えびす組劇場見聞録:第9号(2001年12月発行)

第9号のお題/リチウム公演 「パック探偵団」

原作/ウィリアム・シェイクスピア 「真夏の夜の夢」
構成・演出/ヘンリー・ヤマト六世
2001年10月30日〜11月4日/下北沢OFFOFFシアター
「えびす組劇場見聞録」九号のネタは、「えびす組」ご意見番、ヘンリー・ヤマト六世。彼の最新作を、情け知らずの女四人がピラニアの如く寄ってたかって食いちぎる!まな板に載せられたヘンリー、絶体絶命?それとも余裕しゃくしゃくか?? 
「もっとヘンリーを」 by コンスタンツェ・アンドウ
「いまどきの妖精さん達(?)」 by マーガレット伊万里
「パックよ、どこへ行く」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「人間パック〜過去を背負ったキャラクター〜」 by C・M・スペンサー

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「もっとヘンリーを」
コンスタンツェ・アンドウ
  東京乾電池若手ユニット「リチウム」の作家・演出家、ヘンリー・ヤマト六世の作品を六本見ている。上演順に、『ひばりくん』『ドランカーV』『笑う太平洋』『吉岡』(初演・再演)『パック探偵団』。出演者にウェイトを置いて芝居を選びがちな私にとって、同じ演出家の作品を続けて見るのは珍しい。本人と知合いだからと言えばそれきりなのだが、ヘンリーの作品に漂う「ミョウ」な空気の中に身を置きたいという欲求も、見続けた理由に含まれているのだ。「ミョウ」を漢字にすると「妙」、無理に分析すれば「ちょっと居心地が悪く、なんとなしに不可解」。
  『ひばりくん』は、リチウムの「旗揚げ」を意識してか、様々な趣向が盛り込まれ、エンターテイメント的要素もあり、劇評を書くことができたのだが、『ドランカーV』と『笑う太平洋』は、どうにもコメントしづらい作品だった。凄く居心地が悪いのではなく、全く理解できないのでもない。芝居そのものを楽しんだとは言えないのに、何かがひっかかって気になる。私は、いつもと違った手触りの作品に戸惑う自分を面白がっていたのかもしれない。
  続く『吉岡』は、前二作よりも構成やテーマがわかりやすく、全体的にコンパクトにまとまっていて、意外とすんなり楽しく見ることができた。しかし、『吉岡』では、たまたまヘンリーが観客に少し歩み寄っただけで、本当は書き足りなかったのでは、という気がしていた。『パック探偵団』は、きっとまた「ちょっと居心地が悪く、なんとなしに不可解」な作品になるだろう、と決めつけていた。が、私の予想は外れてしまった。
  ヘンリーの作品には、戯曲・映画・漫画などからの引用が多く、劇場で配られるチラシに必ず「これこれから引用しました」という但し書きがある。「これこれ」を知らない観客は実質的にオリジナルとして見ることになるが、『パック探偵団』の原作はシェイクスピアの『夏の夜の夢』だ。認知度は抜群に高いだろう。様々な演出で度々上演されてきた作品だが、ヘンリーは『夏の夜の夢』を演出するのでなく、『パック探偵団』として書き換えており、その書き換えはなかなか面白かった。
  時は現代以降、国は不明。パックは妖精ではなく少年。ストリートチルドレン風のグループのリーダーで、探偵社社長・オーベロンから仕事をもらっている。ハーミア・ヘレナ・ライサンダー・デメートリアスは上流社会の人間。四人の関係と恋愛の経過はほぼ原作通り。ヘレナの母が娘の恋を叶えて欲しいとオーベロンに依頼するのが発端で、パックは、問題や障害を抱えて行き場のない少年や引きこもりの青年を率い、インターネットで手に入れたホレ薬で四人の恋をまとめようと苦心する。ボトムにあたる役はないが、「芝居の稽古」は「コント大会出場の稽古」になり、コントにロバの被り物が出てくる。
  お気楽なハッピーエンドを迎える原作と比べると、『パック探偵団』の幕切れは「大団円」とは程遠い。ロリコンのオーベロンは莫大な依頼金をピンハネしており、それを知ったパックに仕組まれて、ホレ薬をかがされたヘレナの母に襲われる。四人の恋人達は眠らされたまま病院へ担ぎ込まれ、彼らを誘拐・監禁した罪でパック達は警察に追われることになる。パック達はコント大会へ出場、表彰式を前にして逃亡するが、町に残った仲間の一人からかかってきた携帯電話で優勝を知る。そして、その仲間が捕まる様子を聞いたパックは足を止め、振り返る。
  あちこちに笑いを散りばめながらも、自己中心的な上流社会の人間の姿や、弱い者を見下して搾取する大人のずるさ、世の中に適合できずに生きる若者のいらだちを描き、見終わった後、微かなやるせなさが残った。結婚式の一夜を彩る『夏の夜の夢』は、祝祭劇のイメージを剥ぎ取られ、現代社会の一面を被せた『パック探偵団』に書き換えられたのである。
  ヘンリーの作品の多くは下北沢OFFOFFシアターで上演されてきたが、劇場の小ささを感じたことがなかった。空間に合わせて書いていたからだろう。しかし『パック探偵団』では小空間がハンデになったようで、「シンプル」が「チャチ」に見えたり、場面転換のゴタつきが目に付いた。少し大きい劇場で、衣装や照明や音楽に凝って上演すれば、かなり見ごたえのある作品になるのではないだろうか。そんな可能性を感じさせた。
  しかし、「現代社会の一面」の切り取られ方は、やや常套的に思えた。切り取っているとストレートに感じさせること自体、月並みだとは言えないだろうか。「見せる芝居」である『夏の夜の夢』を、ヘンリーは「何かを伝える芝居」に書き換えた。それはとても興味深い作業だ。けれども、『パック探偵団』が書かれた第一の目的は、何かを伝えることではなく、『夏の夜の夢』を書き換えることにあり、その目的のために、伝えられることも制限され、ストレートで甘い表現になってしまったように思える。
  ヘンリー独自の表現方法によって、複雑で曖昧な何かを伝えようとする時、ヘンリーの作品は「ちょっと居心地が悪く、なんとなしに不可解」な印象を観客に与えるのではないだろうか。それがないことに、私は物足りなさを覚えた。有名な『夏の夜の夢』をベースにしているからこそ、もっと自由で、縦横無尽で、人を食ったような「ヘンリー版」が有り得たのではないだろうか。もっと「ミョウ」で、「ミョウ」なだけではない作品が…。「見続けている」観客は、時に、余計な欲求を作り手側に押し付けてしまうのかもしれない。
  最後に、印象に残った役者について少し述べる。パック役の伊藤悦子。小柄ながらリーダーの風格も感じさせ、ちょっと据わった目に力があり、客席をぐっと見つめるラストシーンをしっかり〆た。『ドランカーV』で障害のある女の子を演じた時は、実際に障害があるのかと思わせた程で、丁寧な演技をする人だ。マメゾウ役の江口徳子。ぶっきらぼうな関西弁が独特で、演技もぶっきらぼうだが、それが味になっている。同じような雰囲気の役が続いているので、キャラクターと違う、「味」を封印したような役も是非見てみたい。
  二○○二年、ヘンリーはどんな作品を見せてくれるのだろう。私の欲求は満たされるのか、あえなく却下されるのか。それを確かめるためにも、劇場へ行こう。 
(十月三十日観劇)

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「いまどきの妖精さん達(?)」
マーガレット伊万里
 わたしが「リチウム」の公演と聞いて必ず思い出すのは、なんといっても「柿もぎダンス」(と勝手に命名)。これは、リチウム公演第1弾『ひばりくん〜平成残侠伝』で披露されたダンスの場面である。
 『ひばりくん〜平成残侠伝』は江口寿史の漫画をもとにしたキャラクター設定で、少女にしか見えない男の子ひばりくんをとりまく、やくざの闘争をからめたお話だった。途中、出演者がこぞって枝から柿をもぎる振りで踊るのだが、そのデフォルメされた動き、単純なダンスが妙に印象的だった。いまだに思い出してはつい真似をしたくなる。
 そして公演毎に登場するダンス・シーンが、わたしにとってはリチウムを観るひとつのお楽しみともなっている。
 しかし、もちろんダンスばかりじゃない。ヘンリー・ヤマト六世率いるリチウム公演の見所は、彼のチョイスした戯曲や、映画、そしてコントや漫画にいたる作品の断片を、さりげなく、しかし堂々と芝居に取り込んでいる、言ってみればコラージュの魅力ではないか。
 作者は自らを「パクリの魔術師」と称したが、事はそんなにかんたんではないはず。一歩間違えれば材料を寄せ集めただけの代物になり、観客にみえみえだ。そうならないのは、彼のセンスの良さとコラージュによる表現というものをきちんと捉えているからにちがいない。
 そんな彼が今回放つのは、ウイリアム・シェイクスピア原作『夏の夜の夢』。この中で重要な役割を担うのが、妖精の王であるオーベロンの使い「パック」。今回ヘンリーは、こいつを中心に据えて探偵団なるものを仕立ててしまった。
 探偵団といえば『怪人二十面相』、小林少年率いる「少年探偵団」なんて想像しちゃうのだが、そんなイメージは古臭すぎた。
 オーベロン社長率いる「フェアリー探偵社」の手先となっているのが、パックをはじめとする若者グループ「パック探偵団」。今風のファッションに全身を包み、携帯電話をかたときも離さず街をうろつく若者たちに様変わり。パックを筆頭に、モスラ、マメゾウ、メンタイ、レンコン、クモノスという面々。彼らはおこずかい欲しさにちょっと危ないバイトにも平気で手を出しているそんな雰囲気だ。「パック探偵団」とは、天下のニナガワだって思いつかなかったに違いない。
 しかも、彼らのしつらえは登場からしてけっこう綿密なのだ。開演直前、桟敷に置いてあった座布団をとりあげて通路にドカッと座る数名の若者アリ。私はギョッとなり、「な、なんでこの子たち、通路をふさいでこんな所に座るのぉ。今時の若者は何を考えているんだ」と、注意することもできない小心者はあっけにとられるばかり。実は彼ら、客席から登場する「パック探偵団」の面々だった。常識ハズレが目立つ若者の行動と結びつけたこちらの思いをうまく利用されてしまったのだ。
 渋谷をぶらついていそうな彼らは正義をまとい悪と闘う……わけがない。でもけっこう青春している。彼らが集まってするのはコントの稽古だ。タイトルは「焼き肉食い放題・動物編」(マメゾウ役の江口徳子作)。動物たちが焼き肉屋に行って、共食いだなんだかんだやらかす。知ってか知らずか、狂牛病騒ぎもなんのその。
 そしてまたコントのテンポがあまりにゆっくりなのには調子が狂う。機関銃のようなしゃべりとは無縁、お客をまくしたてるようにして笑いを引き出すのではなく、せりふのテンポはあくまでものんびり、ゆる〜く淡々と。ボルテージはほとんど上がらない。しかも一度ではなく、二度三度と繰り返す。
 このゆるさ加減がまた一つ、リチウムの魅力なのではないかと思う。肩の力が抜けたというより、抜けきってしまったような、緊張感がないというのではなく、脱力系とでも言おうか。
 そういえば先日観た芝居に、「東京乾電池」の綾田俊樹が出演していたのを思い出す。フランスの喜劇だというのに、彼はたった一人、大阪弁のせりふをマイペースで話していて、場面を腰くだけにしていた。
 フランス語の翻訳劇でなぜ彼だけが大阪弁なのか? 戯曲の指定か(方言を使うとか)、演出におけるものなのか。しかし、ここでわたしにとって重要なのは、その喜劇で思い切り笑ったのは、彼の場面だけだったということ。
 ヘンリーの脚色は、妖精の世界とは見た目も中味もほど遠い作品である。でもそれは、受け継がれる「東京乾電池」の伝統(?)ともないまぜになった居心地の良いいまどきの妖精さんたちの世界だった。 
(十一月四日千秋楽観劇)

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「パックよ、どこへ行く」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 パックは居どころの難しい役だ。
 第一にパックは妖精である。どんな性格か、どんな背景や過去をもつ人物(あ、人ではないのだ)か見当がつかない。第二にパックは妖精だがけっこう人間味もある。何でもできる魔法使いではない。『夏の夜の夢』は二組の恋人たちの取り違えの混乱から始まった。これはあわて者のパックが失敗したからなのだが、彼はめげるどころか「人間ってなんてばかでしょう!」とけろっとしている。
  オーベロンに申し立てをするところなど、上司に向かって開き直る小生意気な若手社員のようである。しかし彼は事態の収拾のために東奔西走する。舞台のできごとを誰よりも的確に把握し判断している点は、劇中にあって、もっとも観客に近い視点をもっているといえよう。
 恋の妖精らしく身のこなしは軽妙に、台詞も明晰で歯切れよく演じてほしいが、暑苦しい熱演タイプではちょっと。しかも知的な陰影とほのかな色気も漂わせてくれなければ…とついつい、パックには注文が多くなってしまう。それくらいさまざまな要素をもつ魅力的なキャラクターなのだ。
 今回の『パック探偵団』では、開幕前のステージになぜか木村卓矢がスーツ姿で立っている。時間になると彼は「まもなく上演です」云々の挨拶を始めた。役についていたはずなのに、客入れもするのかしら?やがて彼が「おい、パック」と呼ぶと、いかにも妖精らしいグリーンの衣裳に身を包んだパック(伊藤悦子)が登場し、木村と若干のやりとり?ののち、分厚い本を広げて読み始める。『夏の夜の夢』の終幕、「われら役者は影法師、皆様がたのお目がもし」から始まるパックの独白である(伊藤が読んでいたのは誰の訳だろう。本編の原作部分についても、チラシにひとこと断り書きがほしい。ちなみに本稿は小田島雄志訳である)。
 わたしはこの台詞がとても好きである。
 二組の恋人たちの取り違えの騒ぎが収まり、職人たちの寸劇も済んで、長い物語が終わろうとしている。ほっとした気持ちと、「お芝居は終わりなんだ」という一抹の淋しさが漂う。パックが客席に別れを告げるとき、いつも胸が高鳴る。楽しかったよ、ありがとう。きっとまたどこかで会おうね。そんな気持ちになる。妖精パックに対してなのか、演じている俳優に向かってなのかわからないが、この最後の台詞が聞きたくて『夏の夜の夢』をみるといってもいいくらいだ。
 それを冒頭に持ってきてしまうところに意表をつかれた。しかも本編が始まると伊藤パックはさっきの衣裳ではなく、普通の男の子の扮装になる。だが違和感なく、にこりともせずふてくされて可愛げのないしたたかなパックを造形する。無表情なのに生き生きしてみえるところがおもしろい。
 本作では妖精パックはオーベロン氏(木村)が経営する探偵社の探偵で、そこにあるお金持ちの夫人(上原奈美)から「娘の恋を実らせて」という依頼が舞い込む見立てになっている。二組の男女を誘拐、監禁した容疑でパックたち探偵は警察に追われる身となり、コント大会で優勝するが、その表彰式を待たずに逃走する(この場面は映画『サウンド・オブ・ミュージック』か?)。
 パックたちの動きがスローモーションになり、ラストは肩越しにちらっと後ろを振り返るパックの横顔で幕となる。この一連の振付(ムーブメントというのか)が幻想的な雰囲気を醸し出しており、舞台に不思議な余韻が残った。
 むずかしいシェイクスピアの台詞を、若い俳優たちは頑張ってよくこなしていたと思う。
 二組の恋人たちを演じた四人など、なかなかのものである。ハーミアの民輪ナルミは言っていることはそうとうに自分本位でめちゃくちゃなのだが、この人から言われると従わざるを得ない気分にさせられる妙な強引さがあるし、ヘレナの矢沢庸は台詞をどんどん歌ってしまう性癖?があって、その歌が決してうまくないところがですね(失礼)、デメートリアス(戸辺俊介)が「こんな女かなわん」と嫌がるのがよくわかる。
 知っている話だけに舞台の空気に勢いがないと見続けるのが苦痛になるが、最後まで観客を引っ張っていたことは立派であろう。
 さて気になるのは逃走するパックの行き先である。伊藤パックはきっとしたたかに生きていくだろうが、騙されたオーベロンがあのまま黙ってはいないだろうし、結婚にこぎつけたとはいえ、あの二組の男女がおとなしく収まっているとは思えないし、ヘンリー氏には是非『パック探偵団』の続編をお願いしたい。みずからの手法を「パクリ」と称するのはヘンリー氏が含羞に富むお人柄であるからと察するが、ここはどうか「本歌取り」の気合いで。 
(十一月一日観劇)

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「人間パック〜過去を背負ったキャラクター〜」
C・M・スペンサー
 まだコートを着るほど寒くはない十一月初めに、リチウム第四回公演『パック探偵団』を観た。原作はW・シェイクスピアの『夏の夜の夢』。構成と演出はヘンリー・ヤマト六世である。劇場内だけは蒸し暑く、さながら夏のようで・・・あるはずはない。柄本明を座長とするリチウムの本体である劇団東京乾電池も、年末年始に『夏の夜の夢』を劇団二十五周年記念公演として行うのであるから、「なぜ今、夏の・・・」は考えないことにする。
 さて、率直な感想として、私が今までに観たどの『夏の夜の夢』よりもストーリーがわかり易く、また登場人物の区別のつく(名前が覚え易かった)舞台であった。野田やRSC(恐れ多くもロイヤルシェイクスピア・カンパニー)よりもだ。
 この物語の面白さは、妖精パックが、一組のカップルとその女性に好意を寄せる別の男性と、更にその彼に片思いの女性の組み合わせを、うまく二組のカップルにする使命を受けて奔走するが、ほれ薬のつけ方を誤ったために起こる恋愛騒動にある。このややこしい関係もヘンリーの演出では明快だった。
 登場人物の名前こそ『夏の夜の夢』そのままだが、設定を現代に置き換えてあり、パックを始めとする登場人物全員が人間である。ヘンリーの構成により目線を観客と同じくしているところが、彼らの立場や関係、そして感情に共感できる所以となっているのだ。映像で言えば、さしずめケネス・ブラナーが監督するシェイクスピア作品シリーズだろうか。時代と衣装に囚われない設定でシェイクスピア作品を語ることにより、作品の持つ本質だけを伝えようとしているのか、はたまたアレンジしやすいだけなのか・・・。
 そして何よりも私がこの作品で気に入っているのは、登場する人物が皆、愛すべきキャラクターであるところだ。これまでどうもこの四人の名前すら覚えられなかったのが、今でもはっきりと彼らの顔と名前(役名)が一致する。彼らだけでなく、パックの少年探偵団仲間(彼らは原作とは違う名前であるが)5人についても同様だ。モスラ、マメゾウ、メンタイ、レンコン、クモノスと、一度舞台を観たら忘れられないキャラクター。断っておくが、変に個性が強いというのではなく、人物の設定において彼らが抱えている個々の事情が背景として描かれているからだ。
 パックの仲間の一人に知的障害のレンコンと呼ばれている青年がいるのだが、彼は興奮すると我を忘れて暴れるので、いつも仲間の誰かがレンコンが爆発する前に「トントントンお母さんですよ」と彼の肩を優しく叩いてなだめている。そうすると彼は安心して落ち着きを取り戻すのだ。ある日仲間が悲しんでいると、レンコンが傍に来て「トントントン」と自分がしてもらっているように慰めにやって来た。仲間がどういう思いで自分に接していたかを、彼はちゃんと理解していたのだ。まだ世の中捨てたものじゃないな、などと彼らの思いやりにジーンときたりするのである。そもそもシェイクスピアは恋を成就させる使命を、パック一人にやらせていた。それをチームで行うにあたり、シェイクスピアが描かなかったパックとその仲間達の強い結束の背景が、ここには存在する。
 ヘンリーは精神科の医者でもある。芝居の世界とどちらが本業なのかよくわからないが、こういったエピソードを自然に盛り込んでいるところなど彼ならではだ。運命に翻弄される四人の男女にしても、彼らがどうして好き合っているのか、どうしてカップルにならないのか、どうして自分への突然の愛が信じられないのか、本当に納得のいくような設定となっている。
 愛すべきキャラクター満載の『パック探偵団』。本家本元の『夏の夜の夢』を観たのなら、いつの日かご覧いただける機会があることを願っている。  
(十一月二日夜観劇)

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