎が自らの勉強会で演じたのは吉右衛門型だったのだが、型に注目せず見てしまったことが今となって悔やまれる。
 私にとって十五人目の忠兵衛は誰になるだろう。若手では勘太郎にも回ってきそうだし、個人的には笑三郎(一九九二年、右近の忠兵衛でおえんを演じている)を希望する。五月文楽の『封印切』は近松の『冥途の飛脚』なので、歌舞伎とは異なる面白さがあり、こちらも楽しみだ。
 『封印切』は、型だけでなく、主要な役を演じる役者の個性や年齢差によっても大きく変わる。他の歌舞伎の演目にも同じことが言えるのだが、『封印切』は特に変化の度合いが大きく、そこが作品の魅力にもなっていると思う。型の違いと役者の組合せ・・・バリエーションは数え切れない。
(一月十三日観劇)

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「古い傷の治し方」
マーガレット伊万里
 だれでも人生で一人ぐらいは、絶対に許したくないと思う相手がいたりするのではないだろうか。だが、そうした思いはまず封印し、なかったかのように、でもその人とだけは二度と顔を合わせたくないと願う。
 演劇集団円による〈次世代の劇作家シリーズ〉と題した連続公演で、ユニット・グリングを主宰する青木豪(作・演出)による『東風(こち)』を見て、自分の胸に手をあててみてしまった。
 いまは静かだが、二十年前に大噴火をしたという火山のある島。そこで旅館兼食堂を経営する夫婦(野村昇史・井出みな子)の一人娘・聡子(高橋理恵子)に結婚話がもち上がる。相手は、島の障害者センターでボランティアをする青年・祐人(佐藤銀平)。
 しかし結婚話はもたつくばかり。一方で民宿を舞台に、泊まり客同士での恋の鞘当てがあったり、祐人が働くセンターから女性が脱走したりで、かなりドタバタな様子。そうかと思えば、火山噴火の前兆を思わせる地震の揺れが、未来を予見しているような不気味さも。
 一見、縁談をめぐる、ありがちなお話かと思いきや、そこには意外な仕かけが待っていた。
 祐人の母親・律子(立石涼子)が民宿へやってきたことから、それは次第に判明する。
 偶然、律子と聡子の母親・文恵(井出)だけになったとき、二人が古い知り合いだったことがわかる。しかし、この二人の様子が普通ではない。はじめは再会を驚き、何気ない挨拶を交わしていたのに、しだいに会話がトゲトゲしてくる。
 実は、三十年前に律子と文恵は一人の男性をめぐる確執があったのだ。
 文恵は、律子の出現で三十年前に前夫と別れていた。子どもに恵まれなかった文恵は、離婚後しばらくして、聡子の父親・朝雄(野村)と出会って再婚したのだった。しかも祐人は前夫と律子との間にできた子どもである。
 あまりの急展開だ。固唾を呑んで見守っていたが、ホッとするどころか、こんないきさつをかかえた母親同士が家族になれるのだろうかと、暗澹たる思いになった。二人の思いがどこへ行こうとしているのか。片時も目が離せない。
 夫を奪った女性の子どもと、血のつながりはなくとも二十年間をともに暮らし、心を癒す存在ともいえる娘が一緒になる。
 文恵は律子にむかって言う。
 「あなたはぜんぶもっていってしまうのか」と。
 しかし、律子も祐人の兄である長男を失い、夫とはすでに別れていた。
 たがいの古傷が痛む。過去のにがい経験を今また思い出さなければならないのだ。
 これがお芝居で良かったと内心思いつつも、二人の母親を演じる役者のたたずまいには、そんな安易な逃げが通用しないほどの説得力があった。古傷から再び血をにじませ、それでも前へすすもうという人間の強さ。
 結局、息子と娘に真相を聞かせることなく、結婚も半ば認めるしかないといった雰囲気で幕を下ろす。 しかし、いつかこの若いカップルも、辛い事実を知るときがくるかもしれない。
なにげない風景だった日常が、鮮やかに切り取られた瞬間だった。日常にひそむ悲しみや苦しみだからこそ、見逃さず伝えようという気迫のようなもの。劇場から出ても、しばらくはひとりで余韻に浸りたい、そんな芝居だった。
(四月十六日観劇)

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