えびす組劇場見聞録:第22号(2006年5月発行)

第22号のおしながき

文学座三月アトリエの会 「エスペラント」 文学座アトリエ 2006年3/25〜4/9
T.P.T 「皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと」 ベニサン・ピット 2006年3/29〜4/16
「信長」 新橋演舞場 2006年1/2〜27
テアトル・ガラシ 「ワクトゥ・バトゥ〜百代の過客 森下スタジオ 2006年4/21〜24
「100分の同伴者〜教師たちの修学旅行の夜 「エスペラント」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「その先に存在するもの」 「皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと」 by C・M・スペンサー
「『名場面集』から脱却を」 「信長」 by コンスタンツェ・アンドウ
「熱帯の風色」 「ワクトゥ・バトゥ〜百代の過客」 by マーガレット伊万里

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「100分の同伴者〜教師たちの修学旅行の夜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 ある私立高校の修学旅行最後の夜、東北の旅館のロビーを教師や生徒たちが出たり入ったりする。
 引率教師の星(高橋克明)は交際中の同僚貴子(佐古真弓)から結婚を急かされているが、決心がつかない。彼は中学時代に母親の浮気癖で家庭が半ば崩壊した経験のために女性が信用できず、結婚に対しても懐疑的である。定年を控えた笹木(田村勝彦)は彼の恩師であり、両親の旧友でもある。しかしふとしたことから、星は母親の最初の浮気相手が笹木ではないかと疑いはじめ、母親の過去と自分の将来のふたついっぺんに対峙しなければならなくなる。
 貴子先生は気の強い美人で、他の教師からもデートに誘われている。教師同士の恋の鞘当てだけでなく、生徒がいなくなったり、大浴場の乙女の像が壊れたり、地元泊まり客の老人(飯沼慧)が出てきたりとエピソードも盛りだくさんである。
 高校生カップルが脱走したのは、旅館近くにある「夫婦岩」に名前を書きたい、そうすれば二人は永遠に結ばれるという噂を聞いたからだという。随分可愛いものだ。一方もう若いとは言えない三十七歳の星はいまだ母親の影から自由になれない。老人の域に近づいた笹木は昔は奥手だったそうだが、中年以降目覚めてしまったのか、なかなかに好色である。妻とは家庭内別居状態だとかで、大学時代の友人である旅館の女将(寺田路恵)と何やらもやもやしており、定年後は旅館で働きたいと言ったりしている。かと思うと前述の老人は三度の離婚を経験してなお、次を目指して女将を口説いている。
 愛に彷徨う人ばかり、という印象だ。
 いくら求めても探しても、完全な愛や幸福はないのだろうか。
 結婚を迷う星に笹木が言う。うろおぼえだが「結婚して子供がいても、それで人生が確かなわけではない。そのことを受け入れよ」と。この台詞はずしんと重く、微かに痛い。
 登場人物の人間模様を縦糸とすると、エスペラント語と将棋は横糸である。単に芝居のモチーフや小道具ではなく、影の登場人物とでも言うのか、世界を深いところで支え、導く役割を果たしている。
 世界中の人々が政治的な背景や経済的な圧力なしに、等しく話せるようにと作られた言葉がエスペラント語(国際共通語)である。
 ロビーの壁には宮沢賢治がエスペラント語で書いた詩の額が飾られている。抽象的な内容で、よく意味がわからない。
 旅館の女将はエスペラント語の研究会に入っている。老人もその研究会の同人で、女将を口説くためにエスペラント語の習得に精を出しているらしい。老人が話す言葉はいわゆる東北の方言で、東京から来た教師たちにはなかなか通じない。
 ところがこの老人は、日本語では気恥ずかしくて言いにくい言葉をエスペラント語でシャラッと言ってしまうのである。たとえば「あなた美人だね」とか「わたしはあなたを愛している」など。遂に星が結婚を申し込んだとき、貴子に向かって老人が「返事は?」と促し、「これさえありゃいいんだ」とエスペランド語で何やら言う。意味を聞くと「アイラブユーってことだ」とその場をまとめてしまう。
 エスペラント語を話すとき、老人の声は実に朗々として美しい。意味がわからないのに心に響く。日常会話の方言よりも、心から発せられる言葉のように伝わってくるのである。百戦錬磨の壮絶人生をおくってなお、飄々と愛を求め続ける老人にとってさえ、「あなたを愛している」という言葉は、ほとんど通じないエスペラント語だからこそ、堂々と言えるのかもしれない。意味を問われて似合わない英語で言うのは照れなのだろうか。
 教師たちは時間つぶしに将棋をさす。途中から老人も加わる。
 将棋は人生とちょっと似ている。始まりがあり、終わりがある。得意な人はどんどん先が読めるそうだが、それでも勝負はわからない。人生と違うのは、たとえば自分はちょっと席をはずすから、そのあいだ誰かに代わりを頼んだり、人が動かした駒をもとの状態に戻して勝負をやり直したりすることだ。ためらいも迷いもなく、すいすいと駒を戻す動作に驚いた。将棋ならやり直しもできるが、人生はそうはいかないことを暗示したのであろうか?
 さし方にはその人の性格が色濃く反映されるし、ときに言葉による会話以上の緊迫したやりとりを生む。
 特に終盤、笹木と星が対局する場面は、それまでの空気がにわかに緊張し、客席ぜんたいが息を詰めて二人のやりとりに聞き入った。
 星は駒を進めながら、自分の母親と恩師がどんな関係にあったかを聞き出そうとしているのである。二人のあいだに置かれた将棋盤が、正面からぶつかりあうことを防いでいるようでもあり、駒をぱちりと置くたびに火花が散るような激しさを感じさせるときもある。
 ぜんたいでひとつ残念だったのは高校生カップルの純愛を戯画的に描いている点である。年代別の愛のサンプルのひとつではなく、いい年をして母親から自由になれなかったり、チャラチャラと同僚に言いよったりする、しょうもなくも悲しい大人の対比としてでもなく、ここまでカップルを三枚目にしなくても、もう少し複雑な味わいを持たせられないだろうか。
 舞台に流れた100分の時間は、星にとって「結婚してください。」のひとことを言うための逡巡である。一生懸命話しても伝わらない気持ち、やりなおしができず、先のわからない人生。しかしとにかく話さなければ伝わるものも伝わらないし、自分以外に自分の人生を生きることはできない。不器用で臆病な彼が、どさくさまぎれと言えなくもないが、人生の次のステージに向かおうとしたのである。
 星先生の人生の中のほんの100分。その小さな時間に居合わせた実感のせいか、アトリエの雰囲気は優しく温かく、舞台の人々と客席の自分たちが同じ場所で共に時間を過ごせたことが無性に嬉しかった。
(四月八日観劇) 

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「その先に存在するもの」
C・M・スペンサー
  劇場に足を踏み入れた瞬間に驚く、という感覚。
T.P.T.が上演した『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと』は、そんな体験をした作品だった。
 舞台は一カ所だけではなく、劇場内に入ると、右手に二部屋、左手に一部屋。そして客席から見える位置に大きなスクリーン。客席側には柵に囲まれた緑の上に鹿の剥製が置かれ、スタンドマイクもあった。ベニサン・ピットという劇場の空間自体も独特の味わいがあるのだが、初めて見る舞台のセットは、席に着いた観客までも虜にする。しかし本当に驚くにはまだ早い。
 女三人と男が一人(木内みどり、中川安奈、池田有希子×長谷川博己)、 左手にある狭い一部屋に折り重なるように横になり、囁き合っている。一見して美男美女の登場人物たち。そしてスクリーンには、ハンディカメラで彼らのアップが映し出されている。そこで彼らが発するのは甘いロマンスの言葉ではなく、下品で、汚くて、猥雑でストレートな表現だった。
やがて彼らは右手にある部屋に入り、カーテンは閉じられる。客席からは当然見ることはできない。そこでの様子は先ほどのカメラでスクリーンに映され、観客は何が行われているかを知ることになる。登場人物が観客に見えないところで、延々と芝居を続けているのだ。
 視覚的な刺激は充分に受けた。しかしこの作品は、聴覚までも刺激する。時折彼らは肉声で会話を始める。いや、会話をしているように見えて、互いの話の内容が噛み合っていない。そしてついには、がなり合う場面へと展開する。誰かが一つのことを主張するのではなく、今度は別の人物からその言葉が発せられるというように。
 こんな舞台は観たことがない。
 こんな手法を観たことがない。
 登場人物は今や、作品のメッセージを様々な方法で伝えるのみの存在となっている。そして観客は、予期せぬ出来事にストーリーの展開を考える作業が妨げられる。耳に入ってくるのは、相変わらず猥雑な言葉だけ。
 ある瞬間、彼らが立ち位置がどうのと指摘し合い、時にはプロンプターが台本を読み上げる場面もあり、理解することに全力を傾けてきた観客の緊張が緩む空気が流れた。舞台演劇とはかく有るべき、という自分自身が囚われていた固定観念が打ち破られる瞬間。
 すると体が、溢れる言葉を全身で受け止め始めた。そして今の自分とリンクするフレーズを感じた。「あなたもおカネみたいだったらいいのに!あなたにどんな価値があるのか、表示されたらいいのに」
 愛について溢れんばかりの言葉もある中、キャッチしたフレーズに自分自身も驚いた。
 自分が何者で、本当は何ができるのかは、自分では知りたいと思っていても知り得ないこと。それがここではあっさりと、おカネって、そのものの持つ価値が、それ以上でもそれ以下でもなく表示されている明確なものなのだ、と、普段は考えもしないことを掘り下げていた自分に気付く。
 ここで発せられる言葉に対し、こういうことを考えるのは品が無い、というそのもの自体が原点であるのか。
 作・演出はドイツ人のルネ・ポレシュ。ある俳優が、彼のことをこう紹介してくれた。ドイツでも彼の演劇スタイルは、既製の呼び方で表現できないほど新しい演劇スタイルなのだと。彼の名前(ポレシュ)が、彼の演劇スタイルの呼び名だったりするのだと。
 作品のキーワードが繰り返し語られる中で、『ソイレント・グリーン』という古い映画もキーワードの一つとなっている。何を自分と結び付けるかは、自分次第。善も悪の行いも、そして溢れる言葉の一つでも観客が受け止めた時、この作品は成り立つのか、それともメッセージを対象に向かって投げかけること自体が作品の使命なのか。
 新しい演出の手法の中で、自分の居場所が感じられた。観客無くして舞台は存在しない。
 幕が降りても今なお耳に残る心地良い音楽。上演前に繰り返し流れていたシンディ・ローパーの「トゥルー・カラーズ」。音楽とともに、作品の代弁者だった登場人物の美しい姿も蘇る。
(三月二十九日、四月十六日観劇)
作・演出・ルネ・ポレシュ、訳・本田雅也、日本語台本・木内宏昌、美術・ヤニーナ・アウディック

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「『名場面集』から脱却を」
コンスタンツェ・アンドウ
  随分昔の話だが、学生時代、ちょっとした信長オタクだった時期がある。図書室で戦国時代関連の本を読み漁り、安土城址や本能寺などの史跡も巡った。熱が収まった後も、ドラマや映画で信長を演じる俳優にチェックを入れる癖は残ったが、信長が出てくる舞台は意外と見ていない。比較的有名な『若き日の信長』ともご縁がなかった。
新橋演舞場一月公演『信長』(作・齋藤雅文、演出・西川信廣)のポスターは強烈だった。横たわる信長のアップで、カッと見開いた片目だけがこっちを見つめている。今、信長と言えばこの人・市川海老蔵なのだろう、この人の信長を見てみたい、と感じさせるだけのインパクトがあった。
  「敵は本能寺にあり!」という光秀の声で幕が開くと、髪を茶筅に結ってボロをまとった信長が、この世ともあの世ともつかない場所で、「俺は誰だ?」と自問している。そこへ妹のお市(子役)が現れ、物語が動き出す。
第一幕は、父・織田信秀の葬儀、守役・平手政秀の切腹、義父となる斎藤道三との対面など、若干は通説と異なる部分もあるが、平凡な「信長名場面集」の様相を呈す。
  唯一独特だったのは、信秀の葬儀が行われた万松寺で、信長が、神か悪魔か、人ならぬ何かの「声」を聞き、その「声」と契約するかのように天下統一を決意することである。信長と「声」の交感が始まる。
  お約束通り「人間五十年」を一節舞って桶狭間へ出陣、勝利を収めて休憩に入る。この公演は演舞場では珍しく二幕構成で、上演時間も短い。このテンポで本能寺までたどり着けるのか?と少し不安を感じた。
  第二幕は、美濃攻略後の稲葉山城(岐阜城)、比叡山焼き討ち、小谷落城、天正七年の安土城、そして本能寺へと駆け足で進む。中では稲葉山城と安土城の場面が興味深かった。
  稲葉山城で、信長は大きな地球儀を眺めながら、キリスト教宣教師が伝える西洋の知識を理解し、世界を夢見る。この場面では、光秀・秀吉・濃姫・お市と、主要人物が揃う。お市は信長を兄として以上に愛し、濃姫は二人の関係に不安を抱く。光秀は従姉妹である濃姫を密かに想い、秀吉はお市に恋焦がれる。さほど目新しい相関図ではないが、それぞれが人間的な感情の揺れを覗かせる。しかし、その中央に立つ信長は、誰に心を動かされることもなく、遠くを見つめている。
  安土城では、信長と彼らの距離感が明確な形で示される。洋装した信長は、天下統一を急ぎ、周囲の者に苛立ちを爆発させる。目指すのは、唐・天竺・ローマなのだ。信長自身が限りなく「声」に近づき、他の誰をも寄せ付けない。
  天主閣で一人になった信長は、観客に背を向け、「声」に語りかける。その姿は、人間界との交わりを絶ったシャーマンにも似て、どこか禍々しい。安土城もまた、生き物めいて禍々しいイメージがある。信長と安土城が一体となったようなこの光景は、強く印象に残った。
  余談だが、個人的には安土城を再建してほしくないと思っている。「主」抜きで華やかに甦るより、たとえ「はりぼて」の舞台装置でも、「主」と共に在る方が安土城らしいのではないだろうか。
  領地を召し上げられた光秀は、信長に絶望した濃姫の嘆きにも触発され、謀反を胸に抱く。秀吉はそれを敏感に悟り、「織田の家中ならば、誰でも一度は殿を殺したいと思ったことがある筈だ」と光秀を諭すように煽る。
  続く本能寺の場面は、はっきり言ってオマケである。光秀の動きを知ってか、濃姫が訪ねてきて、白い夜着をまとって穏やかな風情の信長とわずかに心を通わす。そこへ明智の軍勢が攻め寄せ、濃姫は弓矢に当たって息絶え、信長は死を覚悟した上で奮戦する。また「信長名場面集」に逆戻りだ。
  「声」は何故ここで信長を死なせるのか、何故信長に世界を見せないのか。思わせぶりに観客の気持ちを引っ張ってきたのに、芝居として、その落としどころがない。結局は「信長は本能寺で討たれる」という史実で納得せざるを得ず、ガッカリした。
  炎の中に信長が消えると、幕開きと同じこの世ともあの世ともつかない場所に、幕開きと同じ扮装をした信長が現れ、また自問する。「俺は誰だ?」
  かつて、私も同じ問いを抱いていた。「アナタは誰?」信長について読めば読むほど、信長を一人の人間としてとらえることができなくなり、一人称で描かれるドラマや映画の信長に違和感を覚えるようになっていったのである。
  信長に関わった人間の数だけ信長は存在し、それぞれの目に映る信長の姿は、全て異なると共に全て真実である。信長は万華鏡のように形を変え、色鮮やかな光でその内面を覆い隠している。この作品では、信長に中途半端な人間性を与えていない。賛否が分かれるところだと思うが、私はそこに面白さを感じることができた。
  海老蔵は「何を考えているのかわからない」という雰囲気を持っていて、時には悪い方へ作用するが、今回の信長役にはそれが必要であり、魅力にもなっていたと思う。若い、という点も良かった。爺さんが信長をやるのは耐えられない。
  田辺誠一の光秀は、幕開きの第一声も含め、弱すぎた。謀反の動機付けも薄い。文系に見られがちの光秀だが、立派な戦国武将なのである。遺恨だけではなく、天下統一を夢見て立ったというのでなければ、光秀も、討たれた信長も浮かばれまい。
  濃姫の純名りさは、特に破綻もないが、演技に変化が乏しく、ハッと目を引くものもない。お市は、定番の「運命に翻弄される薄幸の美女」ではなく、勝気で能動的な女性として描かれていたが、演じた小田茜は今どきの女子高生のように見えた。秀吉役の甲本雅裕は、軽妙さにしたたかさを交え、四人の中で最も安定感があった。
  以前、海老蔵が主演した舞台『宮本武蔵』を見たとき、過去の遺産をつまみ食いするようなやり方をせず、新しい武蔵を作るべきだったと批判した。今回の『信長』には新しいアプローチが伺え、その点を評価したいと思う。
  しかし、うつけ時代から本能寺まで通そうとすれば、どうしても「名場面集」にならざるを得ない。いっそ、信長の人生を追うことなく、人生の一部を切り取って描いたらどうだろうか。伝記ではなく、伝奇。この『信長』には、その要素がある。海老蔵にはまだまだ、信長を演じる時間がある。さらに新しい『信長』の登場を待つ。
(一月三日観劇)

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「熱帯の風色」
マーガレット伊万里
 がらんとしたスタジオに、よく見回すと女性のマネキンが天井に二体ぶらさがっている。そして、奇妙な亀のオブジェに乗って女性が現れ、別の女性が異国の言葉でやさしく歌いだした。
 インドネシアの劇団テアトル・ガラシによる『ワクトゥ・バトゥ?百代の過客』(演出・ユディ・タジュディン)は、すでに本国のほかヨーロッパでも上演されていて、今回の日本公演が三度目になるそうである。
 タイトルは少し、しかつめらしいが、役者たちのしなやかな動きや褐色の肌、そのエキゾチシズムに見とれていると、熱帯の光景が眼前に広がるような心持ちになった。
 だがインドネシアの伝統芸能などの趣きから始まるも、その後は現代的な要素でうめつくされ、そこでは現代社会のもつ孤独感や不安感などがはっきり映し出されていたと思う。
 その内容は、駅での日常的な人々の光景もあれば、ビデオ映像をからませた幻想的な場面、そして歌やダンスなどが種々雑多に盛り込まれている。
 インドネシアに伝わる三つの神話をモチーフにしているようだが、すぐさまわかるのはギリシア悲劇「オイディプス」に似たお話の「ワトゥグノン」。幼くして捨てられた息子が、めぐりめぐって父を殺し、母と結婚する。それは、精神分析上で人間の無意識な心の葛藤であるから、ギリシアの地と遠く離れた東南アジアの地で同じような物語が生まれたことが、とても不思議なことではあるけれど、おかしくはないのである。人の心の有り様は根源では同じだということをつくづく思う。
 この作品を観て一番感じたことがある。インドネシアといえば、日本の観光客も多く訪れるバリ島がありリゾート地のイメージが強い。さらに舞台芸術というと、観光客向けの伝統芸能などが私たちの中に強くインプットされている。しかし、彼らの地にも欧米文化がふつうに流入し、それは私たちがあこがれるアジアンリゾートのイメージを覆うものだったりする。都合のいい勝手なイメージをちょうど裏切るというか、抵抗するというか、模索するインドネシアの姿を感じられたのが一番の収穫だった。
 それは、彼らと同じように外国の文化にどっぷりひたりながらも、やはり日本人としてのアイデンティティーを意識せざるを得ない、日本人の切実さをも映しているからだ。同じアジアに生きる者同士、そこの部分、とても近いものを感じずにはいられなかった。
 日本人の女優が一人出演していたが、同じアジア人といっても並んでみると体つきがまったく違う。欧米人の立体的な身体とも違う。彼ら独特のしなやかさをみていると、どうしても自虐的にみてしまいがちだが、日本人の体はとても堅くみえる。
 ただ、こうした文化の違いや彼らの問題提起は興味深かったものの、舞台自体を純粋に楽しめたかというとそうでもない。
 せりふやダンスやビデオ映像にバンドの生演奏、風変わりなオブジェなど、盛り沢山であったものの、芝居ともダンスとも区別の難しい公演は、日本のカンパニーでもよく見受けるものである。その際にすべてが渾然一体となる必要が必ずしもあるわけではないが、すべての要素が粒だっている感じがほしかった。訴えようとするものもすべてつじつまが合ってくるはずだから。
 『ワクトゥ・バトゥ』は、具体的な社会現象や社会批判といったものではなく、インドネシアの神話という根源的な人のありようを綴った物語を、現代に浮かび上がらせる野心的な作品だ。
 六月にはク・ナウカとのコラボレーション企画があるという。ク・ナウカとガラシの役者が合同で作品をつくるそうだ。今回テアトル・ガラシを招聘し、またインドの古典劇やギリシア悲劇に果敢に取り組むク・ナウカとのコラボレーションはとても興味深く、今から楽しみである。
(四月二十一日観劇)

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