えびす組劇場見聞録:第47号(2014年9月発行)

第47号のおしながき 


災害の多い夏でした。一人でも多くの方が、穏やかな秋を迎えられますように。
そして、演劇を含む文化や芸術が、疲れた心の癒しや、活力の源になりますように。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
江古田のガールズ五周年記念特別公演「解散」 山崎洋平 作・演出 下北沢 本多劇場
8/5〜8/6
「バックステージをぶっとばせ〜江古田のガールズ初観劇記〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
宝塚歌劇雪組公演
「心中・恋の大和路」
菅沼 潤 脚本谷 正純 演出 日本青年館大ホール
4/15〜4/21
「変わらぬ姿で」 by コンスタンツェ・アンドウ
青春アドベンチャー
「レディ・パイレーツ」
セリア・リーズ 原作
亀井よし子 訳
入山さと子 脚色
NHKFM
(オーディオドラマ)
「ラジオドラマに見える声」 by C・M・スペンサー
ハイバイ
「おとこたち」
岩井秀人 作・演出 東京芸術劇場シアターイースト
7/3〜7/13
「老いをイメージしましょう」 by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ この秋おすすめの一本 ○●○

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「バックステージをぶっとばせ〜江古田のガールズ初観劇記〜     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  演劇のジャンルで「バックステージもの」といえば、舞台袖や楽屋、さらに俳優の私生活はじめ、現場の秘密や裏事情も絡めながら、演劇の作り手の悲喜こもごもを描いた作品のことを指す。
 三谷幸喜の『ショー・マスト・ゴー・オン』は、本番中のたび重なるアクシデントに俳優とスタッフが右往左往するありさまを、マイケル・ベネットのミュージカル『コーラスライン』は、無名ダンサーたちのオーディションを通して、演劇人の心意気を描く。
 人々がそれぞれの持ち場や日ごろの確執を越えて懸命に力を合わせる様子や、「どうしても舞台に立ちたい」と訴えるダンサーたちのすがたは心を打つものがあり、「やっぱり演劇っていいな」と、シンプルな落としどころに導いてくれる心地よい演目だ。
 むろん麗しい演劇讃歌ばかりではない。
 ロナルド・ハーウッドの『ドレッサー』で、身を粉にして座長に尽くしてきたのに報われない付き人(ドレッサー)の悲哀や、清水邦夫の『楽屋』で、亡霊になって楽屋に棲みつく女優たちの業、デイヴィッド・マメットの『ライフ・イン・ザ・シアター』で、ベテランが若手に取って代わられる宿命など、演劇がもたらす苦悩や不幸をも容赦なくあぶりだすものもある。
 江古田のガールズ結成五周年記念特別公演『解散』(山崎洋平作・演出)もバックステージものである。若手劇団が憧れの本多劇場で『おさるのキング』を二日間上演する。初日に主役が怪我をして翌日の公演が危ぶまれているという虚実ないまぜの物語だ。
 あまたの既成作品と大きく異なるのは、『解散』本編における劇中劇『おさるのキング』を冒頭に堂々とみせてしまうところである。大勢の俳優たちが猿の着ぐるみで登場し、舞台装置もたいそう手が込んでおり、三〇分近くも続く。それがまったくおもしろくないばかりか、観客にロケット風船を飛ばさせたり、猿の餌を舞台に投げさせたりなど、観客参加の趣向も中途半端だ。
 「作り手は必死である」ことのパラドックスなのか、助走で多少すべっても、そのあと盛りかえす自信があるのか、いっそ自虐なのか。初日の観客アンケートが酷評ばかりという台詞も当然で、そういう芝居のバックステージは、いったいどんなものになるのか。
 果たして予想通り、いや予想以上であった。何しろ「幕を開けた舞台は、何があってもやり遂げる」という演劇人の鉄則や心意気までもが笑いに転化されてしまうのだ。
 ひとつ例をあげる。
 制作の女性スタッフの夫なる人物が登場する。妻を愛し、善良そのものといった人柄で、この夜の舞台にいたく心を動かされたらしい。終演後の舞台裏とロビーをメッセンジャーのごとく行き来し、「お客さんの手厳しいアンケートを読んだ俳優さんたちが泣いている」と知らせに来る。彼の口調は俳優たちへの同情に満ち、ロビーはただごとではない雰囲気らしい。しかし別のスタッフが行ってみたところ、「みんな普通でした」というのである。
 夫さんの人柄からして、俳優たちが泣いていたというのが嘘とは思えない。たぶんほんとうだ。しかし彼らは制作スタッフが来たときには普通を装っていたと想像する。俳優の意地であり、性(さが)であろう。スタッフもまた「装っている」ことを、ほんとうはわかっているのではないか。
 裏も表も観客にみせる江古田のガールズが、敢えてみせようとしない、酷評された俳優の素顔と肉声。観客がもっとも知りたいのはそこであるが、「みんな普通でした」という台詞から様子を想像するほうがぞくぞくする。ここに彼らが描こうとした、彼らだけのバックステージものの狙いがあるのではないか。
 どういうわけか、バックステージもののほとんどの演目に、俳優が演劇の現場の人物を演じること特有の胡散くささ、嘘っぽさがある。観客は、演劇とそれに関わる人々に憧れを抱きつつ、おそらく現実とは似て非なるバックステージものを、一種の「お約束」と心得て楽しむのである。
 『解散』はこの「お約束」を、「みんな普通でした」のひとことでぶっとばし、これまでみたどのバックステージものよりも自然で、現実に肉薄した味わいを獲得した。「みんな普通でした」の台詞に客席は大笑い。ずっこけたというより、「そうだよなあ」という納得、安堵の笑いである。
 美内すずえの漫画『ガラスの仮面』は、それこそ実際の演劇の現場にありそうにない事柄が満載されたバックステージものである。しかし演劇評論家の扇田昭彦が評するように、「ありうべき演劇を求めている作者の激しい情熱の産物」であることが、多くの読者を魅了してやまない。
 『ガラスの仮面』を直球とすると、江古田のガールズの『解散』は、ゆるやかで打ちにくい変化球だ。酷評に傷ついて泣く俳優という非常にわかりやすい情景が生む効果を、惜しげもなく壊す。大胆不敵で恐れを知らない。この手並みは『ガラスの仮面』が持つ「ありうべき演劇を求める情熱」を、ときに凌駕する可能性を秘めている。
 こちらが「おお、やはり熱いではないか」と身を乗り出した瞬間、予想外のところへ連れてゆく。しかしそこは実に納得のゆく地点であり、無防備に突っ走っているようにみせて、彼らの情熱は意外に冷静で、その燃やし方もしたたかなのである。
(八月六日大千秋楽観劇)

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「変わらぬ姿で」
コンスタンツェ・アンドウ
 二○一四年、宝塚歌劇が誕生百周年を迎えた。その昔、「昭和のベルばら」で劇場へ行く楽しさを覚えてしまった私は、熱心に通う時期と遠くから眺める時期を繰り返しつつ、四十年近く宝塚のことを気にかけてきた。いわゆる「オールドファン」だ。
 宝塚は、未婚女性のみが舞台に立つ劇団として有名だが、オリジナル作品の多さも特徴のひとつで、芝居(ミュージカル)とショーの新作を年に十本以上ずつ世に出し続けている。創立以来の延べ本数は日本で一番の劇団ではないだろうか。
 そんな途方もない数の中で、宝塚にとっても、私個人にとっても「財産演目」となった作品に『心中・恋の大和路』(以下、『大和路』がある。近松門左衛門の人形浄瑠璃『冥土の飛脚』を原作とした日本物のロックミュージカルで、一九七九年に宝塚バウホール(宝塚大劇場に隣接する約五百人収容の劇場)で星組選抜メンバーにより初演された。作・演出は菅沼潤、主演はトップの瀬戸内三八。
 この作品にはじめて触れたのは実況録音のカセットテープ。デッキから流れる言葉や歌が描く世界に心惹かれ、暗記するほど聞き込んでいた。そして、八三年に同じ瀬戸内の主演で再演された際は迷わず宝塚へ足を伸ばした。ようやく目にした生の舞台は想像よりも感動的で、忘れがたい時間となった。その後も、宝塚の内外で数回再演されたが、私は見る機会がなく、ただ一度の記憶を心にとどめたまま時を過ごした。
 『大和路』はいわゆる「梅川忠兵衛もの」で、演劇では人気の題材。歌舞伎の『恋飛脚大和往来(封印切・新口村)』、蜷川幸雄演出の『近松心中物語』や、大物女優が主演した商業演劇も見たが、近松の原作に最も近いのは『大和路』である。歌舞伎は、『冥途の飛脚』を改作した人形浄瑠璃に基づいているため、忠兵衛の友人・八右衛門の性格や、忠兵衛と父の別れの描かれ方等が異なり、本家の文楽でも『新口村』は改作版での上演が多い。『近松心中物語』は原作にはない「見初め」と「心中」が重要な見せ場になっているが、『大和路』は、原作の各場面をかなり忠実に網羅している。
 もちろん違いもある。忠兵衛の使用人・与平と花魁のエピソードが加わったり、捕縛で終わる原作に対し、八右衛門のはからいで追手から逃れた二人が、雪の山中で寄り添って息絶えるという結末になっている。しかしこれらは、華やかさやカタルシスが求められる宝塚の作品として成立させるために必要で、だからこそ多くの観客に受け入れられたのだと思う。
 また、音楽的要素の強い人形浄瑠璃と宝塚の形式は意外と相性が良い。人形浄瑠璃では、三味線の演奏に乗せ、一人の太夫が登場人物の台詞と状況説明をフシ付きで語る。歌舞伎を除く台詞劇では「状況説明」の部分を具体化することが難しいが、宝塚では「歌」が力を発揮する。登場人物の歌に加え、「かげソロ」や「かげコーラス」という、舞台上に人物が登場しない歌もあり、近松が書いた詞章をそのまま歌詞にすることもできる。忠兵衛と梅川が廓から故郷へ落ちてゆく「道行」も、様々な歌をバックに、役者の動きや踊りで宝塚らしく、かつ原作通りの流れで表現された。太棹三味線とロック、楽器は違えど、生まれる音の激しさには通じるものがある。
 『大和路』は、『冥途の飛脚』を生身の人間が演じるためにアレンジされた舞台として、原作を尊重しつつ自らの個性を生かすことに成功した数少ない例だと思う。
 私は、百周年の節目に、『ベルサイユのばら』でも『風と共に去りぬ』でもなく、『大和路』と再会することを楽しみにしていた。そして、期待は裏切られなかった。その舞台は、約三十年を経ても色褪せることなく、変わらぬ姿でたちあらわれ、涙腺がゆるみっぱなしの観劇となった。(演出・谷正純)
 主演は、数ヵ月後に退団を控えた雪組トップの壮一帆。関西出身で上方言葉もなめらか、若旦那風の拵えや黒い着物が良く似合い、色気も十分。「短気だけど愛すべきつっころばし」という忠兵衛のキャラクターは、彼女本来の持ち味にはないのかもしれないが、遅咲きトップの実力で魅力的な人物像に作り上げた。
 「財産演目」の再演では、様々な理由で内容に手が加えられ、記憶との差に戸惑い、落胆することがあるが、『大和路』は、ほぼ、若き日に聞き覚えたままで、オールドファンには嬉しかった。唯一の大きな変更は、ラストシーンをいろどる「この世にただひとつ」(宝塚屈指の名曲といわれる)の歌い手が、与平から八右衛門になったことである。結果的に二人を追い込んでしまった八右衛門が歌うと少し生々しいので、与平が歌う方が鎮魂歌としてふさわしいと思うのだが、今回の八右衛門役・未涼亜希の歌唱力は素晴しく、視覚にも聴覚にも美しく響く場面となった。
 これからも『心中・恋の大和路』が、変わらぬ姿で受け継がれることを心から願う。この作品は、日本の演劇界で定番となった無国籍アクション時代劇とは一線を画した、「宝塚の日本物」の折り目正しさを備えている。日本物の芝居とショーは集客が難しいようだが、両方とも何とか守ってほしいジャンルである。いまや宝塚だけの財産ではないと私は思う。
 三十五年は短いようで長く、作品は変わらずとも人はうつろう。日本物の佳作を宝塚に多く残した菅沼先生も、初演で与平を演じ、「この世にただひとつ」を名曲たらしめた大浦みずきさんも今はない。そんな人たちへの思いもこめて、この作品に再会できたことを感謝する。
(四月十九日観劇)

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「ラジオドラマに見える声」     
C・M・スペンサー
 この見聞録を読んでくださる方は、舞台を観る機会が多いと推測する。そこで楽しみの一つとして紹介したいのがオーディオドラマ、いわゆるラジオドラマだ。
 NHK-FMの「青春アドベンチャー」は、月曜から金曜の夜に十五分間放送される連続ドラマで、短いものは五回、長いもので二十回、毎回朝ドラのように期待を持たせて次回へと続く。物語のジャンルが多彩で、まるで次から次へと小説を読み漁っているような感覚に、飽きることは無い。例えば、学園ミステリー、壮大な歴史小説、女海賊が登場する冒険物語、リアルにOLが主役の恋物語など、とにかく幅が広いのだ。
聴き始めたきっかけは、その声の主、俳優陣にある。舞台俳優が務めることの多いのが特徴だろう。じっくりと聴いていると、俳優よりも多くの人物が登場していることもある。使い分けられた声色を聴くのも舞台ファンの楽しみだ。
しかし放送時間が問題である。二十二時四十五分は、テレビを見る習慣のある者がラジオのスイッチを入れるには中途半端な時間だ。帰宅途中ということもある。今どきスマホのアプリから聴くことができると言っても、慌ただしい日常生活の中で、この十五分に集中して聴くことができるのか疑問だ。
そこで今さらながら、タイマー録音機能のついたラジオを買った。一週間分まとめて聴くのに就寝前が最適であることも発見した。目を閉じて気持ちを落ち着かせて聴くドラマは、すぐに物語に集中できる。俳優の確かな技量が有難い。改めて、毎回短時間に見せ場を作る脚本と細部まで行き届いた演出に感銘を受けた。
最近のお気に入りの作品は、再放送された原作セリア・リーズの『レディ・パイレーツ』(訳・亀井よし子、脚色・入山さと子)だ。恋愛はもちろん、陰謀や手に汗を握るような冒険もので、運命に翻弄され海賊船に乗り込む主人公の少女そのままにドキドキしながら聴いていた。少女から大人になる思春期の複雑な女心を、文学座の渋谷はるかが繊細に演じた。
小説と何が違うかと言うと、登場人物の心情が、隣で話しかけられているように理解できることだろう。返事ひとつにしても、戸惑いながら、気持ちを押し殺しながらなど、声から気持ちを察することができる。それが物語を聴く鍵となるのだから、聴き洩らさずにいて欲しい。
土曜日には放送時間が五十分間の一話完結ドラマ「FMシアター」もある。忙しく張りつめた日常の心のすき間にラジオドラマを。情景を想像する心豊かな時間を、是非味わって欲しいものだ。

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「老いをイメージしましょう」
マーガレット伊万里
 『ヒッキー・カンクーントルネード』では自分のひきこもり体験、『ある女』では不倫をする女性を取り上げるなど、総じて流されやすい若者の行動をユーモラスに描くハイバイ主宰の岩井秀人。彼が今回注目をしたのは人生にバイバイするほう「老い」である。
 ハイバイ二年ぶりの新作『おとこたち』(作・演出 岩井秀人)は、男四人の人生を二十代から八十代まで追った内容だ。
 大学を六年かけて卒業し銀行に勤めるも、体調不良ですぐに退職。その後再就職先で顧客のクレーム処理係を地道に続ける山田(菅原永二)。
 大学を卒業後、製薬会社で営業マンとして働き、結婚をして子供が生まれ、順調な生活を送っている鈴木(平原テツ)。
 不倫がバレたのに、妻と不倫相手とどちらともけじめをつけられず身勝手な態度をとる森田(岡部たかし)。
 戦隊ヒーローものに出演して一躍人気俳優となるも、お酒好きがたたってしだいに人生の階段を踏み外していく津川(用松亮)。
 同級生四人はカラオケに集まってはふざけあっているが、日常に戻れば彼らの生活はそれぞれである。どこかにありそうな男達のたちの人生。真剣だったり、適当だったり、それは時として情けなくなるような行動だったり、一所懸命ゆえに空回りしていたり。愛すべき男達の生態が描かれる。
 物語の冒頭、菅原永二扮する山田のモノローグがまずショッキング。彼はアルバイトで近くの老人施設に通っていると語るが、実はそこに入居している老人。見た目は青年のままなので、初めは何のことかわからないが、老齢の山田は認知症が進んでいて、自分で自分のことがわかっていない。施設のスタッフになだめられ連れ戻される。
 ここで、老いとは、そうだ、こういうものなのだといきなりつきつけられるのだ。
 自分自身は日々生活を送っているだけで年を取っていることになかなか気がつかないというか、考えたくない。でも第三者から見れば、心と身体は明らかに衰えていてりっぱな老人。あぁ、哀しい。けれどそれが真実。山田は認知症という病を患ってはいるが、多少なりとも老いとは意識しづらいものだと気づかされる。
 ここから時は遡り、彼らの青年期から話が再スタート。岩井がよく用いる登場人物それぞれの視点を交差させながら(同じ場面を登場人物の視点ごとに繰り返す)話が展開していく。
 思考も行動も明瞭というか単純でバカばかりやっていた若い頃から、年齢を重ね高年に入ると次第に病や死の影がいつのまにか訪れている。
 女性にだらしなかった森田は、ガンに犯された妻(永井若葉)に寄り添うやさしさをみせるが、どちらかというと妻の苦しむ姿に正面から向き合えない。
 順風満帆な人生を送っていると思われた鈴木は、大学に進学せずバイト生活を送る息子に暴力をふるう側面をもっており、あげく定年後は家に居場所がなく、ゲームセンターで若者とケンカをして命を落とす。
 生きとし生けるものはすべて死を迎える。こう生きるべしといった指南書はどこにもない。だから誰もが迎える老いでありながら、男たちはなかなかそれを受け入れられない。
 シリアスに語られることが多い老いの瞬間も、ここでは切れ目のない人生の一部として見せることで、若い世代にとっては想像力の助けとなるし、わたしのような中年世代にとっては、怖くなくなるわけではないが、どこか腑に落ちるものとしてくれた。
 退職後の人生を形作れなかったり、痴呆で徘徊したり、家族の老いを受け止められなかったり。長年の人生経験を積んでいても、老いとは予測不可能であり、過酷で壮絶なものを人間につきつける。
 終活ブームの昨今だが、往生際が悪くジタバタしたっていいんじゃないか。生まれてハイハイするところからこの世にバイバイするまでを描き続ける岩井の人間に向けるまなざしは寛容であり、勇気づけられる。
 今回は男達の話であったが、脇にまわった女達はどうだろう。美しく年を重ねるとか、美魔女という言葉がもてはやされ、加齢に対して非常に敏感な生き物だ。岩井の目に「おんなたち」の姿はどう映っているのか。続編はいかがでしょうか。
(七月十二日観劇)

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 『この秋おすすめの一本』  

◆スタジオソルト最新作『柚木朋子の結婚』(椎名泉泉水作・演出)。十月と十一月の週末に由比ヶ浜の古民家イシワタリで。前回公演から二年間、待ち遠しくてならなかった。再会を心から楽しみに、江ノ電に乗ろう。(ビ)



◆十月新橋演舞場、十一月明治座で、市川猿之助が奮闘連続公演。三代目の「猛優」ぶりも襲名したかたちだが、あえて「四十八撰」外の『女團七』を。昨夏、四代目にはもっと女方をやってほしいと強く感じた一本。(コン)



◆新国立劇場バレエ団新制作の『眠れる森の美女』(十一月八日〜十六日)。チャイコフスキー作曲の壮大な作品で、振付はイングリッシュ・ナショナル・バレエの芸術監督を務めていたウエイン・イーグリング。バレエではマレフィセントに該当する役は、カラボスです。オーロラ姫と王子は4組。どの組も観たいと思わせるのが、このバレエ団の魅力です。(C)



◆十一月の新国立劇場公演『ご臨終』。カナダの戯曲で、老婆と中年男による高齢化社会を描いたコメディ。高齢者施設での公演を続けるノゾエ征爾の演出が、よい結果をもたらすのではないかと期待して。(万)

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