えびす組劇場見聞録:第53号(2016年10月発行)

第53号のおしながき 


今回の見聞録は、まずは歌舞伎について二本取り上げました。四百年以上続く歌舞伎の
現代における意味とはなんなのか? 少し探ってみたいと思います。
最後は米国の現代戯曲。国や時代は違えど変わらない家族の物語です。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
六月大歌舞伎 「義経千本桜」 歌舞伎座
6/2〜6/26
「おぢさんと歌舞伎を〜『義経千本桜』より『すし屋』」〜」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『○○歌舞伎』」の花と実と、そして」 by コンスタンツェ・アンドウ
「8月の家族たち」 トレイシー・レッツ 作
ケラリーノ・サンドロヴィッチ 上演台本・演出
シアターコクーン
5/7〜5/29
「ヒステリックなイブたち」 by マーガレット伊万里
 ○●○  上半期の一本  ○●○

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「おぢさんと歌舞伎を〜『義経千本桜』より『すし屋』〜」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 歌舞伎に親しむようになって、それまであまり共通の話題がなかった年輩の方々と話が弾むようになった。現在活躍中の役者の先代、先々代の思い出など、自分が生まれる以前の舞台の話を伺うのはまことに興味深く、楽しいひとときだ。
 ところがその一方で、世代に関わりなく、劇の受けとめ方や感覚の違いを体験することもある。一九九八(平成十)年正月、家族、親戚が集まって十五代目片岡仁左衛門の襲名披露公演『菅原伝授手習鑑』より、「寺子屋」のテレビ中継を見ていたときのことだ。
 武部源蔵(中村吉右衛門)が、その日たまたま寺入りした少年(実は松王丸/片岡仁左衛門の息子)を主君の子の身代わりに首を刎ねようと決意するくだりで、当時五十代後半の叔父が叫んだ。「とんでもない。こいつは極悪人だ」。
 叔父の言うことにも一理ある、どころか至極まっとうである。歌舞伎狂言において、主君への忠義のために身内を犠牲にする物語は少なくないとはいえ、「寺子屋」のこの場は人さまの子を断りもなく殺そうとするのだ。無茶にもほどがあるというもの。
 血を吐くような思いでわが子の首を差し出した松王丸役の仁左衛門、いざとなったら命を投げ出す覚悟で立ち向かった源蔵役の中村吉右衛門はもちろんのこと、わき役に至るまで、円熟の花々が開くような素晴らしさであったが、近代的精神を持った叔父を納得させることはできなかったらしい。
 以前、まだ二十代のある歌舞伎役者が初役で源蔵をつとめたとき、「肚(はら)が浅い。これではただの殺人者」と酷評された。まさに叔父の指摘の通りである。
 しかし若ければいちがいに無理ということでもないらしい。
 たとえば今年八月に上演された若手役者の勉強会「双蝶会」が上演した「寺子屋」について、早稲田大学教授の児玉竜一氏は朝日新聞の劇評において、「(若手たちが)師表と仰ぐ吉右衛門の精妙な台詞まわしを懸命にたどりながら、厳格なせりふと型のあわいで人間を描こうとする」と高く評価し、「先人の跡を迷いなく踏襲する若手の修業こそが、将来への大切な種を植える」と期待を寄せている。
 若手であっても的確な指導のもとで熱心に稽古を重ねれば、至芸に到達する道筋が見えてくる演目なのであろう。見逃したことが残念だ。
 さて八月の納涼歌舞伎をのぞいて、通常は昼夜二部制の歌舞伎座が、六月は三部構成で『義経千本桜』の通し上演を行った。
 第二部の眼目は松本幸四郎演じる「いがみの権太」が主人公の「木の実・小金吾討死」と「すし屋」である。
 「木の実・小金吾討死」において、権太はえげつないまでの悪党ぶりを発揮するが、その一方で憎まれ口を叩きながらも女房には惚れ抜いており、幼いせがれの手を取って、「冷てえ手だな」のひと言に家族思いの優しい心根が垣間見える。
 後段の「すし屋」で、権太は褒美欲しさに、父が恩義を受けた平重盛の息子・平維盛とその妻子を敵方の源頼朝に引き渡す。父は怒りのあまり息子を刺すが、実は権太は思いを察して改心しており、敵方に差し出したのは、前段に登場した自分の女房とせがれであったという物語である。
 現代劇のリアリズムが身についた観客にしてみれば、欲と功名の塊の権太がなぜ、どのようにして百八十度の改心を遂げるのかを知りたい。それこそが物語の肝である。ここを描かずに、いくら事情を知らないとはいえ、父親がためらいも見せずに息子を刺し、瀕死の重傷を負った権太が、井上ひさしの『化粧』ばりに、「いまわの際に不自然過ぎる長台詞」で長々と事情を話してこと切れるとは。
 敵方の源頼朝にも平家方への恩義があり、事情をすべて察した上で維盛に出家を促したことが明かされる。となると、権太がここまで捨て身にならずとも済んだのかもしれず、あまりに虚しく、痛ましい最期である。
 叔父なら何と言うか。「わけも聞かずに息子を刺すとは、あの親父は人でなしだ。それになぜあいつ(権太)がそこまでやるのか、女房子どもがかわいそうすぎる」と怒るならまだしも、「バカバカしい話」と白けてしまい、「忠義がすべてに優先するのも、家族愛が美化されるのも不快だ」などと言いかねない。
 仮に権太が父親に「かくかくしかじかで、女房こどもを身代わりにします」とあらかじめ告げると想像してみよう。父は驚きながらもせがれの改心を喜び、嫁と孫には手を合わせ、おかげで忠義を果せたと安堵するかもしれない。少なくとも権太は死なずに済む。だがそうすると単に話の流れになり、芝居として幕を下ろすことができなくなるのではないか。
 ここなのだ。芝居における権太の身の置きどころ。それが重要なのであり、となるとやはり権太は死ぬしかない。
 三年前、十五代目片岡仁左衛門が権太を演じる「すし屋」を観劇した。
 救いようのない悪党が最後の最後に良心に立ち返ったこと、それが生きてじゅうぶん報われないことの哀切が惻々と感じられた。血と涙の愁嘆場を受け入れるというより、ごく自然に身を委ねることができたのである。
 「寺子屋」に話を戻すと、あの場で叔父の意見に賛同する者は誰もいなかった。歌舞伎観劇歴がゆうに半世紀を越える祖母とて、はじめて見たときには「どうしてあんなことを?」と衝撃を受けたはずだが、観劇を繰り返すうちに役者に魅了され、物語にもなじみ、いつのまにか味わえるようになったのではないか。それは実に幸運なことだ。知識を得て理解や納得に導かれる場合もあろうが、体質的、感覚的なものでもあり、逆に「こんな話は受けつけられない」との拒絶も致し方ないのである。
 歌舞伎は、物語とそこに生きる人々のなかに、現代にはあり得ない精神性を宿す。数百年の時空を超え、自分の心の奥底に同じものが眠っていたらと想像するのはなかなかスリリングである。歌舞伎の見方、感じ方に決まりはない。同じ演目に対し、正反対の反応もあり、何も感じないこともある。それを否定したり批判したりするのは野暮というもの。叔父とは歌舞伎の話は避けるという社会人としての対応が賢明と心得た。
 だが実を言うと、自分はまだあきらめきっていない。叔父は『北の国から』や『とんび』など、健気な子どもが登場する情愛ものに滅法弱い。もしかしたらこのあたりに狙いを定め、辛抱強く迫っていく方法があるかもしれない。
 そこに男が惚れるようなヒーローと、亭主を支える気風の良い女房が加われば、あれほど歌舞伎を愛好した祖父母の血を引く叔父である。心の奥底のDNAを呼び覚ますことは、不可能ではなかろう。
 いつの日か、おぢさんと「すし屋」を。
 ささやかな自分の夢であり、野望である。
(六月十八日観劇)

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「『○○歌舞伎』」の花と実と、そして」
コンスタンツェ・アンドウ
 どこで、どんな歌舞伎を見るか?かつてその選択肢は多くなく、松竹系の劇場や国立劇場、全国巡業などで上演される、古典歌舞伎や新歌舞伎が中心だった。
 それも今は昔。いつの間にか、様々な所で歌舞伎と銘打つ公演を見られるようになった。「○○歌舞伎」花盛りである。
  「○○歌舞伎」は大きく二種類に分けられる。一つは、歌舞伎から外の演劇界へ向かうもの、もう一つは演劇界から歌舞伎へ向かうものである。
 前者の筆頭は、三代目猿之助の「スーパー歌舞伎」だろう。古典歌舞伎の要素を生かしつつ、現代人の心を打つ新作として八六年に生まれた『ヤマトタケル』が大当たり、以降、九作品が全国で上演され、膨大な公演回数を誇る。
 十八代目勘三郎の「コクーン歌舞伎」は九四年の『東海道四谷怪談』にはじまり、シアターコクーンを根城として多彩な実験を繰り返してきた。勘三郎没後は息子たちが引継ぎ、今年で第十五弾になる。
 その後、「コクーン歌舞伎」の命名法を踏襲してか、劇場や上演場所にちなんだ「○○歌舞伎」が次々と誕生する。
 PARCO劇場「PARCO歌舞伎」・『決闘!高田馬場』(○六年)、大塚国際美術館システィーナホール「システィーナ歌舞伎」(○九年から七作品を上演)、EXシアター六本木「六本木歌舞伎」・『地球投五郎宇宙荒事』(一五年)など、歌舞伎の外から作家や演出家、出演者を招いて作品作りが行われている。
 「システィーナ歌舞伎」のコンセプトは「和と洋のコラボレーション」。洋楽の生演奏や女性の出演、ミュージカル形式等、かなり先鋭的で、主演の愛之助はテレビで「コラボ歌舞伎」という言葉を用いていた。
 四代目猿之助は、「スーパー歌舞伎U(セカンド)」第二弾で人気マンガ『ワンピース』を舞台化し(一五年)、話題を集めた。「歌舞伎版ワンピース」ではなく「ワンピース歌舞伎」と呼ばれ、再演も決定。
 ニコニコ超会議で上演された「超歌舞伎」・『今昔響宴千本桜』(一六年)ではデジタル技術を駆使し、スクリーン上の初音ミクと、生身の役者(獅童)が共演した。
 「○○歌舞伎」というネーミングではないが、染五郎は『阿弖流為』(一五年)で「歌舞伎NEXT」を立ち上げ、更に、『獅子王』(一六年)を創作し、ラスベガスで自ら主演。これは日本の歌舞伎をそのまま披露するのではなく、海外での継続的な上演(外国人が演じることも含め)を見据えた作品で、新しい試みだった。
 そして、本家・歌舞伎座でも、毎年のように新作歌舞伎が作られている。
 これら全てを見たわけではないが、「変化」に対して前のめり気味のように感じるのは私だけだろうか。不景気、少子高齢化、娯楽の多様化、訪日客の増加など、歌舞伎に変化を促す要素は数知れない。「生き残るのは変化に適応できる者」という考えはある意味正しく、歌舞伎は変化してきたからこそ四百年以上続き、これからも変化が必要だと理解している。
 守るべきものがないがしろにされているとも思っていない。一三年に時代物の大作『新薄雪物語』が三十〜四十代を中心に上演された時は、六十〜七十代の先達が総がかりで指導した。また、今年八月の「双蝶会」では、歌昇・種之助兄弟が、吉右衛門の監修のもと、堅実に、情熱的に義太夫狂言に挑む姿があり、続く九月の歌舞伎座・秀山祭では、吉右衛門と玉三郎が待望の『吉野川』で規範を見せる。
 しかし、人間国宝クラスの大御所たちと同じ舞台に立ってきた中堅層が薄くなった今、その下の世代が「変化対応」に駆り出されていては、守るべきものを伝え、受け取るための、物理的な時間と肉体的な余裕があるのかと心配になる。もともとワーカホリック気味な歌舞伎役者、あれもこれもで体を壊しては本末転倒だ。
 ○八年の平成中村座では、「仮名手本忠臣蔵」が四つのプログラムで上演され、仁左衛門・勘九郎(当時)が脇に回り、橋之助・勘太郎(当時)・七之助が大役を勤めた。「○○歌舞伎」の先鋒だった勘三郎が古典の継承にも心を砕いていたことが伺える。今後、このようなスパルタ教育的公演が実現するだろうか。
 「○○歌舞伎」のもう一種類、演劇界から歌舞伎へ向かうものの老舗には、「ネオかぶき」の花組芝居がある。旗揚げは八七年で、座長の加納幸和を中心に、歌舞伎や新派の作品をアレンジして上演を続けている。劇団員は男性のみで、女方が存在する点も特徴的だ。
 劇団・新感線の「いのうえ歌舞伎」はもはや演劇の一ジャンルと言えるのかもしれない。アクション・笑い・カタルシス満載の、大音量無国籍風時代活劇、というところだが、一六年の『乱鶯』には、絶滅しかけている正統派時代劇の風格があり、新感線が変えたレールを、自身で元に戻そうとしているようにも思えた。
 ジャニーズ事務所の滝沢秀明が主演する舞台が「滝沢歌舞伎」。当初「滝沢演舞城」というタイトルだったが、公演を重ねるうちに「歌舞伎」に変更された。○六年の初演しか見ていないが、和テイストの芝居とショーで構成され、歌と舞と伎(わざ)を見せるという意味では、看板に偽りはないだろう。
 ○六年に活動を開始した「木ノ下歌舞伎」が、「古典歌舞伎の現代的上演」として、存在感を増している。私は、一五年の『三人吉三』『心中・天網島』、一六年の『義経千本桜 渡海屋・大物浦』を見た。
主宰の木ノ下裕一が脚本を書き、都度演出家を選ぶスタイルを取り、舞台では、俳優・女優が現代的な扮装で躍動し、古い言葉と今の言葉が入り混じる。ぱっと見では時代劇にすら思えないが、歌舞伎の脚本・原作の人形浄瑠璃・歴史的背景等を深く吟味し、取捨選択して再構成されており、「こういうもの」として疑問を持たずに享受してきた歌舞伎の世界に別の扉が開かれたような印象を受ける。  三公演とも木ノ下のアフタートークを聞いたが、伝統芸能や文化風俗に対する豊富な知識と愛情が伝わり、歌舞伎の作り手として信頼感を抱くことができた。
 また、稽古の最初には、DVDを見ながら、俳優が歌舞伎役者の演技を完全にコピーして覚えるプロセスを踏むそうである。「歌舞伎の演技の構築の仕方を、俳優が体で覚えていくことで理解する」のが目的の一つだという(「木下歌舞伎叢書2 三人吉三」より引用)。
机上の理論だけでなく、様式を真似るだけでもなく、双方をとことん追及した後に、壊して、作る。木ノ下歌舞伎は、歌舞伎に真っ向から挑戦しているのである。演劇として、表現方法や出演者に荒削りな部分はあるが、大きく化ける予感に満ちて、目が離せそうにない。
 歌舞伎の枠を超えようとするもの、歌舞伎風なもの、歌舞伎に迫ろうとするものなどが並び立ち、交流することで、歌舞伎の可能性は広がるだろう。
 しかし、古典歌舞伎を古典として演じることができるのは、いわゆる「歌舞伎役者」に限られ、継承には時間がかかるという事実はゆるがない。そして、観客が育つのにもまた、時間がかかるのである。
 私は、多くの「○○歌舞伎」が花開き、実を結ぶことに期待している。その一方で、うっすらとした危機感にもおそわれている。若い頃、「将来自分は『菊吉爺』ならぬ『孝玉婆』」になって『昔は良かった』と嘆くのだ」とうそぶいていたが、歌舞伎そのものの大きな変化は想定していなかった。十年後、今の思いが婆の杞憂となっていることを願う。

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「ヒステリックなイブたち」
マーガレット伊万里
 「8月の家族たち」(作:トレイシー・レッツ 翻訳:目黒条 上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)は、アメリカ中部オクラホマが舞台。三角屋根の骨組みに二階建ての家、屋根裏部屋もある。八月の蒸し暑い夏、この邸宅を舞台に繰り広げられる家族のお話だ。
 アメリカの人気作家の作品で、二〇〇七年シカゴで初演、翌年にはブロードウェイへ進出、ピューリッツァー賞とトニー賞を受賞している。
 二〇一三年には映画化。メリル・ストリープとジュリア・ロバーツというハリウッドスターの競演が話題となったのが記憶に新しい。
 詩人のベバリー(村井國夫)と妻のバイオレット(麻実れい)、そして家政婦が住んでいる。ベバリーは毎日お酒が手放せない。バイオレットは病いもあり鎮痛剤など薬に頼る生活を送っている。
 ある日、ベバリーが失踪。心配した娘たちがしばらくぶりに実家に駆けつけ、彼女らのパートナーや子供も揃い、騒動が巻き起こる。夫が行方不明になった原因もわからずオロオロするばかりのバイオレットだったが、五日後、ベバリーの遺体が湖で発見される。死の理由はわからないまま。
 薬が効いている間は呂律も回らず毎日朦朧としているバイオレットだが、心配してやって来た娘たちには口うるさく容赦ない言葉を浴びせてばかり。母親にとって、娘はいくつになっても小さくて可愛い守るべき存在であり、「老いては子に従え」なんて受け入れ難いのだ。生活感のない役柄の多い麻実れいだが、薬漬けの母親役を奔放さと繊細さを併せ持つ演技で見せ、説得力がある。
 娘たちも負けてはいない。外ではすました仮面をつけていても、実家に帰れば親きょうだいに対してはエゴをむきだしにする。
 まずは、夫と娘を伴ってやってきた長女バーバラ(秋山菜津子)。夫ビル(生瀬勝久)の浮気が原因で実は離婚している。思春期の娘ジーン(小野花梨)を抱え、自分の更年期も手伝ってか(?)、いつもイライラ、ヒステリーぎみ。
 次女アイビー(常盤貴子)は、母親の影に隠れるかのようなひかえめで素朴な女性。実はバイオレットの妹マティ・フェイ(犬山イヌコ)とチャーリー(木場勝己)の息子、いとこのチャールズ(中村靖日)と付き合っている。
 フィアンセをつれてやってきた三女カレン(音月桂)。幸せをつかんだかと思いきや、お相手のスティーブ(橋本さとし)はジーンに手を出そうと薬をちらつかせたりして、おせじにも品行方正とは言えない。
 三姉妹を描いた戯曲は、シェイクスピア「リア王」やチェーホフ「三人姉妹」など著名なものがすぐに思い浮かぶ。作品が生まれた時代や社会背景もあって姉妹の描かれ方はそれぞれ。
 本作は、母親と三姉妹との関係に焦点をしぼっている。昔の作品は、親不在(亡くなっている)の場合が多いが、四十代のいい年をした娘三人がいまだ母親との関係に頭を悩ませているというところが現代のリアルな家族の姿を捉えている。(そこに父親は必要なしというわけか?早々に退場してしまう)
 娘たちはいくつになっても深層で母親の影から逃れられず苦しんでいる。逃れよう、離れたいと願いつつも、それに反して常に母親を意識してしまう自分に苛立つよう。母と娘、同性であるが故の呪縛か。母娘の愛というものではなく、母親から産み落とされたときから背負った業のようなものか。
 父親が亡くなった悲しみも癒えぬまま、食卓を囲んだ家族。とうとうバーバラの堪忍袋の緒が切れて、バイオレットと取っ組み合いの大騒ぎとなる。
 絶対的な母親の存在の前で、いい子を演じ続け悩む女性が多いとよく聞くが、この芝居のように母と娘が面と向かって言いたい放題、感情をあらわにできるというのは、かえって健全なことのようにすら思えてくる。家族同士、相手の動向をうかがったり牽制したり、気になって仕方がないけれど、相手が弱っているときは、やはり手を差し伸べ、唯一無二の存在として大事に思う。家族であるが故の苛立ち、温かさと残酷さ。
 実はチャールズがマティ・フェイとベバリーの間の子だという事実も明るみになり、物語はあまりにひどい、抜き差しならぬ状況にまで陥っていく。
 アル中、ヤク中、不倫といった深刻なことがこれでもかと作品に盛り込まれるが、どこか達観した境地で見せるケラの笑いの演出に安心して身を任せられる。米国人のお話だからとどこか他人事なのだが、その実、母娘の関係は十分日本人の私にも通ずるおそろしさ。
 終幕は、バーバラ一人が家にとり残され、娘たちは全員出て行ってしまう。途方に暮れるバーバラ。だがしかし、娘達はまたいつか、ふらっと実家に戻って来るような気がしてならない。厄介だけれど、母親や姉妹のことを自問自答しながら進みつづけるしかないのだから。
(五月二十八日観劇)

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 『上半期の一本』  

◆風姿花伝プロデュース ジョン・ベンホール作 小川絵梨子翻訳 千葉哲也演出
『いま、ここにある武器』作り手それぞれが自分の持ち場で最大の力を発揮し、互いに協力し、誠実に勤めた成果。観客も心して受けとめたい。(ビ)



◆二本になるが、歌舞伎座と木ノ下歌舞伎の「渡海屋・大物浦」(六月)。美しく懸命な、染五郎初役の知盛。死者たちを暗示する、何枚もの着物を碇に変えて入水したキノカブの知盛。一ヶ月の間に二度泣かされました。(コン)



◆新国立劇場『あわれ彼女は娼婦』ジョン・フォード作 栗山民也演出。複雑な人物の絡みが紐解かれていく展開に引き込まれました。クロスした舞台と照明に、人々の情念と狂気だけが浮かび上がり、何が人間にとって罪となるのか、美しさにごまかされない衝撃を受けました。(C)



◆ロベール・ルパージュ作・演出・美術・出演による一人芝居『887』(東京芸術劇場)。ルパージュ・マジックと呼ばれる映像や仕掛けにこだわる彼だが、ラストで見た彼自身による力強い詩の朗読も非常に心に残った。(万)

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