えびす組劇場見聞録:第56号(2017年9月発行)

第56号のおしながき 


太陽の出番が少ない夏が終わりました。雨が降ろうが槍が降ろうが、
劇場通いを止められないメンバーが今夏に出会った作品について語ります。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
劇団民藝稽古場公演 「負傷者16人」 エリアム・クライエム 作 
西部守 演出
劇団民藝稽古場
8/9〜8/13
「三度めの出会いまで」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
杉本文楽
「女殺油地獄」
杉本博司 構成・演出・美術 世田谷パブリックシアター
8/11〜8/13
「アートか、シアターか」 by コンスタンツェ・アンドウ
「ギア」 企画制作 ART COMPLEX 1928ビル ギア専用劇場
ロングラン公演中
「言葉を越えて、伝えよう」 by C・M・スペンサー
「怪談 牡丹燈籠」 フジノサツコ 脚本
森新太郎 演出
すみだパークスタジオ倉
7/14〜7/30
「幽霊より本当にこわいもの」 by マーガレット伊万里
 ★特別企画第二弾 ★ 劇場「外」見聞録

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「三度めの出会いまで」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 芝居が好きだと言うと、「月にどれくらいみるの」と聞かれる。案外難問だ。「今月は三、四本しかみられなかった」程度でも相手を驚かせるに十分であり、「十本越えました」など論外である。芝居は年に数本、いやまったくみないとしても日常生活や人づきあいに何ら支障はなく、たぶんそのほうが普通なのだ。
 この尋常ならざる日々について、エリアム・クライエム作、常田景子翻訳の『負傷者16人-SIXTEEN WOUNDED-』(以下『負傷者16人』)を題材に記してみる。
 一九九三年の「オスロ合意」前後を背景に、オランダのアムステルダムを舞台とする本作は、「9・11」同時多発テロの記憶と影響が色濃い二〇〇四年、ブロードウェイで初演された。「9・11」以降、ヨーロッパ諸国と中東諸国との関係や移民への感情は激変した。人権と自由を尊重し、「寛容」をモットーとしていたオランダも例外ではなく、本作は社会的、歴史的影響を二重三重に背負わざるを得ないものとなったのである。
 日本では二〇一二年初夏、新国立劇場演劇芸術監督の宮田慶子の演出で初演の運びとなり、続いてこの夏、劇団民藝の稽古場公演において、これがデヴューとなる西部守が演出を担った。
 ナチスによる迫害から生き延びたユダヤ人パン職人のハンス(益岡徹・新国立/杉本孝次・民藝 以下同様)は、なじみの娼婦ソーニャ(あめくみちこ/石巻美香)と過ごした帰り道、フーリガンに暴行されたパレスチナ人の若者マフムード(井上芳雄/本廣真吾)を助け、自分の店に雇い入れる。ハンスがユダヤ人であることに激しく反発するマフムードだが、二人のあいだには次第に父と子のような情が通いはじめる。心身癒えて仕事にも精を出し、恋人ノラ(東風万智子/白石花子)を得たマフムードは、やがて生まれてくる子への祝福の祈りをハンスに捧げてほしいと頼むほどになるが、マフムードの兄(粟野史浩/齋藤尊史)が現れ、物語は衝撃的な結末を迎える。
 最初の観劇では、ミュージカル界のプリンス井上芳雄がマフムードを演じるとあって気合満々だったが、五年経た今、思い出せることがほとんどない。ところが観劇の印象を記したブログは、それなりにまとめているのである。
 先日の民藝版観劇後、「負傷者16人」というタイトルの意味の持つ重苦しさに胸が痛んだ。その感覚は非常に新鮮であったのだが、五年前のブログにも同じことを記しており、にも関わらず記憶がすっかり消えてしまっている。
 これでは芝居の「みっぱなし」であり、芝居の内容のみならず、何を感じ、どう考えたのかが消し飛んでしまって、過去の観劇体験を活かせないとは情けない。新国立劇場版を思い出そうとしても、記憶に鮮やかな民藝版の各場面を井上芳雄や益岡徹に「置き換えて」想像しているに過ぎず、あのとき自分が何をみたのかを確認するのはほぼ不可能であろう。
 ブログ記事によれば(自分で書いたのに、この無責任な言い方よ)新国立劇場版から手ごたえが得られなかったのは、ミュージカル、新劇、映像とさまざまなジャンルの俳優が起用されたために、ひとつの舞台として、まとまりを欠いていたためらしい。
 これはすなわち民藝版がなぜ印象深かったかの答であり、若手、中堅、ベテランの俳優陣はじめ、作り手すべてが若手演出家のデヴューを飾るべく、「劇団の舞台」として力を合わせた証左である。さらにこの舞台は今現在に留まらず、たとえば五年後、マフムードの兄役の齋藤尊史がハンスを演じたとしたらどんな舞台になるかなど、同じ作品がさらに変容する可能性を、期待をもって想像できるのである。
 最後に本作のタイトル「負傷者16人」について。タイトルは作品の顔であり、客席への最初のメッセージである。本作の場合、その意味がわかるのは最後の最後だ。マフムードは兄に強いられ、テロを実行する。ラジオからは「死者十人(注・この数字は記憶によるもの)、負傷者十六人…」の報道が流れる。心身傷つきながらも十六人はまだ生きており、十六通りの歩みがここから始まることになる。復讐の連鎖が網の目のように広がっていくのか、いや、もしかしたら苦悩の中から立ち上がり、赦しと理解、共存への道が開ける可能性もあるはずだ。
 タイトルが何を意味するのかという疑問を客席に投げかけ、答に向かって観客を導く。「負傷者十六人」。ラジオからの言葉を観客が聞いた瞬間からはじまる数多の物語をこそ、作者は観客に想像してほしいのではないだろうか。
 いつの日か三度めに『負傷者16人』が上演されるなら、観劇本数の多寡はさておき、劇場通いがどうしてもやめられない者として、そしてすでにタイトルの意味を知っている者として、自分にはこの作品をいっそう確かに受けとめる責任がある。
 その日の訪れを楽しみに、心して待ちたい。
(八月十日観劇)

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「アートか、シアターか」
コンスタンツェ・アンドウ
 杉本博司は、世界で最も有名な日本人現代アーティストの一人、と言われている。私が最初に彼を認識したのは写真家としてだが、造形や建築等、活動は様々で、伝統芸能とも関わりが深く、いつか彼が手がける舞台に触れたいと思ってきた。
 その機会が訪れたのは二○一一年八月、神奈川芸術劇場『杉本文楽 曾根崎心中』。しかし私はここでミスをする。当初は三月に公演予定で一階の良席を取っていたが、東日本大震災の影響により中止、仕切り直しの八月はチケット代が約二倍に値上がりしたため、予算上三階サイド席で手を打ってしまったのである。
 文楽は上から見下ろすものではない、と覚悟はしていたが、映像の使用や、人形が舞台上を縦方向に移動すること等、通常の文楽と異なる演出も、私の席からは堪能できず、自分のケチさを後悔した。
 そして二○一七年、世田谷パブリックシアターで杉本文楽第二弾『女殺油地獄』が上演された。今度こそはと、後方サイドながら一階席を押さえて一安心し、事前情報を仕入れずに客席に座った。
 幕開きは、近松門左衛門を名乗る人形の口上。文楽の太夫ではない男性の声が、物語の背景や、今回の上演形態を語る。ここで初めて、@口上A鶴澤清治作曲の「序曲」を三味線でB「豊島屋の段」前半を素浄瑠璃でC後半に人形が登場、という構成を知った。
 驚いたのは、「好かれていると思っていた女からの裏切りで、与兵衛の心に殺意がムラムラと立ち上がる」(上演台本から抜粋)と強調したこと。一つの要素でこそあれ、背景はもっと複雑だ。観客のうち何人かは、殺しの理由をそう信じて家へ帰るのだな、と思うと釈然としなかった。
 序曲「地獄のテーマ」の演奏は清治・清志郎・清馗。もちろん初めて聞く調べで、これから起こる惨劇をイメージさせるダークな雰囲気。太棹好きにはわくわくするひとときで、気を取り直した。
 続く「豊島屋」前半は、千歳太夫の語りに藤蔵の三味線。この組合せなら熱いプレイを聞きたいところだが、与兵衛の実母と継父の愁嘆がメインの場面なので、パワーは抑制気味。千歳太夫は本調子ではなさそうで、少し物足りなかった。
 また、文楽初心者にとっては、字幕がなく、暗くて台本も読めない客席で素浄瑠璃を聞くのはハードルが高そうだ。「杉本博司きっかけ」で来た観客が退屈しないかと不安を覚えた。
 「豊島屋」後半、語りは呂勢太夫・靖太夫、三味線は序曲と同じ三人。人形遣い(主遣いは幸助・一輔)が全員黒衣姿で、手摺り(人形遣いの足元を隠し、人形にとっての地面に相当する仕切り板)がないのは『曾根崎』と同様だが、やはり、人形が宙に浮いているようだし、遣いにくそうに見えて落ち着かない。舞台上の縦移動は殆どなく、「油まみれの男女が滑る」という動きも横方向だったので、手摺りで床を感じさせた方が効果的だったのではないだろうか。
 そうこうするうち、ややあっけなく終演。九千円で九十分弱。「序曲」や、新作曲だという「豊島屋」を「聞く」のがメインなら、三階席でも良かったし、文楽本公演は三分の二程度の金額でもっとたっぷり楽しめる、というのが正直な感想だった。
 終演後に台本の解説を読み、口上が杉本本人の声だったこと、舞台に飾られた屏風の一双は江戸時代のもので、一双は杉本の作品、豊島屋の油棚と油桶は道具ではなく明治村収蔵の本物、ということを知るも、後の祭。展示作品は引き返して見られるけれど、上演作品は幕が下りればそれまで。勉強不足を棚に上げての負け惜しみのようだが、単に物を置いただけでは曲がない気もする。
 そして何より、今回の構成・演出が「殺しの惨状を一層際出たせ」た、という実感を得ることもできなかったのである。
 『曾根崎』では、杉本(アート)側に、映像や人形の衣装、舞台美術としての鳥居や仏像等、予備知識なしでも、目を引くものがあった。文楽(シアター)側には、上演されなくなった場面や一人遣いの復活、近松の原文重視、照明や人形の動く方向の多様化など、新しい試みがあった。そして、アートとシアターが一つの作品の中でシンクロしつつ、アート側の観客はシアターに、シアター側の観客はアートに、興味を抱けたのではないだろうか。
 しかし『油地獄』では、アートとしてもシアターとしても、自分側の観客を満足させ、相手側の観客をひきつけるだけの魅力を発揮できたのか、疑問が残った。
 それでも私は、杉本文楽第三弾を待ちたい。その時もやはり一階席を狙い、今度はしっかり予習もしよう。アートかアシアターか、ではなく、二兎を追うことで生まれる何かを信じて。
(八月十二日観劇)

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「言葉を越えて、伝えよう」
C・M・スペンサー
 二〇二〇年の東京オリンピックを意識した変革が、舞台芸術にも顕著に表れている。目立つのは、外国人の観客を視野に入れた作品作りだ。その代表的なものが、ノンバーバルと呼ばれる新たなジャンルの舞台作品である。
 今年になって、ノンバーバルを掲げる舞台作品を三作品観た。京都でロングラン上演中の『ギア』、東京では、手塚治虫の原作を舞台化した『W3(ワンダースリー)』、戦国時代と現代を舞台とした『ARATA』だ。東京の二作品もロングランを視野に入れている。ノンバーバルとは「非言語」、つまり言葉を使わないと訳されることが多いが、先駆けである『ギア』には、「言葉に頼らない」とある。まさに『ギア』は、あらゆる面で、そのとおりだった。
 劇場は、町家が立ち並ぶ、祇園から近いエリアにある。三条通に面した一九二八年に建築された旧毎日新聞社京都支局のビルには、ギャラリーやカフェが入っており、その上に劇場があった。立ち見エリアもあるが、着席できる席は、およそ百席。通路を中央に配し、ひな壇になった席からは、どこからでもステージが見渡せそうだった。
 開演前の観劇に関する注意事項は日本語、時には英語でも行われている。いわゆる前説は日本語であるが、ここが昔は人形を作る工場で、今は廃墟だと物語の状況設定が語られた。実際に劇場が入るビルも年月を経て、かなり古びているため、現実味を感じる。登場する人間型作業ロボットのロボロイドは、工場が廃業したことを知らないところまでを観客はインプットして、開幕である。
 最初から最後まで、言葉が発せられることは無い。黄、赤、青、緑と色別された四体のロボロイドが、突然、工場で作られていた人形(ドール)と出会った。純白のドレスに金色の巻き毛、パッチリと大きな瞳の彼女に、戸惑いながらも触れ合うことで力を与えられる。ブレイクダンス、パントマイム、マジック、ジャグラーと、ロボロイドそれぞれが、あっと言わせるほど高度な技を披露する。演者にとっては注目すべきショータイムであるが、それがショーと一線を画しているのは、そこに至る過程のドラマが伝わるからだ。
 ノンバーバル作品では、物語を伝えるだけでは物足りない。どうやって伝えるか、観客をどうやってその世界観に引き込むかが、言葉を超えた理解に繋がるだろう。作品にのめり込むという点でも、『ギア』は群を抜いていた。ドールと出会い、活力を与えられ、喜びを表すロボロイドたち。彼ら五人の力が融合したら、どうなるのだろう。その先の期待を裏切ることはない。音楽とダンスと照明と巻き起こる風で、舞台も観客も盛り上がりの頂点を迎える。ついにその力が尽きた時、ロボロイドは動きを止めた。独り取り残されたドールが発する声なき声が、新たな感情の芽生えを物語る。いつしか観客にも、その痛みが伝わっていた。
 この作品で、彼らの存在を際立たせるのが、高度なパフォーマンスと、それに伴うプロジェクションマッピングだ。ところが視覚と聴覚に訴えるだけでなく、その根底に物語が存在しているところが、単なるショーに終わらなかった。それを見守る観客は、祭りの後の寂しさより深い孤独を知ることで胸を痛める。その力は命であり、パフォーマンスが終わる頃には、彼らに心を奪われていることに気付くのだ。それはすなわち、観客を巻き込んだ作品の成立を意味している。正直言って、こんなにも魅了されるとは思わなかった。
 しかし、ここに至る道のりは、平坦ではなかっただろう。現在は京都に専用劇場を持つ『ギア』は、二〇一〇年に大阪から始めたトライアウトを九十回以上重ねたその二年後に、京都でロングラン公演をスタートさせた。上演時間を含めて、今もバージョンアップを続けており、現在はVer.4を上演中である。そしてついにこの秋には、公演回数二○○○回を迎える。その陰には、演出家を「オン・キャクヨウ」とすることで、常に観客を意識してきたことが挙げられる。オン・キャクヨウ、つまり御客様。この七年間、『ギア』は観客とともに作品は成長を遂げてきた。しかしながら観客の声は、余分なものを削ぎ落としたに過ぎないだろう。なぜなら観劇の後には、突き動かされた感情と満足感しか残らないからだ。上演中の作品は、既に完成の体を成している。言葉に頼らず、パフォーマンスに頼り過ぎない物語が、充分に観客の共感を得ているように見えるのだ。
 ダンスやショーと一線を画すならば、ノンバーバルの舞台作品では、共感できる部分がなければ観客の心には届かない。物語についていけない作品は、観客を飽きさせるだけだからだ。『W3』は、この秋、再び幕を開ける。言葉に頼らないなら、何をどうやって伝えるか。それを受け止めに、また劇場へ。
(三月十日、五月五日観劇)

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「幽霊より本当にこわいもの」
マーガレット伊万里
 怪談と聞いただけで背筋が寒くなり尻込みしてしまうほうだ。だが、二〇一五年に上演されたフジノサツコ脚本×森新太郎演出の「東海道四谷怪談」(新国立劇場)の記憶が鮮烈で、このコンビで再び怪談ものをやると聞き、すみだパークスタジオ倉までの夜道を急いだ。オフィスコットーネプロデュース公演「怪談 牡丹燈籠」だ。
 江戸末期から明治にかけて活躍した落語家・三遊亭円朝の怪談噺として有名な「牡丹燈籠」。浪人の萩原新三郎(柳下大)は、旗本飯島平左衛門(青山勝)の娘・お露(川嶋由莉)と恋仲になり二人は逢瀬を重ねる。しかしお露はすでに亡くなっていて、新三郎の所にやって来るのは実は幽霊。死相が出ていると言われた新三郎は、お札を貼りめぐらした家に閉じこもり幽霊の出入りを拒むが、新三郎の下男・伴蔵の裏切りでお露幽霊とあっけなくあの世へ旅立つというお話。
 女の幽霊が毎夜下駄を鳴らしながらやってくるくだりはよく知られているが、今回の上演では伴蔵とお峰夫婦の顛末や飯島平左衛門に仕える孝助の仇討などがそれに連なる。単なる古典の物語、その時代の風俗を知るというだけではなく、現代の私たちに通じる人間模様として見応えがあった。
 新三郎の命とひきかえに幽霊から大金を手に入れた伴蔵(山本亨)は、その金を元手に始めた商売で成功する。しかし、しだいに口煩い女房のお峰(松本紀保)が邪魔になる。
 お峰に自分の浮気を問い詰められると、伴蔵は改心してやり直すと語るものの、その眼光の鋭さにひそむお峰への殺意は明らか。女房を手にかける亭主の心は夜の闇より暗く身の毛がよだつ。
 金を手にできたのは、もともとお峰の思いつき。亭主をそそのかす女房も女房だが、女房の言いなりになっておきながら、そんなことを忘れて殺める亭主も亭主。なんとも身勝手な男女の姿である。
 話変わって、お露の父である平左衛門草履取りの孝助(西尾友樹)は、平左衛門の妾・お国(太田緑ロランス)が主人を裏切って、源次郎(児玉貴志)と不義をはたらいていることを知り彼を討つつもりが、あやまって平左衛門を手にかけてしまう。しかし実は、平左衛門が孝助の父親の仇であったことが明らかになる。
 人間関係の糸が複雑に絡み合い、どんでんに継ぐどんでん返し、嘘と裏切りの応酬が続くのだ。
 一六〇席ほどの小さな空間で間近に見る役者の表情や息遣い、特に大きな瞳の太田の目力や、山本の眼光の鋭さに恐れおののく。自分の欲望に正直な人の目の輝きはこんなにもすごいものか。
 新三郎とお露カップルの初々しさ、それとは真逆のお国や伴蔵の強欲さ、孝助のほとばしる熱情など、どの人間も生きたい、生きるためにはこれしかないという切実なものを受け取った気がする。
 新国立劇場制作の「東海道四谷怪談」では、人物は着物姿でいかにも時代劇だった。広々とした中劇場で、2階席から舞台を覗き込むと、演者は小さな人形のようにも思えたが、今回は舞台いっぱいに垂れ下がる大きな幕の前後で俳優たちは演技をする。生き物のように旋回し続ける幕をギリギリでよけながらの演技はスリリングな緊張感を生み、人物の感情が浮き彫りになった巧みな演出。
 古典の怪談噺ではなく現在の我々と変わりない人間の業がビビッドに映し出されていた。
 準備のために俳優たちは大変な汗を流されたことだろう。観客は安全な場所で見ているけれど、繰り広げられる人間の業の深さにはタジタジとなるばかり。人間の欲深さ、身勝手さの方が、幽霊よりよほど恐ろしい。
 現実社会で日々起こる身勝手な殺人事件。そして芸能人や政治家の不倫にスキャンダルなどは、新聞・週刊誌などマスコミに一斉に取り上げられ、ネット上で瞬く間に拡散、逃れられない社会的制裁が待ち受けている。
 煌々と照らし出された現代社会とかけ離れた江戸時代では、少し都を離れれば、そんなこと誰が知ろう。
 客席の暗がりで目を凝らし耳を澄ますと、一線を越えてしまった人々が、これが人間の生命力だと言わんばかりに私たちの前に立ちはだかっているのだ。
(七月二十七日観劇)

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 特別企画第二弾 ★ 劇場「外」見聞録  

えびす組メンバーの眼差しは、劇場の外へも向かいます。
舞台以外で心に残ったあれこれを文章に綴ります。


◆数年前に始めた俳句で人生激変。日々作句に追われ、句会では先輩方に叩かれ無視され、悪いところは自分で探せと突き放され、でもたまに佳句ができると、たまげるほど喜んでくださる。飴と鞭。やめられません。(ビ)



◆激突事件の後の、何かにとりつかれたような壮絶な演技を目にしてから、羽生くんにハマった。どこかイカれた美しいひと(ほめ言葉です)の魅力にはかなわない。試合は緊張するので基本録画視聴、いつかプロになったら、生・羽生くんを見るのが夢。(コン)



◆文化芸術を学術的に学んでみようと、学生になりました。日本文化を海外の人々にアピールする一方、国内の劇場ではどこまで海外の人々を受け入れようとしているのか、これが曖昧だと感じています。(C)



◆「ラ・ラ・ランド」で久しぶりに映画の醍醐味を味わい大興奮。ラストに向けて物語にグイグイと引きずり込まれてしまった。監督ディミアン・チャゼルの才能に驚く。今後彼の作品は必ず映画館へ行きます。(万)

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