えびす組劇場見聞録:第33号(2010年1月発行)

第33号のおしながき

グリング第十八回活動休止公演 「jam」 東京芸術劇場小ホール1 2009年12月9日〜23日
「ネジと紙幣」 天王洲 銀河劇場 2008年9月17日〜27日
まつもと市民芸術館レジデントカンパニー
「西の国の人気者」
まつもと市民芸術館小ホール 2009年10月7日〜11日
無名塾 「マクベス」 能登演劇堂 2009年9月18日〜11月15日


『いつか歓喜の歌を』 jam by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
『今日の日はさようなら』 jam by マーガレット伊万里
『「動機」の今昔』 ネジと紙幣 by コンスタンツェ・アンドウ
『演劇と生きる町』 西の国の人気者 by C・M・スペンサー
マクベス
○●○ 昨年の一本と今年の目標 ○●○

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いつか歓喜の歌を』
青木豪 作/演出
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 ベートーベンの第九交響曲第四楽章「歓喜の歌」は、歌う人の心をいたく動かすものらしい。以前知人が「第九を歌う」というので聴きに行ったところ、それまで見たこともないほど真剣で満ち足りた表情で歌っているのに驚いた思い出がある。
 青木豪が作・演出を務めるグリングの第十八回活動休止公演『jam』は、その「歓喜の歌」が味わい深く存在する物語だ。二〇〇三年の晩秋に初演され、今回は再演になる。幸か不幸か、自分は初演をみていない。
 軽井沢のペンションのロビー兼喫茶ルームで起こる一晩のあれこれで、グリングには珍しく細長い舞台を客席が対面式に両側から挟む形になっている。ペンションを切り盛りするのはオーナーの健二郎(中野英樹)と義妹素子(萩原利映)で、健二郎の妻(素子の姉)は十年前に事故で亡くなっている。素子の料理が評判のペンションで、姉の遺した息子康一の世話をしていることもあって、常連客の森(廣川三憲)ですら健二郎と素子を夫婦と思いこむほどである。地元では一種の町起こしに第九のコンサートが企画されており、今夜はここで副指揮者の小日向(永滝元太郎)が指導期間を終えたお別れ会のため、健二郎の友達でコーラスに参加している理学療法士の西埜(小松和重)やピアニストの晴香(松本紀保)、素子の長姉真理(佐藤直子)、前述の森の婚約者亜実(澁谷佳世)や、飛び込み客の矢上(遠藤隆太)が出たり入ったりする。
 ひとつの場所に地縁血縁含め、多くの人が出入りし、しかもその中でいくつかの恋が錯綜する様子はチェーホフの『三人姉妹』や『ワーニャ叔父さん』を思わせる。
 青木豪作品の特徴として、目の前にいる人々に過去の出来事が色濃く影を落としていること、その多くが誰かの死であることが挙げられるだろう。今回は健二郎の妻の事故死であり、舞台には最後まで登場しない、引きこもりがちの遺児康一である。日常生活のこまごまとした会話のなかで、ふとしたはずみに過去の影が見え隠れするものの、すべてが明かされるわけではない。
 たとえば本作のタイトル『jam』はパンにつけるあのジャムのことで、それが亡くなった姉を強烈に意識させるものらしく、前半素子と真理はジャムをめぐって軽く諍うが、詳しいことはその後あまり語られない。後半、舞台下手側にあると設定された客室で晴香と西埜が何を話したかはわからず、その後の会話も意味深長で、話が大きく展開する兆しはみえない。また劇中、素子や晴香が何度か康一の部屋へ行くのだが、そこでの様子も曖昧で不透明部分が多く、作劇の意図が掴みにくい作品なのだ。
 青木豪は当日リーフレット掲載の挨拶文において、当初は浅間山荘事件について書こうとしていたが「学生運動をするには僕らは年をとり過ぎた」とわかって軽井沢のペンションの話になったものの、その時はおそらく「集団を一度終わりにしたい人の声」に耳を傾けていたのだろうと述懐している。
政治的集団でなくても、何年も続いている日常生活には家庭はもちろん、友人や仕事の関係など大小さまざまな「集団」がいつのまにか出来上がっている。あるひとつを終わりにしようとすると、そこだけの話に留まらず、関係する周辺の集団をも壊すことになりかねない。日常はぶ厚く手強いのである。
健二郎は婿養子なので、容易に再婚できない立場にある。素子と健二郎が一緒になれば万事うまくいきそうだが、素子は西埜に片想いし、健二郎はそれを知ってか知らずか、はっきりした態度をとらない。一方西埜はピアニストの晴香先生が好きで、素子の気持ちには気づいていないようである。
 小日向先生が晴香に猛アタックするのはご愛敬として、誰が悪いのでもなく、素子と西埜の心の向きが食い違うのはどうにもならない。主人公がきっぱりと決心して新しい一歩を踏み出すわけでもなく、状況が変化しない終幕は、確かな手応えを求めるにはものたりない印象である。
 それでもこの舞台に出会えてよかったと思えたのは、これが活動休止公演になるという一種の感傷が大きな要因であることを否定しない。しかし自分の心が満たされたのは、これはあくまで想像であるが、過去の作品をおそらくほとんど改訂せずに、書き込みの不十分なところや「もっとこうしたかった」という気持ちを敢えて抑え、ありのまま示していることに、自分の作品に距離感と愛情を持った作者の誠実な視点を感じたからである。
 もうひとつはベートーベンの「歓喜の歌」である。劇中、小日向先生が第九の構成について熱っぽく解説する場面がある。聞かされている人々はあまり関心を示さないが、康一が音楽好きで、とりわけベートーベンに詳しいという話に結びついたとき、人々が第九を歌うことが物語の設定を越えた意味を持つ。舞台に姿を見せない康一が、「歓喜の歌」を通して大人たちに何かを伝えようとしているのではないか、この複雑で一筋縄ではいかない人間模様を変えるにしろ受け入れるにしろ、この歌がわずかでも希望へのよすがになるのではないかと感じさせるのである。人々は一カ月後、コンサートの本番を迎える。それぞれに苦いものを心に抱えながら「歓喜の歌」を歌うのだ。
 終幕から静かに流れていた「歓喜の歌」がカーテンコールで一気に高まってきたとき、こういう使い方は巧い、というかズルいわと思ったが、やはり胸に迫るものがあった。
 ここ数年、家族や友人と一緒にほとんど欠かさず通ったグリングは本公演をもって第一章を閉じた。いつの日か第二章の幕開けを、歓喜の心をもって迎えられることを願っている。 

 (十二月十三日観劇)

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『今日の日はさようなら』
青木豪 作/演出
マーガレット伊万里
 言葉は発したと同時に、自分の手を離れて人から人へと渡り歩く。それを思うと時に言葉を発することがとても怖くなることがある。
 演劇は言葉を駆使した芸術であり、言葉が観客にとって作品を信じる道標となり、時にはすべてを支配する。
 十二年続いたグリングが今回の公演をもって活動休止に入るという。市井に生きる人々の葛藤や苦しみをていねいに描いてきた青木豪率いる劇団。グリングが休止を前に選んだ作品は二〇〇三年初演の「jam」(作・演出 青木豪)。観劇後に想像するのは、語らない人の秘めた思いばかりである。
 舞台は軽井沢の小さなペンション。ペンションのオーナー健二郎(中野英樹)と義理の妹・素子(萩原利映)が切り盛りしている。
 クリスマスを前にした時期。地元で行うベートーヴェンの「第九」を歌うコンサートを間近に控え、東京からやってきている合唱指導の小日向(永滝元太郎)、コーラスに参加するピアニスト(松本紀保)らが滞在し、やはりコーラスに参加している西埜(小松和重)、素子の長姉・真理(佐藤直子)、そしてペンションの宿泊客などが出入りしている。
 健二郎の妻は数年前に事故で亡くなっている。タイトルの「jam」というのは、妻がよく作っていたものであり、また事故死する原因でもあるため、家族の間ではタブーの話題になってしまっている。
 今ペンションには素子がなくてはならない存在で、甲斐甲斐しく働く素子は、健二郎を支え、周囲に気遣いを欠かせない謙虚な人物。ただ内心は、自分の道を進みたいというあこがれ、それにブレーキをかける健二郎をいたわる気持ち、西埜への恋心や、姉・真理への苛立ち、亡き姉への喪失感など、さまざまな思いが心の中で交差し、さらに現状をなかなか変えられない自分へのふがいなさと相まってがんじがらめになってしまっているようだ。かたや婿養子の健二郎は、申し訳ないと思いつつも素子を頼りにしてしまう。はたから見れば、いくらでも変えられそうなのに、どこか八方ふさがっている印象を受ける義兄妹なのだ。
 そんな素子に対し、理由をつけてペンションへやって来る西埜は気遣いの言葉をかける。彼に勇気づけられる素子は彼への思いを強くしていく。素子は果たして自分の気持ちを西埜に告げ、新しい一歩を踏み出すことができるのか。
 観客が見守るなか、ペンションではコンサートの本番を前にして軽井沢を離れる小日向の送別会を催す。だが常連客の森(廣川三憲)と婚約者・亜実(澁谷佳世)の関係がぎくしゃくしてしまい二人の騒ぎに巻き込まれ、挙げ句二人の関係を修復しようとあるゲームが提案される。このゲームがきっかけで、素子は西埜の気持ちが別の人に向いていることを知り呆然と立ちすくむ。
 彼女が自分の気持ちを伝えたとしたら、今の自分と決別して新しい一歩を踏み出せるかもしれない。しかしそんなにドラマティックに事は運ばないのがグリングなのだ。思いは封じ込めたまま、自分のはがゆさを受け入れながら明日へ向かう。
 作家は素子のような人間をやさしく見守り、否定するでも肯定するでもない。
 自分の人生思い通りになんてゆきっこない。人間すべてが勝ち組、負け組に仕分けできるわけじゃない。誰もが立ち止まり、足踏みしたまま先に進めないのが人という生き物。二時間弱の芝居で結果が出ない事だってあるのさと言われているようである。
 素子も心に傷をかかえながら、次の朝には朗らかに、何事もなかったかのようにふるまうはずだ。彼女の本心は誰もしらない。彼女自身も見てみぬふりをするかもしれない。
 ただ誰にでも昨日・今日・明日と時間だけは等しくやって来る。選ぼうと選ぶまいと。来たる未来に向けてそれを決めていくのはやっぱり自分しかいない。
 素子にも決断のときがいつかまた来る。ただそれだけのことに妙に納得し勇気づけられるのだ。
 突然に思えたグリングの活動休止宣言も、さまざまな葛藤を乗り越え決断されたのだろう。グリングのメンバーによる公演は当分見ることができなくなるが、また会いましょう。お元気で。 
(十二月十三日・二十二日観劇)

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『「動機」の今昔』
倉持 裕 脚本/演出
コンスタンツェ・アンドウ
 『女殺油地獄』は近松門左衛門作の人形浄瑠璃である。一七二一年の初演以降は長く埋もれていたが、明治に入って再評価され、歌舞伎の人気作品となった。文楽では戦後に復活上演されている。
 油問屋の次男・与兵衛は、複雑な家庭環境で育ち、仕事もせずに遊女に入れあげ、家族に暴力を振るって勘当された末、借金を返すため、近くに住む同業者の奥さん(お吉)を殺して金を奪う。この物語の「現代性」が再評価の理由の一つとされている。
 『ネジと紙幣』は、サブタイトルに『based on 女殺油地獄』とある通り「現代版」で、人物設定や物語の展開は、原作に非常に近い。油問屋はネジ工場、遊女はキャバ嬢、野崎参りは花火大会…という具合。
 もともと「現代性」があるとされているので、古典を現代化する際にありがちな無理を殆ど感じさせない。逆に言えば、現代への置き換え作業は難しくないのだ。
 では、何が違うのだろうか。
 与兵衛の動機は、金である。今日金を工面できなければ死ぬしかない、金さえあれば全て解決すると信じる安直さを、親への愛情が後押しする。一度は見放されたと思っていた親の愛情を知り、それに応えたい、迷惑をかけたくない、という気持ちは、方向性を間違えた上に長続きしなかったが、与兵衛なりの、一瞬の真実だった。
 また、殺人に対する良心の呵責と恐怖も感じ、逃げのびようとした。お吉は常識的な主婦で、お互い憎からず思っていたとしても、どうこうなるという間柄ではない。
 『油地獄』には、基本的に「嫌な奴」がいない。皆がそれぞれ与兵衛のことを気にしながら、自分が信じるもの・守りたいものを一番に考える。それは人間として普通のあり方だ。だから、後味は意外と悪くない。
 『ネジと紙幣』の行人(森山未来)と桃子(ともさかりえ)は、相手を異性として意識していて、最初から危うい雰囲気がある。
行人の抱える現実的な問題は、与兵衛と比べ、やや軽い。「家業」「勘当」「恥」「見栄」は江戸時代ほど重要ではないし、金がなければ死ぬしかない、と覚悟しているわけではない。
 しかし、行人の周囲の人間達からは、自分本位の「嫌な感じ」が漂う。両親、兄、妹、桃子の夫(栄太郎)、工場の従業員、キャバ嬢とその恋人…。彼ら・彼女らの「嫌な感じ」は、芝居の中の作り事ではなく、非常に身近な「感じ」。私自身が実際に体験したり、人に与えてしまいかねない「感じ」で、見ている方も居心地が悪い。当事者の行人は、イライラをつのらせ、精神的に追い詰められてゆく。もちろん、行人自身も、周囲の人間のイライラの元になっているのだが。
 我慢も限界、ついにキレて本音を叫ぶ義父。行人と桃子の関係を疑う母。二人は、揉め事を解決しようとして、桃子に金を渡す。その行為や態度から、行人に対する愛情を汲み取るのは困難だ。
 そして、桃子からの拒絶。金が欲しいという頼みだけでなく、行人の存在そのものを否定するような言葉を吐く桃子。行人の動機は金ではない。自分と他者への絶望だ。
 絶望は感情をも殺す。恐怖や後悔はない。奪った金で現状を打破できるとも思っていなし、逃げる気もない。
何かを得たい、解決したいという、外向きの意思ではなく、何も得られない、どうにもならないという、内向きの思い込みが生む殺意。それを納得するには、百種類の分析結果より、「絶望」という抽象的な言葉の方が、しっくりくるのだ。
 桃子も、自分自身と、生活に絶望していた。「殺させた」とは言い過ぎかもしれないが、殺されることを受け入れているようにも見えた。この作品は、死んだ桃子の幻影と栄太郎の口論の場面から始まるのだが、桃子が責めるのは、自分を殺した行人ではなく、栄太郎なのだ。(ともさかりえは、「責め口調」が妙に似合う女優である。)
 二人の「絶望」は、一人の人間の死に値するほどのものではない、と言い切る自信は私にはない。
 歌舞伎の『油地獄』は、役者の様々な魅力を見られる「古典」である。上方風の明るさと色気、幼稚さ、陰のある美しさ、血にとりつかれた狂気の姿。殺しの場面は様式化され、舞踊にも似ている。観客はそこに面白さや楽しさを感じるのだ。
 一方、『ネジと紙幣』は、現実にどこかで起きていそうなことを、そのまま見せられるので、かなり後味が悪い。『油地獄』と比較する興味深さはあったが、古典を一度解体して再構築することによる発見には乏しく、単独の作品としての面白さにも欠けていたように思う。
 森山は、ヒリヒリした感じや、殺しの場面の冷酷さを上手く表現し、彼の「一面」を見る機会にはなったが、多面的な魅力を満喫できるわけではない。
 『油地獄』と『ネジと紙幣』を比べながら、私は「現代」という言葉の不確かさを感じていた。現代は一瞬で過去となる。「絶望」による殺人なんてナンセンスだ…と一笑に付し、社会全体が別のことで悩んでいるような時代が、意外と早く来るのかもしれない。
(九月二十七日観劇)

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『演劇と生きる町』
C・M・スペンサー
 昨年は私にとって旅と観劇の當り年であった。中でも松本、能登と初めて訪れる劇場で、しかもその地でしか観られない作品との出会いは感慨深いものだった。
 十月、松本では<まつもと市民芸術館レジデントカンパニー>による公演『西の国の人気者』を観た。松本は、クラシックでも小澤征爾をはじめ世界でも名だたる音楽家が集結するサイトウ・キネン・フェスティバルが行われる土地柄でもある。世界水準と言われるオーケストラの演奏は、日本各地から聴衆が集まり、その活動は日本国内に留まらず世界各国からも招待を受けるほどである。芸術を愛し、育てる土壌にあるというのが、県外から訪問した観客としての感想だ。
 初めてまつもと市民芸術館に足を踏み入れた時、まずその建物の洗練された美しさに目を見張った。客席数が最大千八百もある主ホール、そして二百八十余りの小ホールが同居しているその建物には、稽古場もある。このように充実した施設は国内でもそう多くはないだろう。
 芸術館の入り口からは、階段と平行して長く緩やかなスロープ式のエスカレーターがある。二階にはシアターパークと呼ばれる劇場前のロビーがあり、最初はこの広さに臆していたのだが、公演が行われる小ホールのスタッフのホスピタリティー溢れる対応に、緊張が緩んだ。
 周囲を見回すと松本の住人であろう観客と、私のように遠方から来た観客との違いが一目瞭然のように思えた。その違いは、憶測だが、開演をじっと静かに客席で心待ちにしている姿で見分けられる。自分がそうであるように遠方からの観客は、キョロキョロしてまず劇場そのものを味わうことから始めていた。
 さてレジデントとは、英語で「住んでいる、滞在している」の意味でもあるとプログラムに書かれている。その名の通り、松本を拠点に活動できる人々のいるカンパニーということだ。『西の国の人気者』には、若いレジデントカンパニーの俳優とともに、稽古期間から松本に滞在している東京で活躍するベテラン俳優も加わっていた。オーディションで選ばれた未経験の俳優もいたが、作品の出来としてはそれを感じさせない。観客の入りもいい。
 この目で、芸術監督の串田和美によるこのカンパニーの作品が、水準の高いものであることを確認した。見終わった後の満足感。客席からは永遠に続くかと思う拍手が沸き起こり、カーテンコールが繰り返し行われていた。
 芸術館と住人とをつなぐエピソードがある。一昨年前の平成二十年、東京ではコクーン歌舞伎として上演された『夏祭浪花鑑』が、信州まつもと大歌舞伎と称してこの芸術館で上演された際には、この地で百人のエキストラを公募し、実現したという。しかもその時は主ホールで上演、大盛況だったそうだ。
 芸術館館長であり、演出の串田和美は、まつもと市民芸術館発の作品を東京でも頻繁に上演している。多くの観客を視野に入れた作品づくりは、まつもとを拠点にしたどこにでも通用する俳優の育成が可能となり、さらにこの地で独自の試みもできるという大きな可能性を持っている。もちろん、貸し劇場としての役割も果たしているので、多くの作品に触れる観客の感性は磨かれていくだろう。その分、運営する側の作品の選別の責任は重い。今後の更なる活動が楽しみな劇場だ。
 十一月には、能登演劇堂で無名塾による『マクベス』を観た。この作品の前評判は高く、早くからチケットは完売となっていた。演劇堂の舞台の奥に、森が見えるというのである。
 魔女の予言の後、舞台の奥の壁が開くと、伝令と思しき早馬が森の遠くから駆け抜けて来た。だんだんと大きくなるその勇姿。そして勝利の美酒に酔うマクベス一行の行進へと続くその光景は、まるで映画の撮影シーンを見ているような衝撃を受け、その時間と空間を共有していることに感動した。さらにラストでバーナムの森が動く演出では、公募されたエキストラが参加し、森を揺るがした。
 ところで、開演前に演劇堂のある七尾市の能登中島を散策した。町のいたるところに「歓迎 無名塾」「マクベス」の幕がある。無名塾の塾生の合宿をこの地で行ってきたその歩みのパネルが、商店街の軒先で展示されていた。しかし通りに人影はない。
 二ヶ月に及ぶ公演の観客は全国から集まっていたという。ツアーでなくとも、能登空港や金沢駅から公演時間に合わせたバス等が運行されているので、フリーで訪れても不便はなかった。開演前には劇場入り口付近に地元の特産品を中心にブースが並び、開演時間に合わせて続々と訪れる観客を楽しませていた。
 劇場には至る所にボランティアのスタッフの姿があり、初めて訪れる観客を誘導する。演劇堂が町興しの役割を担い、町をあげて無名塾と劇場を盛り上げる。演劇が地域を活性させんとする純粋なカタチをここに見た。
 作り手と観客。その人と人とをつなぐ劇場。演劇の真髄を感じさせるような地方の劇場の在り方を目の当たりにして、作り手のアピールは様々だが、観客の求めるものの姿も見えたような気がした。その場所に居る心地良さ。心がそこにあることではないだろうか。満たされて初めて観客として得られる満足感があった。
(まつもと市民芸術館小ホール・十月十日、能登演劇堂・十一月十四日観劇)

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 あとがき  

◆後半で一本選ぶなら『組曲虐殺』ですが、昨年最大の収穫はやはりelePHANTMoonの『成れの果て』でした。 今見ている舞台だけで考えず、これまでとこれからに結びつけながら味わうことが今年の目標です。(ビアトリス)



◆仁左衛門一世一代の『女殺油地獄』、金太郎初舞台・高麗屋三代の『門出祝寿連獅子』。ファンにも区切りの年になりました。新年の目標は「時間を悔いなく使うこと」。永遠のテーマかもしれませんが・・・。(コン)



◆後半は九時間連続上演の大作が相次ぎました。それぞれ登場人物の人生を投影したような作品に、その場に居合わせる観客としての幸せを感じました。目標は味わった感動を素直にお伝えすることです。(C)



◆昨年思い出すは「はえぎわ」。ノゾエさんの舞台空間の使い方や、時折見せる大胆不敵な演出が私のツボにハマってしまった。今年の目標は、あとで後悔しないように余裕をもって観劇計画を立てることです。(万)

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