えびす組劇場見聞録:第44号(2013年9月発行)

第44号のおしながき 


押されて心地良いように、観て幸せを感じる観劇のツボ。
えびす組のメンバーがはまった喜びの作品をご紹介します。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
「帰郷」 ハロルド・ピンター 作
小川絵梨子 訳・演出
シアター風姿花伝
6/14〜6/30
「わたしの好きなピンターさん」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
イキウメ
「地下室の手記」
前川知大 作・演出 赤坂RED/THEATER
7/20〜8/5
「あるあるの羞恥、そして希望」 by C・M・スペンサー
「非常の人 何ぞ非常に」 マキノノゾミ作・演出 パルコ劇場
7/8〜7/28
「正統派時代劇の行方」 by コンスタンツェ・アンドウ
はえぎわ
「ガラパコスパコス」
ノゾエ征爾 作・演出 三鷹市芸術文化センター星のホール
6/7〜6/16
「あしたがあるさ」 by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ 設置先劇場さん江 ○●○

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「わたしの好きなピンターさん」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  ハロルド・ピンター作『帰郷』の初演は一九六五年ロンドン、ロイヤル・シェイクスピア劇団の上演である。当時同劇団の芸術監督だったピーター・ホールが演出した。登場人物たちの行動があまりに不道徳だと、評判は芳しくなかったようだ。
 ロンドン下町の男所帯に、米国で哲学者として成功した長男テディが妻のルースを伴い、六年ぶりに帰ってきた。魅力的な女性の来訪に男たちは色めき立つが、その様相は「きれいなお嫁さんがやってきた」というほほ笑ましさにはほど遠い。父親は彼女をみたとたんに淫売呼ばわり、弟のレニーは義理の姉とダンスをしながら濃厚なキスを交わし、末の弟ジョーイもそのプレイに加わる。それを夫のテディは咎めない。
 さらに男たちは町に部屋を借りて彼女に客を取らせようと提案し、テディはひとりでうちを去る。不道徳と怒る以前に、「ありえない」と困惑する話だ。
 新進気鋭の小川絵梨子の翻訳・演出による今回の舞台は、この「ありえない」感覚を払拭するだけのじゅうぶんな理解が得られるものではなかった。しかしこれまでみたピンター劇について、なぜあのとき不完全燃焼だったかという疑問への有効な答であり、これからみるであろう舞台に対して、「どんなピンターをみたいか」というビジョンのために、重要な役割を持つものである。
 将来べつの座組みでみたとしても、この日の舞台のイメージが妨げになることはないであろう。これは舞台の印象が希薄ということではなく、むしろ濃厚で明確な印象があったからこそ、再び戯曲に戻って作品に対する自分のイメージを新たに構築する意欲を与えられたからにほかならない。
 公演のパンフレットに掲載の小川の挨拶文によれば、レニー役の浅野雅博が「この本は本当の意味で戯曲だと思う」と話していたそうだ。ピンターの台詞を話し、舞台に立つ人の実感であろう。
 ここで思い出したのが、二〇〇八年のクリスマスイヴにピンターが亡くなったことを受けて、翌年一月六日の朝日新聞に劇作家の坂手洋二が寄稿した追悼文である。『帰郷』はじめいくつかの作品を具体例に挙げながら、不条理のようで劇構造の整合性は獲得されていること、おそろしく感情豊かで極めてシアトリカル(演劇的)であるとし、「ピンター氏の表現は、演劇への信頼そのものに支えられていることを私たちは知っている」と結ぶ。
 舞台づくりの現場と客席の温度差であろうか、正直にいうと自分は俳優の実感、劇作家の確信いずれもしっくりこない。どういうわけか好き。それだけなのだ。そのくせ、難解だとか不条理だと諦めたくない意地があって、「なぜ好きか」を考えることが自分のピンター道ならぬ、いま現在におけるピンターへの距離の取り方であると考える。
 『帰郷』は普通のホームドラマとはとても言えないが、さまざまな出来事が唐突に発生するわけではない。
 たとえばルースへの父親の最初の暴言である。前の晩、ルースはレニーに会うと、実に思わせぶりなふるまいで、その手の女であることを濃厚に匂わせる。と言うよりレニーのほうから彼女を挑発し、結局いなされてしまうのだ。堅気の女に初対面でこのような接し方をすることは考えにくく、その場に居合わせなかった父親にしても、ルースから瞬間的に危ないものを感じとったためとも想像できる。
 問題の人物の過去は往々にして他者から「暴かれる」ものであるが、ルースは自分の口から少しずつ秘密を明かしてゆく。彼女のふるまいが男たちの心に変化をもたらし、この劇が始まる以前の彼らの心象までもあぶり出すのである。
 これらの手ごたえは、舞台を一度みただけではとうてい得られない。戯曲を繰りかえし読み、俳優の台詞のいいかたや表情などをイメージし、また戯曲にもどるという作業によって少しずつ掘りあてられるものだ。したがって、盆状の舞台がぐるぐるまわったり、劇場の壁が鏡張りだったり(二〇一二年夏新国立劇場上演の『温室』)、登場人物が大阪弁を話していたり(二〇一〇年春演劇集団円公演『帰郷』)といったことは、演出家による作品の解釈をごく表面的に客席に示す手段ではあっても、少なくとも自分が劇世界を味わうことには影響を及ぼさない。
 「謎めいていて、無口で、無愛想で、短気で、怒りっぽくて、近寄りがたい」とは、一九九五年デイヴィッド・コーエン賞への謝辞においてピンターが自身を語ったことばである。手っとり早く理解して安心したいという甘えを、ピンターはことごとく退ける。 
 そのいっぽうで、二〇〇六年『ガーディアン』掲載のインタヴューでは、「観客と俳優がある特定の時間を共有すること、舞台と客席との間に醸しだされる濃密な生―これについて考えるだけでも、演劇がかけがえのないものであることがわかります(「何も起こりはしなかった」(喜志哲雄編訳 集英社新書収録)と熱い思いを語っている。
 このすてきな劇作家と不勉強な日本の中年演劇女子を結ぶのは、舞台と戯曲しかない。答がでなくても舞台をみて戯曲を読みつづけよう。
 やはりどういうわけかピンターが好き。しかも片想いだというのに幸福なのである。
(六月十九日観劇)

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「あるあるの羞恥、そして希望」
C・M・スペンサー
 劇団イキウメがこの夏、番外編とも言うべき別館の'カタルシツ'を立ち上げた。そこで上演されたのは『地下室の手記』(作・演出・前川知大)。
 劇団イキウメと言えば、なさそうでありそうな不思議な世界観を持ち味としている。SFのように近未来的な、または身近な恐怖にも似た出来事を「あるかも」と思わせる作風は、時にカルトと称されてきた。
 この'カタルシツ'第一弾には、原案となる作品が存在する。それを前川が現代風にアレンジした。原案はドストエフスキーの『地下室の手記』。作品のタイトルこそ同じだが、百五十年前に書かれた帝政ロシアの時代を現代の日本に置き換え、小説では主人公が読み手を意識してノートに記した手記を、ネットのストリーミング生放送の配信という手段を用いて、その時向こう側に誰かがいることを念頭に置いたドラマに仕上げた。主人公が語り続けるところに舞台としての醍醐味が感じられる。
 演じる安井順平は、従来の当て書きであろうイキウメ作品では、説明に値する独白の多い役割を担ってきた。安井の経歴を検索すると、お笑いタレント(ピン芸人)とある。なるほど彼の特性を上手く活かした地下室から独り発信する主人公の語る言葉には、説得力がある。カタルシツ(語る室)ならではのキャスティング、というわけだ。
 ところで、手記には自分の体験を綴るという響きがある。一般の人が自らの主張や出来事を不特定多数の世間に向けて発表するとなると、現代ではさしずめブログやフェイスブックか。主人公は四十代の男性だ。あえてストリーミング生放送で配信するあたり、手軽に始められるブログとは異なる人物像が浮かんでくる。
 主人公がネット配信することにより、視聴者が画面に書き込むコメントが現れた。ネットの向こう側を意識して語るその口調は、上から目線だ。少なくとも最初のうちは。この互いに一方的な対話がこの作品の面白いところなのだが、視聴者のコメントであわや「炎上」か、と思うところで、彼は二十年前のエピソードについて包み隠さず語り始めた。
 彼は自身が虐げられているという認識を持っている。しかし同じ人間である以上、人類は平等であるべきと考えているようだ。これはもっともなことである。滑稽に見えてしまうのは、そのやり口だ。どうやら自己満足というカタチで自身の逆襲を完結させようとしているようだ。つまり正面切って不当性を訴えるのではなく、相手に知られぬよう仕返しをするのだ。
 それは現実の社会道徳との葛藤である。この葛藤の独白に「あるある」と思った諸氏がどれだけいただろうか。「あるある」と思うほど、自分自身の器の小ささを思い知ってしまった。主人公の行いが反面教師であることに気付いたのだ。他人に、そして相手に知られずに復讐を施し実行することで得られる快感。頷きながらもその行為に羞恥を覚えた。
 いつの間にか、観客もサイトを閲覧している視聴者となっていた。舞台の傍らに部屋でくつろぎながらPCを傍観する女性を配することにより、私たちの姿をも舞台に映し出していた。
 彼の話が佳境に入る。成り行きで入ってしまった風俗店で働く少女リサ(小野ゆり子)。その登場シーンはまるで「ヴィーナスの誕生」の絵画のごとく、彼女は舞台の中央で光り輝いていた。彼はリサにこんなところに居るべきではないと説教するが、それはカッコつけの偽善なのか?そうではないと彼女に伝わるには時間がかかった。罵られながらも残した自宅の連絡先のメモ。思いがけないことに、リサは本音ではこの仕事から抜け出したいと助けを求めて彼の自宅にやって来た。
 愛か欲望か、彼は彼女を抱いた。そして彼女に金を渡すと背を向けてうずくまってしまった。可哀そうに彼女が彼に望みを託していたのは、渡された金を部屋に残して去ったことで明らかだった。結局、なんの力にもなろうとしない彼に、リサは失望したのだろう。その背中を追いかけてみても、もはや彼女の心は離れていた。この出来事を語る彼の姿は、まるで懺悔だ。
 彼は現在、母親の遺産で働かずに済んでいる。ただ発信するのが目的であったらならば、引きこもって自宅から発信してもいいわけだ。あえて原作どおり地下室に居を構えるあたり、リサとの出会いが彼のもう元には戻らない美しく愛おしい瞬間であり、封印してしまいたいほど深い心の傷だったのだろう。そしてこの唯一の物語が、世間とつながる最後の手段、つまりは彼にとっては賭けだったのではないだろうか。
 今でこそ賭けと言えるが、遺言かもしれないという想いが最初はあった。しかし全てを語り終えた後の清々しく堂々とした彼の姿に、私は彼自身の希望を見た。虐げられていたという過去から本心を打ち明けた彼に対して、ネットの画面上の書き込みも「何気に神配信」など観客の私たち同様に、その内容に観た甲斐があったと肩を叩いて励ましたい気分にかられていた。手記では得られない世間の反応、もしかしたら彼はまた地上に戻ってくるかもしれない。現代版『地下室の手記』は、そんな余韻を残して幕を下ろした。
 余談だが「カタルシス」という演劇学用語がある。一般的な意味は「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」(三省堂ワードワイズウェブより)。そして意図したものか、劇場は地下にあった。
(八月三日観劇)

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「正統派時代劇の行方」     
コンスタンツェ・アンドウ
 作品は面白いけど役者が・・・。役者はいいけど作品が・・・。そんな感想をよく耳にする。観客は、演出や美術、音楽なども含めた舞台の各パーツを天秤にかけ、最終的に「よしあし」や「好き嫌い」の判断をくだす。ひとつのパーツが突出して平均点を上下させたりもするが、久しぶりに、全てのパーツが高いレベルで揃っていると感じさせた舞台が『非常の人 何ぞ非常に』(マキノノゾミ 作・演出)である。
 今回の主たる観劇動機は役者。篠井英介の出演作にはほぼ無条件で足を運ぶし、佐々木蔵之介の舞台も優先順位が高いので、迷うことなくチケットを取った。
 ところは江戸、ときは明和末期〜安永(一七七○年代頃)。「エレキテル」の平賀源内(佐々木)が五十一歳で没するまでの約八年間を描いた密度の濃い台詞劇だ。
 源内は自らの才を認め、無数の仕事を手がけて成功するが、「畢生の仕事」をなしていないことに気づく。一方、源内が友人として様々な形で支援していた杉田玄白(岡本健一)は、「解体新書」の困難な翻訳を地道にやり遂げ、名を上げる。
 立場の変化につれて二人の関係は微妙に揺らぎ、共鳴したり捻れたり、尽くしたり傷つけたりしながらも、根底の繋がりは切れることがない。
 おおらかで社交的に見える源内だが、心の一部を孤独に閉ざしている。そこへ踏み込んできた陰間の菊千代(のちに佐吉、小柳友)が、源内を変えてゆく。
 出演者は男性のみ五人。佐々木は、人間の明と暗、熱さと冷たさを自在に表現し、惚れぼれとする役者ぶり。この作品の魅力は源内の魅力であり、それは佐々木の魅力に他ならない。ラストの独白と、本当にラストの笑顔が今も心に残る。
 剃髪して役に臨んだ岡本は、クールなイメージに反し、ときに滑稽なまでに実直な人物像が似合い、意外な驚きだった。
 舞台は二作目となる小柳は、やや固さが残るものの、若い輝きが身上。芸達者な共演者から学ぶことも多かっただろう。
 篠井は、陰間茶屋の女将・歌舞伎女方・版元・蘭学者・某藩の役人と、男女硬軟、職業身分の異なる五役を演じ分け、鮮やかな変身ぶりを披露。マキノ作品常連の奥田達士も四役を担当、役者に寄せた期待は充分満たされた。
 副題に『奇譚 平賀源内と杉田玄白』とあるが、奇をてらったところはなく、マキノがパンフレットに書いた通りの「ストレート勝負」。笑いと涙を散りばめ、友情・愛情・仕事を見据えた脚本は、ちょっとこちらが照れくさくなるほど。しかし、休憩込みで三時間近い長尺を飽きさせない台詞と演出は力強く、照れも含めて味わう「ストレート」の爽快感は、近来稀な心地良さだった。
 もう一つ特筆したいのは、音楽を除いては、「正統派」の時代劇だったこと。チラシに写る出演者は現代風の服装だが、舞台上では当時の髪型できちんと和服を着て、古風な言葉をそのまま話し、所作に破綻もない。装置(陰間茶屋の座敷と源内の仕事場)や小道具も丁寧に作られ、時代劇の雰囲気をたたえている。
 現代劇と比べて恋愛や人の生死をドラマチックに描ける時代劇は、演劇ではまだ需要がある。しかし、赤や金の鬘をつけて国籍不明の衣装をまとったり、着物にスニーカーでアクションをこなしたり、現代語を話し、定番の史実や風俗に縛られない舞台が主流だ。「歴女」好みのゲームやアニメ、劇団☆新感線のメジャー化などの影響だろうか。
 私も、そういう「エンタメ系」の時代劇を抵抗なく楽しんでいるが、同時に、正統派時代劇の危機を感じている。
 家に一台だけのテレビで流れる時代劇を通じ、子供たちが自然とその世界に親しんでいたのは遥か昔となり、大物の俳優・女優・歌手達が時代劇に主演した大劇場のラインナップには外国産ミュージカルが並ぶ。
日本人の顔立ちや体型は西洋化し、着物が似合わない若者も多い。彼ら・彼女らにとって、明治や大正を描いた作品も馴染みの薄い時代劇のジャンルに入るだろう。
 見る側も作る側も、意識的に取り組まない限り、歌舞伎以外の演劇で正統派時代劇を存続させることは難しい状況であり、それは、日本の演劇的財産として残すべき作品群の上演機会の減少に直結する。
 今、正統派時代劇の骨格を備えた新作『非常の人・・・』に出会えたことは喜びだった。まだ書ける人がいる、作れる人がいる、演じられる人がいる。頼もしく思った。
 その一方、安堵できないのは入りの悪さだ。初日直後の平日夜とはいえ、舞台に対する満足感と、空席数とのギャップに正直戸惑った。もしも「時代劇」が理由なら、時はすでに遅いのかもしれない。もちろん、招待や割引で客寄せをするケースもあるので、満席イコール興行成功とは限らないのが現実なのだが。
 『非常の人・・・』が同じメンバーで再演されることを強く願う。自分がもう一度充実した時間を過ごすため。ひとりでも多くの人にこの舞台に触れてもらうため。そして、正統派時代劇がこれからも必要とされるのかを占うために。
(七月十日観劇)

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「あしたがあるさ」
マーガレット伊万里
 ありふれた平凡な日々が当たり前ではないと知ってしまった私たち。生と死を意識せざるを得ない日々が続いている。
 劇団はえぎわ第二十六回公演「ガラパコスパコス?進化してんのかしてないのか?」のチラシに、「全ての人間に共通するのは、生まれることと死ぬこと。この二つだけ」とある。高齢者施設での公演で、老いと直接向き合ったことがきっかけの作品だと、作・演出のノゾエ征爾は言っている。
 二〇一〇年十二月に初演、一二年には特別企画で出演者をかえて上演。今回は二年半ぶりの劇団による再演だ。
 派遣でピエロの仕事をする太郎(ままごと・柴幸男)は、ある日老人ホームをふらふらと抜け出て迷子になった老婆まちこ(井内ミワク)と出会う。太郎はまちこを放っておけず、一人住まいのアパートに招き入れ、帰すきっかけを失ったまま、奇妙な二人の共同生活が始まる。
 太郎は優しくおっとりした青年だが、不器用でピエロの仕事は日々うまくいかない。そんな彼をまちこは無条件で受け入れてくれる。それはまちこが認知症を患っているからでもある。いまの社会に生きづらさを感じる太郎にとって、まちこの存在は都合のいい逃げ場所だ。
 まちこの面倒をかいがいしく見る太郎は、ピエロの仕事より、友人と話をするときより、格段に生き生きとしている。ゆえに、家の外での太郎の姿は相当歯痒い。
 当然ながら、まちこの認知症は少しずつ進行しており、だんだん太郎のこともわからなくなってきてしまう。老いるとはこういうこと、生きるとは死にむかっていくこと。頭ではわかっているはずのことを、太郎は身を以て気づかされるのである。
 最後にまちこは家族のもとへ帰り、太郎はピエロの衣装を脱ぎスーツに着替えて、満員のバスに自ら乗り込む。特別明るい未来ではないかもしれないが、当たり前の明日を迎えるため。彼の将来を暗示するかのようなバスのシーンは清々しい。
 そういえば、二〇〇九年の公演「寿、命。ぴよ」でも、美大生ねね子(小百合油利。現在は川上友里)と年配の男アンダーソン(伊藤ヨタロウ)が一緒に暮らしていた。一見脈絡のない二人の生活は、今回の作品との類似を覚えるが、その時は二人が一緒に住むことの意味を見いだすのが難しかった。
 太郎はまちことの生活から、老女の長い人生に思いめぐらすことで、自分の生をしっかり受け止めたということがよく伝わってきた。
 二人をとりまく多くの人間が描かれる今作品。二年半ぶりの再演で、他の登場人物のエピソードもより粒だっていて、見応えがあった。
 太郎の兄夫婦(ノゾエ征爾、たにぐちいくこ)と耕介(新名基浩)の奇妙な三角関係や、同級生の緑(鈴真紀史)と夫で元担任の柱谷(山口航太)。老人ホームのスタッフや、バスにいつも乗れない女など、個性豊かなキャラクターがはえぎわならではの笑いで舞台に彩りをそえる。いずれも生きづらさを抱えた不器用な人ばかりだけれど。
 特に、太郎を心配する会社の渡(笠木泉)と渡に好意を寄せる上司・花丸(町田水城)のやりとりは、笑いをまといつつ緊張感があって非常にスリリング。セクハラまがいの花丸の態度は、恋ゆえに身をやつす人間のやるせなさが投影されている。最後は目線やしぐさだけで、二人の微妙な関係性が伝わってくる絶妙なシーンであった。いつかはえぎわで、男女の愛を描いた作品を見てみたい。
 初演のこまばアゴラ劇場から三鷹の星のホールへ移り、客席も舞台もかなり広くなった。かといって舞台の広さに見劣りしないしつらえで、出演者の多さを考えると、今回のほうが役者の動きが整理され、見やすく美しい。逆によくあれだけの人数が、小さな劇場で動いていたなと思うぐらい。
 はえぎわ特有の脱線につぐ脱線がほどよく陰をひそめ、それぞれのシーンがバランス良くで進んでいく。作品としても劇団としても成長が見られる充実した公演だった。
(六月十五日観劇)

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 『劇場讃江 設置御礼かたがた』  

◆【アトリエセンティオ】
池袋からひと駅、静かな住宅街の一室。イプセンもイヨネスコも、これまでみたことのない顔で観客を待ちうけている。終演後はこのまま夜の闇に溶けて、劇場の一部になってしまいそうで。(ビ)



◆【横浜赤レンガ倉庫】
横浜のガイドブックに必ず載るザ・観光名所の中のホール。お土産を物色したり、大型客船を眺めて豪華な海外旅行を想像したのも楽しい記憶。今度は「船乗り込み」してみたい。(コン)



◆【カフェ・モンタージュ】
今号から置いていただく京都の街中の小さな劇場。きっかけは「カフェという名の劇場ですね」と寄せたコメントでした。まさにそのつもりで名付けられたそうで、音楽と芝居とカフェが生活の一部になりそうな空間です。(C)



◆【アール座読書館】
そこは高円寺の商店街から少し外れたところ。扉を開けると、外界と完全に切り離された異空間で、時を忘れていつまでもいたくなります。読書だけでなく気分をリセットしたいときにもオススメ。(万)

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