えびす組劇場見聞録:第46号(2014年5月発行)

  第46号のおしながき


「歌は世につれ世は歌につれ」と言いますが、一世紀以上昔の戯曲から現代の作家まで
どれをとっても、今を生きる私達の姿が映し出されているのではないでしょうか。


演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
スーパー歌舞伎U
「空ヲ刻ム者」
前川知大 作・演出
市川猿翁 スーパーバイザー
新橋演舞場
2014年3月5日〜29日

『空ヲ刻ム者』ガ進ム道

by ビアトリス・ドゥ・ボヌール

『二代目襲名』のその先に


by コンスタンツェ・アンドウ
地人会新社
「幽霊
イプセン 作
森新太郎 演出
Bunkamuraシアターコクーン
2014年3月20日〜30日
ハロー、アゲイン、イプセン by マーガレット伊万里
「マニラ瑞穂記」 秋元和代 作
栗山民也 演出
新国立劇場小劇場
2014年4月3日〜20日

見届ける出会い


by C・M・スペンサー
あとがき ○●○ わたしの妄想シアター ○●○


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『空ヲ刻ム者』ガ進ム道
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  ようやくスーパー歌舞伎デヴューを果たした。と言っても、みたのは「スーパー歌舞伎U(セカンド)」である。創始者三代目市川猿之助(現猿翁)のスーパー歌舞伎抜きに論じるのはいささか乱暴だろうか。しかしこの体験がつづく(かもしれない)スーパー歌舞伎V、W、さらに本家本元の歌舞伎や現代劇、小劇場演劇の考察に繋がる可能性が予感され、ここに拙いことばを記す次第である。
 今回の大きな特徴は、劇団イキウメの主宰である劇作家前川知大のオリジナル作品であることと、現代劇の俳優佐々木蔵之介、福士誠治、浅野和之の共演だ。これまでも金田龍之介がスーパー歌舞伎、笹野高史がコクーン歌舞伎に出演の前例があるが、三俳優を起用し、佐々木を四代目猿之助に並ぶ二枚看板の主役に据えたのは実に大胆である。
 結論から言う。『空ヲ刻ム者』は歌舞伎テイストの現代劇でも現代風の歌舞伎でもなく、まさに「スーパー歌舞伎U」以外の何ものでもない独自性と魅力があふれる舞台であった。両者の魅力を活かしつつ、異質なものが同じ舞台に立つ不自然や無理をもエンターテインメントに転化させる工夫や仕掛けが随所に仕込まれている。たとえば幕開け早々に「口上」が行われることである。
 佐々木蔵之介が、「猿之助さんから今度歌舞伎に出てねと言われ、冗談のつもりで引き受けたらほんとうになってしまった。顔面蒼白でございます」と文字通り白塗りの顔であくまで神妙に。ところが浅野和之は、「浅野さんの番ですよ」ととなりの役者に言われたのに、祈祷師の老婆役の口調で「あたしは浅野なんかじゃない、鳴子(役名)だよ。」と口上を放棄する暴走ぶり。
 この場面にはふたつの効果がある。まず客席を沸かせリラックスさせること。つぎに芝居と挨拶両方の要素をあわせ持つ歌舞伎の口上という形式を逆手にとり、歌舞伎そのものとも異なる位置にあるスーパー歌舞伎、それもU(セカンド)の舞台に、現代劇の俳優を立たせた心意気を、浅野が演じる老婆役をして、客席に示したことだ。
 物語は幼なじみの仏師(猿之助)と地元領主の息子(蔵之介)が、時の趨勢や権力争いに巻き込まれていったん決裂するがやがて和解し、それぞれの志をもって旅立つというさわやかな青春グラフティである。
 終盤に猿之助と佐々木が宙乗りを披露する場面の客席の盛り上がりは大変なものであったし、気恥ずかしいくらい熱烈に愛や正義を語る場面もあるが、実に清々しい。
 あらゆる面において、観客の心の扉を正面から堂々と突破するエネルギーにあふれているのだ。
 もともとは従来の歌舞伎に対する挑戦としてはじまったスーパー歌舞伎だが、むしろ直球の正攻法的な性質が強いとみた。新しいものを作りたいという強固な意志が、図らずも正攻法の王道を築いたというべきか。
 セリやすっぽんなど、歌舞伎の舞台装置をふんだんに使うこと、現代劇の俳優を無理やり歌舞伎の型にはめるのではなく、その場の人物の気持ちに正直に演じさせたこと、前川オリジナルの戯曲の魅力を損なわず、これまでのスーパー歌舞伎の経験値を十二分に活かし、稽古場で試行錯誤しながら脚本を練り上げたことなど、さまざまな要素があざやかに実を結んだ。
 大満足の観劇であったものの、ふたつのことを考えざるを得なかった。
 まず座席の価格である。今回観劇したのは三等B席、三千円の席だ。三階上手はじに近いが見切れはない。ところが通路一本はさんだ中央寄りのエリアはA席で、料金は五千円に跳ね上がるから、この三等B席はまことにお値打ちといえよう。
 三千円なら、下北沢などで観劇するいわゆる小劇場系の公演と比べても同じか、むしろ安い。たとえばあまり演劇をみたことのない人を誘うとき、スーパー歌舞伎Uと小劇場と、どちらにするだろうか。むろん三千円の価格が成立するのは、一万五千円を筆頭とする高価格の座席もあってこそであり、コストパフォーマンスの点からも、単純な比較はできない。
 その上でなお、スーパー歌舞伎U三千円の壁をぶちやぶる魅力は何かを、小劇場に関わる演劇人は真剣に考える必要があるのではなかろうか。ライバルは下北沢だけではなく、新橋演舞場にもいるのである。
 そしてつぎに脳裏をよぎったのが市川中車こと香川照之である。四十六歳にして歌舞伎の初舞台を踏み、長男團子とともに四代目猿之助の襲名に連なった。ドラマや映画出演が引きも切らない実力派であるが、四十年あまりの空白は痛々しくさえある。
 蔵之介たちのように、現代劇の俳優としてスーパー歌舞伎Uの舞台に立ったならば、もっと自然にのびのびと演じられると想像する。しかし歌舞伎役者として精進すると決意した以上、彼はその道をみずから閉ざしたのだ。
 スーパー歌舞伎UにV、Wがつづくとしよう。その舞台に歌舞伎役者市川中車はどのような立ち位置を探るのであろうか。
 冒頭で「多方面への考察につながる予感」と意気込んだ観劇の喜びには、早くも迷走のきざしがみえる。
 よい方向に進み、広がってゆくと信じたい。
 舞台をつくる側、受ける側どちらにとっても。
(3月24日観劇)

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「二代目襲名」のその先に
コンスタンツェ・アンドウ
 「セカンド」という言葉には色々な意味があるが、『スーパー歌舞伎U 空ヲ刻ム者』を見終わってイメージしたのは「二代目」。スーパー歌舞伎は、時をかけ、変化を繰り返しながら、ひとつのジャンルとしての姿が形作られてきた。一代で名を極めた役者のように。そして今、スーパー歌舞伎が「二代目として襲名された」と感じたのである。
 この「二代目」について、三つの観点から考えてみたい。なお、役者の名前は現時点のもので表記し、代数と姓は割愛する。
 まず、スーパー歌舞伎と比較して。
 私の「初・スーパー歌舞伎」は『オグリ』で、『リュウオー』以外全て観劇している。(ただし、猿翁主演の『ヤマトタケル』は未見。)
 当然、先行作と「二代目」には共通点が多い。ストーリーやテーマが明確で、声高で、やや理屈っぽいところ。毛利臣男によるメインキャストの衣装、音楽の種類や入り方、立ち回りに宙乗り。少しずつポイントを押さえた印象で、懐かしくもあった。
 相違点も多い。主役が外的困難と戦いながら成長し、女性への愛も貫く、という先行作のパターンに対し、主役の十和(猿之助)は、自身の内面に抱える葛藤に苦しみ、色恋沙汰はなし。「仏教」を「歌舞伎」と置きかえれば、物語に別の味わいが加わるが、思考を求められる側面が強く、感情移入はしづらかった。
 また、装置や脇役の衣装等、舞台が全体的に地味で、スケール感に欠けた。スーパー歌舞伎は、二年にわたり東京(複数月)・名古屋・大阪・博多で上演されることを前提とした予算がかけられており、比べるのは酷なのだが、かつての華やかさに慣れた目には、どうにも淋しい。
 スーパー歌舞伎の要素「3S」を使うならば、「Story」は確立されていたが、一幕・二幕は「Speed」不足、三幕後半でやや唐突に「Spectacle」な活劇に変貌し、丸め込まれるようにラストでカタルシスを味わった…というところか。一方、「笑い」は先行作にはない要素で、新鮮だった。
 次に、「猿翁一門の作品」として。
 あれだけ門閥を否定し、血縁のない役者たちを育てた猿翁が、甥・息子・孫と四人揃って襲名すると聞いたときは、正直納得いかなかった。今も完全に納得したわけではないが、それは一観客の感傷に過ぎず、興行の世界が甘くないこともわかっている。襲名を機に、一門が集結する場が増えたのも事実である。中心は猿之助に変われども、『ヤマトタケル』の再演と『空ヲ刻ム者』を通じ、師匠の代名詞・スーパー歌舞伎を現在進行形にすることができたのは、弟子たちにとって大きな出来事だろう。
 スーパー歌舞伎はほぼ「あて書き」。今回も、役者の色に合った人物像が用意された。我慢が健気で可愛い笑也、朴訥で直情径行の猿弥、包容力と毒気を合わせ持つ笑三郎、奔放で妖艶な春猿、真っ直ぐでひたむきな弘太郎…ここまでくると「いかにも」過ぎるほど。猿之助が脚本の前川知大に細かいオーダーを出したのだろうか。
 一門のリーダー・右近が、十和に影響を与え、物語を動かす重要な役を魅力的に演じ、存在感をアピールしたのも嬉しかった。右近をはじめ、主な役者たちも中堅どころ、歌舞伎界では手薄な年代である。平成生まれの若者たちを売り出すだけでなく、彼らにもより多くの機会を与えてほしい。『新・水滸伝』の東京再演も強く願う。
 最後に、「歌舞伎役者以外の俳優たち」について。
 金田龍之介はスーパー歌舞伎の常連だったし、コクーン歌舞伎の例もあるので、出演者を聞いても特に驚きはなかった。実際、浅野和之はコクーンにおける笹野高史の役割に近く、福士誠治は二○一○年の「亀治郎の会」で演じた『上州土産百両首』の牙二郎に似た役柄で、既視感を覚えた。大衆演劇から参加した龍美麗は周囲に馴染み、芝居の半ばまでそうと気づかず。
 しかし、佐々木蔵之介ほど大きな役で歌舞伎に出演した人はかつてない。そして、その挑戦はやや残念な結果に終わったと思う。最も気になったのは、声だ。かぶりつきに座っていたのに小さくて聞きとりづらかった。三階席の友人は問題なく聞こえたそうなので、後方にはマイク(装着しているのが見えた)で飛ばし、前方は地声だったのかもしれない。 
 印象としては「声が出ない」というより「出していない」。声と体はひとつのもの、声を抑えた体からは躍動感が生まれない。舞台映えするビジュアルなのに、立ち姿、歩く姿に覇気が乏しく、心なしか表情も冴えない。『非常の人 何ぞ非常に』で、喜怒哀楽を自在に表現し、役として息づき、舞台を支配していた「源内さん」と同じ人とは思えなかった。
 これで終わるはずはない。別の作品での再挑戦に期待する。その時は、「佐々木蔵之介でなければ」と納得させる役を存分に演じてほしい。
 「襲名」には様々な事情が付き物で、仕事には必ず制約がある。猿之助は「スーパー歌舞伎を作ることが夢だった」と言うが、夢はどの程度叶ったのだろうか。
 私の中では、先行作や出演者を知っているからこその楽しさと、逆の感情とがせめぎあった。猿之助も、スーパー歌舞伎の名を掲げたために、できることとできないことの間で逡巡したのではないだろうか。
 勝手な想像だが、猿之助が目指しているのは新しい名前の新しいジャンルを作り上げることなのでは、と思う。「二代目襲名」は一つのステップ。おそらくその先に、まだ何かある。きっと。
 
(3月16日観劇)

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ハロー、アゲイン、イプセン様
マーガレット・伊万里
 イプセンの作品と聞くと、抑圧された女主人公の物語というイメージがどうしても先行するのだが、笑えるシーンがあるというのは驚きだった。
 悲劇の中でもおこる喜劇的な言動。イプセン作「幽霊」の上演において、演出の森新太郎は笑いにスポットを当てている。さらにそこで私にもたらされたのは、イプセンとの新たな出会いだった。(翻訳・毛利三彌)
 物語の舞台は、ノルウェー西部。ヘレーネ・アルヴィング未亡人(安蘭けい)宅に、牧師のマンデルス(吉見一豊)がやってくる。明日は、十年前に亡くなったアルヴィング氏を記念して建てた孤児院落成式という日。彼女は、大工エングストラン(阿藤快)の娘レギーネ(松岡茉優)を引き取って一緒に暮らしているが、そこにはパリで画家として活躍するヘレーネの息子・オスヴァル(忍成修吾)もちょうど帰国していた。
 実は生前の夫アルヴィングは堕落した生活を送り女中に子供まで生ませていたが、妻ヘレーネはそれをひた隠し、家のため息子のためにだけ生きてきたのだとマンデルスに打ち明ける。また、アルヴィング夫人はマンデルスの元へ逃げようとしたが彼に拒絶された過去があり、さらにはオスヴァルが病に冒されていることを知らされる…。
 ここで言う「幽霊」とは何か?ふだん意識していなくても隠れていても実は古い慣習が幽霊となって自分達の目の前に現れる、また自分達をしばる存在なのだろう。アルヴィング夫人は夫の裏切りに打ちひしがれながらも、体裁を保ち、後始末をする。古い因習にしばられ、一度は逃げ出そうとするも結局幽霊から逃れられない。
 舞台は、天井から床まで真っ白で大きく垂れ下がった空間に、異様なほど長いソファが存在感をはなっている。大きな観葉植物やフロアスタンドが置かれ、モダンで高級感のあるリビングルームだ。(美術・伊藤雅子)
 登場人物五人だけの室内劇だが、空間をたっぷりとった中で密度の高い芝居が展開する。
 今回の上演では、百年以上昔の作品を現代的な装いにしており、とてもセンスのいいしつらえだ。しかしそれによって犠牲になったものもあるのではないだろうか。モダンで美しいインテリアゆえ、時代設定があいまいな印象である。ゆえに一つ気になったのは、オスヴァルの病のことだ。彼の病気についてはっきりと語られるセリフがないため、予備知識なしに見た者にとっては、戯曲発表当時(一八八一年)のタブー視されるような病気の切実さが、果たして伝わっているのかしらと疑問がわいた。
 特に宝塚歌劇の元男役トップスターである安蘭けいを目当てに来る観客も多いだろうに。演出家の果敢な取り組みに期待を寄せながらも、物事には両局面あるものである。
 その安蘭が演じるアルヴィング夫人と吉見演じるマンデルスの二幕のやりとりはとても見応えがあった。二人の過去の関係がしだいにあぶり出されていく様は非常にスリリングでミステリアス。長すぎるソファの両端に男と女が座り、その距離と反比例して高まる緊張関係は見事。この作品中一番のシーンと思えた。
 すったもんだの喜劇的な部分と孤児院の焼失や息子の病で終わる悲劇的結末。今回のイプセンを見て、悲劇と喜劇の振れ幅がとても大きい作品だと感じた。いま滑稽にみえた人間が、悲劇へいきなり突き落とされる。喜劇も悲劇も同時進行で人の世は埋め尽くされる。それが人の世界なのだと言われれば、その通りなのである。
 「人形の家」のノラをはじめ、ここに登場するヘレーネ・アルヴィングもしかり、女性の自立という言葉にばかりいつも目がいきがちだったが、イプセンの示唆するものはそこにとどまらない人間の世界をつぶさに描こうとしているのだと今改めて感じる。
 今回の観劇によって、私はイプセンという作家といままでとは違った眼差しで向き合える。イプセン様、今後ともよろしくお願いします。
(3月28日観劇)

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見届けるための出会い
C・M・スペンサー
 昨年、新国立劇場で上演された『長い墓標の列』。それはベテラン俳優たちとともに多くの新国立劇場演劇研究所修了生たちが出演するという企画だった。企画の意図以上に、作品として多くの熱量を発する濃厚な舞台を、まさしく魅せていた。
 その第二弾は、作・秋元松代の戯曲『マニラ瑞穂記』。演出は新国立劇場演劇研修所所長として研修生を育て、成長を見守ってきた栗山民也。
 一八九八年(明治三十一年)八月、フィリピンのマニラを戦場とする独立革命。フィリピン在住の邦人が避難民として逃げ込んだ日本領事館が舞台となる。観る側の勉強不足も甚だしいが、この時代に日本人がこんなにも理想を求めてフィリピンに来ていたとは知らなかった。男たちは独立運動を支援すべく志士として海を越え、貧しい農家の娘たちは出稼ぎの地として「からゆきさん」と呼ばれ海を渡っていた。
 ベテラン俳優として迎えられたのは千葉哲也、大西惇、そして稲川実代子の三人。対するのは第一期から五期までの修了生。今年の三月に演劇研修所第七期の修了生が卒業したから、既に自立して二年以上のキャリアを持つ俳優たちである。中でも第一期修了生の三人が担う役割は大きかった。
 千葉の演じる秋岡伝次郎に、思想を含め真っ向から対峙する若き海軍の中尉、古賀(古河耕史)。秋岡を女衒(ぜげん)の頭として行動を共にする女タキ(島レイ)。物語終盤、スペイン陥落後についに日本領事館に乗り込んで来るアメリカ軍のウィルソン大尉(前田一世)。若き彼らの視点で作品を傍観し、それぞれの立場でなぜ異国の地に彼らがいるのかを突きつけられるような気がした。
 ベテラン俳優の演じる役が、修了生の役と深く係っているのも見どころだった。日本の軍人であることに誇りを持ち、自己を押し殺して国益のために職務を全うせんとする古賀中尉。彼の立場では、日本領事の高崎(大西惇)だけが、この地で敬うに値する存在であり、自分の理解者であったに違いない。それが彼の意に反して高崎は、賤しい生業の密航者である秋岡を快く迎え入れてしまう。不遜で自由に振る舞う秋岡を人々が頼りにすることも腹立たしい。そして人々から化け物のように蔑視される老婆シズ(稲川実代子)。身を売る女性の末路として語られるシズの身の上に、自身の行く末を重ねて耳をふさぐタキ。最後の最後で土足で踏み込むように登場し、秋岡と高崎を配下に収めようと威圧するウィルソン大尉。この対峙する関係が、常に観客の脳裏に在った。
 ところで作品の公式サイトに、稽古中のインタビュー映像が公開されている。一期修了生三人は、ベテランの持つ「色気、ザラついた感、ギラギラ感、そして目の奥に見える様々な思考」の魅力を、舞台を共にするうちに解明したいと語っている。
 一九九六年にデヴィッド・ルヴォー演出の『エレクトラ』で、千葉がオレステスを演じていたことを思い出した。ちょうど一期修了生の彼らと同じ年ごろである。雄々しく、だがしかし末っ子の役柄らしく、どことなく柔和な雰囲気を合わせ持つ青年。それこそ今回の研修生と変わりはなかった。
 それが彼らしさかと思いきや、二年後の『カストリ・エレジー』の千葉の姿に驚愕したものだ。スタインベックの「二十日鼠と人間」をベースに、鐘下辰男が太平洋戦争直後の日本に置き換えた作品で、千葉は原作ではレニーに相当するゴローという役だった。体は大きいが、知能が子ども程度というレニー同様のゴロー。シャツのボタンが止まらないほどの大きなお腹に、終始にこやかな坊主頭の青年という風貌に、しばらくの間、それが千葉だと気づかないほどだった。二年前に観たあの端正な容姿の青年が、ここまで変われるのか、と。
 三人の若き俳優たちの、いい意味で変貌していく様を、これから見ることができるかもしれないと思うと楽しみだ。ベテランとの共演と言っても、既に経験を積んだ研修所修了生がその役割を担いつつあることも明らかである。これから出会う作品が、どう彼らを育てていくのか見届けてみよう。作品が観客の中で一過性のものではなく、一緒に歩んでいけるものとなった。
(4月3日観劇)

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 わたしの妄想シアター  

諸般の事情からほぼ不可能ですが、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を鈴木京香のエレーナ、堤真一の医師アーストロフ、そしてソーニャは引退した岡本綾でお願いします。皆さん十歳くらい若返っていただければ最高。(ビ)



『髑髏城の七人』、市川染五郎・天魔王(信長の影武者という設定が必須)と早乙女太一・蘭兵衛のペアを妄想。蘭兵衛が髑髏城へ向かうところから無界屋襲撃までを、ショー的に構成して見せてほしい!他の場面はなくていいので。(コン)



朝ドラ『花子とアン』の大文学会でジュリエットに扮した仲間由紀恵、儚げで美しかったですね。ならばロミオは・・・岡田将生で。歌わずに、ストレートプレイで是非。二人の語る声の調和も魅力だろうな。(C)



映画『嫌われ松子の一生』の世界をぜひ舞台で再現してみたい。不器用な女性の悲劇の人生、松子の愛と夢をショーアップしたミュージカルとして。もちろん主役の松子は映画と同じ中谷美紀で。(万)

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