えびす組劇場見聞録:第27号(2008年1月発行)
第27号のおしながき
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モナカ興業 「不安な人間はなにをするかわからない」 | ![]() |
アートシアター上野小劇場 2007年12月6日〜9日 |
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燐光群 「ワールド・トレード・センター」 | ![]() |
下北沢ザ・スズナリ 2007年10月20日〜11月6日 |
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第十二回 梅津貴昶の会 「芸阿呆」 | ![]() |
歌舞伎座 2007年11月26日 |
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演劇集団円 「天使都市」 | ![]() |
ステージ円 2007年10月2日〜14日 |
『赤松さんの謎』 | 不安な人間はなにをするかわからない | by ビアトリス・ドゥ・ボヌール |
『終わらない「その後」へ』 | ワールド・トレード・センター | by C・M・スペンサー |
『「出会いがしら」の喜び』 | 芸阿呆 | by コンスタンツェ・アンドウ |
『人生を旅する』 | 天使都市 | by マーガレット伊万里 |
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『赤松さんの謎』 | |
モナカ興業#4 上野小劇場提携公演 フジノサツコ 作 森新太郎 演出 |
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ビアトリス・ドゥ・ボヌール | ||
きっかけは、えびす組劇場見聞録二四号にマーガレット・伊万里嬢が執筆した『チチ』劇評である。一昨年秋、演劇集団円公演『ロンサム・ウェスト』(この舞台については二四号に拙稿掲載)を手がけた森新太郎によるモナカ興業。これは強烈だった。マーガレットは舞台の様子をとても細やかに描写していて、「いったいどんな話?」とびっくりしながら一気に読んだ。しかし困ったことに、ひとつひとつの場面はわりあい具体的に思い描けるものの、それが舞台の全体像に結びつかない。もしかすると自分の頭に浮かんでいるのは、実際の舞台と相当に違うのでは? |
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(十二月九日観劇) *「 」の中の台詞は筆者の記憶によるものなので、正確ではありません。 |
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『終わらない「その後」へ』 | |
燐光群 『ワールド・トレード・センター』 | ||
C・M・スペンサー | ||
週末の都心へと向かう電車は昼でも混んでいた。劇場へ行く途中、線路内に人が立ち入ったという理由で止まったまま動かない車内で、目的地に到達できないもどかしさを感じながら動き出すのを待っていた。ようやく劇場に着いた時には開演時間を五分過ぎていた。 昨年十月中旬に下北沢ザ・スズナリで幕を開け、その後各地で上演された『ワールド・トレード・センター』(作・演出・坂手洋二)。そのタイトルは今や「9・11」と同じ意味を持つだろう。この作品はテロリストの標的となった、あのビルのあの時のことである。 私事ではあるがワールド・トレード・センターで思い出されることは、一九九六年にニューヨークを訪れた時、自由の女神のある島へと向かう船上からマンハッタン島を見渡して、周囲のビルとはケタ違いに高くそびえ立つ二本の建物を富士山のように感じながらその景色を見たことだ。当時は建物の名前も知らず、その光景だけが旅の思い出としてずっと忘れられないものとなっていた。 二〇〇一年九月十一日、テロリストによる攻撃で、ワールド・トレード・センターは倒壊した。 巷では、この作品をなぜ今上演するのか、という声も聞かれた。その疑問には観客として、「今だから」ではなく「今でも」語るに値するからではないのかと答えたい。 下北沢で上演される少し前に歌舞伎座で、八月恒例の納涼大歌舞伎が行われた。 三部制のうち二部の『新版 舌切雀 ―花鳥の森・夏の星―』(昨・演出・渡辺えり)は、お馴染みの昔話をベースにしてはいるものの、いじわるなお婆さんに雀は登場してすぐに舌を切られてしまう。これから作る糊をなめられてからでは遅いと言って、お婆さんは証拠もないのに先制攻撃をしかけたと言う訳だ。もちろんこれは「9・11」の後の出来事を風刺したものである。 話を戻すと、少し遅れて劇場内に足を踏み入れた時には、既に旅客機がビルにアタックした直後の状況が人々の口から発せられていた。 ワールド・トレード・センターが見渡せる場所にある書店と荷物の配送を営む日系企業のオフィスの一室を舞台として、日本人の視点で「あの日」が明かされていく。 まず彼らにとって何が起こったのかをいち早く知るための手段は、日本のテレビ局のニュース番組だった。 そのオフィスには、次々と馴染みの日本人の住民が集ってくる。連絡の取れない仲間の安否を気遣いながら、居ても立っても居られない人々はついに外へ飛び出した。 しかしその間に世間のモノの見方が変わってしまった。 テロリストと同じ民族という理由で差別し、隣人を懸念する。人種を一くくりにして見つめられる人々の不安。 時が経つにつれ、そのオフィスにいる人々が外国人として孤立する姿が見えてきた。現地のニュースで報道された時、その攻撃について、「パールハーバーのようだ」という表現が使われていた。パールハーバーでの出来事は、日本が奇襲攻撃を仕掛けたという記憶で今尚この国に留まっていることに少なからず衝撃を受けた。 舞台の上では、広がる事件の波紋を次々と臨場感のあるエピソードが伝えていく。 ワールド・トレード・センターの撮影をライフワークとしていた日本人カメラマンが、炎に包まれた写真を持ち込んできた。彼にとっては自然の風景そのものとして四季折々に記録してきたその建物の最期の姿だった。 そして現場で取材していた社員から、崩れ落ちるビルの間近にいた恐怖が証言として語られた。 この作品は、事件を身近で体験した人々の再現のようでもあるが、被害者として新たに置かれる個々の立場が、これが単なる事件ではないことを物語っている。 終盤、アメリカ人の俳優という登場人物の青年が、あのビルで救助にあたった友人の消防士の心境を語り始め、語り継ぐことを決意する場面がある。 これは今なお続く「その後」、そして繰り返してはならない「あの日」のために演劇としてできることを象徴しているようだった。 劇場で配布されたプログラムによると、この作品は坂手洋二がニューヨークで体験したことをベースに描いたフィクションであるという。 劇場という空間、演劇という世界で事件と観客(=人々)の関係を問われていることを痛切に感じ、時を経て誰にとっても「その後」は終わっていないことを、私たちは認識したのである。 |
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(十二月九日観劇) |
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『「出会いがしら」の喜び』 | |
コンスタンツェ・アンドウ | ||
「見てから読む」派である。まっさらな気持ちで舞台に接し、驚いたり、笑ったり、泣いたりしたいので、客席へ座る前に仕入れる情報はできるだけ少ない方がいいと思う。とは言え、「まっさら」はなかなか難しい。何を見るか「選ぶ」には、それなりの情報が必要だし、再演や原作ものは、既に内容を知っている場合が多い。 しかし、久しぶりに「ひとめぼれ」的な感覚を味わえる舞台と出会った。歌舞伎座で開かれた『第十二回 梅津貴昶の会』の一本『芸阿呆』。分類としては「舞踊」に入る。 ふと目にしたチラシに、市川染五郎の名前があった。日本舞踊家・梅津貴昶が主催する会には毎年、歌舞伎役者が多く出演する。私には、作品を「選ぶ」ことをせず、出演舞台にほぼ「自動的に」足を運ぶ役者が何人かいて、染五郎はその一人だ。十八時開演、出番は二本目。残業で行けなくなっても三階席なら諦めがつくな…と思い、切符を買った。その時、チラシの裏に書かれた作品紹介を読んだ筈なのだが、題名すら忘れたまま当日を迎えてしまった。 幕が開く。舞台の上に、中村勘三郎がいた。「そうだ、勘三郎が出るんだっけ」と、ようやく思い出した。音が流れる。三味線と、男の声。生演奏ではない。「歌舞伎座での舞踊会なのに、録音?」と少しガッカリした。しかし、そのへこんだ気持ちが、舞台に向かって前のめりになるまで、ものの数分とかからなかった。 明治期に活躍した浄瑠璃の竹本大隅太夫の生涯を、文楽の太夫が太棹にのせて語り、それを舞台上で役者が踊る…という内容を理解した瞬間、俄然期待がわいてきたのである。最近はやや縁遠くなっているが、文楽は大好きである。べべん、という太棹の音色を聞くと心が騒ぐ。 『芸阿呆』の声の主は、浄瑠璃の絞り出すような文語調ではなく、ソフトな関西弁で、大隈太夫の子供時代から語り始めた。勘三郎は素顔に着物で、ぱっと見は勘三郎以外の何者でもない。しかし、オペラグラスの向こう側には、大阪の鍛冶屋の次男、重吉がいた。 具体的な装置も小道具も衣装もなく、台詞もない。広い舞台の真ん中にちんまりと正座し、ちょっと上目遣いをするだけで、少年に見せる…その表現力に目を奪われた私は、ぐんぐんと舞台へ惹きつけられていった。 浄瑠璃好きの重吉は、十九歳で竹本春太夫に入門して春子太夫を名乗り、比較的早く出世する。やがて、名人と言われた三味線の豊沢団平と組むことになり、大隅太夫を襲名し、団平の元で更に厳しい修行を重ねてゆく。 「ここに土佐の末弟」、『傾城反魂香・吃又』の語り出しの一節である。「末弟」の「イ」があかん、と、団平は大隅に一日中「ここに土佐の末弟」だけを繰り返させる。教える側と教わる側、双方の鬼気迫る姿が手に取るようだった。 団平の死のくだりがある。演奏中に舞台の上で団平が意識を失う。大隅は団平の容体を案じながら、三味線なしの扇拍子で語り続ける。楽屋に運ばれても撥をはなさない団平の手から撥を取り、弟子が舞台に駆け上がって弾きはじめる。大黒柱の師匠が倒れても、舞台を止めない…その有様に、少し背筋が寒くなった。 語り手は、地の文と共に全ての登場人物の声を担当するが、勘三郎が演じるのは大隅太夫一役のみ。途中から登場する染五郎は、前半は「おおぜい」的な役割、後半は大隅の弟子・静太夫を演じる。本当なら「踊る」と書くべきなのだろうが、役者の動きは語りに添ったもので、「振付けられた舞踊」という印象は薄く、芝居を見ているのと殆ど同じ気分だった。 大隅は、自他共に認める名人となるが、中風を患って呂律が回らなくなってからは人気が落ち、巡業先の台湾で六十三歳の生涯を淋しく終える。師匠・春太夫の「芸をやるものは、ほかに楽しみをしたらあかん」という教えを守り、花見すらしたことがなかったという。 ラストシーンは台湾。今夜『吃又』を語る静太夫に、病床の大隅が稽古を付ける。あの「ここに土佐の末弟」である。「ここに土佐の末弟」「あかん」、「ここに土佐の末弟」「あかん」、「ここに土佐の末弟」「あかん」…。大隅が倒れて暗転、舞台は終わる。最後の一節は「三代目竹本大隅太夫、墓は、大阪の寺町、宝樹寺にござります。」 つらい話だが、一貫して軽やかで、暖かく情のこもった語りだった。勘三郎の大隅も、大げさになりすぎず、細やかで、かつ、熱がこもっていた。二人の声と体を通じ、約五十分強の間に、一人の「芸阿呆」の生き様と、明治の文楽の世界を追体験できたように思えた。 もう一度明かりが入ると、勘三郎と染五郎が平伏している。拍手を浴びても二人とも顔を上げないままで、潔さを感じさせる幕切れになった。 見終わってすぐに一階へ駆け下りてパンフレットを買い、情報を仕入れた。 『芸阿呆』は、安藤鶴夫が書いた新作の義太夫で、昭和三十五年に八代目竹本綱太夫と十代目竹澤弥七の作曲・演奏によりラジオ放送され、レコードにもなった。昭和五十三年に、十七代目中村勘三郎が舞踊化し(六世藤間勘十郎振付)、歌舞伎座の本興行でも上演されている。今回は梅津貴昶が新たに振付をしたが、演奏は綱太夫と弥七の録音が使われた。 帰宅して「勘三郎楽屋ばなし」(関容子・著)を開いてみたら、案の定『芸阿呆』について書かれた部分があった。私が知らなかっただけで、かなり有名な作品だったのである。 この作品は、文楽についての興味や知識がないと楽しめないかもしれないし、舞踊と思っていた人には違和感があるかもしれない。録音を聞くだけで充分と思う向きもあろう。しかし、私にとっては、新鮮で、心にしみいる、忘れられない舞台になった。まさに出会いがしらの一目ぼれ、である。 『芸阿呆』に映し出された明治。文字で書かれ、音が残された昭和。新しい振付と演者を得た平成。時代を繋ぐ一本の作品から、日本の芸能の力強さ、時を経ても色褪せることのない豊かさが伝わってくる。華やかではないけれど、愛されるべき小さな作品たちが、日本のあちこちに息をひそめているに違いない…そんなことを思った。 当代勘三郎の『芸阿呆』は、いつかまた上演されるのではないだろうか。一回限りでは勿体無い。次は是非舞台の近くで見たいので、再会を心待ちにしている。 しかし、三階席でオペラグラスを握り締め、物語の進行と共に気持ちが高揚していったあの夜の感覚だけは、二度と味わうことができないのである。 |
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(十一月二十六日観劇) |
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「人生を旅する」 | |
マーガレット伊万里 | ||
一つの旅の風景のように、目の奥に焼きついて離れない。時々、旅の思い出のように取り出しては、懐かしむであろう芝居に出会った。 演劇集団円による『天使都市』(作・松田正隆 演出・森新太郎)は、二〇〇六年に相次いで亡くなった仲谷昇と岸田今日子という円を支えてきた二人を追悼する公演である。 登場するのは、二組のカップル。一組目は、老夫婦で、目の見えない女(平木久子)と都合が悪いことは聞こえない耳の遠い男(三谷昇)。そして、もう一組、首輪につながれた若いカップル。この若い二人には自由がなく、若い女(梶原美樹)のもつ縄につながれている。首輪をされた女(高橋理恵子)は小さな太鼓を抱え、首輪をされた男(上杉陽一)は山高帽子をかぶり下手な手品を披露しながら、放浪しているようだ。 若い女は、背中に大きな羽をつけており、タイトルの『天使都市』から察するにてっきり天使かと思いきや、キャスト表を見ると「若い女」とあるだけ。しかし、演出の意図としては、天使をモチーフにしているに違いない。 天使、ではなく、若い女は、つねに舞台にたたずむ。せりふは一言もないが、とてもインパクトのある存在だ。女神のような女王のような威厳さと美しさで舞台に大きな彩りを与えている。また、どこか謎めいていて、首輪をかけられた男と女、果ては、人の生も死も天使の手中にあるというメッセージのようにも理解できる。 舞台は砂漠。そこにどこからともなくやってきた老夫婦と若いカップルの会話が交互に、そして、断片的につづられる。老夫婦のやりとりは若き頃の思い出など、何の事はない内容だったり、人生の長い積み重ねを得て、機知に富み、ほほ笑ましくうつる。かたや、首輪をつけた女の母親の死の様子も印象に残る。それぞれの人生の局面がつづられていて、それは、荒涼たる砂漠を旅することになぞらえているかのようだ。 私たちは、いつ果てるとも知れぬ放浪を続ける旅人。旅の途中で、記憶を時折取り出しては、それを慈しみ、心を潤し、再び歩きつづける。命の炎がつきるまで。そう語りかけてくるのだ。 舞台にしきつめられた白い砂と照りつける太陽は、しばし劇場の客席にいることを忘れさせてくれる(美術・伊藤雅子 照明・小笠原純)。また、そこに突然、水着姿の若い女が現れ波音が聞こえてくると、私たちはいつのまにか、海辺の砂浜へ連れて来られていた。その光景の切り替わりの鮮やかなこと。会場はとても小さなスペースながら、細やかなところまで行き届いたしつらえが、静謐な印象を与えてくれる。 松田正隆の戯曲は詩的で断片的だが、円の役者のせりふ術をうまく生かしつつ、優雅な舞台を実現させている。漠然とした砂漠のイメージの中にも、砂のもつぬくもりさえ感じてくるから不思議である。何もかもが美しくて、その美しさの度合いは、すべてが自分にフィットしてきた。小さな一つ一つの小道具にも意味をみてとろうと積極的にならざるを得ない美的な力、それによって、一言のせりふも聞きもらすまいとする気持ちも起こる。戯曲のせりふは客席に浸透し、この舞台を成功に導いているのではないか。この求心力こそが、演出というものの力だと改めて感心した。 生と死、老い、希望、喜び、悲しみ、人生の中で直面するさまざまな時を凝縮させ、私たちをまだ見ぬ記憶へと誘う密度の濃い一時間半であった。 |
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(十月十四日観劇) |