えびす組劇場見聞録:第30号(2009年1月発行)

第30号へのメッセージ

ヘンリー・ヤマト六世
小学生の頃だったか、はじめて「光陰矢のごとし」という言葉を聞いたんですが、その後しばらく、「こういんやのしごと」と思い違いをしてました。
工員屋の仕事?それってどんな仕事? それにだいたい「工員屋」ってなんだ!?
創刊十年おめでとうございます。十年…ですか。えびす組のみなさんも、こういんやのしごとをしましたね。

第30号のおしながき

ブラジル公演 「軋み」 新宿シアタートップス 2008年12月10日〜14日
片岡仁左衛門親子三代特別公演 「聴く 勧進帳」 サインケイホールブリーゼ 2008年11月29日
スタジオソルト 「中嶋正人」 相鉄本多劇場 2008年11月22日〜30日
ヘンリーヤマト六世 特別寄稿 


『不器用な芸達者たち』 軋み by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
『声が彩る時間』 聴く 勧進帳 by コンスタンツェ・アンドウ
『揺れる願い』 中嶋正人 by マーガレット伊万里
『向き合う勇気を』 中嶋正人 by C・M・スペンサー
『クリニックシアターの誘惑 〜演劇と私と、時々、ヤマダ』 ☆特別寄稿☆ by ヘンリー・ヤマト六世
○●○ 三十号をふりかえる ○●○

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不器用な芸達者たち』
ブラジリィー・アン・山田脚本/演出
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 「今日はブラジルに行く」
 そう言っても家族はもう驚かなくなった。
 海外旅行ではなくて、ブラジルという劇団の、ブラジリィー・アン・山田という劇作家が書いて演出する舞台をみに行くことをわかっているからだ。
 二〇〇六年冬に上演された『恋人たち』以来やみつきになり、ギリギリエリンギやアンティークスなど外部への書き下ろしも含め、ブラジリィー・アン・山田の名前をみつけると、「見逃せない!」とそわそわしてしまう。
 アパートの一室、居酒屋、テロリストのアジトなど、舞台はたいてい小さな空間だ。
 そこに集まってくる人々は最初から全員変だったり、一見普通でもいわくありげだったり、小さな出来事を発端に言動がどんどん暴走し、状況は予測不可能に混乱を極めた挙げ句、暗澹たる結末を迎える。
 笑うのも忘れて呆気にとられ、大変に後味が悪く、時には恐怖すら覚えて逃げるように劇場をあとにするのに、その感覚の中には不思議な心地よさも同居しているのであった。
 ただ二〇〇七年夏の『天国』、二〇〇八年春の『さよなら また遭う日まで』には流血や殺人場面が多いせいか少々引いてしまい、今回の『軋み』もある程度覚悟を決めて上演に臨んだのだった。
 主人公の人気漫画家高井由美子に桑原裕子(KAKUTA)、ヒモ同然のニート亭主に櫻井智也(MCR)、由美子の担当編集者に辰巳智秋、ほかにアシスタント役に諫山幸治、山本真由美、元アシスタントに葛木英(メタリック農家)、山本が演じるアシスタントの兄と名乗るが、実はストーカーに西山聡、そして極めつけは「プロ」と呼ばれる殺し屋に中川智明。中川はほかに由美子の妄想が生んだ二役を演じる。常連の客演メンバーが多く安定した座組である。
 リビングのソファに誰かが横たわっている。
 それをみている由美子と編集者。女房に頼まれたトイレットペーパーを買って暢気に戻って来た亭主は、ソファに寝ているアシスタントのひとみ(山本)が死んでいることを知らされる。殺されたらしい。彼は当然驚く。彼女と愛人関係にあったためだ。二人の関係を知って嫉妬に駆られた女房の仕業と思われるが、こともあろうに女房と編集者が結託して、亭主に自首をすすめるのである。彼は拒絶する。浮気の負い目があるにせよ、殺しは身に覚えがない。だが「殺人を犯したとあっては、漫画家の人気は地に落ち、単行本も売れなくなる。無職のあなたが捕まればリスクも小さい」と無茶な説得をされる始末。
 テレビドラマなら、ほんとうの犯人は誰か、真実が知らされる過程が見どころになるだろう。しかし『軋み』の場合、明らかにひとみを殺したのは由美子であり、彼女が周囲を振り回して散々じたばたした挙げ句、自首を決意する話なのである。事件の真実や本質よりも、このじたばたが濃密な劇空間を作り、客席を沸かせる。
 乱暴な男言葉で相手を一方的に責め、エゴむき出しに大暴れする女を演じさせると、桑原裕子は実に美しく、生き生きする。人気漫画家のステイタス、女房のプライド、母親の自覚(彼女は妊娠している)、悪態ばかりついているが、憎からず思うヒモ亭主。全部は無理だが、できるだけ失いたくなくて、言いたい放題に支離滅裂の限りを尽くす。連載を何本も抱え、自作がテレビドラマや映画になろうかという売れっ子であるが、読者の人気が移ろいやすいことや、自分のアイディア、才能がアシスタントに今しも追い越されそうな不安、女としての魅力に自信を失いつつあることなど、自分が彼女だったら、このようなお恥ずかしい本音はできるだけ人様に悟られないように取り繕おうとするが、その余裕もなく曝け出してしまうところが、ここまでくると、もはや天晴れである。
 一言でいえば見苦しい。それは由美子に限らず、登場する人々は皆それぞれに見苦しい。
 今更ながら、演劇とは不思議でおもしろいものだと思う。舞台に登場している人々の人生は架空であるが「今、この場に存在する」という点ではテレビドラマや映画の比較にならないくらい「リアル」である。しかも舞台の人々は、観客がいないものとしてそこに存在している。ちょっと不自然な状態だ。
 だが演じる俳優は観客がいることを意識しないわけにはいかず、公演中同じ話、同じ台詞を繰り返しながらも、客席の空気に影響を受けて変化していくという点では、まことに自然である。
 劇評サイトをいくつか読むと、本作を「芸達者揃い」「達者な役者陣」と評するものが多かった。こう言われると、俳優はどんな気持ちなのだろう?芸が達者だ、演技が巧いというのだから褒め言葉に違いないのだが、いささか表面的な評価であり、どんな役でも器用にこなせるが、深みや味わいという点で何かが足らないという印象もある。
 プロの俳優なのだから、役作りの過程は観客に感じさせず、堂々と演じてほしい。しかし『恋人たち』や今回の『軋み』の登場人物をみていると、この見苦しさは役柄じたいが変なのか、俳優が演じるのが難しいからなのか、境目がわからなくなってくる。演技として「達者にじたばたする」のは難しい。
 アン・山田の作品は、巧い演技を得意とするよりも、むしろ不器用で役作りにも時間がかかり、客席のちょっとした反応にもすぐ影響されてしまう俳優が、役作りにじたばたともがき苦しむ過程をも、演じる人物に投影してしまう(意識的にしろ、無意識にしろ)ところが魅力なのではないか。
 よく笑ったし、終幕は思いも寄らずほんのり温かいもので、客席の雰囲気は上々であった。
 しかしこの次はわからない。その不安をも楽しみとして、自分はこれからもブラジルの舞台をみにいくことだろう。

 (十二月十三日観劇)

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『声が彩る時間』
コンスタンツェ・アンドウ
 歌舞伎観劇歴を聞かれた時は「平成元年から」と答えている。昭和にも何本か見ているが、平成元年(一九八九年)三月、片岡孝夫(現・仁左衛門)の『女殺油地獄』で本格的に歌舞伎に「ハマッた」からである。
 約二十年間、東京で仁左衛門が出演した歌舞伎の本興行は殆ど見ているが、ご縁がなく、待ち焦がれていた役が幾つかある。二○○八年、そのうち二つの願いが叶った。
 まず、四月・歌舞伎座『勧進帳』の弁慶。数年前から「もうやらないのかも」と諦めかけていたので、とても嬉しかった。大きく、深く、暖かい仁左衛門の弁慶を見ながら、一期一会の幸せをかみしめた。
 次に、十月・平成中村座『仮名手本忠臣蔵・七段目』の由良之助。色っぽく艶やかで、力強く鋭い、仁左衛門の魅力を堪能した。
 この公演では、『四・十一段目』の由良之助、『二・三・九段目』の本蔵、『六段目』の不破まで演じる大盤振る舞い。
 中村座は、値段の割に見ずらく、印象が悪かったので、第一回公演に足を運んだきりだったが、赤字覚悟で四つのプログラムすべてをクリア。千秋楽、討ち入りを果たして花道を引揚げてゆく由良之助を見送りながら、自己満足の達成感に酔っていた。
 他にも、三月に、当代の父を追った記録映画『歌舞伎役者 十三代目片岡仁左衛門』を六本制覇し、六月には思いがけず、新派『婦系図』の主税と巡りあえた。歌舞伎座での役々も充実、年内の東京出演を十一月の『寺子屋』の松王で締め、「仁左衛門贔屓には楽しい一年だった」と満足していたのだが、一つ、心残りがあった。
 十一月二十九日、大阪で、一晩だけ上演された『片岡仁左衛門 親子三代特別公演』。迷っているうちに、チケットは即完売。未練を断ち切れず悶々としていたが、公演前日、追加席の電話発売でチケットを確保できたのである。
 それから急いで足と宿を手配。前日に大阪遠征を決めたのは、二○○七年七月、松竹座の『女殺油地獄』で、仁左衛門が与兵衛の代役に立った時以来だ。
 通いなれたミナミではなく、キタのファッションビルに開場したばかりのサンケイホールブリーゼ(九一二席)へ向かう。
 演目は、仁左衛門の挨拶、孫の千之助の『雨の五郎』、素顔で紋付袴姿の仁左衛門と、女形の化粧で衣装を付けた孝太郎が踊る『時雨西行』と続く。
 最後に、「仁左衛門独演による『聴く 勧進帳』」。チラシには、「すべての登場人物のセリフを一人で演じ分ける」「二十五年ぶりの上演」とある。果たしてどんな舞台なのか?遠征の決め手になった演目だ。
 仁左衛門は冒頭の挨拶で、『勧進帳』は長唄も台詞も、とてもいいのだが、日頃の舞台では役者の動きに気をとられてじっくり聴けないので、目を閉じて聴いてほしい、と話していた。
 実際、舞踊作品などは、演奏が始まっているのに、役者が出るまで客席が騒がしい、というケースが多い。生演奏は非常に贅沢なのに勿体ない…と常々思っていた。
 開演前、途中の入退場はできない、とのアナウンスが流れた。判官切腹の「通さん場」のよう。音へのこだわりが受け取れる。
 幕が開くと、中央に、素顔の仁左衛門が立つ。床本に似た和紙の冊子を手に持ち、拝むように掲げると懐に納め、二度と出すことはなかった。
 舞台は暗く、仁左衛門と、左右末広がりに敷かれた緋毛氈に座る長唄と鳴物を、照明が浮かび上がらせる。客席も暗く、水を打ったように静かだ。
 ぴんと張りつめた空間に、富樫の第一声が響く。やや高めの、爽やかな声。弁慶の声は低く重厚で、義経は高めで穏やか。身振りこそないが、全身に力がみなぎる。
 「演じ分ける」と言っても、声色を作って使い分けるという印象は薄い。富樫と義経の声は近いし、四天王や番卒達の声にも大きな差はない。声のバリエーションだけで役を表現するのではなく、台詞を伝えることにも重点を置いているのだろう。
 こういうことだったのか…少し驚き、納得し、次第に、私の気持ちは、目には見えない芝居の中へ溶け込んでいった。
 弁慶が、富樫が、義経が、確かにそこにいて、躍動している。同時に、仁左衛門という役者がそこにいて、強烈な存在感を放っている。「夢幻」と「無限」が織りなす刹那の光彩。劇場が小宇宙になる。
 台詞がない部分は、仁左衛門は明かりが消えた舞台の奥に下がり、腰掛けて控える。観客の集中力は途切れず、演奏へ注がれる。
 演者は一人なので、問答では台詞を重ね合わせることができないが、声の切り替えの早さに、息詰まる緊張感を覚えた。
 延年の舞からは、演奏だけが続く。約半年前に見た、弁慶の姿が脳裏に浮かぶ。
 やがて、「陸奥の国へと下りける」で、仁左衛門が薄闇から歩み出て、正座で深く一礼、幕となった。渾身の熱演に答えるように、大きな拍手が湧き起こった。
 日本には様々な話芸があるが、どれとも違う。「朗読」でも「語り」でもなく、やはり「演じる」という言葉が一番ふさわしい。
 このような形の『勧進帳』が生まれた経緯や、二十五年前の舞台の様子を知りたかったが、当日配布のリーフレットには詳しい解説が書かれておらず、残念だった。
 作品自体が一人で演じるように作られていないので、完全な「上演」とは言えないだろう。『勧進帳』や長唄に親しんでいない人には、「音」は楽しめても、「物語」を味わうのは難しいかもしれない。
 また、歌舞伎の上演形態の一つとして、他の作品にすぐ応用できるものでもない。
 そしてもちろん、この「独演」は誰にでもやりおおせることではないのだ。
 舞台が、演者と観客、時と場所とを選ぶ。呼び寄せられるように集まった者だけが共有できる、美しい時間。
 その場にいられたことを、感謝している。 
(十一月二十九日観劇)

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『揺れる願い』
マーガレット伊万里
 目をそらせることなく真っ直ぐな視線で描かれているのは、想像を絶する光景。ひとことで言ってしまえば、死刑の執行を担う刑務官の葛藤を描いた作品だ。観終わった後は、さまざまな思いが深く心にとどまっているスタジオソルト(studio salt)公演 『中嶋正人』。(作・演出 椎名泉水)
 四年前の初演時は、『蟷螂〜かまきり〜』というタイトルだったが、今回の再演で『中嶋正人』に変え、ここで登場する刑務官の名前をつけた。彼と死刑囚一五○番大森正人を中心に、刑務官の日常や遺族の姿などを織り交ぜながらお話は進む。
 ある刑務所に新任の中嶋正人(高野ユウジ)がやってくるところから始まる。大森正人(山ノ井史)は、一見普通の若者だが、若い母親とその子どもを殺害した罪で死刑の判決が下る。悲しいことに大森には罪の意識がまったく欠落している。
 新聞やテレビでは、信じられないような悲惨なニュースが日々流れる。殺人という行為は、遺族にとって、大切な人の命をどうやっても取り戻すことのできない、他にかえがたい苦痛と悲しみを与えるにちがいない。被害者と加害者、そして遺族。当然、遺族の憎しみは、加害者へ向けられる。
 しかしながら、法律の名の下に加害者をこの世から消し去ったとして、本当に遺族の悲しみを拭い去ることができるのだろうか? かといって、もし、自分が遺族の立場となったら、加害者の極刑を望まないといえるのか?
 いよいよ大森の刑の執行が決まったとき、初めて執行に立ち会う中嶋は、同僚から絞首刑の手順説明を受ける。同僚刑務官のてきぱきとした説明には、目を覆いたくなり、背筋が寒くなる思いがした。
 「嫌なら、(仕事を)辞めればいい」という同僚の言葉に中嶋は返す言葉が出てこない。刑務官としての立場とひとりの人間としての思いの狭間で苦しむ。たとえ辞めたとしても、日本に死刑制度がある限り、誰かが同じ仕事を続けなければならない。
 刑務官たちも職場を一歩出れば、平凡な一市民であり、会社帰りに居酒屋に集うサラリーマンと何ら変わりはない。そんな彼らの日常を一緒に見せることで、実は過酷な職務をかかえている彼らの特殊な状況が浮き彫りになり、まるでドキュメンタリーを見ているような錯覚にとらわれた。
 一方、大森は自分の犯した罪に関して問われると、動揺したしぐさを見せるなど罪の意識とまでは呼べないが、教誨師との対話を続けるなかで心の変化が生まれる。死刑を命令する側の法務大臣や、「嫌なら辞めろ」と中嶋に言った同僚の刑務官たちの心もやはり揺れている。
 法務大臣は死刑の書類にハンコを押し、死刑囚を最後まで見届ける刑務官や教誨師。どこか腑に落ちないものをかかえながらも、法律や制度の下で個人は無力だということを、椎名泉水は私たちに直球で投げかけてくる。
 二〇〇八年は、死刑執行の数が過去最高ととりあげられていた。刑の執行にあたっては、当然関係各所の何人もの手を借りて行われている。誰かの手によって命は奪われており、これを仕事としている人々が存在する。
 いよいよ裁判員制度が始まる。裁判員候補者への通知の半分が送り返されているという話も聞く。
 人が人を裁くということは、どれだけ議論をもってもそうたやすく答えが出るものではないだろう。ただ、それについて考える人が増えなければ、いつまでたっても世に存在する「中嶋正人」の葛藤を共有し、理解しようとする思いも生まれてこない。重い訴えだ。
(十一月二十六日観劇)

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『向き合う勇気を』
C・M・スペンサー
 前述のとおりマーガレットも取り上げた『中嶋正人』の作り手は、横浜を拠点に活動しているstudio salt(以下、スタジオソルトと表記)である。
 この劇団との出会いは、メンバーのビアトリスの薦めで二〇〇七年二月に観た宮沢賢治のリーディング作品だった。相鉄本多劇場という横浜駅から徒歩五分あまりの小劇場で、各劇団が日替わりでそれぞれ異なる作品を上演していた。
 スタジオソルトの上演作品は『飢餓陣営』。まず魅せられたのは演出である。
 本を読むというルールにおいて、しかしそれは日常の具体的なジェスチャーによる表現とは一線を画していた。演出家は最大限にイメージを膨らませて音を取り入れ、その陣営の緊迫感と躍動感を出し切った。
 そして何よりも作品の本質を観客の心にいかに届けるかという、真っ直ぐに見つめるその視線に魅了された。
 後にその演出家が劇団の座付き作家であることを知った。
 作家で演出家の椎名泉水。
 何を観客に伝えたいか、どんな作品においてもぶれることの無い視点が頼もしい。
 それからこの劇団の作品を数本観たところで、終始明るい中で語られる路線と、人間の奥底を抉るようなシリアスな路線の二パターンあることを知った。
 どちらがどうであったか記憶が定かではないが、このパターンをレッドライン、ブルーラインと呼び、時には二つを交互に発表することについては、どちらか一方の路線を続けると自身が飽きてしまうのだという椎名の話を聞いたことがある。これをバランス感覚というのだろう。
 一作ごとの全力投球が、問題の本質から目を逸らさずに、正面から向き合う作者の信念がどの作品にも感じられる所以なのだ。
 さて、スタジオソルト旗揚げから五年、第十回記念公演として『中嶋正人』が昨年十一月に相鉄本多劇場で上演された。マーガレットの評でその内容に触れているので、ここでは省かせてもらうが、折しも今年の春から裁判員制度が導入されるこのタイミングで、執行までの死刑囚と刑務官、そして教誨師の一般には知る由も無い状況を見せて私たちに問いかけた作品だった。
 死刑囚と向き合う刑務官、中嶋正人。
 それは同時に彼にとっては転属して初めての死刑という名の合法的な殺人を自身の職務として捉えることでもあった。
 彼個人の意見とは無関係に直面する死刑という制度への問いかけに、嫌なら辞職しろと同僚に諭されることから、中嶋正人の苦悩は深くなる。
 死刑囚、被害者の家族、そして死刑執行を認める側の法務大臣まで登場させて、現実に行われている「死刑」について、それぞれの視点で、かつ当事者の立場で物言う人々が走馬灯のように現れた。
 椎名の描く作品には、無駄がない。
 教誨師と向き合ううちに、死刑囚である青年のコンプレックスが浮き上がってきた。彼の生い立ちが、常に自身の股間をまさぐる異常な姿に投影されていた。
 極刑に至る過程を物語の背景に感じつつ、現代の社会の構造の中で生み出される人々についても考えないわけにはいかなかった。
 わずか二時間足らずの上演時間が、観客が舞台に集中することを可能にし、その後に問題の本質と向き合う余韻を与える構成に感服した。
 スタジオソルトの俳優は、その作品作りによく応えている。目の前で起きていることが、いつも自分たちから遠くないところの出来事のように感じられるのである。
 それが一番、当事者として作品を観ることが一番深く観る者の心に刻まれる。
 さて、『中嶋正人』は舞台の上で起きる全ての要素が、見終わった観客への大きな一つの問いかけであった。
 ここでは、個人の意見とは無関係に職務として刑を遂行する義務のある刑務官の葛藤と、裁判員制度では国民の義務として私たちの意見がその一端を担うということが対比し、改めて事の重大さを思い知ることになった。
 スタジオソルトの作品は、そこに生じる問題意識から目を逸らさずに向き合う勇気を、常に私たちに思い出させてくれる。
 直面する問題を先送りにして解決の糸口さえ見出せないような世の中だからこそ、忘れずにいたい。
 今年、スタジオソルトは初の東京公演(王子小劇場)を行うという。
 大都会の片隅から発する真っ直ぐに見つめるその視線を、多くの人に感じて欲しい。
 何かが変わる、かもしれない。

(十一月二十八日観劇)

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『クリニックシアターの誘惑 〜演劇と私と、時々、ヤマダ』
ヘンリー・ヤマト六世
  ノーベル文学賞を受賞した英国の劇作家、ハロルド・ピンターは、一九五九年に「レヴューのためのスケッチ」を十数編書いている。それぞれが上演したら十分あるかないかの短いコントのような作品である。
 そのなかのひとつ『工場でのもめごと』に出てくる工員の役をやったことがある。大学一年生のときだった。演劇サークルの先輩たちが、同じ作家の『かすかな痛み』を上演するにあたって、新人二人に前座でやってみろと命じたのだ。
 相手役はヤマダ君という政治学を勉強している男だった。私たちは、学生寮の部屋で読み合わせをし、夜の教室で立ち稽古をした。公演は一回限り、入場無料。それでも客は十人ぐらいしか入らなかった。
 『工場でのもめごと』は男二人だけの芝居である。工員の私が社長のヤマダに、工場のみんながもうこんな製品は作りたくないって言ってるんですけど、と報告する。その製品が「高速先細軸螺旋形横笛型穴繰り具」とかなんとか、いちいちヘンな名前なのだ。困った社長が、じゃあ連中は何を作りたいっていうんだ?と問うと、工員の方が「あめ玉です」と答える。これがオチ。いや、オチといっていいのかどうか、作者の意図はわからない。なにしろ相手はピンターだから。
 さて、ヤマダと私が田舎大学で演劇を始めた頃、東京の劇場は「小劇場ブーム」に沸きかえっていた。野田秀樹、渡辺えり子(現:渡辺えり)、鴻上尚史らがあいついで劇団を旗揚げし、若者を中心に観客動員を増やしていた。つかこうへいの芝居が上演される新宿紀伊國屋ホールには、連日「満員御礼」の札が出た。
 私の所属したサークルも、中央の動きに反応したのか、代が替わったらつかこうへい一色になった。ヤマダはその前にやめて、新劇系のべつのサークルの連中と芝居を続けた。バリー・コリンズの『審判』を一人で上演したこともあった。日本での上演は江守徹の次、加藤健一よりも先であった。
 ヤマダは卒業するとすぐに上京し新劇系の劇団に入団した。私は医学部を卒業して精神科に進み大学に残った。ヤマダの劇団から公演の案内が届くたび東京まで見に行ったが、芝居がつまらないのでアンケートはいつもボロクソに書いて帰ってきた。いまにして思えば、芝居を続けているヤマダに対する嫉妬からしたことだが、あのときの演出家は、そんな事情を知るはずもないから、たいそう迷惑だったろう。失礼なことをした。
 大学を離れ東京に戻ってしばらくしてから、劇団東京乾電池が文芸部の研究生を応募しているのを知った。この劇団の公演には学生時代から足繁く通っていたし、憧れの役者や作家がいたので、オーディションを受けてみた。うまいこと合格し、研究生として一年間を過ごしたのち、私は晴れて劇団員になった。三十代も半ばに達する頃だった。ヤマダの方は何年か前に劇団を退団していた。
 私が自分の芝居を上演できるようになったのは、四十歳をすぎてからであった。だが、しょせんは演劇中年の狂い咲き、その花はわりと早くに散った。日本一時給の高いバイトをする劇団員は、ふつうの医者に戻って、恵比寿の町に精神科の診療所を開業した。
 診療所の名前は「東京えびすさまクリニック」とした。せっかく高い家賃を払うのだから、仕事場に使うだけではもったいない。経営が軌道に乗るようになってからは、待合室を利用し、週末などに友人、知人を集めてサロンを開いている。精神科関係の勉強会もあれば、演劇愛好家の集いもある。
 いちどヤマダを招いて、『工場でのもめごと』を読んでみたことがあった。二十七年ぶりの再演だったが、一度読んだきり二度は読まなかった。私たちの時は過ぎていた。それもしかたないことだ。
 ところで、こんなことを繰り返すうち、私の頭にクリニック・シアターの構想が浮かんだ。診療が終わった後のクリニックを、丸ごと劇場化するたくらみである。
 客が待合室で待っていると、白衣のナースが出てきて、診察室に案内される。そこでは、男女二名の役者による『応募者』が上演されている。べつの客は談話室に案内され、ちゃぶ台をはさんで向き合う女優二人が演じる『それだけのこと』を見る。二組の客が互いに部屋を替わって二本の芝居を見たのち待合室に戻ると、二人の男が受付のカウンターにもたれて話をしている。そう、『最後の一枚』が始まるところだ。
 これらはいずれもピンターの「レヴューのためのスケッチ」にある作品である。ひとつの芝居が、二十歳の私とヤマダをつないだように、二十歳の私と現在の私をつないでいる。同じように、あの寒い冬の教室とこの診察室をつないでいる。クリニックシアターを夢想するとき、私は演劇の力がそんなふうに自分を生かしていることに気づくのだ。

(「scripta」第4号/紀伊國屋書店より転載)

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 『三十号をふりかえる』  

◆十年で三十号。からだの加齢はしかたないにせよ、頭と心は柔らかく生き生きとしていたいものです。ヨガやコラーゲンもいいけれど、何より素敵な舞台との出会いがそれを可能にしてくれるでしょう。(ビアトリス)



◆見聞録が三十号を重ねた間、ダイナミックな変化はなかったけれど、ゆっくり、静かに、何かが蓄積されてきたと思っています。これからも、「過去」と「現在」を大切にして「未来」へ繋げてゆきたいです。(コン)



◆小劇場という言葉のカリスマ性はいずこへ。ここに来て観客が作品と直に向き合える小劇場が姿を消す話題ばかりです。三十号からその先も、目を放さずにこれらの行方を見守ろうと思います。(C)



◆二〇〇八年は数々のたえ難い事件や金融危機に末期的社会保障制度など、こんなに社会不安にさらされたことは近年ありません。それでも今号を迎えられたことは感慨深く、切磋琢磨しながらこれからも進んでいきたいです。(万)

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