えびす組劇場見聞録:第24号(2007年1月発行)

第24号のおしながき

「ロンサム・ウエスト」 ステージ円 2006年10/5〜18
NODA・MAP 「ロープ」 シアターコクーン 2006年12/5〜2007年1/31
モナカ興業 「チチ」 アートシアター上野小劇場 2006年12/7〜10
「タンゴ・冬の終わりに」 シアターコクーン 2006年11/4〜29
「ガーリーンの恋」 ロンサム・ウエスト by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「聴け!タマシイの叫びを」 ロープ by C・M・スペンサー
「一寸先の笑い」 チチ by マーガレット伊万里
「忘れてしまっても」 タンゴ・冬の終わりに by コンスタンツェ・アンドウ

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「ガーリーンの恋
演劇集団円公演『ロンサム・ウエスト』より
マーティン・マクドナー 作 芦沢みどり 訳 森新太郎 演出
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 登場人物はコールマン(石住昭彦)、ヴァレン(吉見一豊)の兄弟にウェルシュ神父(上杉陽一)、ガーリーンという少女(冠野智美)の四人である。
 この兄弟はどちらも四十過ぎの独身で、とにかく仲が悪い。それもポテトチップや酒をめぐる些細なことが発端で壮絶な喧嘩を繰りかえす。神父はおろおろするばかりで仲裁も救済もできない。しかも兄弟の父の死は兄のコールマンによる殺害かもしれず、この村にはほかにも肉親殺しの噂のある者がいる。神父は村のありさまと自分の無力を嘆いてメソメソと酒浸りになってしまった。ガーリーンは酒の密売で稼ぐしっかり者の十七歳だ。言動はがさつであばずれ風だが、なかなか可愛らしい。何とガーリンは、この三十五歳の泣き虫神父さんに恋をしているのだ。
 登場した瞬間に「この男性なら、ヒロインが夢中になるのも無理はない」と観客が納得できる配役、描き方がある。
 帝劇ミュージカル『レ・ミゼラブル』を例に挙げよう。山本耕史がマリウス役で登場したときの、心を揺すぶられるような感覚は、彼以外のマリウス役者では体験できなかった。エポニーヌが夢中になるのも当然だ。まさに絵に描いたような恋である。
 その一方でややわかりにくい恋もある。
 例としてずばりとは言えないかもしれないが、青木豪作・演出の『カリフォルニア』が思い浮かんだ。これは女性同士の恋だ。彼女たちの心のありかは、わかりにくいだけにぞくぞくするほどスリリングで甘美である。
 今回の舞台が前者でないことはすぐわかります(失礼!)。では後者かというとそれも違うわけで、この恋を今回の配役でどう捉えればよいのか。アイルランドの神父という役柄じたい、日本人が違和感なく演じるには難しいと思われるし、戯画的な表現になるかもしれないが、思い切り敬虔な神の使徒のようならともかく、この神父さんは泣き虫のアル中で、人々を救いに導くどころか、落ち込んだ姿を「これ、いつもの信仰の危機ってやつじゃあないよな?」とコールマンたちにからかわれる始末だ。十七歳の少女が心惹かれるような男性には程遠い。
 好みの問題だと片付けられるのは現実の恋の場合で、舞台の恋には、微かでもいいからこちらの心に響く、恋の手触りが欲しいのである。
 目から鼻に抜けるような美男子ではないが、なかなかの好青年タイプ。精神的にひ弱で、いわゆる「いじられキャラ」。沢村一樹や筒井道隆、五年後の高橋洋、二十年前の高橋長英、ええい、思いきって堤真一はどうだ・・・と空想の配役でしばし遊んでみるが、他の配役とのバランスもあって、この神父役がいかに難役であるかがわかる。
 絶望した神父は自殺を決意し、湖のほとりに佇む。そこにガーリーンがやってきて二人は少し話をする。ガーリーンは不思議な少女である。下品なことをずけずけ言うし、神父を平気でからかう。相手が聖職者で自分より年長であることに対する敬意や礼儀はほとんど感じられない。そのくせ、あんたが好きで好きでたまらないのを隠そうとして、わざとからかったりするのだと素直に言ったりする。だが全てに絶望して心を閉ざした神父にはその言葉すらからかいに聞こえるのか、戯曲のト書きによれば「さげすむような目で見る」のである。ガーリーンはにっこり笑って「ウソだよ、ただの冗談だって」と答える。少し心を鎮めてまっすぐにガーリーンの目を見れば、本気かどうかわかりそうなものなのに。彼は神父だから、どのみち彼女は失恋だ。よりによって神父を好きにならなくてもいいのにと思うが仕方がない。恋なのだから。
 夜の湖や墓場を怖いとは思わない理由を、彼女は少し照れながら話す。表現は拙いが、彼女の死生観、哲学とも言える内容で、この少女が非常に聡明で、温かい心の持ち主であることがわかる。ガーリーンはあだ名(俗語で売春婦の意味だそう。何とまあ)で、彼女のほんとうの名がマリアであることは象徴的である、愛や希望などまったく存在しないかのような荒涼たる村に、この少女がいる。まだ何かを信じることができるかもしれない、そんな気持ちにさせられるのである。涙が出そうになるくらい優しいピアノの曲が静かに流れ(音響 藤田赤目)、しみじみと温かく、美しい場面となった。
 今回の上演で疑問だったのは、神父が死を前にして手紙を読み上げる場面の演出である。戯曲には「ウェルシュのいるところ以外、舞台は闇。彼は自分の描いた手紙をせかせかと読む」とあるのだが、上杉陽一はシャツの胸を大きくはだけ、瓶から口のみで酒をあおりながらコールマン兄弟宛のメッセージを長々と読み上げた。いや読むというより、一方的に話すという感じである。実際に彼が手紙を音読したわけではなく、彼の心象を表現しており、リアルな作りの舞台の中で、異質な雰囲気のある箇所だ。
 上杉さんのおなかが大変立派で、目のやり場に困ることもあったし、手紙の内容は、コールマン兄弟に和解を勧める熱心なものである。ここまで真剣に神の愛を説きながら自殺してしまう彼の気持ちをもっと知りたいが、そう簡単にわかるものでもないだろうとも思う。カトリックの神父の自殺が、どれだけ大事(おおごと)であるかを実感するのは難しく、最後のメッセージを「せかせかと」読む神父の心に、もう少し肉薄した表現がみたいと思った。
 ガーリーンはコールマン兄弟のところに、神父の手紙を届けに行く。それには自分のことが何も書かれていなかったことを知った彼女は激しく泣き、以後舞台に登場しない。
 これからいくらでも新しい恋ができるよと言ってやりたいが、寒々と荒れ果てたこの地で、少女の心安らぐ日が来るのだろうか。
 人には(観客にも)理解しにくいが、本人にはまぎれもなく恋だったのだ。伝わらず実らない恋。相手がどういう人物かとか、ましてその配役が云々ではなく、この少女の悲しみだけでも抱き取ろう。今の自分がガーリーンにしてやれるのはこれだけだ。観劇から二ヶ月たって、時折思い出しては「あの子はどうしているかな?」と胸が痛む。

 (十月十五日観劇)

*文中の台詞やト書きは「悲劇喜劇十一月号」に掲載の戯曲から引用しました。

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「聴け!タマシイの叫びを」
NODA・MAP 『ロープ』より
C・M・スペンサー
 一年に三回発行する、このえびす組劇場見聞録=B掲載する公演の内容については、前号発行の後の四カ月間に観た作品が選ばれるのが常となっている。印刷、送付の期間を考慮すると、公演期間が終了した作品とならざるを得ないのが現状だからだ。
 しかし今回出会った作品の公演期間は、長い。お読みいただいている間もシアターコクーン(東京・渋谷)で一月三十一日まで上演されている作品なので、ネタバレに配慮して書くことにしよう。
 NODA・MAP第十二回公演。第一回の言葉の応酬のような『キル』から観ているが、作・演出・野田秀樹の作品としては、最近の作品はストレートに主題を作品の中で述べる手法となっているように思う。 
 引きこもっていた青年プロレスラー、ヘラクレス・ノブナガ(藤原竜也)。ある日、なんでも実況する少女タマシイ(宮沢りえ)と出会う。彼女は自分がコロボックルだと主張し、コロボックルは人間に見つかってはいけないのだという父親の言いつけを守り、いつも物陰から人々の様子をうかがいながら生活をしていた。
 だからなのか、人間を観察する目と優れた洞察力を持つ少女タマシイ。彼女がプロレスという闘いを通して実況する言葉の重みを、作品の終盤に私たちはようやく気付くことになる。
舞台にはプロレスのリング。そのロープの内側で、男たちの闘いが始まった。ある日、ようやくリングに上がったヘラクレス・ノブナガに疑問が沸いた。なぜ、ロープに体当たりしてその場に止まることができないのか。それは、闘い方に対する疑問。
―彼の疑問が少しずつ波紋を引き起こしていく―
 半死の状態に相手を追い詰めても「ここはリングの上だから」と、勝者は勇者となり、敗者は負う痛手が大きければ大きいほど、報道する側の「観るものが喜ぶ」という錯覚の餌食となり、その対象がエスカレートしていくことが現実として浮かび上がってきた。
 筋書きどおりに事を運ぼうとする者がいる一方、リング上で闘う者はガチンコ(プロレスの本気勝負のこと?プログラムより?)なのだと叫び声をあげながら相手に向かって行く。ロープの内側ではそうすることしかできないのか。
 いつしかリングを戦場に置き換えて行方を見守る観客。そこには実況するタマシイの姿があった。
 タマシイの口から語られる、やる側とやられる側の惨状は、おそらく戦争において事実であったのだろう。それに気付いた観客は、息を殺してタマシイの声を聴きながらその惨劇を頭に描き、胸に刻み込んでいた。その悲惨さに涙を拭うことも忘れて、彼女の声に耳を傾け続けた。
この劇の進行を多くの人々とは異なる視点で観ているタマシイとは、一体どんな人物なのか。
 しかしその前に、まず登場人物が名乗れば、そのとおりに見えてしまうのが演劇の力である。作者の野田秀樹は、演劇の持つ大きな力を宮沢りえ≠フ透明感というイメージと表現力を用いることにより、観客の想像力を誘導してしまった。タマシイについてもっと述べたいのは山々だが、この作品は公演中である。その叫びを自分自身の耳で聴き、その意味を考えて欲しいと願う。
満席で立ち見もあった劇場内、多くの観客がこの作品を観ていた。観てしまった観客の責任は大きいと感じた。「過去から学べ」と作品が訴えているようでならなかった。
 リングの、ロープの中の出来事を知ってしまった私たち。その結果を考え、求められていない答えを出すのは私たち自身である。
 NODA・MAPが上演を続けてきた作品において、前回の『オイル』に続き、作者の訴えたい、伝えたいという内容の変化を観客も感じていることだろう。
 チラシを見ても、作品の趣旨や概要については一切記述がない。それなのに二カ月にも及ぶ公演のチケットの入手は困難であった。野田秀樹≠ニいう名前だけで集まる観客。そういう状況において、観た「その後」というものも考えなければいけない時期に来ていると思う。
(十二月九日観劇)

※『ロープ』劇中に登場する戦争、その他諸々についての参考文献は、プログラムに掲載されています。

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「一寸先の笑い」
マーガレット伊万里
 今の社会を批判しているとか、世界情勢を反映しているとか、社会をキリキリねじ上げ、観客につきつける力強くたくましい演劇に対して、こいつはゆるーい芝居だ。モナカ興業「チチ」である。
 そぼ降る冷たい雨の中、上野駅の喧噪から少し離れたアートシアター上野小劇場という地下の小さなスペースへもぐり込んだ。
 正味一時間二十分。ごく短い十五の場面をつないだ作品だ。まず驚いたのは、舞台中央一枚の壁に全十五場のタイトルが書きつけてあって、順番に話が進んでいること。観ている方は、今どのシーンで、あとどれくらいで終わりだということがはっきりわかってしまう。(作・フジノサツコ/品田宏ノ介)
 「たんぽぽの話」と名づけられたお話がメイン。父親が全員違う三男一女の兄妹が、死んだ母親のつくった借金の事実を知って困窮している。亡くなったばかりの母親の病室には借金取りが押しかけていて、逃げようとする三男に暴力をふるうなど、少し修羅場。バラバラだった兄妹が母親のいない病室で久しぶりに再会する。長男(近藤陽一)は女装姿で現れ、その手の店で働いているらしい。次男(品田宏ノ介)は家のローン返済に困った上に妻に逃げられ、三男の まさる(加藤大我)は配管工事の見習いと、全員お金など持っている様子はない。そして母親に付き添っていた、たか子(長瀬知子)が実は身ごもっている。
 借金の取り立てにやってきた男・宮島(安芸光典)は、お金を取り返すまではどうやっても帰る気はないらしく、兄妹たちに「風俗の店で働け」とか「内臓でも売ってこい」といった容赦ない言葉を浴びせている。
 そこに実は、母親の最後の結婚相手で山幡(遠藤邦夫)という男性がいて、男兄弟たちは、山幡に借金の肩代わりをさせようと思い立つが、結局うまくいかず、八方ふさがり。
 ところが、借金の話は八方ふさがりのまま、途中でシーンがどんどん変わってしまう。今度は水産物加工の工場。パートの女性たちが、白子の箱詰めをしている。ありていのパートさん達の井戸端会議かと思いきや、たか子の家の近所に住むパートさんがいて、実はたか子と山幡の関係があやしいということが浮かんできたりする。
 また別のシーンでは、次男が幼い頃の両親が登場。さらに、そこへ意味なくマラソンランナーが割り込んでくる。かなり唐突な感じなのだが、壁に書いてあるシーン名とつい照らし合わせながら観ているせいか、ナンセンスな展開に付き合いやすい。このナンセンスさがとてもユニークで、何がなんだかわからないと言えばそれもそうだし、けだし、独特の間が妙に可笑しい。
 「たんぽぽの話」とは全く関係ないエピソードとして、妖精の話をする男二人や、割れた花瓶を直してもらおうとやって来た店では、店員がそれを頑に拒むのだが、なぜか店員はジョー役で「若草物語」を上演中。病室でシリアスな演技をしていた男優がパートの女性だったり、「若草物語」のエイミーやメグだったりして、声を出して笑いそうになった。
 二時間、三時間の社会ドラマにじっくり取り組んだり、豪華なキャストで娯楽大作にどっぷりひたるのも演劇の醍醐味だけれど、一寸先も読めないこの奇想天外さはなかなか捨てがたい。
 ただ、ついナンセンスな笑いに気をとられ、借金に追いつめられた兄妹の話が深まらずになんとなく終わってしまったのは残念。兄とたか子たちの顛末を見届けたかったと思う。
 ガランとしたコンクリートの打ちっぱなし舞台に病室のベッドが一つ。さびしすぎるほどの舞台だが、小さな空間に陰影のある照明のあて方や、音楽の使い方、ほんの少しのダンス。よくある言い方でいえば、脱力系だが、バランス感覚にすぐれたセンスの良さは、先日の「ロンサム・ウェスト」(演劇集団円公演)を演出した森新太郎の感度の良さを再確認。
 ありそうで、なかなかお目にかかれない肩の力の抜け具合と、全く予知できない笑いが入り混じった作品。いいものを見つけた!と久しぶりに心が明るくなる夜であった。
(十二月九日観劇)

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「忘れてしまっても」
コンスタンツェ・アンドウ
 二○年近く、「見たものリスト」を付けている。見た日と、舞台・映画・美術展などのジャンルと、そのタイトルを並べた簡単なメモなのだが、整理して眺めてみると、形に残らないものに随分お金を使ったなぁ、と苦笑いしてしまう。歌舞伎やミュージカル、シェイクスピアなどは、同じ作品を見ていることが比較的多いが、普通の舞台は、殆どが一度限りで、中には、タイトルだけでは内容を全く思い出せないものもある。
 二○○六年十一月、清水邦夫作、蜷川幸雄演出『タンゴ・冬の終わりに』がシアターコクーンで上演された。私は、一九八四年四月、西武PARCO劇場での初演を見ている。まだリストを付けはじめる前だったが、好きだった舞台としてそのタイトルを忘れることはなかった。
 ところが、改めて振り返ってみると、甦ってくるのは、おおまかなストーリーとメインキャストの印象ばかりで、詳細を思い出せない。「好きな舞台」なのに、一体何を見ていたのか…と自分に失望してしまった。
 結局、曖昧な記憶を抱えたまま、コクーンの客席に座った。二十二年ぶり、同じ演出家による同じ作品としては、最も長い期間を経ての再見になる。
 幕が開くと、映画館の群集シーン。実は、これもあまり覚えていない。蜷川といえば群衆、というイメージがあったから、流してしまったのだろうか。
 群衆が消えた客席に清村盛(堤真一・初演は平幹二朗)の姿が浮かび、その妻・ぎん(秋山菜津子・初演は松本典子)のモノローグがはじまる。暫くの間は、「ああ、こうだったな」という確認と、「あれ、こうだったっけ?」という問いかけの連続だったが、やがて、そんな作業は忘れ、舞台に見入っている自分に気づいた。
 心を崩壊させていく盛、心の綱渡りをしているぎん、封じ込めた心を開放しようとする水尾(常盤貴子・初演は名取裕子)。どうにもならないことをどうにかしようとあがく彼らと一緒に、私の心も揺れていた。
 詩的で叙情的な言葉、俳優の狂気、繰り返される芝居の独白、北国の寂れた映画館、源平の伝説、行商の男たち、自殺した姉の死体、孔雀の剥製、ブランコ、けだるい「カノン」の響き、刹那的なタンゴの旋律、冬の日本海、雪、桜…。数々の要素が悲劇を彩り、感傷と郷愁を誘う。それらは定番で、過剰で、泥くさいのかもしれない。演劇のエッセンスをたっぷり含んだ展開は、演劇を愛する観客の興味をそそる、ズルい手法なのかもしれない。
 しかし、清水の戯曲と、蜷川の演出と、役者の芝居が作り出した世界は、ぎんの台詞を借りれば、「それ自体ひとつの魂」なのだと思えた。その魂に触れた私は、いつにない高揚感を味わっていた。記憶を失った盛が、水尾と再会して改めて恋に落ちるように・・・と例えるのはキザだけれども、私は、新しく『タンゴ…』という作品に出会い、もう一度好きになったのである。
 蜷川の演出作品は、時折、演出だけが先走ったり、役者ばかりが目立ったりして、舞台全体のまとまりに欠けることがある。それに比べると、『タンゴ…』は、戯曲と演出と役者が、バランス良く融合しながらも、予定調和に陥ることなく、力強く自己主張し、高めあっていたと思う。
 パンフレットによれば、清水の妻である松本典子は、初演当時、毎日書きあがった原稿を持って稽古に出かけたのだという。蜷川と清水と役者達が、同じ目的に向かい、同じ時間を過ごしたからこそ、舞台としての一体感が生まれたのだろう。今、蜷川と共同作業をできる劇作家がいないことを残念に思う。
 この作品は、背景にある「時代」を抜きに語れない、と言う人もいる。しかし、私は、安保も、学生運動も、新宿の熱狂も、ナマで体験していないし、二十二年前には、知識や興味すらなかった。「時代」を感じ取れないながらも、この作品に心を動かされた観客の一人として、「時代」を伝えきれない、という点でコクーン版の評価が下がるのは、不満である。
 有名な役者にあて書きされた役を引き継ぐのは難しいと思うが、堤真一は、いい意味で、平幹二朗を連想させず、優しさと凶暴性、男の色気と幼児性を体現した。まさに「芝居のような台詞」を語り続け、正気と狂気、現在と過去を行きつ戻りつしながら、破滅へ向かう姿は、とても美しかった。
 若い頃、私は「狂気」というものに、憧れに似た感情を持っていた。『タンゴ…』の初演でも、平が演じる狂気に惹かれたのは確かなのだが、年を経て、近しい人の記憶から自分の存在が消えることの悲しさを体験してから、虚構の中の狂気に酔うことを避けていた。しかし今回は、抵抗感を抱きながらも「美しい」と言ってしまうほどに、堤の狂気は魅力的だったのである。
 戯曲の設定では、盛は四十代後半。堤は四十二歳で、若さがマイナスしたとは思わないが、五年後位にもう一度、盛を演じてほしい。それまでに、盛が演じたシェイクスピアの主役等も見たい。千秋楽のカーテンコールで一言「ごきげんよう!」と叫んでいたが、もちろん引退などされては困る。
 コクーン版のキャストを知った時、最もはまり役に思えたのは、秋山菜津子だった。パンフレットで、松本典子が秋山を「硬質でかっこいい女優さん」と表現しているが、それは、松本に対する私のイメージと同じである。秋山のぎんは、強くて悲しく、そして、松本以上に、優しさと脆さも感じさせた。私が年を取り、ぎんが身近になったのかもしれない。
 常盤貴子は、舞台俳優として褒めることはできないが、名取裕子もご同様だったので、想定の範囲内。「白い、夢のような女」というフレーズを納得させ、なおかつ芝居もできる女優を求めるのは、いつの世も至難の技だ。
 コクーン版観劇後に本棚から発掘した初演のパンフレットを見るまで、「黒マスク」役で蜷川が「出演」していたことも完全に忘れていた。戸川純と遠藤ミチロウの歌も、初演で使われていたようである。
 二冊のパンフレットをめくりながら、舞台の再演を見ることは、忘れたものの多さを知ることなのだと実感した。舞台は、一度限りで、通り過ぎるもの。見ては忘れ、忘れては見る。これからはきっと忘れるばかりだ。けれど、たとえ忘れてしまっても、「魂に触れた」感覚だけは、心のどこかに残しておきたい、と願っている。
(十一月十九日、二十九日観劇)

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