えびす組劇場見聞録:第49号(2015年5月発行)

  第49号のおしながき


今回えびす組が取り上げた作品は、伝統芸能から漫画の世界までと多種多彩で、
まさに日本の演劇事情を表しています。みなさんが最近見たのはどのカテゴリーですか?

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
三月大歌舞伎 通し狂言
「菅原伝授手習鑑
竹田出雲・三好松洛・並木千柳 作 歌舞伎座
2015年3月3日〜27日
いま歌舞伎をみること by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
ミュージカル
「テニスの王子様

セカンドシーズン
許斐 剛 原作
三ツ矢雄二 オリジナル演出/脚色
日本青年館大ホール ほか
2011年〜2014年
2.5次元ミュージカル、その前後に by コンスタンツェ・アンドウ
「DEATH NOTE THE MUSICAL 大場つぐみ 原作
小畑 健 漫画
栗山民也 演出
日生劇場
2015年4月6日〜29日
古代演劇クラブ
「EPITREPONTES Act.2&3
岡本卓郎 演出 東松原ブローダーハウス
2015年3月25日〜26日
はじまりは学生演劇から by C・M・スペンサー
はえぎわ
「飛ぶひと」
ノゾエ征爾 作・演出 下北沢ザ・スズナリ
2015年4月3日〜12日

色色な愛のしるし


by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ 閉館した劇場へ ○●○


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いま歌舞伎をみること 『菅原伝授手習鑑』より「寺子屋」の示すもの
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  歌舞伎に親しむようになったきっかけは、一九九八年(平成一〇年)の十五代目片岡仁左衛門襲名である。テレビで中継される襲名披露公演初日の模様を録画し、何度も繰り返して見た。特に印象に残ったのが『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」で、人間国宝級が顔を揃える豪華配役であった。
 片岡孝夫改め十五代目仁左衛門が松王丸、彼を迎え討つ武部源蔵に中村吉右衛門、その妻戸浪に尾上菊五郎、松王丸の妻千代に中村芝翫、菅丞相の妻園生前に中村雀右衛門の、まさにオールスターキャスト。さらに脇の配役が涎くり与太郎を中村勘九郎(のちの十八代目勘三郎)、その父親を先代の中村又五郎という「大ごちそう」である。
 仁左衛門襲名披露公演の「寺子屋」は、自分やその家族を犠牲にして主君への忠義を貫く人々のすがたを、歌舞伎ビギナーの心に有無を言わさず強烈に印象づけたのであった。
 ここ数年五十代、六十代の立役の俳優の死や病気休演がつづいたこともあり、「寺子屋」の座組みに若手の配役が増えはじめている。
 昨年の十月大歌舞伎において、仁左衛門の松王丸に一歩も引かず、火を噴くような気迫で源蔵を演じた中村勘九郎、妻の戸浪を辛抱強く丁寧につとめた七之助の好演は記憶に新しい。
 そして今年の三月大歌舞伎では『菅原伝授手習鑑』が十三年ぶりの通し上演となった。前半は仁左衛門の菅丞相、市川染五郎の武部源蔵で「筆法伝授」、後半は染五郎が松王丸の「寺子屋」が眼目である。ほかにも片岡愛之助、尾上松緑、尾上菊之助、まだ二十代の中村梅枝、中村壱太郎も加わり、この狂言が芸の継承の場としても重要であることがわかる。ある場では役の心に素直に身を委ね、別の場では先輩たちに激しくぶつかりながら、若手が懸命に役をつとめるすがたは実に清々しい。
 『菅原伝授手習鑑』は、主君への忠義を縦糸に、親子やきょうだい、夫婦の情愛を横糸に描かれる狂言である。忠義と情愛は、人々の心をあるときは断腸の極みに追いつめ、またあるときは温かな幸福で包み込む。
 本稿では「筆法伝授」と「寺子屋」について考えてみる。
 武部源蔵は菅丞相の家臣であったが、丞相の奥方・園生前の腰元の戸浪と恋仲になったために勘当され、浪人の身となった。丞相は家伝の筆法をしたためた一巻を源蔵に与えるものの、頑として勘当を解かない。源蔵・戸浪夫婦は悲しみに暮れつつ、政権で失脚した丞相を案じ、その一子・菅秀才を預かることを申し出る【筆法伝授】。
 小さな村で寺子屋を営む源蔵のもとに、やがて敵方・藤原時平の追手が迫る。菅秀才の首を差し出せとの命に、源蔵は悩みぬいた末、ちょうどその日に寺子屋に入門した小太郎という少年を身代わりにする【寺子屋】。
 小太郎が実は松王丸の息子であり、松王丸は時平に仕える身ながら、弟の桜丸が丞相配流の申し訳に切腹したことを思い、わが子を犠牲にしたというのが「寺子屋」の結末である。
 「筆法伝授」において、神々しいまでに崇高な菅丞相(仁左衛門)に源蔵(染五郎)が地にひれ伏して許しを乞うも、勘当が解かれないと知ったときの悲嘆のさまは、彼がどれほど主君を慕っているかをじゅうぶんに納得させるものだ。この段の充実あってこそ、つづく「寺子屋」の源蔵が、人の子を殺すという蛮行に及ぶのかを理解する手がかりになるのである。 
 現代にも部下の尊敬と信頼を一身に集める人物はいる。しかし「忠義」とは尊敬や信頼をも超越し、絶対的な上下関係のもとにのみあって、いわゆる身分制度が崩壊した現代には存在しないものだ。
 それでも忠義と情愛が相まって人々の心を乱し、苦悩と悲嘆の末にひとつの決意に至るさまが、心をとらえてやまない。
 源蔵は決して平気で小太郎を殺したわけではなく、松王丸と千代夫婦も平然とわが子の死を受け入れてはいない。子への愛情はどこまでも深く、そして忠義は単なる義理や責任感ではない。 だからこそぎりぎりまで腸がちぎれるほどの苦悩を経て決意し、永遠に癒されぬ悲しみを背負う。
 ここまで相手を一心に慕うことができるのか。遠い祖先の魂に確かに宿っていた忠義の心は憧れであり、畏れでもある。とても想像がつかず、実感が持てない。ここで自分と物語をつなぐ手助けをしてくれるのが、役の心に懸命に近づき、体現しようと格闘する俳優なのだ。
 「寺子屋」は、自分の歌舞伎の入り口であり、十五代目片岡仁左衛門の襲名から十数年、ベテランぞろいの盤石な座組みでは歌舞伎の見方やとらえ方を学ぶ教科書であった。忠義の物語はあくまでも自分の向こう側にあって、人々もまた距離感のある対象である。
 しかし若手が難役に挑戦するとき、物語はぐっと身近になり、「あの人物はどんなことを思っているのか」を考え、「その心をこの俳優はどのように表現するのか」を、身を乗り出して見るようになった。何度見ても理解しがたく、重苦しく悲しい「寺子屋」が、「やる気」を引き出してくれる嬉しい課題に変容したのである。忠義と情愛は相反するというより、むしろ両者の境界がわからなくなるところに、この狂言の真髄があるようにすら思える。
 もっと知りたい。あの人物の心の奥底を、演じる俳優の心意気を。
 それがわかったら、それがわかったら!
(3月24日観劇)

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2.5次元ミュージカル、その前後に
コンスタンツェ・アンドウ
 「2.5次元ミュージカル」の定義は「2次元で描かれた漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、舞台コンテンツとしてショー化したものの総称」である。(日本2.5次元ミュージカル協会のパンフレットに基づく。)
 「アングラ」「小劇場」「静かな演劇」など、同時代に生まれた演劇のスタイルを、見る側がジャンル分けして名づける例は多い。しかし、作る側がそれを強調し、大規模な集団化を進める「2.5次元ミュージカル」のような例は珍しいのではないだろうか。
 漫画やアニメの舞台化の歴史は長い。私も沢山見てきたが、舞台化は演劇側の希望によるもので、相手側には特に必要性がないのでは?と思うことが多かった。
 ミュージカル『テニスの王子様』セカンドシーズンに足を運んだきっかけは、「一回戦から始まるよ」という友人の誘い。『テニミュ』はすでにブランドで、出演後、有名になる俳優が増えていたことにも興味を持った。
漫画(原作 許斐剛)やアニメは知らないまま、二○一一年二月「青学VS不動峰」から観劇(観戦?)スタート。新入生・越前リョーマを主人公に、青春学園(通称・青学)中等部のテニス部が強豪校と戦い、全国制覇するまでが数作にわたって描かれる。
 出演者はオーディションで選ばれた十代から二十代の男子ばかり。鬘やメイクを工夫し、漫画のキャラクター(トータル九校で六十人以上)の再現をとことん追求する。ほぼ「コスプレ」状態で個性を消しているため、素顔を覚えるのは困難だった。
 作品の大部分を占める試合のシーンでは、ボールの動きを照明で表現。出演者は合宿して実際にテニスを習うので、「エアー」でもなかなかサマになり、台詞・歌・踊りに映像も織り交ぜた舞台は飽きさせない。ファーストシーズン(二○○三〜一○年)の十六本で、「見せる」手法が確立されたのだろう。
 客席は若い女性ばかり。チケットも五千円台で比較的安い。ターゲットを絞り、獲得に成功しているのがわかる。
 カーテンコールで出演者全員が一列に並び、「ありがとうございました!」と挨拶する。その姿から連想したのは「学園祭」。悪い意味ではない。技術的に拙い子もいるが、全てをひっくるめて、学園名の通り、「青春」なのだな、と、素直に、すがすがしく思い、受け入れた。そうできるかどうかで、『テニミュ』に対する評価は分かれるのかもしれない。出演者と同世代の観客は、また違った思いで「学園祭」を見るのだろう。
 「学園」には「卒業」がつきもの。リョーマ役の小越勇輝以外の青学メンバー十一人は、途中で一度交代した。全国の大都市を回って一作ずつ成長する様子に触れて情が移ったのか、彼らの「テニミュ後」を見守りたい気持ちを今も抱いている。出演者も観客も、長く演劇にかかわってくれることを願う。
 私は、二○一四年夏の「青学VS立海」まで九本を完走し、全国優勝を祝って卒業した。足掛け四年見続けたが、「2.5次元ミュージカル」という言葉を意識したのは二○一三年頃だろうか。ふと気づけば、同様の舞台が増加しただけでなく、横の繋がりを持ち、ひとつの「産業」が形成されていたのである。演劇が、ようやく、漫画・アニメ・ゲームと肩を並べ、ウイン・ウインの成果を出す準備ができたと言おうか。
 二○一五年二月、『テニミュ』サードシーズンが開幕し、三月に累計動員二百万人を突破。通算公演千二百回、出演者は二百五十名を超え、数字を更新中だ。
 同じく三月、海外からの観客向の設備やサービスが用意された、2.5次元ミュージカル専用劇場が一年限定でオープン。ただし、ここはかつての渋谷マッスルシアターで、劇場としての評判はかんばしくない。
 四月には抜群の知名度を誇る『DEATH NOTE』が、栗山民也演出でミュージカル化された。音楽(F.ワイルドホーン)、歌詞(J.マーフィー)、脚本(I.メンチェル)に外国人を起用し、日本初演の前から韓国人キャストによる韓国での上演を決めるなど、海外発信の布石は十分である。当初は、なぜミュージカルなのか疑問だったが、「2.5次元ミュージカル」に加えるため、という理由ならば納得できる。
 「若さ」や「成長」を魅力とする『テニミュ』に対し、『DEATH NOTE』はかなり成熟した作品になっていた。実績のある出演者を揃え、ストーリーをばっさり切って一本で完結させ、儲かるかもしれないシリーズ化の道を断ち、舞台としてのテーマも持たせた。死神のリュークとレムは、映画では映像で造形されたが、舞台版では人間の姿に近く、キャラクターの再現にそれほど固執していないようである。(小池徹平演じるLは、メイクはもちろん、猫背で歌うなど、予想以上の「らしさ」で感動したが。)客層は幅広く、男性が多いのが印象的だった。
 「そのまま」が身上の『テニミュ』的な作品と、独自性も追求する『DEATH NOTE』的な作品の双方を包含する「2.5次元ミュージカル」は、今後更に裾野を広げ、存在感を強めるに違いない。そして、作り手には、漫画・アニメ・ゲーム・ミュージカルと、全てに応用しやすいストーリーやキャラクターを産むことが求められ、「作家」ではなく「クリエイター」と呼ばれるのだろう。
 日本のエンターテイメントの中でもマイナーな演劇から、「2.5次元ミュージカル」が華やかに巣立ち、後に残ったものは更にマイナー化しかねないが、それで良いのかもしれない。「作家」自らが選んだ唯ひとつの方法でしか表現できない世界もまたいとおしく、演劇にふさわしい・・・とやや負け惜しみのように思っているのである。 
(DEATH NOTE 4月7日観劇)

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はじまりは学生演劇から
C・M・スペンサー
 桜が咲き始めた三月下旬に、京王線の東松原にある客席数五十ほどの小劇場でギリシア劇を観た。ある意味では何の変哲もないあるべき姿の上演であるかもしれない。しかし、これまで私が観てきたギリシア劇とは明らかに一線を画していた。なぜならその舞台は全幕ギリシア語で上演されていたのである。
 古代演劇クラブ。東京大学文学部西洋古典学研究室を中心に結成された学生演劇集団である。演出は岡本卓郎さん。彼の演出作品を観るのは、これで二度目だ。最初に観たのは二○一二年秋に東京大学と東京女子大学の学生が中心となって活動する劇団綺畸の新人公演だった。劇団綺畸とは、劇作家・演出家の如月小春が東京女子大学在学中に活動していたことで知られる東京大学演劇研究会を母体とした劇団である。その新人公演で、岡本さんが作・演出を手掛けた『独裁者の息子』が上演されていた。この作品に登場するのは中学生と思われる生徒たちと、生徒の話を聴かずに一方的に話を進める女教師。学校の教室と異次元の別世界が交錯して、独裁体制から脱しようと画策する若者たちの姿が生き生きと描かれていた。歌と踊りも交えてあらゆる手段を講じて伝えようとする演出に、独特の個性を発揮して応える役者たち。盛りだくさんの内容ながら独創性のある展開に魅了された。学生演劇は単なるプロの予備軍ではないのだ。
 古代演劇クラブに話を戻すと、古代演劇クラブ設立については、東京大学にはギリシア悲劇研究会が過去に存在したことから、自分たちは喜劇でという思いがあったそうだ。そこで上演されたのがメナンドロス(344/3〜292/1 BC)の『エピトレポンデス』である。ギリシア語での上演についてはGreeceJapan.comに演出家のインタビュー記事が掲載されている。それによると「古代の韻文は音読すると音の響きや韻律がとても美しい」とあった。上演に際しては舞台上に翻訳字幕が映し出されるので、なぜ登場人物がもめているのか、など状況の理解はできる。何よりも喜劇がベースにあるので、人物の関係性を役者たちの表情で楽しむことができるのが最大の強みだろう。上演時間が三十分というのも観客が集中して観られるのに適していた。
 しかも上演時間が短いながら、舞台装置がしっかりと造りこまれていたのには恐れ入った。なにしろ紀元前の作品である。人物の立つ背景に立体的な神殿が設えられていることで、その時代の人々の往来の様子がイメージできる。そこで口論となった人々が、道行く人に仲裁を求めて声をかけた。字幕を見ながらギリシア語の口論を聴く。同時に人物の反応を見る。観客のほとんどはギリシア語を理解してはいないだろう。それでも真剣に利害を主張し合う登場人物の言い分に納得できるのは、役者陣が達者であることも忘れてはならない。しかし感心するのはまだ早いのだ。
 入場時に翻訳テキストと作品の背景が丁寧に解説された参考資料が配られた。それによると一九〇五年にパピルスに書かれた文献がカイロで発見されたものの、第一幕と第五幕は喪失しているそうだ。つまり最初と最後が無いのだ。それではどうやって上演するのか、楽しみが驚きに変わったエピソードはこうだ。終盤、人物が語る途中でザーッと雑音と砂嵐のような紗がかかり、しばらくして暗転で幕を閉じた。文献の喪失感が実にうまく表わされていたことに、観客は驚愕し共感したのだった。
 次に驚かされたのは、配布されたプログラムの充実した内容だ。古代演劇クラブの面々がギリシア劇に真正面から取り組んでいることが実に良くわかる。あらすじや作者、書かれた時代の背景のポイントを押さえた作品紹介に留まらず、幕ごとの解説、衣裳について、さらには日本語上演字幕のテキストまで掲載されていた。俳優の名前と顔写真はあっても、そこには登場人物の詳細な紹介のみで俳優個人については一切触れられていないという徹底ぶりだ。それが一層作り手への関心を増幅させた。
 ここまでできるのかという称賛と、どこまでやるのかという期待。純粋に伝えることを追求した学生たちが、これからどんな演劇を見せてくれるのだろう。学生演劇からはじまるこの先を、楽しみに見守ることにしよう。
(3月25日観劇)

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色色な愛のしるし
マーガレット・伊万里
 「飛ぶ」といえば、飛躍するとか、羽ばたくとかいいイメージが先行するが、劇団はえぎわ公演「飛ぶひと」は、飛んだら、落ちる……引力がある限り当たり前のことだが、それがわかっていながら、めげない人たちの話。(作・演出:ノゾエ征爾)
 本作品はもともとノゾエが広島に一ヶ月ほど滞在し、現地の俳優と作り上げた。東京での上演にあたっては、一部の俳優を残し、ほとんど劇団の俳優に入れ替えている。
 八百屋舞台に、一枚の扉と、床に大きな穴、そして窓。つくり込んだ装置はない。彼らのいつものスタイルだ。舞台中央の四角形に切り取られた大きな穴(くぼみ)は、車の座席部分となる。奥の大きなガラス窓では、主にパン屋の光景が繰り広げられる。
 妻を自動車事故で亡くしたハシモト(町田水城)は、何もする気になれず引きこもり状態だったが、ある日突然、車を運転して出かけると、東京にいる妹(川上友里)に伝える。彼は途中何人もの人間に車を当てては、その人達を同乗させながら旅を続ける。妻の喪失から立ち直れなかった男が、さまざまな人と出会いながら再生していくロードムービー的なお話である。
 GPSを使って日本地図上に大きな軌跡を残したいという男(山本圭祐)、車にぶつかった婦警(恋塚祐子)は弟(山口航太)を乗せてほしいと頼み、ハシモトの行方を探していた幼なじみ(岡部たかし)までを乗せて車は走る。助手席には死んだ妻ポンこ(中川綾子)が座っているが、夫にしか見えていない。時折妻と話すハシモトの様子に周囲は怪訝な顔だ。
 並んだビルとビルの間を飛び移ろうと、一ミリずつ距離を長くして飛んでいたら、ある距離まできて落ちて死んだ男がいたと芝居冒頭で語られる。ちょっとずつ、ちょっとずつ伸ばして飛べていたのに、どうしたことか、落ちたときは全く距離が足りていなかった。なぜなら体力・集中力が続かなかったから……というオチ。端から見て普通にできていたことが、ある時突如としてできなくなってしまったことのたとえに聞こえ、それは妻の死後何もできなくなってしまったハシモトの姿と重なる。
 目的のない旅を続ける彼らを主軸にしながらも、多くの人々が入り乱れるはえぎわ流群像劇だ。早死にの家系を変えたいとランニングをしてせっせと体を鍛える男(竹口龍茶)と体が不自由な年配の男(鳥島明)、脱サラしてパン屋を始める夫婦(鈴真紀史と富川一人)、ホテルの清掃スタッフ(井内ミワク、踊り子あり)。
 そこには隣人愛、兄妹愛、男女の愛、母性愛、友情。さまざまな愛が存在する。彼らの愛は、受け入れられなくても、拒絶されても、ののしられても、愛の対象がいればこそ。母親が娘をなぐさめるシーンや、体の不自由な男が切ない思いを吐露するシーンなどやさしくほほえましい光景がつづく。
 「飛んだら落ちるだけ?♪」というフレーズが繰り返し歌われる。わかっていても、あきらめきれない人々。社会を賢く生き抜くというよりは、不器用だけれどユーモアがあって愛すべき人物ばかり。それが人間。だから人間なのである。
 ただハシモトは愛を伝えたくてもその相手とは永遠に会えない苦しみを背負う。かといって、妻が生きていたときはけんかもしただろう。幼なじみとの関係を怪しみつつ、今となってはいい思い出に浸ろうとする。妻に先立たれた男のふがいない姿はよくある設定だ。
 若き日の十五歳のハシモトがギター片手にポンこに想いを伝えるシーンが印象的だ。年月を経た今、過去を思い出しても彼女はもういない。ずっと足踏みを続けていたハシモトは、妻のいない現実と再度向き合うことで、残されるのは未来だけだということにようやっと気がつく。
 作品終盤、車が炎上するのに合わせて、大勢の役者が飛行機を真似て旋回しはじめる。広島の歴史や戦争の記憶をもりこんでいた。だが、ハシモトの個人的な事故の記憶と広島の歴史を呼応させた流れは唐突な印象が否めない。広島を特定するせりふはあったものの、それだけで戦争の歴史と結びつけるのはいささか無理があるのではないだろうか。(残念ながら広島での初演を観ていないので、広島での反応がどのようなものだったのかも気になるところ)
 ここにきて、少しはぐらかされた気分になる。
 はえぎわに予定調和は望まないけれど、時にはいい意味でファンを裏切るような味付けもほしい。芝居が佳境に入ると繰り広げられる音楽やダンスがもう少し主題に寄り添う姿を見せてくれないものかしらと思うのは欲張りすぎだろうか。秋の新作公演にさらなる期待を寄せて。
(4月8日観劇)

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 閉館した劇場へ  

【相鉄本多劇場】仕事を終えて地下鉄に飛び乗る。横浜駅西口の喧騒を抜け、橋の上で夜空を見上げるとき、「これからお芝居だ」と、開放感と喜びにいつも胸がいっぱいでした。たくさんの舞台との出会いを忘れません。二〇一四年十一月閉館。(ビ)



【銀座小劇場】見る側専門の私ですが、ここでは、作る側のお手伝いをしたことがあります。稽古中の不安、開演前の混乱、開演中の緊張、終演後の安堵。観客としては味わえない、特別な体験をさせてもらった劇場です。二〇一〇年七月閉館。(コン)



【シアターTOPS】新宿の紀伊国屋書店裏すぐのビル四階にあった小劇場。終演後に客席にいると、帰り支度をした役者が舞台の上から次々と出てきたことが印象に残ります。楽屋へは舞台を通らないと行けなかったそうです。愛すべきこの劇場は二〇〇九年に閉館しました。(C)



【田原町ステージ円】演劇集団円の拠点であり、若手作家や新しい作品との出会いを求めて通わせていただきました。昨年十二月に移転とのことで、新天地での再開を心待ちにしています。(万)

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