えびす組劇場見聞録:第55号(2017年5月発行)

  第55号のおしながき


こんな芝居があったなぁと、少し前を振り返ったつもりが「昭和」の作品だったりします。
いつの時代も、今が一番新しい。戯曲と上演のご縁を感じながらの観劇です。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
えうれか第三回公演
「楽屋
清水邦夫 作
花村雅子 演出
渋谷・space EDGE
2017年3月18日〜20日
観客A〜女優たちの「楽屋」につながるもの〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
二月花形歌舞伎
「艶姿澤瀉祭
市川猿之助 演出
尾上菊之丞 構成・振付
博多座
2017年2月3日〜26日
昭和の香り、越し方行く末 by コンスタンツェ・アンドウ
「城塞 安部公房 作
上村聡史 演出
新国立劇場小劇場
2017年4月13日〜30日
ミューズの伝言 by C・M・スペンサー
「不信 彼女が嘘をつく理由
三谷幸喜 演出 東京芸術劇場 シアターイースト
2017年3月7日〜4月30日
偽りなき三谷作品との関係 by マーガレット伊万里


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観客A〜女優たちの「楽屋」につながるもの〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 以前森光子のインタヴュー番組をみたときのことだ。いつごろの、どこの局かも記憶にないが、「『放浪記』の林芙美子役をほかの女優が演じるとしたら?」という質問に対し、穏やかな表情と口調のまま、「やったんさい」とひと言。誰にも芙美子の役を渡すものか、あたし以上にやれるものなら、ああいいよ、やったんさい。
 長い下積みの末に生涯の当たり役を得て、その柔軟な演技力と温かな人柄で、共演の俳優やスタッフにも絶大な人望のある国民的女優の決意表明であった。
 清水邦夫の戯曲『楽屋』は、脇役やプロンプターとして不遇な生涯を終えた女優の幽霊と、懸命に舞台をつとめている生きた女優が火花を散らすバックステージものの傑作である。一九七七年(木冬社第二回公演 秋浜悟史演出 渋谷・ジャンジャン)の初演以来多くの劇団、女優によって繰り返し上演されている。
 自分自身は一九九二年、とろんぷ・るいゆ旗揚げ公演(中村ひろみ+とろんぷ・るいゆ演出 前橋市・夢スタジオ)を皮切りに、一九九八年のTPTフューチャーズ・プログラム(鈴木裕美演出 ベニサン・ピット)、二〇〇九年の海千山千プロデュース公演(西沢栄治演出 下北沢・OFFOFFシアター)などを観劇した。
 演じ手が戯曲と格闘する過程で、戯曲のほうから演じ手に迫りくる瞬間の躍動感が伝わるもの、新劇、宝塚、小劇場と出身の異なる女優たちがみごとな調和を見せた様子などが記憶に残る。
 さらに、楽園王創立二五周年記念公演『楽屋』(二〇一六年 長堀博士演出 サブテレニアン)では、冒頭とカーテンコールにサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道」を効果的に用い、この作品の戦闘的、挑戦的な一面を鮮やかに示した。
 一方で、劇団チョコレートケーキ番外公演(二〇一四年 日澤雄介演出 「劇」小劇場)、前述のとろんぷ・るいゆはじめ、一八組の劇団が参戦した燐光群アトリエの会「『楽屋』フェスティバル」(二〇一六年 梅ヶ丘BOX)や、ビニヰルテアタア公演(同年 鳥山克昌演出 浅草橋・ルーサイトギャラリー)など、見逃した『楽屋』も少なくない。
 この三月に出会ったのは、えうれか第三回公演(花村雅子演出 渋谷・space EDGE)の『楽屋』である。小さな劇場は演技スペースのぎりぎりまで座席を設置し、満員の盛況であった。
 本作では女優たちが古今東西のさまざまな戯曲の名台詞を発する。冒頭はチェーホフの『かもめ』から、ニーナの台詞である。ニーナは、女優の多くが憧れるヒロインだ。観客としても大女優のアルカージナより、ニーナを誰が演じるかに関心が向く。
 しかしニーナは前半こそ若さと希望にあふれ、輝くばかりだが、後半は見る影もない。憧れの流行作家と駆け落ちするも、子どもを産んですぐ捨てられ、旅回りの劇団でようよう舞台に立つニーナは、いわば女優を夢見た少女の成れの果てである。
 幽霊である女優ABのコミカルなやりとりについ目が行きがちであるが、生きている女優Cと死にかけている女優Dとの会話を読み返してみよう。
 若いDは「ニーナ役を返して」とCに迫るが、この役はずっとCのものであり、DはC専属のプロンプターに過ぎないというのがCの言い分だ。プロンプするうちに妄想にかられたのか、Dは納得しない。遂にCは暴力に訴え、Dを追い払う。一人になって外出用の化粧をしながら、「毛穴という毛穴から血が吹き出すような思い」で女優を続けているというCの独白は、まさに前述の森光子の「やったんさい」である。最初から最後まで生きている唯一の女優Cが、花形女優ではなく、思い通りの人生を歩けなかったニーナ役に執念を燃やすという自己矛盾に慄然とする。
 芝居好きならば女優や演劇を作る世界への憧れは非常に強くあり、またそんな憧れがあってこそ、多くの時間と金を費やし、劇場通いを続ける甲斐もあるというもの。ただ実を言えば本作の場合、「自分は女優など無理。観客で良かった」とひそかに胸をなでおろしていたのである。
 えうれか版は演技スペースを客席が三方から囲んだ上に、前述のように満席ゆえ、楽屋と客席が物理的にひと続きにならざるを得なかった。観劇の環境としては辛いのだが、図らずも、「これは他人事ではないのではないか」という、恐ろしくも新鮮な感覚を得られたのである。
 『楽屋』に女優の幽霊が登場するのと同じように、客席にも霊的な何かが存在するのではないか。作り手側ではないとはいえ、たとえ衣食住が十分に満たされていても、芝居をみる行為がないとしたら、そんな人生はまったく想像ができない。
 観客もまた、何の因果か演劇という魔物に憑りつかれ、逃れることができない宿命を負う。
 女優たちが巣食う「楽屋」は、いつのまにか自分の座す「客席」につながっていた。観客の魂もまた、「観客A」として、劇場のどこかに宿り、自分もいずれ同じ運命を辿るのではないか。
 この地上に生きるあいだ、あといくつの『楽屋』に出会えるか。願わくば目の覚めるように新鮮で、かつ味わい深い懐かしさがあるように。
 そして地上の生が終わったあとは、なるべく生きた人に迷惑をかけず、機嫌のよい幽霊になれるように。
(3月19日観劇)

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昭和の香り、来し方行く末
コンスタンツェ・アンドウ
 二月博多座恒例となった歌舞伎公演、二○一七年は、市川猿之助主演『男の花道』(昼)と『雪之丞変化』(夜)。両作には、昭和に生まれ・映画から舞台化され・長谷川一夫が当り役にしたという共通点があり、これまでに何度か歌舞伎として上演されている。わかりやすさを重視したのかもしれないが、古典でも新作でもない二本が選ばれた理由に興味を持った。
 歌舞伎の新作というだけで話題を集めたのは過去のこと、外部からの脚本家・演出家の参加や一般俳優の出演はもはや珍しくはなく、女優やバーチャルアイドルまでが舞台に出るようになった。中には、歌舞伎と銘打たず、演劇として上演すれば良いのでは?と思う作品もある。(歌舞伎というだけで価格設定が高めになると感じるのは私のひがみ根性か・・・。)
 新作づくりの手法にやや出尽くした感がある今、往年の商業演劇のヒット作を活用して歌舞伎のレパートリーを強化しようという意図が、今回の演目立てに働いたのではないだろうか。
 脚本も演出もあらかたできあがっているので手っ取り早いし、「大外れ」の不安も少ない。年配の観客には懐かしさを、若い観客には新鮮さを与える効果も期待できる。「歌舞伎役者がやれば何でも歌舞伎」とは、便利なフレーズだ。
 五月明治座で新国劇の『月形半平太』が初めて歌舞伎として上演されたのも、同様の背景が考えられる。近代演劇の再評価という点で意味を持つし、個人的にリクエストしたい作品もあるので、この傾向が続くのか、見守りたい。
 また、二月博多座昼の部では、『男の花道』の後に『艶姿澤瀉祭(はですがたおもだかまつり)』(市川猿之助 演出、尾上菊之丞 構成・振付)が上演されたのだが、これがより一層興味深いものだった。
 「新作舞踊」と表現されているものの、歌舞伎舞踊や舞踊劇を一本新しく作ったのではなく、和装した出演者が様々なジャンルの舞踊を次々と見せる、いわゆる「和物レビュー」だったのである。
 剣舞で幕が開き、竜神・鬼神の毛振り、芸者衆の民謡メドレー、ご当地『黒田節』に軽快な『深川マンボ』、白無垢姿の雪の精たちがお染・お三輪・手習子・屋敷娘に変わって踊ったかと思えば、平岳大がフラメンコを披露し、阿国歌舞伎で華やかに舞いおさめ(猿之助の宙乗り付き)。純邦楽だけでなく洋楽も用い、時にはカラフルなライトをくるくる回し、第一景から第六景まで約五十分、タイトル通りの派手なお祭が繰り広げられた。
 歌舞伎舞踊・宝塚の日本物のショー(レビュー)・大衆演劇の歌謡ショー・大物俳優の座長公演のショー(マツケンサンバもここから誕生)をごちゃ混ぜにしたような内容で、歌舞伎の本興行では見たことのないものだった。これも長谷川一夫つながりで、東宝歌舞伎の『春夏秋冬』シリーズを意識したのかもしれない。
 きっちりとした舞踊を求めた観客には「色物」めいて興ざめだったかもしれないが、若い頃宝塚に通っていた私には、どこかノスタルジックで、楽しい時間になった。出演者は殆どが歌舞伎役者なので、多少くだけた振付でも、舞踊としての品や技量を保てていたのもよかったと思う。
 この作品は博多座用に作られたものだが、手応えがあればいずれ東京で・・・という「トライアウト」的な意味も持たせているのだろうか。今後に注目したい。
 日劇からキャバレーまで、レビューやショーは大衆向娯楽として深く根付いていたが、記録が残りにくく、埋もれがちなジャンルである。消費して終わりではもったいない。研究や調査が進み、現代の舞台に甦る機会が増えることを願っている。
 近年は、座長公演も宝塚の日本物も上演頻度が減少し、大がかりな和物レビューは衰退気味といえよう。その一方、外国人観光客の増加を受け、日本の伝統芸能の雰囲気を気軽に味わえる「ノンバーバル」(非言語)の舞台として、和物レビューの需要が増える可能性もある。
 その需要を誰がとらえるか。候補は歌舞伎ばかりではない。大阪城に劇場を作る予定の吉本、時代劇にも手を広げているLDH(大衆演劇出身の早乙女太一も所属)、『滝沢歌舞伎』のジャニーズ、『刀剣乱舞』のネルケ、その他、和風ミュージカルの作り手も数多い。二○一六年九月から半年間、明治座で上演された『SAKURA』は、外国人観光客をターゲットにしたショーだった。
 東京オリンピックまであと三年。良くも悪くも、変化は加速を迫られ、更にその先の生き残り戦略も必要となっている。
 二月の博多座には昭和の香りのする作品が並んだが、ただの回顧や復活ではなく、平成を越えた次の元号の演劇・舞踊・パフォーミングアーツをにらんだ試みという側面を持っていたのかもしれない。
夜の部・2月18日、昼の部・2月19日観劇

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ミューズの伝言
C・M・スペンサー
 この四月に新国立劇場で、安部公房作の『城塞』が上演された。俳優座に書き下ろされ、一九六二年に上演された作品である。安部公房作品の中でも『幽霊はここにいる』などの戯曲と比べて、冒頭から戦争責任を問うなどストレートな表現に驚かされた。この六○年代前半の戯曲には、現代演劇に対する改革や作者の熱意の多くが込められていたことだろう。なぜなら公房は、後に(七三年)自身の戯曲を上演するために安部公房スタジオという劇団を立ち上げているからだ。
 さて、前述のように『城塞』は、ある人物に戦争責任を問う場面から始まる。そこから物語は、登場人物の風貌から推測して、戦後数年を経た時代へと移る。そこではある「儀式」が行われようとしていた。それは、幽閉同然の籠りきりの部屋から「男の父」(辻萬長)が発作と称して出てくる度に繰り返される、「男の父」以外の人物にとっては筋書きのある芝居のことだった。
 まず「男の父」が、男(山西惇)に一緒に内地に逃げる話を持ちかける。どうやらまだ戦争直後の外地、すなわち満州にいると思っているらしい。しかしそれは、男の母と妹を異国の地に置き去りにしていくことを意味していた。そして、妹が服毒自殺をするところで、一連のいつもの芝居は終わりを迎える。男の妹、つまり娘の死を認めない「男の父」は、錯乱し、人が変わったように虚脱して、また部屋へと戻って行くのである。
 男はこの「儀式」では、いつも父に抑圧された息子のままであり、その状態のまま父の中で時が止まっていることは、卑怯であると考えていた。かつては妹の役を男の妻(椿真由美)が演じていたが、男がこの日雇った若い女(松岡依都美)が踊り子だったことが、男にある考えをもたらした。それは「男の父」に戦後の現状を見せることで、儀式と呼ぶほど繰り返される堂々巡りの状況を打開することである。
 妹に扮する若い女は、実は肌を露わに踊るストリッパーだ。彼女は戦後の厳しい状況に生きる女性の象徴のように、ここでは描かれている。松岡の演じる若い女は、戦後に女が生きるためには、世間を敵にまわす覚悟で生きる力強さを備えていた。いやむしろ、そのスリルを賭け事のように楽しんでいるように見えるのだ。その覚悟を感じさせる説得力が、自信に満ちた彼女の言動に表れていた。さらに若い女は、自らの置かれた状況を、ここでは部外者という立場から、始終、興味津々に窺っている。それゆえ若い女の関心は、そのまま観客の関心となり、この場の主導権をいつの間にか彼女が握っていた。こうなるともはや、この均衡を破ることができるのも、彼女だけという構図が出来上がっていたのだ。
 ついに男は、この「儀式」を終わらせる決断をする。これが戦後の今の姿だという真実を「男の父」に突きつけることで、男の現在の立場を認めさせようというのである。この緊迫した状況下で、服を脱ぎ捨て、上半身裸で堂々と踊る若い女の姿は、力強く邪気を感じさせない。それゆえ舞台の中央で踊る女の姿は、神々しく見えた。それは、「男の父」の築く砦を破壊するのに足るエネルギーを持ち、「お父さん、こわれてしまうんだ!」と絶叫する男の言葉どおりに、とてつもない何かが起ころうとすることを予感させていた。
 この若い女に扮する松岡に、映画に例えて言えば、監督の作品を際立たせる存在としての俳優をミューズと呼ぶように、演劇においてもこの俳優なら、というミューズの姿が重なった。演出の上村聡史と松岡は、ともに文学座の座員であり、上村の演出で松岡が演じるのを観たのは、二○○六年の文学座アトリエ公演、クリフォード・オデッツ作『AWAKE AND SING!』が最初だった。一九三○年代のアメリカ大恐慌時代、親子三代が共に暮らす家で、家族が食卓を囲む場面が印象に残っている。暮らしの不自由さから、ついに父と弟の論争に火がついた。その行方を必死に目で追う松岡の演じる娘ヘニー。ヘニーは出しゃばるわけでもなく、ただひたすら見守るだけだが、その必死の眼差しに、崩壊寸前の家族の危機が映し出されていた。そして、その後のヘニーの姿に、物語の落ち着く先を見たのである。
 あれから十年あまりを経て、松岡はこの『城塞』で、「男の父」の砦を破壊するほどの威力を持つ女性を演じている。若い女の登場により明らかにされるのは、太平洋戦争の時代に肯定されていた一部の企業の持つ利権、敗戦後に生きる人々の現状、父に取って代わる男の権威だった。
 そして今、戦争に対する後悔と警告として、この『城塞』が私たちの目前に差し出された。若い女の存在が、「男の父」が目を背けてきたもの全てを照射し、時代に葬られようとしていた闇を浮上させたのだ。最後に踊る若い女の微笑みの行方が、気になっている。果たしてミューズの微笑みは、嘲笑となってしまうのだろうか。
(4月13日観劇)

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偽りなき三谷作品との関係
マーガレット・伊万里
 久しぶりに三谷幸喜作品の当日券を購入して観劇にのぞんだ。平日の昼間ということもあり、当日券の列は自分も含めて年齢層高め。パルコ劇場の製作だが、パルコは建替えでしばらく休館のため池袋の東京芸術劇場シアターイーストという、より小さな空間での上演だ。
 『不信?彼女が嘘をつく理由』(作・演出:三谷幸喜)に登場するのは二組の夫婦(それぞれ役名がないので、ここでは役者名で書きます)。引っ越してきたばかりの夫婦(段田安則と優香)が、同じマンションのもう一組の夫婦(栗原英雄と戸田恵子)の部屋を訪れている。子どものいない栗原と戸田夫婦は犬を飼っているが、その犬の放つにおいが尋常ではないことに驚き、段田と優香はこの夫婦との近所付き合いに多少不安を抱く。
 横長の舞台を両側から客席がはさみ、観客はまるで二組の夫婦の家をのぞき込んでいるような雰囲気だ。舞台両脇にリビングをイメージした小道具が置かれている程度で、中央にキューブ形のスツールが数個ある他は何もない。このスツールが細いレールのようなラインに沿って自動で滑り位置を変え、シーンをつくり出す。イスやテーブルなどのセットは通常暗転中に舞台スタッフが動かすが、これはめずらしい。リモコンなのか、はたまた、袖で人が引っ張っているのかと思ったが、場面を瞬時に変えられるように知恵を絞ったとのこと。ものすごくスピーディで鮮やかだ。
 ある日、優香はスーパーで万引きをする戸田を見てしまう。はじめは信用しなかった夫(段田)も妻(優香)に押し切られ、戸田の夫(栗原)に話をしに行くが、あっさり否定され、あやまるハメに。だが後日、栗原から呼び出された段田は、戸田が実は窃盗症(クレプトマニア)だと打ち明けられ、口外しないでほしいと口止め料二百万円を受け取る。
 しかし、戸田の盗み癖が収まらないため、我慢できなくなった優香は段田とともに警察に向かうも、そこで対応に出てきたのがなんと栗原であり、口止め料を受け取っておきながらバツの悪い段田。
 観客にもいろいろな疑念がわいてくる。優香が戸田の万引きを見たのは安売りスーパーだと段田に説明する。しかし栗原が高級スーパーだと話しているのを聞いた段田は「あれ?」という顔つきをする。「妻(優香)が嘘をついている?」
 嘘が疑念をよび、だんだんありもしないものが見えてくる夫婦たち。栗原が庭に深い穴を堀るのを見た優香は、殺した戸田の死体を埋めようとしているに違いないと言い出し、再び夫婦で隣家を訪れる。戸田に会わせない栗原に対し、二人は不信を募らせるが、寝込んでいたという戸田が現れあっけなく疑惑がはれる。
 三谷は観客をぐっと引きつけておいて、ひょいと突き放すのがじつにうまい。皆がつく嘘が次の場面で暴かれたり、あっさり告白されたりと展開がとてもはやい。ハラハラ、ドキドキ、見ている方は置いていかれないよう必死でついていく。
 ただ、戸田が窃盗症になった夫婦の事情や、段田が教え子との浮気をかくして栗原から受け取った大金を使ったり、高級スーパーを安売りスーパーと偽った優香の心の方も気になってしまう。周囲の人間が戸田の病的な盗みに散々振り回されるが、彼女の盗み癖や図々しすぎる嘘には不思議と興味がわかなくなってくる。戸田の盗みは病気ゆえ仕方がない面がある。それより、警察官でありながら、妻の盗みを隠し続けた栗原、段田や優香が意図した嘘のほうが怖くはないだろうか。
 思い起こすと、三谷幸喜の舞台作品を見たのは東京サンシャインボーイズ時代の『罠』が最初だった。当時チケットの取れない人気劇団として有名になっており、そのときも私は当日券を求めて、今はなき新宿のTHEATER/TOPSの階段に並んだ。劇団は『罠』の再演を最後に現在も長期の充電期間中。その後、三谷はパルコ劇場のプロデュース公演で度々作品を発表し、さらにテレビドラマや映画でも知名度を上げ、押しも押されぬ超人気脚本家としての地位を確立。舞台作品となると席は限られ、チケットはさらに入手困難、私は三谷作品からすっかり足が遠のいてしまっていた。自分から足を運ばなかっただけなのに、三谷幸喜はすっかり遠くに行ってしまった気がしていた。
 久しぶりの三谷作品は、サンシャインボーイズ時代のような小さな劇場で、変形舞台にシンプルなセット。たった四人の出演者に彼の持ち味の笑いは控えめと、意表をつかれることばかり。
 三谷はパンフレットのインタビューで、舞台が一番冒険できるジャンルで、今後も大事にしたいと述べている。テレビや映画で誰もが知る成功者となった今でも、年に何本も舞台を手がける彼の姿勢はうれしい。超多忙の三谷だが、今後どんな新しい試みを舞台で見せてくれるのか。再び足を運ばなくてはと思いを新たにした。
(2月参加)

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