えびす組劇場見聞録:第43号(2013年5月発行)

  第43号のおしながき


アベノミクスにTPP、諸外国との関係など、日々変化する社会情勢は、演劇という
虚構の世界にも映し出されます。えびす組のメンバーが、今感じることを語ります。


演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
劇団民藝公演
「真夜中の太陽」
谷山浩子 原案
工藤千夏 作
武田弘一郎 演出
紀伊国屋サザンシアター
2013年2月13日〜24日
観客の仕事〜演劇的幸福を求めて〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
劇団民藝公演
「夏・南方のローマンス」
木下順二 作
丹野郁弓 演出
紀伊国屋サザンシアター
2013年4月10日〜22日
観客の仕事〜演劇的幸福を求めて〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
地人会新社
「根っこ
アーノルド・ウェスカー 作
木村光一 訳
鵜山仁 演出
赤坂RED/THEATER
2013年4月4日〜28日
不機嫌なビーティ by マーガレット伊万里
「しゃばけ」 鄭義信 脚本・演出 赤坂ACTシアター
2013年4月20日〜29日
いのちを謳う妖(あやかし)たち by C・M・スペンサー
文楽と歌舞伎のこれからについて思うこと カネが全てではないけれど by コンスタンツェ・アンドウ
あとがき ○●○ 設置先劇場さん江 ○●○


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観客の仕事〜演劇的幸福を求めて
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
   あいかわらず下北沢や新宿三丁目界隈を彷徨する日々に、わが国屈指の老舗劇団である民藝が加わるようになった。今回は『真夜中の太陽』(谷山浩子原案 工藤千夏作 武田弘一郎演出 二月十三日〜二十四日 紀伊國屋サザンシアター)と、『夏・南方のローマンス 神と人とのあいだ第二部』(木下順二作 丹野郁弓演出 四月十日〜二十二日 同劇場)を、ふたりの新人女優平山晴加と山田志穂を軸に考えてみたい。ふたりは『アンネの日記』のオーディションで二〇一一年に入団し、現在は研究生である。二〇一二年秋に上演された『冬の花 ヒロシマのこころ』(小山祐士作 兒玉庸策演出)が初舞台で、ベトナムの戦傷孤児グエン・ドアンをダブルキャストで演じた。
 『真夜中の太陽』は、太平洋戦争末期のある女学院を舞台に、先生や級友たちのなかでひとりだけ生き残った女性(日色ともゑ)が、六十年以上の年月を経てなお心に刺さったままの棘のような悲しみに向き合い、旅立つまでの物語である。ベテランの日色を中心に、中堅の中地美佐子、齋藤尊史、平松敬綱が教師役でわきを固めるなか、これが初舞台の研修生ふくめ、十一名の若手女優が女生徒役で出演するという、民藝では異例の公演となった。
 初日のカーテンコールでは拍手が鳴りやまず、出演者がもう一度舞台に登場した。
 いわゆる新劇系の公演において、このような「ダブルコール」は極めて珍しい。若手も先輩も心を合わせて作品に取り組むすがたは清々しく、客席がそれを温かく受け入れたことの証左であろう。この作品で平山は野球好きの活発なサチを生き生きと、山田は祖父を囲碁で負かすという少々変わり者のトミコを落ち着いた印象で演じた。
 つぎに一九八七年の初演以来二十六年ぶりに再演された『夏・南方のローマンス 神と人とのあいだ第二部』は、東京裁判を扱った第一部『審判』とともに、民藝の財産演目である。敗戦から数年後、戦犯として処刑される陸軍上等兵と、彼の戦友や上官、妻や愛人の漫才師による濃厚な対話劇だ。
 平山と山田は、日本軍に統治された南国の島民の女たちに配された。山田は島民の女A。スパイの容疑をかけられ、日本兵たちからさんざんに暴行された挙げ句、恐怖と絶望で自殺する。ただ弱々しく哀れな造形ではなく、声や表情に土や汗の匂いが漂ってくるかのような情感があった。平山は島民の女B。裁判で検察官に問われるまま兵隊たちを指差し、「わたしは彼らから愛されていました。一晩に一人ずつ」と証言する。恨みや憎しみの感情はみえず、あっけらかんとした口調は客席に軽い笑いをもたらすほどであった。どちらも出番こそ少ないが、強烈な印象を残す。
 『冬の花〜』から『真夜中の太陽』を経て、『夏〜』の三作品すべてに出演したのは、百名を越える劇団員のなかで平山と山田のふたりだけである。『真夜中の太陽』は若干例外的な作品であるが、重厚で深遠な作品において、大役を演じる先輩たちのなかで小さな役を誠実につとめることは、つぎの舞台のための貴重な経験だ。
 『夏〜』の初日以来、自分はこの作品が三たび上演される日を本気で夢みるようになった。山田がしっとりした深い声で、上等兵の妻の「(夫は)あたしを愛そう愛そうとしてくれてた」の台詞を語り、平山の女漫才師が終幕で悲しみをぶつけるように啖呵を切る。そこに島民の女たちを演じた今回のすがたを重ね合わせることができたら。想像しただけでぞくぞくする。
 まさに「演劇的幸福」ではないか。
 ここで忘れてはならないのは、若い彼女たちが円熟の花を咲かせたときの自分のありさまである。今より年齢を重ねてあちこち衰えていることだけは確実で、無為に過ごしていては、「演劇的幸福」を得ることはできまい。いろいろな舞台に足を運び、戯曲を読み、日々のくらしに鋭いアンテナとやわらかな心を持ちつづけること。いったん客席に身を置いたなら、さかしらな予測や半端な知識はいさぎよく捨て、無心で舞台を受けとめること。今日いま、この瞬間からはじめられる。みる対象が新劇でも小劇場でも、五年十年、それ以上の長期的展望をもって客席に身を置く心構えが必要なのである。
 木下順二は戦後三十年の年に発表したエッセイ「未清算の過去」において、戦争責任の問題を「これから先は、想像力の問題になるというべきなのかも知れぬ。つまりひとのこととしてではなく自分の課題として、どう問題を自分の中にとり入れてくるかという仕事になるからである」(『木下順二集7』より公演パンフレット転載)と記す。
 この国は戦争責任を清算しないまま、さらに東日本大震災という重大な課題を背負うことになったのだ。
 俳優は舞台に立ち、演じる行為を通して戦争責任を考え、震災の課題に取り組む。
 それが仕事である。
 観客も仕事をしよう。
 これらの重い課題を、演劇をみる行為のなかに取り入れるのだ。
 課題は気が遠くなるほど大きく深く、ここまでやればぜったいに正しい答がでるというものではない。けれどもその先に「演劇的幸福」があるなら何とかがんばれるのではないか。若い女優さんたちをみるとつい欲がでて、少しずつ勇気がわいてくるのである。
( 4月10日観劇)

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不機嫌なビーティ
マーガレット・伊万里
 「根っこ(Roots)」(一九五九年)は、イギリスの劇作家アーノルド・ウェスカーによる作品で、「大麦入りのチキンスープ」(五八)、「エルサレムの事をはなしているんだ」(六〇)とあわせてウェスカー三部作と呼ばれ作者自身の自伝的な内容であり、作家としての地位を確立した作品群であるという。今回は、作家とも縁の深い地人会新社により上演された。(訳:木村光一 演出:鵜山仁)
 お話は一九五〇年代後半のイギリス、ノーフォークという地方の田舎町が舞台。ロンドンで働く主人公のビーティ・ブライアント(占部房子)が休暇で帰省し、二週間後には婚約者のロニィがやってくることになっている。
 彼女は姉夫婦(七瀬なつみ・宮川浩)や両親(金内喜久男・渡辺えり)との再会を喜ぶが、代り映えのしない田舎生活を続ける家族にいら立ちを感じており、都会生活で得た知識や新しい考え方を家族に必死に伝えようとしている。
 姉夫婦の生活にあれこれと口を出し、両親にも「もっと物事を考えて!」「質問をして!」とまくしたてる。父が仕事の降格を命ぜられてしまうと、そのままでいいのか?と、父親のやり方を否定する。
 じきにやってくる恋人に自分の家族のいいところを見せたい一心なのだろうと、笑顔でこたえていた姉や両親もしだいにとまどいを隠せなくなってくる。
 私の目には、田舎生活のうわべを批判するビーティが、かえって鼻持ちならない存在に見えていた。田舎生活を知らない私の羨望もあるが、地に足をつけ、貧しいながらも日々をつましく暮らす田舎の家族のほうがおだやかでよっぽど幸せそうに見えたのだ。
 果たして、ビーティの苛立ちは何なのか?どこからくるのか?とても疑問だった。
 いよいよ婚約者のロニィがやって来る日。実家のダイニングでは、母親が用意したたくさんの料理が並べられ、姉夫婦、兄夫婦が到着。皆がロニィの到着を待ちわびている。ところが届いたのは、ビーティに別れを告げるロニィからの一通の手紙だった。
 ビーティは、難しい本も読まなければ、勉強もできない。恋人の欲することも理解しようとはしてこなかった。ここでようやくビーティは本当のことに気づき始める。これまでの自分のいらいらは、他人の言葉でしか語れなかった自分へのいら立ちだったということを。自分がひけらかしていた話は、すべて社会主義者のロニィの受け売りでしかなかったから。
 ロニィとの別れを受け入れ、自分の気持ちをようやく見つけた瞬間、ビーティの堰を切ったような長い独白が続く。自分を発見した喜びが彼女の全身にみなぎり、見ている観客にもひしひしと伝わってくる感動的なラストである。
 さらにビーティは自分に「根っこがない」と言い始める。田舎の農家育ちで都会には何のむすびつきもない自分が、都会生活者の中で何を語ればいいのかわからないということに気がついたのだ。
 ビーティの家族にとって「根っこ」とは、農民生活そのもの。職・住の近い自給自足のような生活。だけれど若者にとっては退屈なだけ。と同時に、根っこがない生き方は、現代社会への批判的まなざしでもある。とはいえ、対する田舎暮らしの家族はその根っこを一切疑わず、成長も夢見ず、ただ日々を生きながらえるだけ。
 ビーティが自分の本当の姿に気づいたとき、ようやく自分の足で一歩を踏み出すことができた。これから彼女がどんな人生を歩んでいくのだろうと思うとわくわくし、心から応援したい気持ちになった。
 田舎や地方で暮らしたことのない自分にとって、故郷というものが心にどんな結びつきをもたらし、拠り所となっているものなのか、実感としてはわからない部分が多い。幼い頃は、帰省する友をながめながら、長い休みの間に遊びに行くところがあっていいなという心持ちぐらいにしかならなかった。
 生まれ育った場所というだけではなく、世代を超えて脈々とつながってきた心のふるさと。
 ここで私がすぐに思い浮かべるのは、二年前の大きな震災そして福島の原発事故によって、そこに存在しているにもかかわらず、家に帰ることが許されない人々の姿だけだ。
 生活の基盤を突然奪われ、そして故郷との断絶。言葉では言い尽くせぬ悲しみや苦しみをみんなが抱えている。そんな彼らの人生はこれからどうなってゆくのか。ゆえに、厳しいながらも必死に農家の生活を営み続ける彼らの姿が、あまりにまぶしく映るのだ。
(4月15日観劇)

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いのちを謳う妖(あやかし)たち
C・M・スペンサー
  人気小説が舞台化された『しゃばけ』を観た。舞台は花のお江戸。主人公の江戸有数の薬種問屋兼廻船問屋・長崎屋のひとり息子で体の弱い一太郎には沢村一樹が扮する。齢四十を越した・・・という点が原作と異なるため、登場人物の設定については脚本・演出の鄭義信によって再構築されているが、本筋は読んでみれば原作どおり。その世界観を舞台でどう見せるのかという仕掛けの根底には、「いのち」への確執があった。
 今でも日本列島は、二年前の大惨事を呼び起こすような地震に日々見舞われている。それを、忘れるな〜という警告と捉えるならば、そこに在るのは「いのち」の重み。舞台化された『しゃばけ』は、妖(あやかし)を通して、失った、そして今在る「いのち」に至るまで、持てる私たちの前でその意味を問いかけていた。
 一太郎の周辺で起きる殺人事件。その真相が、一太郎を見守る妖たちによって明かされていく。「器物が百年の時を経て成る妖怪、付喪神(つくもかみ)」。この付喪神になれる寸前で壊れてしまった大工道具の墨壷。この墨壷が残りの命を取り戻して付喪神にならんと人間に取り憑き、「これを嗅げば魂が戻る」という返魂香(はんごうこう)の香りを求めて人を殺めながらこの世を探し回っている。それが一太郎の腹違いの弟の松之助(高橋光臣)に取り憑いたらしいから心配だ。どうやら墨壷が狙う矛先は、一太郎に向けられているようだった。  四十を過ぎても、体が弱いが故に母親からまるで赤子のように扱われている一太郎。彼は、本来は死んだ子どもだった。祖母は妖、母は妖と人間の子。母が産んだ子は死んだが、死者の魂を蘇らせる返魂香と引き替えに祖母は他界。そして一太郎はこの世に引き戻された。その臭いだけが、まだ一太郎に染み着いているのだ。しかし、今ではこの世に存在しない返魂香。一太郎は、臭いを求めて殺人まで犯す妖を退治するため、供の妖たちを連れて家を出た。
 この作品では、様々な「いのち」の在り方を目の当たりにする。自らの命に代えて子どもを授けて欲しいと願った母、おたえ(麻実れい)。舞台の上で一太郎の母、おたえが歌い出す。振りを交え、バックコーラスを従えて、なんともエネルギッシュに当時の想いを歌い出す。一番、二番、三番と永遠に続きそうな勢いを、一太郎が止めた。おたえは百二十五番まで歌うつもりだったと。それほどの想いと祈りの末に、一太郎は生まれてきた。 
 一太郎を見守る妖の鈴彦姫(星野園美)、実は彼女は付喪神。公表年齢二十歳、の前に百年生きていた鈴だった。百年を経て付喪神となることが、どんなに楽しみだったかを語る鈴彦姫の幸せそうなこと。
 それにひきかえ百年を待たずに壊れてしまった大工道具の墨壷。人の手で壊され不本意にもその生涯を閉じねばならなかった墨壷の、ここでは悪役ながら終えてしまった命への、本来ならあるべきはずの命への執着が哀れでならない。
 人間だって負けちゃいない。原作では、お金持ちの升田屋に年頃のおしま、というお嬢さんがいるという話題だけだったが、ここではその、おしま(池田有希子)が、自分こそが一太郎にふさわしいと登場する。おしまは、家同士の釣り合い、そして自分のチャームポイント(である爆乳)などを武器に、これだから当然自分たちは結ばれるべき、と一太郎に迫り寄る。一度ならず二度までも妖に邪魔されようとも、彼女はめげない。そして登場するごとに歌い、踊る。その理由が、登場回数が少ないから自らの存在をアピールするのだと、気持ちいいほどに溢れみなぎる生命力。
 そしてなによりも活力を与えてくれるのが、舞台に宿る役者魂という名の命。しつこい演出で有名だという鄭義信。ギャグやネタの繰り返しが、ここでは何度出てきたことか。全力で取り組む役者たち。その「くどさ」が「とことん」に変わった時、舞台と客席に一体感が生まれ、観客は歓喜した。
 舞台の上で新たな命も生まれていた。約十一年ぶりの舞台となる沢村一樹、そして今回が初舞台となる一太郎の友人、永吉の妹お春を演じる臼田あさ美。目の前で役を生き、カーテンコールで時おり涙ぐむその姿を観て、舞台の上に生まれる新たな息吹を感じた。
 「いのち」をめぐる人間と妖との戦い、「いのち」のあれこれ。これまで『焼き肉ドラゴン』『パーマ屋スミレ』など、生活を守るために戦い、必死に生きる人々の姿を描いてきた鄭義信。震災後は「希望」をテーマに仕事をしているとプログラムで述べ、笑いのある作品を意識したとある。この舞台には、ただ観ているだけでもフッと、いや声をあげて笑える場面がたくさんある。「いのち」の尊さを謳い、今この時を感じるエネルギーを舞台版『しゃばけ』は放ち続けていた。いつまでも、いつまでも。
(4月20日観劇)

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カネが全てではないけれど
コンスタンツェ・アンドウ
 日本の伝統芸能の代表格は、能楽、人形浄瑠璃文楽(以下文楽)、歌舞伎と言って良いだろう。ユネスコの無形文化遺産にも、この順番で登録されている。その中の文楽と歌舞伎が、昨年から今年にかけて社会的に大きな話題となった。
  文楽は、大阪市の補助金削減・凍結問題が広く報道され、橋下市長の「暴挙」だ、いや「英断」だ、と意見が飛び交い、議論が巻き起こった。文楽ファンの私としては、市長のやり方や理屈に納得できない部分が多かったが、来るべきものが来た、という思いもあった。
  「観客が少ない」「予算が足りない」という事実に対し、「広く支持されない娯楽に税金を払う必要はない」と考えるか、「採算が取れない芸術だからこそ税金で支えるべき」と考えるかは、個人によって大きく異なり、永遠に解けないクイズのように思える。
  選挙で選ばれた政治家の考えは無視できない。国や地方自治体を背景に持つものは安定しているようでいて、ときの為政者がどう「公共性」を解釈するか、何に力を注ぎたいかによって、存続が左右される危険を常にはらんでいるのである。
  最終的には、平成二十四年度予算の執行は決定された。一連の騒動がファンの危機感をあおり、一般人への宣伝にもなったようで、動員数も増えた。二十五年度以降は興行実績に連動して補助金の支給額が増減されるので、勢いを保ちたい。
  今後は、文化事業の評価を行う「アーツカウンシル」が設立され、助成に対する審査も行われる。メンバーや活動内容に注視が必要だ。
  明治末期以降、松竹が文楽の興行権を持っていたが、昭和三十八年に手放している。橋下市長が「稼げる文楽」を望んでも、稼げないことは既にはっきりしているのである。芸のレベルや興行規模、料金などを維持しつつ、個人的な判断では揺るがない普遍的な価値を行政と住民に認めさせ、安定的な支援を受ける。そのための長期戦略を立案し、実行できる人材が求められる。
  歌舞伎は、昨年十二月に中村勘三郎、今年二月に市川團十郎を失うという悲しい事件を経て、第五期歌舞伎座開場で活況を呈している。
  建て直しには反対意見もあったが、良いタイミングだったと思う。先代は戦後の突貫工事で再建されたもので、私は何度か地震を体験したが、生きた心地がしなかった(ここで死ねれば本望と思った瞬間もあったが)。仮に東日本大震災で人的被害や建物の損傷が出ていたら、補償や修復など、心理的・経済的影響は甚大だっただろう。
  オフィスビルを併設して家賃収入を得ることも納得がいく。歌舞伎の興行は私企業である松竹がほぼ独占しており、松竹が儲からなければ歌舞伎も危ないのである。ただし、ビル開業時の入居率は六・七割とのこと。それで儲かるのか、私にはわからない。
  先代の姿を踏襲した新しい歌舞伎座はおおむね好意的に受け入れられているが、誰もが「これからが正念場」と口にする。「新しもの好き」で賑わう開場ブームはいつか去る。全国に歌舞伎を上演する大劇場は複数あるが、観客を集められる人気役者は一握り。その役者たちばかりに負担がかかり、演目は定番化している。
  中でも観客にとって切実な問題はチケット代の高さだ。四月から六月の公演は客席の半分以上を占める一等席が二万円。七月以降も一万八千円程度で推移すると思われ、庶民の金銭感覚とは大きく乖離している。
音楽・衣装・鬘・装置・小道具など、歌舞伎の舞台にお金がかかること、かけなくてはならないことは重々承知している。見えにくいところで歌舞伎を支える人たちへの報酬が減らされることだけは絶対に避けてもらいたいが、他の部分で企業努力ができないだろうか。
  かつて、芝居町は「悪所」と呼ばれ、幕府の弾圧を受けてきた。それを跳ね除け続けたしぶとさを受け継ぎ、これからも、お上に頼らず発展してほしいと思う。しかし、平成以降、大劇場の興行形態は変化し、観客の主体は「個人」となった。個人のニーズも、企業を取り巻く環境も、うつろいやすく、明日が読めない。時代の流れに柔軟に対応し続けるには、歌舞伎は大きくなりすぎてしまったのではないかという不安を感じている。
  江戸時代に生まれ、兄弟のように育ってきた文楽と歌舞伎。それぞれが浮き沈みを経験し、現在は正反対の境遇に置かれているが、重大な分岐点にあることは同じだと思う。未来へ繋がる「無形文化遺産」ではなく、単なる「過去の遺産」にならないよう、関係者の奮起を願う。
  伝統芸能を「金」の視点ばかりで考えるのは悲しいけれど、避けて通ることはできない。文楽にも歌舞伎にも「金」に振り回される人間たちが数多く登場する。「金の切れ目が命の切れ目」…それは舞台の上だけで。

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 設置先劇場さん江  

【シアター風姿花伝】 椎名町、下落合、目白のアクセスがあり、お勧めは目白駅徒歩十八分のコース。可愛らしいケーキ屋や不思議な古書店がみる前の期待を弾ませ、雰囲気のいい居酒屋がみた後の余韻を包みます。(ビ)



【シアターサンモール】 新宿御苑前駅から徒歩三分。閑静な住宅街の地下に、こんなに広々とした劇場があったなんて!劇場へ行くと、その公演に出演中の俳優について書いた見聞録が設置してあり、恥ずかしいやら嬉しいやら。隠れ家的劇場です。(C)



【アーツ千代田3331】 多くの学校が生徒の安全のため門を閉ざす中、もと学校だったこの場所は開放感にあふれている。少し歩けば人とアートに出会える、そんな町が増えますように。(コン)



【三鷹市芸術文化センター星のホール】 注目の若手劇団を集めて開催されるフェスティバル「MITAKA "Next" Selection」は、今年でもう十四回目なのですね。静かな雰囲気をたたえた劇場ながら、そのラインアップには熱いものを感じます。(万)

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