えびす組劇場見聞録:第29号(2008年9月発行)

第29号のおしながき 

モナカ興業#5 「点滅する秋」
フジノサツコ
作・森新太郎演出
下北沢OFFOFFシアター 8/1〜8/3
シス・カンパニー公演 「瞼の母」
長谷川伸
作・渡辺えり演出
世田谷パブリックシアター 5/10〜6/8
グリング 「ピース−短編集のような・・・」
青木豪作・演出
下北沢ザ・スズナリ 7/30〜8/11
八月納涼歌舞伎 「野田版 愛陀姫」
野田秀樹作・演出
歌舞伎座 8/9〜8/27
「友達にはなれないが」 モナカ興業#5 「点滅する秋」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『形』の壁」 シス・カンパニー公演 「瞼の母」 by コンスタンツェ・アンドウ
「新しい服を着て」 グリング 「ピース−短編集のような・・・」 by マーガレット伊万里
「償う人々、歌舞伎の後味」 八月納涼歌舞伎 「野田版 愛陀姫」 by C・M・スペンサー

作品一覧へ
HOMEへ戻る

「友達にはなれないが」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  これから遊びに繰り出そうとする人々で賑やかな夜の下北沢、しかし足を踏み入れた劇場は、昼間の猛暑がすっと引くような静けさであった。開演前の場内には無伴奏チェロソナタが低く流れ、舞台下手に古ぼけた扇風機が回る。
 どこかの小さな町。父親の一周忌を済ませた家に、父親と馴染みだったゲイバー「ヒマワリ」のママ(尾浜義男)が形見分けの品を求めて訪れている。
 座敷の中央に卓袱台が置かれているところは普通の日本家屋なのだが、舞台奥の襖がすべて斜めに歪んでいる。
 扇風機の前には無心にアイスキャンディーを舐めるハハ(椋敬子)が座り、息子のミツオ(金本樹堅)がチャラチャラと相手をしている。ハハは認知症を患っているのか、ひと言も発しない。そこへ姉のリエ(長瀬知子)がパーマ頭のダンナ(加藤大我)とともに乗り込んで来た。ハハを引き取ろうというのだ。そうはさせまいとするミツオと、是が非でも連れ出そうとするリエの攻防が始まる。
 自分は開演前にパンフレットや当日リーフレットに掲載された劇作家の挨拶文を読むのが好きである。劇作の経緯や苦労が詳細に綴られたもの、一見作品とは関係なさそうな思い出話だが、案外「自分はこれを言いたい」という空気が感じられるもの。戯曲そのものよりも挨拶文のほうが「読ませる」こともあるし、例えば風琴工房の詩森ろばの挨拶文は格調高く、描いた対象への敬意と舞台作りの真剣そのものの姿勢が伝わる。読むうちに背筋も伸びて、開演前の心身を整えることができるのである。
 しかし、思いの丈をあまりに饒舌に語られると辟易することも確かなのだった。たとえば「この作家さんの家庭は複雑だったのだな」とか「これまであまりいい恋愛をしてこなかったのでは?」と読めてしまうと一気に興ざめである。作品を書くのは作家なのだから、その人の過去や現在の心象が反映されるのは当然とはいえ、あたかも「自分史」を見せられているようだったり、登場人物の口を借りて自分の考えを言わせていることがあからさまなものは受け止めるのが辛い。作り手の息づかいを感じたいと思う一方で、作品は作品として見たいのである。
 さてモナカ興業公演では、チラシにも当日リーフレットにも劇作家、演出家の挨拶文はなく、チラシ表には「『郷愁』と『遠くの地に寄せる憧れ』における気分、及びハハの行方について。」と書かれている。何のことだろうか。裏面にはミツオと思われる口調で物語の筋らしきものが書かれており、これも独り言のようで意味不明である。題名の『点滅する秋』じたい、どういう意味を持ち、どんな発想から生まれたものなのだろう。
 この家にはもう一人息子がいた。勉強が出来て心の優しい、申し分ない長男だったという。対してミツオはみそっかすで、さらにリエとハハはずっと折り合いが悪かったらしい。そのリエがなぜここまで強硬にハハを引取ろうとするのか。結婚するつもりだったミヨコ(森田美和)は、実はミツオの友達のホウイチ(池上崇士)といい仲になっていて、介護者のあてもないのにミツオはこうも頑にハハをうちから出すまいとするのか。
 リアリズムの芝居なら登場人物の会話から少しずつその理由が明かされ、過去にどんなことがあったか、人々の心情がどうであるのかが客席に伝えられる。台詞や仕草や表情から何かを掴めないかとこちらも身を乗り出す。しかし『点滅する秋』は劇作家の手のうちがまったくわからないのである。
 襖を開けるとそこは玄関に通じる廊下になっており、彼らは廊下を行き来して盛んに出入りするのだが、時折不思議な場面が挿入される。
 斜めに歪んだ襖があくと、廊下に「女」(横山晃子)がいる。「女」は「男」(竹田雄治)と海に来ており、二人は夫婦のようだ。二人の会話を聞くうちに、「女」は若い頃のハハであるらしいことがわかる。
 この場面が過去にほんとうにあったことなのか、ハハの幻想なのかはわからない。しかし他愛もないことで激しく言い争う二人の様子から、傷つけ合いながらそれでも一緒にいる夫婦の不思議な交わりが伝わる。リエとミツオたちがどこかふざけているように見えるのに対して、海辺の二人は痛ましいくらい真剣である。諍いに疲れた「男」がふとつぶやく、「おれ、どうしてお前と結婚したんだろうな」。一見身も蓋もない言葉だが、「男」の口から聴こえたとき、切ないまでの悲しみが漂い、優しさすら感じられた。
 岩松了脚本・監督の映画『たみおのしあわせ』には、結婚の奥義がいかに難解で古今東西正解などないこと、なのに人は結婚してもしなくても、その幻想や呪縛から完全に解き放たれない謎が描かれている。
  「男」の台詞は謎の解決にはならないが、残酷でもあり優しくもある愛が感じられて、自分は好きである。
 フジノサツコの舞台をみるのは今回が二本めでまだ考えがまとまらないが、みるほどに、これを書いたのがどういう人なのかわからなくなってくる。家族について特別な思いを抱いているようだが確信が持てない。ある劇作家の作品を続けてみるのは、より確かな手応えを求めるからだ。しかしさらに迷って深みに陥ることもある。フジノサツコは、まさにその迷いに引き込む不思議な魅力をもつ劇作家であり、今の自分には迷うことも楽しい。
 前回公演『不安な人間は何するかわからない』で、自分は椋敬子演じる赤松さんに驚き、「モナカ興業という新しい友達との次の出会いが楽しみである」と文章を結んだ(見聞録二七号掲載)。しかし『点滅する秋』をみて、フジノさんとはそう簡単に友達にはなれないような気がする。いや、むしろそのほうがいいのではないか。
 劇作の経緯や自分の過去を語らず、目の前の舞台だけを見せるフジノさんは潔い。
なかなかお近づきになれない距離感を楽しみ、次回に備えよう。
*「 」の台詞は筆者の記憶によるものなので、正確ではありません。
(八月二日観劇)

TOPへ

「『形』の壁」
コンスタンツェ・アンドウ
   十五年来のSMAPファンである私が『瞼の母』(作・長谷川伸、演出・渡辺えり)に足を運んだ最大の動機はもちろん、草g剛。
 国民的アイドル=「偶像」となった彼らの「実像」を感じられる数少ない機会が、舞台である。生のツヨシを近くで見られれば、それで満足する筈だったのだが・・・。
 歌舞伎・新国劇・大衆演劇・歌手の座長公演等で上演され続けてきた『瞼の母』。今回が初見だが、通常は他の芝居やショーが付く作品を、九十分一本立てでS席八千五百円とは、強気の企画だな、というのが観劇前の印象だった。
 草g演じる渡世人・忠太郎は、幼い頃別れた母を捜して江戸へ向かう。序幕の出で立ちはお約束の「道中合羽と三度笠」。私はこの「股旅姿」が大好きなのだが、草gは、合羽や笠の扱いにスマートさがなく、ピシッと決まらない。立ち回りでは敏捷な動きが目をひいたが、刀の抜き差しが少し怪しく、後半の着流し姿は、粋な風情に欠けた。
 「〜でござんす」「〜だぜ」「〜ねえ」という言い回しが、心地良く響かない。声はそこそこ出ているし、稽古の成果だろう、滑舌の悪さもカバーできている。ただ、台詞に渡世人の雰囲気が滲まないのである。
 三十代の忠太郎はもう中年だ。強面の中年ヤクザが、母を恋う子供の心を持ち続けているというギャップがキャラクターの魅力だが、草gは、普通の青年に見えた。
 母のおはま(大竹しのぶ)への熱い思いと、それを踏みにじられた悲しさは、伝わってきた。しかし「しっくりこない」という感覚は最後まで拭い去ることができなかった。
 この感覚が厳しすぎるのは承知している。『瞼の母』と同時期に、新橋演舞場で、同じ長谷川伸の『一本刀土俵入』が上演されていた。駒形茂兵衛の吉右衛門は、朴訥な相撲取りと、男も惚れる渡世人を鮮やかに演じ分けると共に、心の底に途切れなく流れる寂しさも感じさせ、当代随一である。渡世人の造形を百戦錬磨の歌舞伎役者と比べるのは間違いだとわかっていても、ここに基準を置いてしまうのだ。
 作り手は、「形」にこだわる観客も想定した上で、忠太郎像を「形」から開放し、「作品」を明確に伝えようとしたのだろう。だが、私は「形」の壁を越えられなかった。
 共演の三田和代・高橋克美・高橋長英・篠井英介らは、得がたい個性で舞台を締めたが、正直なところ、物足りない。これだけのメンバーを集めるなら、彼らの芝居を堪能できる、別の作品を見たかった。
 ○七年、『夫婦善哉』を見た後、えびす組劇場見聞録第二十五号に、次のように書いた。 「藤山直美には、近代の芝居を現代によみがえらせる役割が与えられているのではないだろうか。(中略)藤山直美という役者の個性を生かすことを第一義としながら、過去の芝居を未来へ繋げてほしい。それはスターでなければできないことで、藤山直美は、十二分にスターなのである。」
 ○六年の『父帰る』『屋上の狂人』(菊池寛作)が好評だったため(チケットが取れず未見)、両作に主演した草gに近代戯曲の演じ手というイメージが付き、今回に繋がったのだろう。草gも十二分にスターだが、数年に一度しか舞台に立たない彼に、役割を与えたり、路線を敷くのは、やや早急だ。ハードルを下げるという意味ではなく、舞台の上で、ある程度の自由を得られるまで、もう少し、機会と時間が必要だと思う。
 作り手が、自分達の理想のために役者の人気を利用したとまでは言わないが、興業として失敗するリスクがゼロに近いという前提に寄りかかった甘えのようなものが感じ取れる。
 また、「埋もれた芝居」ではない『瞼の母』は、これからも演じ続けられる筈で、客層に偏りがある今回の公演が、重要な試みとして意義を持てるのか、疑問も残る。
 本来、『瞼の母』は、女性よりも男性の心に訴える作品だと思う。母子が再会する場面は、草gと大竹の真摯な熱演で見ごたえがあった。しかし、感情のボルテージがぐんぐん上昇する舞台と、女性客で埋まった客席との間には、温度差が感じられた。
 俳優の加東大介が太平洋戦争の体験を綴った『南の島に雪が降る』という本がある。彼は、ニューギニアで演芸分隊を組織し、衣装・小道具・装置・化粧・楽器に工夫をこらして舞台を作る。その舞台が、死に直面する兵隊達に希望を与える様子は、とても感動的で、読む度に「演じること」「見ること」の本当の意味を考えさせられる。
 やがて島に劇場が建つ。地名を冠した「マノクワリ歌舞伎座」の?落としの演目には、『瞼の母』が入っていた。
 忠太郎役の加東が「上下の瞼をピッタリ合わせ・・・会いたくなったら、目をつむろうよ」という決め台詞を言って目を開けると、本当に目をつむっている観客(兵隊)が多かったと記されている。女性がいない戦地はかなり特殊な状況だが、忠太郎と自分とを重ねる男性達によって、『瞼の母』が愛され続けてきたことは事実と言えよう。
 一方、女性は、役者がどんな忠太郎を演じるかを楽しむのではないだろうか。『瞼の母』を作品として明確に伝えるのであれば、男性客を視野に入れるべきだと思う。
 結局、『瞼の母』を三回見たが、粗探しに終始したようで気が滅入った。「形」に囚われ、作品を味わうことも、役者を楽しむこともできなかった私は、まさに、おはまと同じである。
 おはまは、胸に描いた『瞼の息子』と、実際に現れた忠太郎の、「見た目」の違いに驚き、激しく拒絶する。その代償は大きく、考え直して後を追っても、わが子を胸に抱くことはできない。
 しかし、『瞼の母』には異本があり、ラストシーンで、おはまと忠太郎が手を取る。いつか私も、異本のように、芝居との距離を縮めることができるだろうか。それとも、別れたままになるのだろうか。
(五月十一日・十五日・六月六日観劇)

TOPへ

「新しい服を着て」     
マーガレット伊万里
 グリングのちらしを飾る写真がいつも美しいと思う。しかし、実はよくよくながめるとほんの少し気味が悪い。今回の写真。蝶の羽の紋様はくっきりとして鮮やかな色使いだけれど、どこか妖しくうごめく生き物の感じがグロテスクである。グリング第十六回公演「ピース─短編集のような…」は、どこか毒を含んでいる作品との印象を受けた。
 今回のグリングは、作・演出の青木豪がパンフレットに書いた言葉によると「今までやったことないことやろうよ」という内部の声から、オムニバスという作品形態を選んだとのこと。五つの小作品(ピース)をきれいにはめ込んでいて小気味よい公演であり、また確かに、ここ数年グリングに足を運んでいる私にとっても今まで観たことのないグリングだと思うことがいくつかあった。冒頭に映像を多用していたこと。そして、グリングでこんなに残酷な場面を見るなんてとしばし呆然となったこと。
 まずは、入院している元小学校教師の南沢葉子(萩原利映)が、病院の屋上で携帯メールをうち続けている。しかし、誰に向けて送っているのか?返信が来る様子がない。そんなある日、葉子は元教え子の保護者で不動産会社社長の秋山(林和義)と偶然出会う。
 病院は、日常の生活から隔離された場所。昨日まで知らなかった者同士が一緒にさせられる空間でもある。物語にも事欠かない。病院には葉子ともう一人、体に障害が残り車イスでの生活を余儀なくされた善人(杉山文雄)が登場する。この二人を起点として、家族や友人、不倫関係の男と女がいたり、友人夫婦同士の夫と妻が思いを寄せていたり、人々のいろいろな思いが交錯している。
 過去に発表された小作品もあるが、古い作品と新しく書き上げた作品に雑な縫い目など感じさせず、構成がスムーズでとても感心した。
 五つの小作品を通して全体に漂うのは孤独のようなもの。夫婦や兄弟だけど、わかりあえなかったり、やさしくなれなかったり。そばにいるのに素直になれないおろかな人間の不器用さが透けて見えてくる。
 そんな人間関係の中、退院した葉子が見えない相手に向かって、平和(ピース)を祈りながら、母親として一人で子どもを生む決意を伝えるラストは皮肉なものであり、象徴的だった。
 そして、呆然となったのは、車イス生活になった善人が、面倒をみてもらう弟夫婦との関係がうまくいかなくなり、結局二人を刺し殺してしまうシーンだ。舞台が流血にみまわれ、これまでのグリング作品ではありえない!感じ。これは、ちょうど二年前に他劇団のオムニバス公演で発表されていて、そこの劇団の個性にあわせて書かれたようだ。いつも何気ない日常生活での人間模様を描く青木作品とは全くテイストが違いとまどうが、新しい一面を見せてくれたのだと前向きにとらえたい。
 青木豪の名前は、最近ちらしや演劇雑誌を見る度に、蜷川幸雄、ロバート・アラン・アッカーマンなど、錚々たる演出家の隣で見かけ、脚本の仕事が目白押しだ。パンフレットに書いてある年内の予定が四作品もある。彼の作劇に心惹かれる人の多さを物語っている。
 今年の劇団公演は、残念ながらこの「ピース」だけ。新作は来年になるそうで、青木が外部演出家との仕事を次々こなした後、再びグリングに帰ってきて新調したワンピース(作品)を見せてくれるのを心待ちにしたい。
(八月六日観劇)

TOPへ

「償う人々、歌舞伎の後味」
C・M・スペンサー
  歌舞伎と聞いて敷居が高そうだと思っている人に、「こっちの水は甘いぞ」と囁きたくなるのが、平成二年以来歌舞伎座で行われている八月納涼大歌舞伎だ。
 三部制のため、一部ごとの上演時間が短く、料金も通常より割安に設定されている。
 そして今や納涼歌舞伎の名物の一つとなっているのが、小劇場時代から独自の視点で観客を惹きつけてきたベテランの劇作家が、歌舞伎の本を書き、演出を手がけていることである。演じるのは中村勘三郎を中心とした一座であるが、コクーン歌舞伎とは一線を画したものであるところが、なかなか興味の尽きないところだ。
 昨年の納涼歌舞伎で上演された演目に、渡辺えり子(現在は改名して、渡辺えり)作・演出の『新版 舌切雀』があった。昔話を物語として描くのではなく、今私たちの生きる社会を映し出し、そこに生じる問題を風刺する手法で描かれていた。
 今年は第三部にオペラ『アイーダ』を題材に野田秀樹が作・演出を担当した『野田版 愛陀姫』が登場した。
 大筋はオペラの物語とほとんど変わらず、設定を日本の戦国時代に置き換えた、しっとりとした流れの中で潔さの感じられる作品であった。
 音楽もヴェルディ作曲のメロディを和洋の楽器で奏でた、優美で憂いのあるものである。これが結構耳から離れない。
 歌う場面はないが、登場人物の胸の内が要所要所で語られるところは、その独白により主要人物が脚光を浴びる歌舞伎作品らしい効果として存在していた。
 野田秀樹と言えば、言葉遊びを越えて、その言葉を物語の大きな展開の鍵として独特の世界を作り出す作家だと認識している。
 古代エジプトから日本の戦国時代の美濃の斎藤家と尾張の織田家との争いへと舞台を移し、登場人物はアムネリスを斎藤道三の娘の濃姫(勘三郎)、アイーダを織田信秀の娘の愛陀姫(七之助)、そして敵国の姫とは知らずに濃姫の侍女の愛陀に想いを寄せるのは、木村駄目助左衛門(橋之助)、カナにすると「きむラダメスけざえもん」である。
 ここでは愛陀を恋敵とする濃姫の心の葛藤に焦点を当てながらも、言葉に翻弄され、また言葉でのし上がっていく人々が描かれていた。
 そしてオペラにはない設定が、ニセ祈祷師(扇雀、福助)の存在である。(オペラでは祭司は登場するが、ニセとしてではない)
 駄目助左衛門に恋するあまり、ニセ祈祷師を利用して合戦の先陣役に神の啓示のごとく彼を選ばせるという、一国の非常事態に私的な恋を優先させてしまった濃姫。
 戦の手柄により、身分の格差を越えて婚約者として駄目助左衛門を父に認めさせようというのだ。
 ここで断っておくが、濃姫は「非情な悪女」でも「独裁者」でもない。
 演じるのは中村勘三郎。
 昨年上演の『新版 舌切雀』で勘三郎が扮したのは、雀の舌を切った強欲なおばあさん。そのいやらしさを強調して滑稽に見せるのが勘三郎という役者の一つの持ち味である。
 しかし濃姫は、一国の姫らしく振る舞い、恋を成就させることを思い悩む一人の女性であった。彼女の仕組んだ策略は、恋を成就させるための小さな賭けであったに違いない。
 そして濃姫の発する言葉は、いちいち筋が通っている。こんな苦心も、ただ抜擢したのでは駄目助左衛門のプライドが傷つき、辞退するやもしれぬという懸念からだ。
 身分という見えない権力を利用しつつも、それに囚われる濃姫。身分により従うことを余儀無くされた駄目助左衛門。囚われの身となっても気高さを失わない愛陀姫。
 この三者三様の立場が、彼らの思惑を明確にしていた。
 それにしても、濃姫の「偽装」のツケは、大きかった。
 連れてきたニセ祈祷師は駄目助左衛門が戦の勝利を収めたことにより、城下では一目置かれる存在になっていた。
 そのニセ祈祷師自らが、「神の声が聞こえたことはないが、人間の声が聞こえるようになった」として、人々が望むことだけを口にして歓迎されていった。城で彼らの立場を優位にしたのは、望みどおりの言葉を聞きたい人々ということになる。
 人間の心理を突く風刺の効いた出世話ではないか。
 愛陀への愛を貫こうとした駄目助左衛門は、反撃してきた敵陣への戦略を彼女に漏らしてしまった。これが敵陣の大将、すなわち愛陀の父親に知られることとなり、様子を伺っていた濃姫に駄目助左衛門は捕らえられた。身分を隠してはいるが、愛陀も一国の姫である。父の頼みで祖国を助けるために彼女が聞き出したのだった。
 駄目助左衛門が自国を裏切ったことへの判決は、祈祷師に委ねられた。すなわち、ニセ祈祷師の言いなりである。
 彼は謀反人としての罪を償うべく、地下牢で生き埋めにされる判決を受け入れた。
 濃姫がいくら事の経緯を白状しても時既に遅く、力をつけたニセ祈祷師が認めるはずもなく、それどころか濃姫に神のお告げとしてある言葉を告げたのである。
 それはもう、ニセ祈祷師の思いのままの言葉でしかない。
 正体を明かされることを恐れて濃姫に告げられたのは、制圧した尾張の国の「うつけ者」と世間で評判の織田信長の妻となること。これは濃姫たるがゆえの結末である。
 一方、愛陀は自分のために駄目助左衛門を一人で死なせることはできないと、追っ手を逃れて地下牢に潜んでいた。二人はようやく結ばれることを喜び、しっかりと抱き合ったまま彼らの魂は天へと昇るのであった。
 幸せそうに寄り添う二人の頭上では、祖国のために城を出る濃姫の姿があった。
 長く真っ直ぐに続く道を一歩一歩自らの行いを悔いるように進む濃姫の憂える姿。
 ここに、それぞれの罪を受け入れ、償う人々の物語が終わったのである。
 後に残ったのは、彼らの潔さ。それが歌舞伎としての後味の良さでもあった。
 (八月二十三日観劇)

TOPへ

HOMEへ戻る