えびす組劇場見聞録:第50号(2015年9月発行)

第50号のおしながき 


創刊から十六年、ついに第五十号を迎えました。手に取って読んでくださる方々と
素敵な舞台を作ってくださる方々への感謝を胸に、これからも西へ東へ芝居を追いかけます!

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
劇団印象第21回公演 「グローバル・ベイビー・ファクトリー2」 鈴木アツト 作・演出 せんがわ劇場
8/8〜8/13
「わたしのおなか、彼女のおなか鈴木アツト『グローバル・ベイビーファクトリー』が客席に手渡すもの by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
前進座
「南の島に雪が降る」
瀬戸口郁 脚本
西川信廣 演出
三越劇場
8/7〜8/17
「命をかけて」 by コンスタンツェ・アンドウ
ミュージカル
「エリザベート」
ミヒャエル・クンツェ 脚本・歌詞
小池修一郎 演出・訳詞
帝国劇場
6/13〜8/26
「成熟・ミュージカル『エリザベート』」 by C・M・スペンサー
「気づかいルーシー」 松尾スズキ 原作絵本
ノゾエ征爾 脚本・演出
東京芸術劇場シアターイースト
8/22〜8/31
「気づかいの愛しさと過剰さと」 by マーガレット伊万里
 ☆★☆ 五十号にあたって ☆★☆
 ○●○  上半期の一本  ○●○

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「わたしのおなか、彼女のおなか〜鈴木アツト『グローバル・ベイビーファクトリー』が客席に手渡すもの     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 「この子はわたしがおなかを痛めて産んだ子です」。産みの母は何よりも優るという母性愛の宣言、殺し文句である。
 代理出産とは、さまざまな理由で子どもを産めない女性が、自分と夫の受精卵を代理母の子宮に移植して出産してもらうことだ。血縁上はまちがいなく自分の子だが、おなかを痛める体験はできない。いっぽう代理母は、おなかは痛めても、ほんとうの母ではない。
 このシステムにおいて、先の殺し文句は宙に浮き、母性愛は持って行き場を失う。
 鈴木アツト作『グローバル・ベイビー・ファクトリー』(以下『1』)は、日本ではまだ認められていない代理出産をテーマにした意欲作だ。
 鈴木はインドやタイに足を運び、不妊治療クリニックでクライアントや代理母にも取材したとのこと。本作は二〇一三年の第一八回日本劇作家協会主催の新人戯曲賞において、二〇〇本の応募作品のなかから最終選考通過の六本に選ばれ、二〇一四年春に初演された。
 病気で子宮を摘出したために子どもを産めなくなった日本のキャリアウーマンが、インド人女性に代理出産を依頼する物語だ。カラフルな衣装に歌やダンスもまじえた楽しい舞台ながら、金はあっても産めない女、貧しさゆえに産むことしかできない女それぞれに代理出産の及ぼす影が、複雑な味わいを残した。
 そして今年夏に上演されたのが、『グローバル・ベイビー・ファクトリー2』(以下『2』)である。
 親から莫大な財産を受け継いだ日本人青年が、タイのバンコクで自分の精子によって十数人もの子どもを代理出産させた事件がモチーフのひとつになっている。
 さらに代理出産による子どもがダウン症であることを理由に、クライアントが受けとりを拒否した事件が台詞に盛り込まれたり、代理出産で得た子どもを育てるゲイのカップルも登場する。
 男女が交わって子どもが生まれる。
 これは単なる性行為の結果ではなく、恋愛や結婚という精神的、社会的営みを含んだものだ。それを知識や技術、財力によってコントロールすることは許されるのか。ここまでなら良しという線引きは誰が、何の権限で行えるのか。
 医療の発達と社会の多様化によって、子を持つ可能性は大きく広がったが、「自分の血のつながった子どもがほしい」というシンプルな願いは、関わる人びとの思惑によって変容してしまう。
 ひとり親や同性のカップルを不自然だと感じる人は少なくないだろう。けれども愛情いっぱいに育てるなら、それこそが親であり、家族であるとも言える。
 高度な医療行為や代理出産はビジネスとなり、たとえばより美しい容姿、高い知能の子を望むゆえに、前述のように障害のある子を拒否する事象をもたらし、ひいては人が人を選別し、不要な存在を排除する優生思想につながる可能性も考えられる。
 現実に起こった事件や事象を取り上げる劇作家は少なくない。ドキュメンタリー風あり、近未来風あり、「もしこの二人が出会っていたら」という劇作家の妄想が軸になる場合もある。それぞれの切り口や舞台化の手法は非常に興味深いが、鈴木アツト作品ならではの魅力は何だろうか。
 『2』で心に残った場面をひとつ挙げよう。日本人男性の子どもを身ごもったタイ人妊婦と、日本から代理出産を取材にきたカメラマン、女性ジャーナリストがぎこちなくことばを交わす。
 妊婦はタイ語を使う。カメラマンは少しタイ語がわかるので、彼が妊婦とのやりとりを、話せない女性ジャーナリストに訳してやりながら会話が進む。
 この間、タイ語の字幕は出ない。
 もどかしいけれども、そのもどかしさに現実味があり、かえって違和感がなかったのである。タイ人妊婦を演じた日沖和嘉子のふくよかで飾り気のない素顔や、「日本語を少し勉強した」と、たどたどしく話す様子も自然で好ましい。身ぶり手ぶりもまじえて妊婦とジャーナリストが同じ三十七歳であると通じたとき、舞台にはささやかな喜びと、得も言われぬ寂寥感が漂う。まことに地味ながら、劇作の工夫であり、登場人物への愛情の示し方であろう。
 『1』の主人公は金の力を最大限に発揮し、子育てのほとんどをベイビーシッタ―任せ、対して『2』のゲイのカップルは赤ちゃんの泣き声から欲求を聞き分けようと懸命だ。どちらがより親らしく、どちらの子どもが幸せか。いずれも「この子はわたしがおなかを痛めて産んだ子です」と言えない親たちである。
 観客に答は出せない。人々すべてに事情があり心があって、単純な正否のジャッジをためらわせるからである。
 鈴木アツトもまた、観客に答を要求しない。控えめに「手渡す」。ならばせめて登場人物の心の奥底を想像し、そこからもう少し努力して、自分の心にも問いかけてみよう。このささやかなアクションを起こさせるところが、鈴木アツト作品独自の魅力ではないだろうか。
 それにしても「わたしがおなかを痛めて産んだ子」という台詞を現実で聞いたことは、実は一度もないのである。
 この台詞が出るのは、そうとうに劇的な状況と思われるが、みなさんはいかがですか?
(八月九日観劇)
(上演期間中二回、劇団チョコレートケーキの日澤雄介の演出で『1』のリーディングが行われた

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「命をかけて」
コンスタンツェ・アンドウ
 俳優・加東大介著『南の島に雪が降る』をはじめて手にしたのは十年ほど前だろうか。太平洋戦争末期のニューギニア・マノクワリで、加東を中心に演芸分隊が結成され、定期的な舞台公演が極限状態の兵隊たちの心を支えたという実話に、驚き、笑い、涙して、一気に読みきり、その後何度も読み返した。「文芸書マイベストテン」を選ぶなら、間違いなく上位に入る一冊である。
 終戦から七十年を迎えたこの夏、『南の島に・・・』の舞台版が、劇団アルファー、中日劇場プロデュース、前進座によって上演された。三つともほぼ同時期だったため、日時や場所の都合で前進座(脚本・瀬戸口郁、演出・西川信廣)を選んだ。
 原作は、加藤徳之助(加東大介の本名)の一人称で召集から復員までが書かれている。舞台では、二○一五年の今、分隊の一員で長唄師匠の叶利明(中嶋宏太郎)が七十年前を回想する形式で、分隊の立ち上げから劇場(マノクワリ歌舞伎座)のこけら落としまでが描かれる。
 魅力的なエピソードの数々からどれを選択するかは、脚本家の腕の見せどころだが、やはり「オーディション」は外せない。兵隊には本当に多種多様な人たちがいて、自分の一芸を信じて舞台デビューを夢見る人や、手に持った技で裏方を志願する人がぞくぞくと集結。七十二人が浪花節で受験したが、単に活字で読むよりも、生で浪花節を聞いた方が、試験官の苦労が実感できる。また、分隊員の一人が得意とする「節劇」(ふしげき・浪花節に合わせて所作をする芝居)がどんなものかわかならかったのだが、今回の舞台でようやく理解できた。
 乏しい物資の中で、楽器や小道具、鬘や衣装を工夫する様子も、実物があると臨場感が出る。まさに「実演」の醍醐味だ。
 出演者は男性ばかり十五人。分隊の「公演」は再現されず、稽古での試行錯誤や分隊員たちの葛藤と変化が物語の中心に据えられている。原作の筆致は非常に穏やかなので、そのままではやや淡々としかねないが、舞台では分隊員同士の諍いを強めに見せて、メリハリを付けている。
 そして、一番の芯となっているのが、内地へ帰るチャンスを振り捨て、未来のないマノクワリへ残って舞台に立ち続けると決めた加藤(嵐芳三郎)の心情である。原作ではさらりと書かれているが、かなり悩んだことは想像に難くない。そこをクローズアップし、クライマックスにするという選択は、手記の舞台化の方法として共感できた。原作は「加東が書いた」ものだが、この舞台は「加藤を描いた」ものなのである。
 一方、観客側の視線や反応があまり盛り込まれず、私を含め、読者の多くが泣いたであろうエピソードも直接描かれなかったのは、やや残念。全てを舞台に乗せるのは無理だとわかってはいるのだが・・・。
 しかし、その点を差し引いても、前進座の舞台は、原作にこめられた思いを実直に伝えてくれたと思う。他の二作品も、どこを選択しどう描いたのかを見てみたかった。それがどんな形であれ、きっと何かが伝わるのではないかと思う。
 今年はテレビでも太平洋戦争関連の番組が数多く放送され、私も毎日のように視聴した。果たして来年からはどうなるのだろう。人間には節目や区切りが必要だが、綿々と続けるべきこともある。「七十年」だからではなく、『南の島に雪が降る』が長く読み継がれ、舞台も再演を重ねることを願っている。
 たとえではなく言葉どおりに、「命をかけて」舞台を作り、「命をかけて」舞台を見る。そんな時代があり、そんな人たちがいたことを考えると、ときに緩みきった気持ちで客席に座ってしまう自分が恥ずかしくなる。気軽に劇場へ足を運べることがいかに幸福か。感謝し、守らなくてはならない。
(八月八日観劇)

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「成熟・ミュージカル『エリザベート』」     
C・M・スペンサー
 この夏、ウィーンミュージカル『エリザベート』が、およそ三か月に渡って帝国劇場で上演された。宝塚版より遅れて二〇〇〇年の上演以来、これまでに何度も再演が重ねられてきた大人気の作品である。その魅力は、史実を劇的な変化として見せながら、独自の設定を加えたストーリー展開(脚本・歌詞・ミヒャエル・クンツェ)、そして音楽にある。特にシルヴェスター・リーヴァイ作曲の音楽は、聴く者の心の奥深くに渦巻くように忍び寄り、その旋律が感情を揺さぶる。うっかりすると音楽に酔いしれて、それだけで満足を得てしまう。それも楽しみの一つだが、登場人物が抱える葛藤を理解できたら、より物語の渦中に身を置くことができるだろう。
 さて今回は、演出や美術、キャストに至るまで大きく刷新された。毎回タイトルロールのエリザベート同様に、トート役にも注目が集まる。それどころか圧倒的な存在から、回を重ねるごとに注目度は高まっている。そのトートには、初演でエリザベートの息子ルドルフ役でデビューとともに一躍注目を浴びた井上芳雄。そして一〇年に同役で圧倒的な歌唱力と端正な容姿で観客を魅了した城田優が配された。
 この作品は、オーストリア皇后エリザベートが刺殺されたことを物語の発端としている。黄泉の帝王・トート(=死)がエリザベートを愛し、彼がルイジ・ルキーニを操り暗殺の使者として、エリザベートが自分の元に来たいと心から望んだ時に黄泉の世界に迎えるというものだ。ルイジ・ルキーニを狂言回しに据えて、エリザベートの生涯が少女時代から描かれている。肖像画でしか見ることのできなかったエリザベートの、皇后である前に一人の女性として在りたい葛藤が象徴的だ。彼女が気弱になった時、いつも傍らにはトートが寄り添っていた。いつでも手を差し伸べられる距離にいて、彼女の本心を確かめている。しかしながら、たとえ彼女が歩み寄って来ても、心からこの現実との決別を望まないとわかると突き放してしまう。まさしく生きるか死ぬかの両者命がけの見極めが、一本の張り詰めた糸となって作品を支えているのだ。同時に観客は、たとえ死の導きであってもエリザベートに手を差し伸べるトートに魅了されてきた。
 さて、メインキャストはダブルで配されている。エリザベートを花總まり、トートを城田優、ルキーニを尾上松也で観た。黄泉の帝王・トートについて述べると、これまでは暗殺者ルキーニやトートを取り巻く影(トートダンサーと称されている)を威圧して操るような存在であった。ところが今や、別次元にいて彼らに崇拝されることで動かす静的な存在感が際立っている。例えば客席から登場するシーンでは、すぐ近くを通り過ぎているのに、初めてその存在を認めるような厳かな空気に包まれているのを感じた。こんなにも間近に居ながら、幻影を見ているような異質感。この感覚が、登場人物の関係性、つまりは日常かそうでないかを、より明確にしたのである。
 城田のトートに言及すれば、長い手足としなやかな指先を使った、ゆったりとしたエレガントな身のこなしだ。この世の者とは思えぬほどの美しさで、その存在は際立っていた。このトートという役どころが作品に与える影響は大きく、それは作品の懐の深さとなって表れている。城田が初めてトートを演じたのが一〇年。当時トリプルキャストの最年少だった城田の「彼なりのリベンジを狙っている」と、演出・訳詞の小池修一郎がプログラムで述べている。この間に再演はあったが、五年を経て再び彼はトートとして戻ってきた。スケジュールの関係もあっただろうが、昨今のミュージカル上演で、次の再演に出演しなかった俳優が年月を b経て再び同役で登場することは珍しい。それほどまでに望み、望まれたということかもしれない。
 これからも『エリザベート』が上演され続けることは、公式サイトに「次なる歴史に向けて更に大きく進化を続けます。」と述べられていることから期待が持てる。そう言っている間に、来年の上演決定が発表された。この作品が日本の観客に大歓迎されたからこそ、『モーツァルト!』、(〇二年、日本初演)『ダンス オブ ヴァンパイア』(〇六、同)『レベッカ』(〇八年、同)など名だたるウィーン発のミュージカルが後に続いたと言っても過言ではないだろう。八月はシアタークリエでも新たに『貴婦人の訪問』が上演された。今やブロードウェーミュージカルやロンドンミュージカルと同様に、ウィーンミュージカルというジャンルが日本で確立されている。「進化」とも言える再演によって成熟した作品の今後を、もっと見たい、見届けたい。これは観客冥利である。
(八月一日観劇)

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「気づかいのやさしさと過剰さと」
マーガレット伊万里
 近年首都圏の劇場では、夏休み時期に合わせた子ども向けの公演が増えているようだ。大人も子どもも一緒に楽しめる作品づくりがキーワードになっていて、劇場が直接アーティストを起用し、上演だけでなく作品に関連したワークショップを行うなど、より作品や劇場に親しんでもらう機会を提供することが当たり前になっている。
 夏の海や山もいいが、子どもたちが地域の劇場へ出かけ、熱中症とは無縁の屋内で楽しい音楽やお芝居にふれることはもっと認知されていい。劇場側からすれば、将来の観客を育て、劇場を支える人を増やすことになる。ふだんはなかなか足を踏み入れることのない子どもたちで劇場がにぎわうことには大いに賛成だ。
 池袋の東京芸術劇場では、夏休み終盤の八月下旬、音楽劇「気づかいルーシー」を上演。(原作絵本・松尾スズキ、脚本・演出・ノゾエ征爾)
 主人公の少女ルーシー(岸井ゆきの)は、おじいさん(小野寺修二)と馬(山中崇)と暮らしている。毎日楽しく過ごしていたが、ある日、馬と出かけたおじいさんが倒れてしまう。おじいさんが死んだと思い込んだ馬は、おじいさんの全身の皮を剥ぎ、その皮を自分がかぶりおじいさんになりすまそうとする。言葉を話せないのに(「パカパカ」としか言えない)、必死にとりつくろう馬を見て、ルーシーは気づかないふりを決め込む。おじいさんのことは心配だったけれど、馬の気持ちをおもんぱかる。それが、「気づかい」、大人への一歩だという。
 皮を剥がれてしまったものの実はなんとか生きていたおじいさんは、ルーシーの愛する王子様(栗原類)が余命三ヶ月と聞き、皮を剥がれた体にペイントを施し、王子になりすます。これもルーシーを思っての気づかいだ。ルーシーと王子(になりすましたおじいさん)は結婚式を迎えるが、いよいよというところで馬が止めに入る。このおじいさんの皮をかぶった馬のさらに皮の下には、ルーシーの両親が隠れていた。二人は自国の反乱軍から逃亡した王と王妃で、娘のルーシーはお姫様だったことが判明する。
 さらに王子はルーシーとの身分違いに悩み、余命三ヶ月という嘘をついていたのだった。これも方向音痴の気づかいと考えられなくもないが、大人としては王子の嘘はちょっと引っかかる。栗原類演じる子どものような王子であるから、そこはまぁしょうがないか。
 子どもと「気づかい」なんて無縁、子どもは子どもらしく自由に振る舞えばいいというのは大人の勝手な思い込み。大人が考える以上に子どもは他人の顔色をうかがうもの。ただ、気づかいと相手におもねる空気を読むことは別物である。
 世界では憎しみの連鎖を断ち切れず紛争や戦争が絶え間なく続いている。一見荒唐無稽と思える物語だが、人が人を思いやる気持ちが途絶えることなく続けば、この世は明るくなる、そんな松尾スズキのイメージらしからぬ心あたたまるメッセージが描かれている。相手の悲しむ姿を見たくない一心で嘘をつく。その嘘は気づかいであり、気づかいの気持ちが大事なのだと。
 馬はおじいさんの皮を剥ぐ。馬は自分で自分の皮を剥ぐ。皮を剥ぐとか皮を着るという行為は、「化けの皮が剥がれる」とか「猫をかぶる」とか、あまり良いイメージで語られない。童話ではよく見受ける残酷さも、あえて直接的に表現することで、子どもの自由な想像力と呼応し、気づかいや思いやりといったメッセージも伝わりやすいのかもしれない。
 舞台には巨大なジェンガ(ジェンガとは、積み木のようなパーツを組んでタワーにして遊ぶテーブルゲーム)が鎮座。登場人物たちはこの積み木を組み替えて場面を作り出し、シンプルながら想像をかき立てる面白さもあった。
 生演奏の音楽は、田中馨と森ゆに。ノゾエの作詞による劇中歌も満載だ。場面ごとに歌やダンスが盛り込まれているものの、楽しく歌う曲では、もう少し弾むような盛り上がりがあってもいい。
 絵本が原作ならではの残酷さや、男女の話も盛り込まれ、親子で楽しめる作品として立ち上げるにはいろいろな苦労があったことだろう。
 馬の化け方も子ども騙し。騙すという漢字は馬に扁と書く。奇妙な偶然だが、さらにはこの馬鹿馬鹿しさの馬鹿も馬と書くのだからもう止められない。子どもにばかにされそうであるが、ゆえに、登場人物の愚かで一所懸命な相手を思いやる気持ちの愛しさは、子どもと大人の心にふんわりと確実に着地しているはずだ。
(八月二十八日観劇)

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 『五十号にあたって』  

◆演劇を見て劇評を書く行為は、いずれもひとりで行います。けれど見た舞台、見のがした舞台、これから見たい舞台のことを楽しく遠慮なく語り合える友がいる。何と幸せなことか。えびす組は大切な宝物です。(ビ)



◆十六年は一昔。こんなはずじゃなかった・・・という思いは多々あれど、「えびす組」を続けられたことだけは、過去の自分に自慢したい。一人だったらきっと早々に投げ出していたはず。メンバーの皆に心からの感謝を!これからもどうぞよろしく。(コン)



◆演劇が好き、舞台が好きで集った私たち。いつまでも同じ目線から舞台を愛し続けてこられたのも、語る仲間がいたからこそ。振り返れば五十回分の想いがここにあるんですね。すっかり人生の一部です。読んでくださった方にも感謝します。(C)



◆まさに光陰矢の如し。十六年の間には社会につられてお芝居や劇場を取り巻く状況も変化しています。ついわかった気になりがちなところを戒めつつ、再び新たな気持ちで、作品との一期一会を楽しんでいきたいと思います。(万)

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 『上半期の一本』  

◆トライストーン・エンターテインメント公演 ジャン・ジュネ作 中屋敷法仁演出『女中たち』膨大な台詞、ひねりの効いた設定、客席が三方を囲む舞台で戦う若い俳優たちに胸が熱くなった。明日はきっと、もっとよくなる。(ビ)



◆二月、劇団朱雀ファイナル公演。一つの集団の最後の日に立ちあったのは、初めての経験かもしれない。解散という大きな決断をした早乙女太一が、今後どんな道を歩むのか、見られるだけは、見ていたい。(コン)



◆三月に観た『エピトレポンデス』。東京大学文学部西洋古典学研究室を中心に結成された「古代演劇クラブ」のこの作品は、九月に京都大学で再演とか!?全編ギリシア語の上演は衝撃的でした。(C)



◆新国立劇場六月公演『東海道四谷怪談』。歌舞伎でおなじみの二百年前の古典作品を現代劇として上演。エッジの効いた演出にしびれました。突然流れるピアノ曲「乙女の祈り」にも驚きました。(万)

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