えびす組劇場見聞録:第52号(2016年5月発行)

  第52号のおしながき


突然ですが、あなたの「おこだわり」は何ですか?えびす組メンバーがそれぞれの「おこだわり」について書き記しました。俳優、劇作家、戯曲。納得いくまで、とことんこだわります。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
二月大歌舞伎 通し狂言
「籠釣瓶花街酔醒

四幕七場
三世河竹新七  作 歌舞伎座
2016年2月2日〜26日
客席が導く舞台〜「籠釣瓶花街酔醒」大向こうの効果〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「No.9−不滅の旋律 中島かずき 作
白井 晃 演出
赤坂アクトシアター
2015年10月10日〜25日
ふたつの姿を by コンスタンツェ・アンドウ
「恋と音楽 FINAL 鈴木 聡 作・演出 PARCO劇場
2016年2月3日〜3月8日
ハイバイ
「おとこたち

岩井秀人 作・演出 東京芸術劇場 シアターイースト
2016年4月4日〜17日
再演の期待と不安 by マーガレット伊万里
バックステージツアーの魅力 〜英国ナショナルシアター〜 by C・M・スペンサー
あとがき ○●○ 劇場にまつわるイイ話 ○●○


 Twitter もどうぞ! 

 ビアトリスのツイッター
 

 C・M・スペンサーのツイッター 

 コンスタンツェのツイッター 

作品一覧へ    
HOMEへ戻る   

客席が導く舞台〜「籠釣瓶花街酔醒」大向こうの効果〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 開演前、場内は非常灯も消えて真っ暗である。拍子木が鳴ると舞台には眼が眩むほど美しい吉原の街並みが現れ、間髪をいれず「播磨屋!」の大向こう。舞台演出かと思うほど、最高のタイミングだ。
 下総佐野からやってきた次郎左衛門(中村吉右衛門)は、あばた面で垢ぬけない、真面目だけが取り柄の絹商人である。はじめて訪れた遊郭で、吉原髄一の花魁八ツ橋(尾上菊之助)の行列に遭遇、その美しさに魂を抜かれる。「宿へ帰るが嫌になった」の台詞が有名だ。
 次郎左衛門は吉原に通い詰め、やがて商売仲間を引き連れて、お座敷を仕切るほどの上客となる。上等の羽織に雪駄履きもなかなか様になっており、吉原の作法も慣れたもの。八ツ橋も彼を贔屓客として、丁重にもてなす。今回とくに目を引いたのは、八ツ橋の朋輩であるほかの花魁や店の者たちが、次郎左衛門をことさら大切にしていることだ。もちろん金払いのきれいな上得意であるからだが、すれたところや裏表がなく、謙虚で温かな次郎左衛門の人柄のためだろう。
 商売仲間に対しても、自分の「モテぶり」の自慢はあるにせよ、次郎左衛門の振る舞いには嫌みがなく、「こんなに楽しいところですから、みなさんもぜひご一緒に」という大らかさがある。
 身請け話がまとまろうとするが、八ツ橋には繁山栄之丞(尾上菊五郎)という間夫がおり、次郎左衛門との縁を切れと迫られている。八ツ橋は悩んだ末、満座のなかで次郎左衛門に愛想づかしをする。手のひらを返すような突然の冷たい仕打ちに次郎左衛門は衝撃を受け、深く傷つく。朋輩や店の者たちも次郎左衛門への同情のあまり、なかなかその場を立ち去ることができないほどだ。やがて間夫の存在を察した次郎左衛門は引き絞るような声で「ありがとうございました」と泣き伏し、吉原を去る。
 数か月後、再び吉原にやってきた次郎左衛門に、店の者たちはたいそう喜ぶ。誰もかれも、「あの次郎左衛門さんが来てくれた」という嬉しさが隠しきれない様子だ。売り物に買い物、金がすべての吉原にあって、次郎左衛門の人柄が愛されていることがここでもしっかりと伝わる。それだけに終幕の八ツ橋惨殺の場がいっそう痛ましく、哀しい。
 さて開幕直後の「播磨屋」の大向こうが何を指し、どんな効果を上げているかを考えてみよう。この時点で舞台は無人、花道にすら誰もいないのに大向こうがかかるのを聞いたのは、ほかに記憶がない。
 観客は場内がまだ暗いうちから、中村吉右衛門演じる次郎左衛門の登場を、今か今かと待っているのだ。彼がどんな人柄か、どんな物語であるかもよく知っている。知っていてなお、いや知っているからこそ、純情な男が絶頂からどん底へ落ちる運命への哀惜の念が募る。これからわたしたちはあなたのことをしかと見守りますよという一種の挨拶が、「播磨屋!」の大向こうではなかろうか。このひと言が客席の心をひとつにした。本作について、「自分を捨てた女を逆恨みした男の殺人劇」という先入観を持っていた自分も、見巧者の方々が作りだした客席の空気に安心して身をゆだね、中村吉右衛門の滋味深い芸風を堪能することができたのだ。
 そしてさらに、二〇〇七年秋に上演されたサニーサイドウォーカー公演、山元清多作、西沢栄治演出の『籠釣瓶花街酔醒』の舞台を思い起こした。
 時代は現代、主人公の「次郎」は劇団の座長であり、俳優、演出も兼ねる劇団の看板だ。次郎は『籠釣瓶〜』を現代劇として上演するため、八ツ橋役の女優を探している。そこに非常に魅力的だが何やらわけありで、その名も八ツ橋という女優が現れた。原作の時代と現代、芝居と現実、虚実が入りまじるうち、主役の次郎左衛門を演じる次郎は、物語と同じように八ツ橋の虜になってしまう。
 わがままで奔放な八ツ橋はつぎつぎにトラブルを起こし、劇団は崩壊、芝居の上演も叶わなくなった。終幕、恋にも敗れた次郎は、桜の咲き乱れる舞台から去っていく花魁姿の八ツ橋をみつめ、しみじみと言う。「宿へ帰るが嫌になった」。
 あの名台詞。本来なら恋が始まった瞬間の、歓喜に満ちた言葉である。それが愛を失う悲しみや絶望の果ての諦観を、残酷なまでに滲ませていることに圧倒された。
 現代版の次郎は、彼自身が結末を知っている。歌舞伎の次郎左衛門の運命を知っているのは観客である。知っているから次郎左衛門とともに恋を喜び、裏切られたことを悲しむのである。
 いつかまた『籠釣瓶花街酔醒』を見るとき、幕開けにはどうか、「播磨屋」の大向こうが清々しくかかりますように。そして「宿へ帰るが嫌になった」という次郎左衛門の台詞を、深く味わいながら聴くことができますように。
(2月11日観劇)

TOPへ


ふたつの姿を
コンスタンツェ・アンドウ
 私がSМAPのファンになったのは一九九三年。多岐にわたる彼らの仕事のうち「演劇」のジャンルに初めて接したのも同年で、作品は『ANOTHER』(ジャニー喜多川・演出、アートスフィア)。以降、チケット争奪戦に敗れた数本を除き、メンバーそれぞれの舞台に通い続けている。
 稲垣吾郎の出演作品は、幸い全て見ることができているのだが、その中で最も強烈な印象を受けたのは、何と言っても『広島に原爆を落とす日』だ。(つかこうへい・作、いのうえひでのり・演出、一九九七年六月 紀伊国屋サザンシアター、一九九八年五月 PARCO劇場)
 この作品で、稲垣が舞台俳優として劇的に変貌したことに感動した私は、「技術的には未熟だが、舞台に立ち続けてほしい、いつかまた劇場に爆弾を落とすような衝撃を与えてほしい」、と長文の熱い感想を書き残している。
 その後、銀座セゾン劇場と赤坂ACTシアターの舞台に主演し、二○○三年五月『謎の下宿人』(鈴木聡・作、山田和也・演出)でPARCO劇場に再登場、ここから、稲垣×鈴木×PARCOのクリエイションがスタートする。『魔法の万年筆』、『ぼっちゃま』、ミュージカル『恋と音楽』三部作まで。稲垣は、舞台活動においてチームとホームとシリーズを得てきたのだ。
 これら六作品は全て、鈴木が稲垣に当てて書いており(演出作もあり)、人物像は稲垣のパブリックイメージに比較的近い。当初は「クール」や「ミステリアス」が稲垣の代名詞だったが、次第に、三枚目系や、いわゆる「へたれキャラ」の面も見せるようになり、『恋と音楽』にはそれも反映されている。観客は舞台の上に、何とはなしに、「SMAPの吾郎ちゃん」を感じとるのである。良くも悪くも。
 一方、PARCOの間に、几帳面に一本ずつ別の舞台を挟み、既存の翻訳劇や、別役実・井上ひさしの作品にも出演している。しかし、どこか稲垣のイメージとシンクロするような役柄が多かった。
 「舞台に立ち続けてほしい」という望みは叶い、私は、演劇の観客として、また、ファンとして、喜びを味わった。だが、手が届く範囲の安定した仕事にも思え、物足りなさも残った。「劇場に爆弾を落とすような」衝撃には出会えず、それを望んでいたことすら、記憶の底に埋もれかけていたのである。
 しかし、それは、あの有名な楽曲とともに、忘れた頃にやってきた。
 二○一五年十月、稲垣は、誰もが名前を知っているであろうベートーベンの、三十代から五十代を演じた。『No.9―不滅の旋律―』(中島かずき・作、白井晃・演出 赤坂ACTシアター)に描かれたこの天才作曲家は、神経質で、高圧的で、冷酷で、真摯で、不屈で、愛情深い。
 そんな複雑な人間像を、稲垣は、ときに激しく、ときに繊細に、説得力を持って体現し、私を圧倒した。聴力を失い、周囲の人間と衝突し、孤独と絶望に苛まれながら、音楽が生む希望を信じ、全てを「歓喜の歌」へと昇華させていく姿は、陳腐な形容だが、とても感動的だった。
 イメージとかけ離れた別人になりきったのが良い、というのではない。稲垣とベートーベンには共通点があると思うし、俳優の個性が役に埋没しているわけではない。俳優と役がぶつかり合って生まれる熱が、これまでの舞台とは比べ物にならないほど、高く、強く感じられたのである。
 ラストに演奏される「交響曲第9番」は、とてつもないパワーを持ち、聞く者にカタルシスを与える。稲垣は、そんな「第9」に飲み込まれることなく、広い劇場の中央に立ち、『広島に・・・』以降、二つ目の爆弾を落としてくれた。
 続いて、二○一六年二月『恋と音楽FINAL』に主演。半年もあけずに舞台に出たことはなかったが、「ホーム」PARCO劇場の閉館が近づき、三部作の完結を急いだのかもしれない。
 『No.9』の印象が強すぎたため、いわゆる「お馴染みの公演」をどう感じるか、少し不安だったが、これまでとは別の意味で、特別な感慨を抱くことになった。
 原因はSMAPの解散報道である。グループ存続で決着したものの、ファンの心に少なからずしこりを残したことは否めない。タイミング的に、騒動後初めて生身のメンバーが観客の前に姿を現す場となったこの作品。もちろん、直接的なコメントなどはなかった。しかし、舞台上に、いつも通り「SMAPの吾郎ちゃん」がいることを感じとったファンたちは、心のしこりを溶かすことができたのである。
 私は、アイドル(という言葉をあえて使う)が舞台に立つ意味の一つは、「単純にその姿を見せる」ことなのだ、と改めて痛感した。これは、「舞台俳優として優れた演技を見せる」ことに、なんら劣らない価値を持つと信じる。そして、稲垣は今、その両方を満たせる、数少ない存在に近づいたと思っている。
 『ANOTHER』を見たとき、私は、メンバー六人を「舞台向き」「不向き」「一本では判断できない」に分類し、稲垣を「不向き」に組み込んだ。あれから二十数年、実は、その判断は大きく変わってはいない。
 稲垣は水を得た魚のように軽々と舞台を飛び回るタイプではなく、地道な努力を重ねて舞台に根を張るタイプだと思う。アイドルとして、立ち居振る舞いはもっと美しくなれるはずだし、舞台俳優として、発声や滑舌にまだまだ改善の余地がある。更なる精進に期待する。
 今の願いは『No.9』の再演だが、それが叶わずとも、稲垣には、アイドルとしての姿と、舞台俳優としての姿を楽しませてもらえれば嬉しい。これまで通り、ゆっくりと。
(『No.9』2015年10月11日観劇、『恋と音楽FINAL』2016年2月15日観劇

TOPへ

再演の期待と不安
マーガレット・伊万里
 岩井秀人主宰の劇団ハイバイは、再演がとても多い。時には人気の俳優を集めた外部のプロダクションで作品が上演されることもあり、作・演出する岩井自身のひきこもり体験をもとにした「ヒッキー・カンクーントルネード」(二〇〇三年初演)や祖母の死を描いた「て」(二〇〇八年初演)などは特に人気が高く再演を重ねている。
 優れた作品を再演することは、より多くの観客に観てもらい、さらなる作品の評価にもつながる。また、続けて見ている観客にとっても、初演では気づかなかったことや、わからなかったことを認識し、理解を深める良さがある。
 それぞれの再演を見ているが、他愛もないやりとりに笑いをこらえきれなくなったり、ジンとしたり。物語や展開がわかっていても、毎回とても楽しんでいる。
 ハイバイ四月の最新公演は、さっそくの再演である「おとこたち」。時にばかばかしく、時に悲しい男たちの人生を凝縮して一気に描かれる。二〇一四年七月の初演を見たときに、非常に心に残った記憶があり、再演と聞いて迷わず切符を手に入れた。
 新卒入社した先で身体を壊し、定年までコールセンターの仕事を勤め上げる独身の山田(菅原永二)、製薬会社で順調に出世し理想的な家庭を築く鈴木(平原テツ)、妻がありながら愛人との関係を調子良く続ける森田(松井周※初演時は岡部たかし)、戦隊モノから人気俳優になるもお酒で身を持ち崩す津川(用松亮)。四人の青年期から老年期までを描いている。
 時は誰にでも等しく流れる。仲間とふざけあっていた学生時代を卒業し、世間の荒波にもまれていく四人。社会の現実にぶち当たる者、折り合いのつかない者、そこそこの人生や破天荒な人生を駆け抜ける者、誰一人として同じではない生き方が順を追って描かれる。
 彼らはいつものカラオケ屋に集い、大声で歌いながらばか騒ぎ。芝居の冒頭とラストに歌うCHAGE and ASKAの曲の歌詞が、男たちの人生とリンクして、すこぶる印象的。若者の一瞬の輝きが永遠にも思える場面。同じ場所に留まることが決して許されない、その後の苦労や転落人生を思うと切なくなる。人生すでに後半を生きる者にはひしひしと伝わるものがある。
 そんな待ち望んでいたはずの再演だったが、幕開きの山田のモノローグを聞いたところから、どこか集中できない自分がいた。初演は息をひそめて見守っていた役者の言動を、ついぼんやり見てしまっていたのではないか?そんな後悔にもおそわれた。
 物語を知っているから楽しめないというのは理由にならないだろう。繰り返し見てきた「ヒッキー」や「て」には、(キャストが変わっている場合もあるけれど)何度見ても同じせりふに新たな趣を感じたり、逆にそれを発見する喜びがあった。
 「て」で繰り広げられる父親と子ども達の確執や、男優がかつらをかぶって演じる誇張気味の母親の姿も、自分の家族に引き寄せると多少なりとも染み入り共感できる箇所があり胸にせまるものがあった。「ヒッキー」も、引きこもりの兄と、それを見守る妹の他愛もないやりとりは何度見ても笑え、かつ、ほのぼのする。「おとこたち」ほど、既視感にとらわれることはなかったのである。
 「おとこたち」の大きな特徴は、物語をモノローグでつないでいるという点だ。岩井の他作品でもないわけではないが、本作品ではエピソードとエピソードの間に必ずといっていいほど、山田が狂言回しとして登場する。その説明が親切なものの、観客はあらかじめほとんどを聞いてしまう。そして種明かしをするようにエピソードを挿入。言い過ぎかもしれないが、どうしても確認作業に近くなり緊張をそぐのではないかという気がした。
 また、もう少し彼らの人物像を深く掘り下げることもできたのではないだろうか。観客の目にはまだ若い山田が実は八十歳を越えていたという冒頭のオチはすでに了解済みだし、ネタは全部バレているのだから、それでも人物にもっと共感できる工夫を望むのは欲張りだろうか。
 今回男四人の人生を早回しでながめたことで浮かび上がったのは、「老い」よりもむしろ、人生のはかなさだ。どんなに必死にペダルをこいだとしても思わぬ所に落とし穴があったり、目的地とはまるで別の場所に着いてしまったり、決して思い通りにはならない。想定外は当たり前、正解は最初から存在しないことにもっと自信をもつべきではないかとエールを送られている気分だ。
 「老い」という重いテーマも岩井の手にかかると、どこか滑稽でとぼけた味わい。この持ち味を生かしつつさらに壮大であはれな物語をつむいでいってほしい。
(4月13日観劇)

TOPへ

バックステージツアーの魅力 〜英国ナショナルシアター〜
C・M・スペンサー
 ロンドンに行くと、観劇の次に楽しみにしているのが劇場主催のバックステージツアーである。日本では舞台裏を見学できる機会は、ほとんど無い。東京文化会館や東京芸術劇場が定期的に行っているが、それでも年に一時期のことであるから、その機会を逃すとなかなか見学できない。ましてや旅行者にとっては、なおのことだ。新国立劇場では、オペラ公演など開催当日に来場者を対象に募集することもあるが、抽選でめったに当たらない。また、公演間近に興行主がバックステージツアーを期間販売の抽選の特典にすることがまれにある。日本では、こういう状況だからこその希少価値が生じているようだ。
 一方、ロンドンには、通年バックステージツアーを開催している劇場が複数ある。そのうちの一つ、ウォータールー駅から歩いて十分、テムズ川に隣接するナショナルシアターのバックステージツアーは、月曜日から土曜日まで毎日複数回開催されている。所要時間は一時間強、チケットは公式サイトで購入できる。一般料金で9.5ポンド、日本で購入したツアーチケットを劇場で引き取り、参加した。(ツアーの順序については、記憶の限りであること断っておく)
 ガイド三人がツアー参加者およそ二十人を案内する。オレンジ色の目立つベストを着用して階下へ行くと、チケットが無くても自由に入場できる劇場内エリアでは、上演作品のコンセプトに沿った展示と体験ができるイベントが開催されていた。三つある劇場のうち、一一五〇席あまりの一番大きいオリヴィエ劇場で上演されるのは、『wonder.land』。時は現代、十代の少女アリスがSNSを通してネット上の不思議の国へ迷い込むミュージカルである。デジタル技術を駆使した舞台美術にちなみ、鏡に映る自分の顔が意地悪そうなネコの顔になったり、舞台でキーとなるトイレに腰掛け特殊なメガネを着用してバーチャル体験をさせるものもあり、ちょっとしたテーマパークだ。親子連れやティーンエイジャーが多く楽しむ光景が見られた。
 開演前の劇場へ入り客席に座ると、ガイドが劇場の歴史や特徴など細かい数字を示しながら丁寧に説明を始めた。英語のみの説明のため聴き取りに自信の無い私は、ステージ上でエクササイズを行っている光景に目を奪われていた。ツアー後に観劇予定だったのでステージ上の彼らについてガイドに尋ねると、出演者だと言う。俳優についての予備知識はなかったが、エクササイズ用の音楽をかけて、思い思いのトレーニングウェアで皆が一斉にアップする姿を見るのは、観客としてテンションが上がる。ガイドがひとしきり説明を終えると、隣接するリトルトン劇場へと向かった。
 そこはかつて『My fair lady』を観た劇場であることを劇場内に展示している衣裳を見て思い出した。八九○席規模のプロセニアムアーチの劇場である。ここでもステージ上では出演者が発声やセリフ合わせをする光景が見られた。ツアー参加者が二階席から見学ということもあるだろう。舞台上の俳優は一向に客席を気にすることなく準備を続けている。衣裳を着た俳優の稽古風景を見られることも、作品への関心を倍増させた。
 次に向かったのが、最初に入った劇場の舞台裏だ。途中、楽屋の前を通り、迷路のように抜けた先に広がる空間から、また通路に入ると、小道具が所狭しと棚に保管されている。著作権の無い小道具だけ撮影が許され、手に取って見ることができた。そこから次の演目の稽古場を見学する。俳優は不在であったが、小道具も置かれて今からでも稽古ができそうな様子だった。この場面がどう使用されるのか気になって仕方がない。ここまで見せられたら、滞在中であればチケットを買ってしまうだろう。
 リアルタイムで生のバックステージを見せるナショナルシアターのツアーに、次回も参加してしまうに違いない。作品ごとに舞台で見られる光景の変化を楽しみに、このバックステージツアーが少しずつ劇場に関心を寄せる観客の裾野を広げる活動であることを、さらに観光地として貢献していることを実感した。
(2月参加)

TOPへ


 劇場にまつわるイイ話  

二十年くらい前、八月納涼歌舞伎の夜の部開場を待つあいだ、年輩の女性とおしゃべりしました。歌舞伎だけでなく、新劇もお好きだそう。先輩の当たり役を引きついだ後輩の女優に手厳しい批評。恐れ入りました。(ビ)



*新橋演舞場で大好きな俳優さんと遭遇。前から二列目に座った彼の頭が、するするする・・・と下がり、背もたれとほぼ同じ高さに。大柄な彼にはキツイ姿勢のはずですが、後ろの人への配慮なのでしょう。一層好きになりました。(コン)



*自由劇場にて、十年以上前になりますが、松葉杖をつきながら劇場へ。その休憩時の対応の素早く親切だったこと。トイレの列を見て時間内に戻れるか案じていたら、車椅子用へ付き添って案内してくださいました。心強かったです。(C)



*だいぶ昔、PARCO劇場で観劇中、同伴した家族の体調不良により途中で切り上げ帰宅することに。残念な気分だったものの、劇場スタッフの方の対応や気遣いの言葉に救われて劇場を後にしました。(万)

TOPへ

HOMEへ戻る