えびす組劇場見聞録:第34号(2010年5月発行)

第34号のおしながき

アル☆カンパニー第6回公演 「罪」
蓬莱竜太 作・演出
新宿SPACE雑遊 2010年3月18日〜24日
「ANJIN イングリッシュサムライ」 天王洲 銀河劇場 2009年12月10日〜2010年1月18日
はえぎわVOL.21 「春々〜ハスムカイのシャレ〜」 下北沢スズナリ 2010年1月30日〜2月3日
東京裁判三部作 第一部 「夢の裂け目」 新国立劇場小劇場 2010年4月8日〜28日

「しあわせ家族幻想」 「罪」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『プロジェクト』の過程と成果」 「ANJIN イングリッシュサムライ」 by コンスタンツェ・アンドウ
「春の白昼夢」 「春々〜ハスムカイのシャレ」 by マーガレット伊万里
「これからの観客」 「夢の裂け目」 by C・M・スペンサー
○●○ 今年に期待する人 ○●○  えびす組メンバーによる100字コメントです♪

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「しあわせ家族幻想」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  ゴールデンウィークの温泉地、もうじき定年を迎える父親の慰労で訪れた四人家族が過ごす旅館の一室で、ほかには誰も登場しない一時間十五分の舞台である。
  父(平田満)が風呂から戻ってくると、母(井上加奈子)はジグソーパズルをしており、娘(占部房子)は仕事のメール中だ。父は久しぶりの家族旅行を楽しくしたいが、日ごろバラバラに過ごしている家族がそうそう盛り上がるはずもなく、父の気合いはやや空回りしている。多少痛々しいけれども、このあたりは想像の範囲である。
  家族はもうひとり息子がいて、風呂からまだ帰ってこない。心配だ、探してくるといささか病的に思えるほど浮足だつ母と娘を父がなだめていると、息子(黒田大輔)が飛び込むように部屋に戻ってくる。
  両親も妹も大好きで皆を喜ばせようと一生懸命だが、見た目不相応に言動が子供じみているところや、腫れものに触るような家族の接し方から、息子には軽い知的障害があることがわかる。この家族が背負う重荷が示され、舞台の緊張が一気に高まる。息子の障害は生まれつきのものではなく、彼が幼いころに起こった家庭内の小さないざこざに原因があるらしい。家族ひとりひとりに異なる負い目があって、痛ましいくらい自分を責めるそばから、冷酷なまでに相手を糾弾する。あの雨の日の出来事から長いあいだ、言いたくても言えなかった、言いたくなかったこと、聞きたくなかったことが、よりによってせっかくの家族旅行で爆発するのである。「何でみんな責任を負おうとする。今日に限って。しかも、温泉地で!」という父のことばに、本作の核が凝縮されている。
  「おまえが悪い」「悪いのはあなたよ」と家族が互いに罪のなすり合いをするさまはやりきれないが、ほんとうのいきさつ、原因を知りたいという欲求が喚起され、一種のサスペンス的要素が劇場に生き生きした空気を生む。しかし、なすり合いを通り越して罪の背負い合いになってしまったこの家族劇は、四人が頭を寄せ合ってジグソーパズルをする場面で終わる。
  だいたいの経緯はわかったものの、決定的に誰のせいとは言い切れない。
妹はいかにも子どもらしい嘘をつき、兄は妹にちょっと意地悪をした。母はその場の怒りにまかせて子どもに少し乱暴なしつけをし、父には働き盛りにありがちな家族への無関心や逃避があった。それぞれに少しずつ「罪」があるが、それらの内容や描写には既視感があり、仰天するような真実や、糾弾されるべきものとは思われない。
  『罪』の家族の痛みは息子の障害そのものよりも、「家族は幸せでなければならない」という幻想にみずからを呪縛してしまったところにあるのではないか。家族は血のつながった運命共同体だ。きっと愛しあえる、理解しあえるに決まっている、それが自然だ、常識だ。できないのはとてつもなく悪いことなのだと本音を封じ込め、ほころびはないかのように振舞っていた軋轢が一気に噴出したのだ。
  四人の俳優陣は自分の持ち場をきっちりと演じて安定感があり、小さな劇場で息づまるように濃密な劇世界を味わえる。大変な贅沢だ。しかし一時間十五分の上演が冗長に感じられ、もどかしさが残った。
  家族を描いた作品は枚挙にいとまがないが、今でも心に深く残っているのは、パキスタン系イギリス人劇作家シャン・カーンの『CLEANSKINS/きれいな肌』である(小田島恒志訳 栗山民也演出 二〇〇七年四月新国立劇場小劇場で世界初演)。イギリスのある町に暮らす母(銀粉蝶)と息子(北村有起哉)の家に、ドラッグ中毒で行方知れずになっていた娘(中嶋朋子)がなぜかイスラム教徒に改宗して帰ってくる。反イスラム運動に参加している息子は猛反発するが、信仰を得た娘は冷静に温かく、かつて捨てた母と弟に歩み寄ろうとする。幼いころ別れた自分たちの父親に話が及び、母親はうろたえる。民族や宗教をめぐる問題にはなかなか実感がわかないが、この作品が自分の心をとらえたのは、物語の設定や家族の特殊な事情よりも、血のつながったもの同士が激しく傷つけあい、ぶつかった末に、泣きながらからだを寄せあって「これからはうまくいくはず」と祈る弱々しい姿であった。
  家族という交わりの、何と脆く悲しいことか。しかしそれゆえにこの家族の将来が少しでも明るく幸せであってほしい、この家族にもう一度会いたいという気持ちがこみ上げてきた。大幅に改訂されなければ同じ作品なのだから結末はわかっているのに、自分の気持ちは初演とは違うかもしれない。「再生の希望」を登場人物だけではなく、自分自身に求めていたのである。
  家族をめぐる物語はテレビドラマ、映画、演劇と次々に生み出されてゆく。
時代や国が変わっても家族の問題は普遍的であり、何が幸せで不幸せかは単純に決められるものではない。フィクションである家族物語に作り手も受け手も、正解は無理でも何らかの道筋を求めていることの証左ではないだろうか。「道筋をみせない」示し方もありうるので、自分はそれも受け止められる強さを持ちたいと思うが、『罪』の示し方にはもどかしい印象が残った。決して幸せとは言えないが不幸とも言い切れないこの家族の負の部分や闇や弱さをもう一度、違う気持ちでみつめなおしたいという手ごたえを、もっと確かに欲しいと思うのである。
( 3月20日観劇)

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「『プロジェクト』の過程と成果」
コンスタンツェ・アンドウ
  豊臣から徳川へ政権が移る激動の時代。家康、日本人宣教師、「青い目のサムライ」。市村正親、藤原竜也、英国人俳優。日英共同脚本、ロイヤル・シェイクスピアカンパニーの演出家。「国際共同プロジェクトの集大成」とうたう『ANJIN』、その開幕前に伝え聞く情報は盛り沢山で、ひとつひとつが魅力的だった。同時に、不安も覚えた。これだけの材料を、上手く調理できるのだろうか…と。そして、不安は的中した。
  物語は、一六○○年、英国商人ウイリアム・アダムズ(後の三浦案針)の乗った船が日本に漂着するところから始まり、関が原、大坂冬の陣・夏の陣を経て、徳川幕府が基盤を固めるまでの十数年を、正味三時間強で描く。(演出 グレゴリー・ドーラン  脚本 マイク・ポウルトン、河合祥一郎)
  タイトルロールは案針(オーウェン・ティール)だが、家康(市村)、日本人宣教師で通訳のドメニコ(藤原)も主役としてのウエイトを持つ。この三人が絡み合って、一つの世界が構成されることを期待したのだが、結果としては、それぞれが持つドラマが独立し、どれもが物足りなくなり、全体としての面白みに欠ける舞台になってしまった。
  家康は、行きたくとも叶わなかった西洋の情報や技術を得るため、案針を日本にとどめる。二人の間に生まれた友情も描かれるが、それよりも、家康の、冷酷な為政者とならざるを得ない孤独や、息子との心のすれ違いなどの方が印象に残った。
  案針は、望郷の念を抱きつつ武士として暮らし、やがて、自ら日本を選ぶ。波乱万丈の半生を送った彼は物語の芯にふさわしいが、主役としてのカリスマ性が希薄だった。殆どの台詞が英語で、「サムライになった」という変化を強調できなかったことも影響しているだろう。外国人の役なのだから、正確な日本語を披露する必要はない。しかし、日本語の台詞を話す必要はある。
  ドメニコは、武士から宣教師になり、再び武士に戻るが、最後はキリシタンとして磔刑になる。師であるイエズス会士たちの狡猾さを憂い、布教の意味に迷い、戦を前にこみあげる武士の血のたぎりに戸惑い…。藤原は、ドメニコの葛藤を深く、激しく体現していたが、脚本の書き込みが甘く(カットされたのかもしれない)、行動がやや唐突に感じられた。何故信仰を捨てたのか、捨てたはずなのに何故殉教したのか?そこが知りたいし、そこを描けなければ、ドメニコという特殊な人物を造形した意味がない。
  注目された英語の台詞は、十分こなしていたと思う。もっと英語に堪能な俳優だったら、逆に、日本語訛りの英語を使って「らしさ」を演出したかもしれない。
  歴史背景や人間関係の描写は綿密で、衣装や小道具には定番が多く用いられ、外国人が作る日本の芝居にありがちな不自然さはない。日本側がしっかり準備・管理したのだろう。舞台美術も立派である。
  しかし、登場人物が多く、殆どの俳優が二役・三役を兼ねて細かいエピソードまで演じるため、頭も目も混乱する。混乱を収拾する方策は説明台詞だけで、退屈するし、わかりづらい。日本史は予備知識があったので何とかなったが、欧州諸国の対立や宗教関連の話は、よく理解できなかった。
  字幕は、舞台上部と左右の三箇所に設置され、英語の台詞には日本語が、日本語の台詞には英語が表示される。外国人の観客への配慮だろう。ただ、前方席からは、舞台と字幕を同時に見ることはできず、私は字幕を諦めた。改めて後方席から観劇し、ようやく詳細を把握したのである。個人的にはイヤホンガイドより字幕を好むが、日本人にしろ、外国人にしろ、字幕で説明台詞を理解するのは苦しいし、字幕が見えなかったらお手上げである。
  同時期に上演されていた『Talk Like Singing』(三谷幸喜 作・演出)も、日米双方の観客を対象としているが、出来る限り字幕を使わずに物語を伝えようとしていた。『ANJIN』とは全くタイプの違う作品なので簡単に比較はできないし、問題点もあったが、言葉の壁を越えるための工夫をこらしたという点を買いたい。
  また、シェイクスピアの『ヘンリー六世』(蜷川幸雄 演出)も、俳優が二役・三役を兼ねる歴史絵巻で、時代背景に馴染みがないため、誰が誰やら混乱した。人間関係の難しさを「外国人に信長と政宗の違いを理解しろと言っているよう」と例えている観客がいて、まさにその通りだが、視覚的な面白さや、舞台から湧き上がるうねりのようなものが感じられ、六時間以上の長丁場を、飽きることなく楽しめたのである。
  「わからないけれど面白い」作品も存在する。しかし『ANJIN』には、「わからない」というモヤモヤを吹き飛ばすようなパワーを感じることができなかった。
  『ANJIN』が開幕するまでに多大な時間と労力が費やされたことは想像に難くない。脚本家達は言葉を選び、演出家は試行錯誤を重ね、スタッフは知恵を絞り、俳優は全力で演じたのだろう。それは、かけがえなく尊いことである。真面目であること、正攻法であることを否定するのは心苦しいが、観客が見るのは、プロジェクトの過程ではない。成果物としての舞台が面白いかどうかが、全てなのである。
  複数の要素を、制限時間内で平等に生かそうとすれば、単に「並べる」だけで終わる。しかし、要素を大胆に切り捨て、自由な発想で組み合せれば、観客の心と目を奪う「ディスプレイ」を作ることもできたと思う。「国際共同プロジェクトの集大成」の重みは、それを許さなかったのだろうか。
  この六月、『ANJIN』が映画館で上映されるという。劇団☆新感線の「ゲキ×シネ」や、松竹の「シネマ歌舞伎」に続く形だが、ビジネスとして成功が見込まれるからこそ、追随するのだろう。一過性である筈の演劇を映像化する目的は、国内外での上映か、未来の上演への布石か。「プロジェクト」の最終着地点は、演劇とは違う次元にあるのかもしれない。
(2009年12月28日、2010年1月17日観劇)

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「春の白昼夢」
マーガレット伊万里
  はえぎわの作品を見ていると、映画の世界でよく耳にするB級映画というのを思い出す。B級映画とは当然A級に次ぐランクを示していて、低予算で製作された映画という定義があるようだが、B級と呼ばれる映画の中には、監督の趣向がふんだんに凝らされその個性が強烈に印象づけられており、時には単純なランク付けを超えた面白さを孕んでいると思う。
  破天荒だが微妙なバランスで成立するB級の味わいが、はえぎわを見るときの楽しさに通じてる気がしてならない。
  はえぎわ第二十一回公演「春々?ハスムカイのシャレ?」の主人公・徳仁(ノゾエ征爾)は、両親と兄、家族とのコミュニケーションのあり方に異議を唱えて家族を捨てる。すると、彼は自分の後輩と名乗る小金井武蔵(町田水城)とその家族を教育し直すために、一家を監視する生活を始める。武蔵はろう者の妻(鈴真紀史)を部屋に閉じ込めてしまっている。そして自分を教育し直さないと妻を解放する意味がないとして徳仁を家に受け入れるのだ。長女の太郎や長男・次郎とのやりとりにいちいちダメを出し、教育というよりは時に演出をつける徳仁。ここからして現実離れした設定だ。
  この物語を中心に、はえぎわらしい様々なエピソードが交差する。
  舞台の上手には、木のイスが何十脚も天井まで積み上げられている。男(竹口龍茶)が通りかかると、そのイスの大群の中から女の声がする。女(鈴真紀史の二役)がそこに閉じ込められているというのだ。男は女を助け出そうと試みる。しかし、途中から男が自分の妄想に走ったり、かと思うと女はアラビアンナイトのシェヘラザードのようにお話を始めたりして、お互いのかけひきで救出はなかなか進まない。ところが、遂にすべてのイスを取り除いたとき、実は女は口がきけなかったことがわかる。果たして女の声はどこから聞こえていたのか?なんとも摩訶不思議。よく考えれば、武蔵に閉じ込められた妻とイスの大群の中にいた女がなぜかつながるというわけだ。
  さらに、女性用のカラフルな衣服に身を包んだ青年が永田町に集結する事件や(そこには徳仁の草食系の兄もいる)、さすらうキャンペンガールのエピソード、太郎の妊娠、そしてイヤな予感的中のマイケル・ジャクソンのダンスシーンまで飛び出して、盛りだくさんというか、脱線しすぎというか。イメージの大洪水。
  今回は、オーディションで選んだ十三人の役者が出演しているというから、そこからインスピレーションを受けてイメージが膨らんだ構成となっているのかもしれない。
  作・演出のノゾエ征爾は、「いろんな見え方がある作品になるといい」とパンフレットに書いているが、いろいろ見せ過ぎのような気もするし、これがはえぎわならではのインパクトという気もするし。
  家族が抱える問題を見せたり、さすらう人々の群像劇のようでいて、テーマが今一つ絞りきれていないような…。観客にもう少しヒントを与えてくれてもいいものだと思いつつ作家の用意した落とし穴にはまったり、想定外の方向へ連れ去られたり、翻弄されつつもやめられない。
  「ハスムカイ」とサブタイトルにつけるくらいだから、正面きって人物を捉えて描こうなんてしない。あまのじゃくのようではあっても、そこはただのイメージの羅列であってはならない。
  徳仁が監視しつづけた家族も武蔵も年老いて、別れの時が近づいたとき、自ら家族を捨てた徳仁によりそってくれる人は誰もいない。そこにはやりきれない寂しさが漂う。結局、家族であるがゆえの孤独も、一人であるがゆえの孤独もさしたる違いがないのではないか。そんなふうにも見てとれた。
  用意周到なエンディングで誰もが納得できる心地よい作品ではなく、演劇の王道ではなくても、二流ではない、はえぎわ一流の個性をどんどん突き詰めて、今後もはえぎわの魅力を存分に知らしめてほしいと願う。
(2月2日観劇)

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「これからの観客」
C・M・スペンサー
  四月十日、新国立劇場で井上ひさし作『夢の裂け目』再演を観て、改めて洞察と表現の力に感銘を受けた。そしていつまでも輝きを失わない作品に、新作への期待が高まっていた。
  上演後の「井上ひさしの現場」スペシャル・トークでは、病床にいる作家の早い回復を願うコメントが聞かれたものの、翌朝、ニュースが報じたのは井上ひさしの訃報だった。四月九日逝去、享年七十五歳。
  井上ひさしの作品は、観る者の心にいつも人間の持つべき様々な「情」を呼び覚ませてくれた。虐げられた人物や、近年の多くは戦争に触れて書かれた作品が発表され、新国立劇場でも度々上演されている。
  『夢の裂け目』は、二○○一年に同劇場で初演された。後に『夢の泪』『夢の痂』と続き、戦後、連合軍が開いた東京裁判について描かれたこれらの作品は、東京裁判三部作となった。残念ながら初演を観ていないので現時点ではその全貌を語ることができない。観客に巡ってきたチャンスと受け止めて、全て観ようと心に決めた。作り手にも再演の意図があるのだ。
  井上ひさしの戯曲は、物語の取っ掛かりをつかみ易い。そして作品の随所に笑いが溢れている。どの作品もパズルのピースをはめ込むように一つ一つが忘れ難く心に残っている。
  作品の特徴としては、劇中歌が存在することだろう。その音楽は最後まで、いや帰り道に至ってもずっと耳に残るほど強烈である。
  この『夢の裂け目』はクルト・ヴァイルの「三文オペラ」が下敷きになる曲もあり、馴染みのあるメロディに乗って登場人物の心情が語られる。歌詞とメロディが耳から離れないのだから、かなりの説得力だ。それがまた人々のキャラクターとよく合っている。
  劇中の音楽は観客の胸に染み入り、ちょうど今私がこうしているように、劇場を後にしても芝居の情景がメロディとともに走馬灯のように甦る。そして言葉をひとつひとつ辿る道しるべとなっている。
  最近の作品では、バンドの演奏者も舞台に存在する。新国立劇場のサイトに記述があった。「数人のミュージシャンを交えての「音楽劇」としての形態は、実は〇一年の『夢の裂け目』から始まったもの」なのだそうだ。
  さて、『夢の裂け目』であるが、紙芝居屋の元締め、田中天声(角野卓造)。彼は日本がアメリカの占領下に置かれて東京裁判が始まるという時、GHQから検察側の証人として呼び出された。そして裁判に出廷した後、天声は東京裁判にはからくりがあるのではないかと思案を巡らせた。一国民の目線で見た東京裁判とは。
  井上作品で興味深いのは、奇抜に見える発想の源が、実在の話や人物に基づいているというそのエピソードの着眼点である。
  GHQの検察側の証人として、紙芝居屋が呼ばれたのは事実である。名前は異なるが、プログラムの年表にその事実が掲載されている。二○○五年に上演された『箱根強羅ホテル』では、終戦間近の本土決戦用の作戦が面白可笑しく語られているが、こちらもプログラムを引っ張り出して読み返すと、折り込みの別紙に作者の言葉が記されていた。その最後に「すべて実在したもので、作者が勝手に捏造したものではありません」とあった。
  渦中にいると何が現状にそぐわないのかが見えず、たいてい端からはその何かが見えるものである。それを滑稽に映し出すことにより、こんな愚かな行為を繰り返すものではないと私たち観客は自らを戒めることになる。
  ところで、かつて一九六四年から六九年までNHKで放送された人形劇『ひょっこりひょうたん島』に井上ひさしが脚本に参加していたのを若い世代の観客は知っているのだろうか。初期の戯曲『表裏源内蛙合戦』が書かれる以前のことである。登場するのは学校の先生と子供たち、海賊やギャングまで共存するひょうたん島で繰り広げられる騒動の物語の記憶はないが、弱いだけではない子供の姿に憧れて、自身の姿をテレビに投影させて観ていた感覚だけは残っている。
  作品に勇気を与えられて子供時代を過ごした観客が、今の子供たち、次の世代の大人たちにできることをしたい、そんな恩返しにも似た想いに駆られた。
  『夢の裂け目』プログラムの冒頭には、こんな記述がある。「いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう。井上ひさし」。作品を観続けることで、過去の出来事に関心を寄せ、そして戯曲の紡ぎ出す言葉の意味を考える。遺された作品の上演を望むこと、これが観客にできることである。
  四月末に追悼番組としてNHKの『一○○年インタビュー』が再放送された。百年後にいい世界を渡すために、井上ひさしは「百年前の我々も必死で頑張っています」と語り、こう結んでいた。「どうぞお幸せに」。後はこれからの観客の務めであるような気がした。
第一部『夢の裂け目』四月八日〜二十八日
第二部『夢の泪』五月六日〜二十三日
第三部『夢の痂』六月三日〜二十日
演出・栗山民也

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 『今年に期待する人』  

◆文学座の俳優荘田由紀さん。『女の一生』の主人公布引けいに大抜擢、若い時代よりも中年、初老の場面の質実な演技が心に残りました。母上(鳳蘭さま)には絶対できないお役ですね(ビアトリス)



◆中村隼人くん。歌舞伎役者の道は遠く果てしないです。注目されれば、いいことも悪いことも言われますが、今の自分を信じ、これから積み重ねていく時間を信じ、ゆっくりと、まっすぐに進んでいってください。(コン)



◆古河耕史さん。五年前に遡りますが、某劇団の本科卒業発表会を観て、いつか中心となって活躍する俳優だと確信しました。今年二月、虚構の劇団『監視カメラが忘れたアリア』にゲスト主演、期待大です。(C)



◆昨年十二月に活動休止してしまいましたが、グリングの青木豪さん。高い評価を得ている作劇の手腕が今後どのように生かされていくか、又どんな作品を生み出すのか、注目していきたいと思います。(万)


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