メグレス魔大陸の中央部、リヴァールのリキドとの国境近くの辺境地帯。
情け容赦なく照りつける強い日差しの下、見晴かす彼方まで、雑草といじけた潅木の茂みしかない荒れ地が広がる。
つい数百巡年ほど前まで、世界には豊かな水と緑と数多の獣が溢れていたと言うが、『場』の衰退した今日、魔大陸の大部分がこれと似たような荒涼たる世界に成り果てている。
が、未だ有効な『場』も方々に残っており、その周囲には苛酷でも何とか人々が生活していけるだけの自然があった。
ちょうど地平線の辺りに見えている森も、そんな一つ。どんな日照りの時にも枯れた事のない泉を持つ、『泉の町』ファウナ・ガルド。
かの町には、水の補給に寄る旅人や隊商、彼ら目当ての商人達が常にひしめき合い、中原一の賑わいを誇っていた……はずなのだが。
☆ ☆
今のファウナには、活きの良い旅篭の呼び込みや面白おかしい商人の口上、荷役竜の鳴き声…など、宿場町につきもののざわめきがなく、妙に閑散とした雰囲気だ。見回すと扉をしっかり閉じた商家も多く、街路を行く人影もまばら。いつもなら所狭しとばかりに天幕を張り巡らしている露店もチラホラ見掛ける程度である。
だがその代わり、町の中心に位置する『泉の広場』には、町人、商人、旅人等、大勢が詰めかけていた。しかも彼らは、皆一様に渇望の込められた凝視を広場の中央に向けている。
そこには、大人の腰くらいの高さの台座に据え付けられた水盤とその上に立つ等身大の女性像があった。優美で古風な衣装をまとい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた彼女は、両の腕で右肩の上に水瓶を掲げたポーズをとっている。
まさにこれこそが、この辺境の町に貴重な水と繁栄を与え続けてきた泉の女神ファウナの石像…術者が増幅・制御する『場』の力で思念から物質を生み出す、古の魔族ヴァシュナルの遺物であった。
が、清洌な水が途切れる事なくこんこんと溢れ出、町だけでなく周辺の広大な農地をも潤して余りある程だった仕掛も、今やカラカラに干上がり水など一滴たりとも見当たらぬ。
からっぽの水盤の前では、周囲を屈強な護衛兵に守られた術者達が悲壮な面持ちで詠唱を続けている。目の下にくまを作りげっそりとやつれた身体で必死に祈り紐や呪宝を打ち振っているが、効果はいっかな現れようとしない。
固唾を呑んで術者の一挙一動を見守る人々の面にも、焦燥の色が濃く現れている。
「ああ、やはり泉は死んじまったのか?」
「もう一度…いや一瞬でも水が出れば! 子供達に一口でも飲ませてやりたいんだよう!」
「ちっ、このままじゃ商売どころか命まで危ないわ! …なのに、旅立てるだけの水を確保するのも不可能ときてる!」
「長は魔都リヴァに救援の使者を送ったそうだが、まだ着いてないんだろうかねえ?」
兵達がにらみをきかせている為、暴力をふるう者こそいないものの、皆強い不安と苛立ちにかられて声高に話している。
☆ ☆
そんな一触即発の状態を広場の端から眺めている二人連れがいた。分厚い生地で作られた薄茶色の旅行マントを身体にしっかりと巻き付けフードを目深に下ろしている。
多少金回りは良いらしく、銘々一頭ずつたくましい竜馬の手綱を引いているが、人馬ともにたった今荒れ地を抜けて来たかのように全身真っ白な砂埃で覆われている。特に竜馬の方は体色さえ判別できないくらいの汚れよう。
と、一人がボソッとつぶやいた。
「…あ〜ったく。とんでもねえとこに来ちまったなあ。町の門番も『何しに来た?』って妙な顔するはずだ」
大きなため息をつきうつむきかけるが、突然乱暴な仕草でバサッとフードをはね除ける。
「くそ、やってられっかよ! もう我慢できねえ!」
低い良く響く声でうなりながら、両手でガシガシガシッと頭をかき回す。盛大に舞い上がる砂埃に、無言で迷惑そうに手を振る連れ。
煙幕が消えた後に、ボサボサのくすんだ金髪、赤銅色に焼けた野生的な顔つきの若者が現れた。少し吊り上がり気味の大きな目は、ドキッとする程明るい緑色である。
「ん〜、すっきりした!」
満足気に大きく伸びをする。大型の肉食獣を連想させる、内に莫大な力を秘めた、それでいて滑らかな身のこなし。
がっしりした長身と紋章の付いてない竜皮の簡略鎧、細い金属片を無数に縫い込んだ皮服、そしてマントの肩から覗く両手使いの大刀。一目で放浪戦士と知れる。
彼は、少し人心地がついた所でもう一人にも勧める。
「アウラ、お前もフード取ったら? 人相書が出回ってる訳でもないし。…どのみち誰もこっちなんか見てる余裕ないよ」
「…そうだな」
柔らかな中低音の声が答える。
優雅な動作でフードと鼻口を覆っていたスカーフを外すと、茶褐色の艶やかな髪がサラリと肩に広がった。切れ長の目も同色。だが、その端麗な顔はわずかに蒼みがかった白。
相棒より僅かに低い程度の長身だが、彼とは対照的にほっそりした体格。腰に長剣を吊ってはいるものの、鎧ではなく上等そうな生地でできた暗色の衣服を着ている。
おまけに、名のある魔導士のような年代物の呪宝の首輪や腕輪をしているのに所属を示す紋章はどこにも付けていない。
見事なまでにことごとく相反する特徴を持った若者である。
…と、金髪の戦士が声をかけてきた。
「なあ、どうする?」
「何を?」
平然と聞き返す茶褐髪の方。
「何って…聞いてなかったのか? 水だよ水!」
「悩むような事なのか? …簡単だ、ヴェーラ。ここにないのなら次の町で補給すればいい」
表情も変えず事もなげに答える。
「冗談だろ〜。ここから何日かかると思ってんだ? 水袋はとうに空だし、とてもじゃないがもたないよ」
「私は平気だ」
「俺は平気じゃない」
暫くにらみ合う二人。
「…ここに座り込んで何日ねばっていても水は出てこないよ。干からびて死ぬのは同じだ。…だから早くこの町を出よう。嫌な予感もする」
非情の言葉に、天を仰いで嘆息する戦士。
「どっちに転んでも死ぬのは俺だけってか! 何が予感だよ。どうせ借金取りでも見かけたんだろーが」
「お前と一緒にするな。『場』の様子がおかしいんだ」
「え? 術者はちゃーんといるじゃないか。五人も」
「あれは見習いにすぎん。衣の色を見てみろ」
なるほど彼らはその白い衣の縁飾りにしか、水を操る術者の証し――藍色を使う事を許されていない。
「活性度も低いが…制御もしっかりされてない」
アウラは少し不安そうに頭を振る。
一般に、魔力をふるう者は古語の呪文や呪宝を使って意志の焦点を合わせ、まず『場』を活性化して力を必要なレベルまで高めた後、その力と術者自身を制御して技を行っている。
しかし、活性化している『場』は、術者によってきちんと管理されている間は計り知れぬ恩恵を与えるが、一旦制御を外れてしまうと、術者の働きかけにも出鱈目な反応しか示さないのみならず周囲の人間の精神にまで悪影響を及ぼす。
人々が気力を失い白昼夢を見続けて停滞した町や、集団自殺や殺人鬼の横行で滅びた町など…悲劇は数多い。
しかし最悪の惨劇は、暴走する『場』に術者が自分を制御できなくなって取り込まれた時に起こる。融合した『場』と術者が力の悪循環を繰り返して益々混乱した状態に陥り、人の心身の破壊に留まらず天変地異…世界の破滅を招いてしまうのだ。
こうなると最高位の魔道師『黒を着る者』数人がかりでもないと制御の回復は不可能なので、『場』の力が大きくなり過ぎたり有能な術者が絶えたりで制御が困難になったとみなされた『場』は速やかに封じられてしまう。
古の魔族の残した『場』が殆ど使われてないのも、それらが現代の術者達には扱いきれぬ程の力を持つ為である。
…が、そんなアウラの懸念をよそにのんびりと頭をかいているヴェーラ。
「そう? 制御がねぇ? 俺は何も感じないが」
「当然だ。お前が『場』の影響を受ける頃にはここいら一帯狂人の国になっているよ。鈍感なんだから」
「人聞きの悪い。強靭な精神力とでも言ってもらいたいね」
胸を張ってうそぶくが、ふと真面目な表情になり気遣わしげに尋ねる。
「…気分悪いのか?」
「悪くはない。いいから悪いんだ」
「へ?」
面食らう戦士。
「精神が高揚していくのを止められない。このままでは又…」
「お、おい、気を確かに持て! 頼むからこんな町中で!」
何故か非常に慌てふためくが、
「まあ、この程度の活性度なら『場』の間近にでも行かない限り大丈夫だが」
「脅かすなよ!」
悪戯っぽい目付きで答えられ、ほっと冷や汗を拭う。
「納得できたか? ならば出立しよう」
「待てよ。この先はもっと酷い地だ。いくらお前でもこれまでの強行軍に加え水なしじゃ苦労するぜ」
「闇の水でも買えと言うのか?」
「いや。買うこたあない。自分で作るのさ。…あれ、短時間なら何とかならないか?」
いわく有りげにニヤリとする。
「論外だ。わざわざ荒れ地を抜けて来たと言うのに、ここで派手な事をすれば全てが水泡に帰す」
きびすを返し馬首を広場の外側に向けようとするアウラ。
その端綱を素早く掴むヴェーラ。
「アウラ。お前、次の町まで歩いて行く心算か?」
「何?」
動きが止まる。
戦士は竜馬の鼻面をいとおしげに撫でながら続ける。
「判らないのか? 俺はともかく、こいつらはもう限界にきてる。丸三日間水抜きで、このでかい荷物を運び続けたんだ。…予定じゃここで物をさばいて水も補給するはずだったんだけどね」
確かに二頭の竜の間には、二抱え程もある重そうな包みが幅の広い皮紐を使って吊り下げられている。
「そうなのか?」
ご丁寧に竜馬に確認するアウラ。
「…そうか。それは困ったな。…ならば、ほんの一瞬なら大丈夫かな。しかしあの見習いどもに制御できるか。うむ…」
アウラがブツブツと考え込んでしまったので、ヴェーラは聞こえよがしに独りごつ。
「これだもんな。俺より竜の方が大切なんだから。…でもさ、そもそも一体、どうして『尽きぬ泉』が枯れちまったりするんだよ? ずるいじゃないか。看板に偽りありだ」
「そうなんじゃよ! 戦士様、よくぞ聞いて下さった!」
いきなり傍らの老婆がガバと振り向く。そして彼の服の裾をしっかと掴むなり綿々と訴え始めた。
「あれは五日前の夕刻。妙な霧が何処からともなく涌いてきて辺り一面にわかに暗くなったなと思うなり、信じられんくらい大勢の山賊どもめが騎馬で攻めて来ましてな! アッと言う間に護衛兵を蹴散らして、わしらの『泉の守(もり)』をさらって行ってしまいおったんじゃ! ――以来段々と水の量が減って、昨日からはもう一雫だって出てきやせん! 丹精込めた商売物の花もこのままでは全滅じゃ」
老婆は身も世もあられぬ嘆きよう。
「ただでさえ、この頃旅人の数が減って大変じゃと言うに…。ああ! 長生きはするもんじゃない。か弱い年寄一人一休…」
ヴェーラのチュニックでチーンと鼻をかんだりしながら、延々と続ける。
「妙な霧か。もしや? …あ、ところで『泉の守』って泉の『場』を制御してた術者の称号なの? ふうん。そりゃ泉も枯れちまうわな。災難だったねえ」
うんうんと頷くヴェーラ。
「でも、どうせ身の代金目当てだろ。…まだ払ってないの? それとも払いきれない程吹っ掛けてきたのかい?」
「それが、おかしな事に奴ら何も言ってよこさんのじゃよ!」
「うーん。ぎりぎりまで困らせて値段を吊り上げる為かな? 向うだって長引げばリヴァから軍が来て危ない事ぐらいわかってるだろうし…」
「じゃろ〜?」
ヴェーラと老婆が盛り上がっていると、
「ばーちゃん、駄目じゃないか! 怪しい余所者相手にそんな事ペラペラ…」
人込みの中から、町人の身形をした若い男が飛び出して来たかと思うなり、老婆を横抱きにしてグイグイ引き摺り、無理矢理連れていこうとする。
「これ、何をするんだいっ! 手をお放し! 人が折角いい男と語り合っとるのを邪魔する気かい?」
「あのな〜。…ばーちゃん。んな事言ってる場合じゃないよ! こいつきっと、様子を探りにやって来た山賊の手先だぜ!」
指差し、はったとにらみつけてくる。
「え? 俺が? 冗談だろ〜!」
怒るより、あっけにとられてしまうヴェーラ。
「そーじゃ、そーじゃ! お前の自は節穴かい? この戦士様は、そんなお人じゃあないよ!」
かえって老婆の方が憤然となって言い返す。だが、騒ぎに気付いた人々が口々に若者の肩を持ち始める。
「イアの言う通りだ! こいつ昨日まで見掛けなかったぞ!」
「近隣の町には既に、ファウナが水不足だって知らせが行ってるってえのに、わざわざ来るとは!」
「ち、ちょっと待てよ、俺達だって知ってりゃ来なかったさ! だけど、西から『大荒れ地』を抜けて来たもんだから…」
ヴェーラの言葉に、一同は増す増すたけり立つ。
「ほらみろ、やっぱり怪しい! 『大荒れ地』が、それ位の装備で踏破できるわけないじゃないか!」
「できたから今ここにいるんだよ! 第一、俺達はちゃんと用があってこの町に来たんだ。ほら、これが証拠の品で…。おい、アウラ、お前もなんとか言えよ!」
竜馬の方を差し示しながら、ついでに隣に同意を求めようと身体を捻るが、そこにアウラの姿はない。
「あれ? あいつ何処に? まさか…」
ヴェーラのきょろきょろにつられて、つい一緒になって、誰かは判らないままその姿を探し求める人々。
…と、泉の辺りで何か動きが見られる。
泉の周りは護衛兵と見習い術者とで二重に固められていたのだが、アウラはいつの間にやらその輪をすり抜け、腕組みなぞして女神像を見上げている。
これには、蟻の子一匹通すまいと頑張っていたつもりの兵士達も大いに狼狽する。
「誰が通したんだ?」
「おい、お前何者? 何のつもりだ!」
「泉から離れろっ!」
険しい顔色で駆け寄り、槍を突き付けで詰問する。物騒な雰囲気に、詠唱を止めて急いで脇に避難する術者達。
が、彼はうるさそうにチラッと一瞥をくれ一言答えただけ。
「静かにしていろ」
「なっ、な、何だと?」
「貴様っ!」
当然、静かに待っている兵士達ではない。余計にいきりたって、ギラギラ光る槍の穂先で威嚇して押し戻そうとする。
やり場のない怒りと焦燥に、いい加減殺気立っていた人々も騒ぎ始める。
「何してんだ? 水はないってぇのが判らないのか」
「余所者だ。剣を持ってる! 戦士だぞ! 山賊の一味か?」
「糞っ! お前らのお陰で…! 許せねぇ、やっちまえ!」
手を振り足を踏み鳴らして叫び、兵士達をけしかける。
アウラは微かに眉をひそめると、良く通る声で叫んだ。
「ヴェーラ?」
「ヘいへい。お呼びとあらば即参上。…は〜い皆さんどいてどいて。怪我するよ!」
とぼけた事を言いながらも、人込みを強引にかき分けて進むヴェーラ。勿論その後から、肩高が大人の頭より高い竜馬が、でかい荷物を引きずってズカズカついて行くのだから、たまったものではない。
たちまち辺りに悲鳴と罵声が飛び交う。
兵達が、いかにも強そうな新手と、泉には近いが直ぐ始末できそうな方とを見比べて、決断を下しかねているうちに、ヴェーラは現場に辿り着く。
そして、兵達の槍をむんずと鷲掴みにして、まるで大人が赤ん坊から玩具を取り上げる時のようにたやすく奪い去ると、膝に当ててポキポキヘし折ってしまった。唖然とする人々。
その間に竜馬と荷物に壁を作らせ、アウラに問う。
「お待たせ! どうするつもりだ?」
「少しでいい時間を稼げ。『場』を一瞬だけ活性化してみる。制御が甘いのが多少気にかかるがな」
「うん。任せられた…。そっちもがんばってね〜」
既に『泉の守』に同調している『場』に影響を与える作業は、かなり困難なはずである。が、余程相棒を信頼しているのか、又は何も判ってないのか、戦士はお気楽にヘロヘロと手を振って激励している。
アウラは小さく溜め息をつくと、水盤の縁に軽やかに飛びのって女神像と対峙し、印を結んで精神集中を始める。
「ああっ! どうしようってんだ! この罰当たりめ!」
たった今の戦士の示威行為も忘れ去り、血相を変えて詰め寄る群衆。凄い圧力に、さしもの竜馬も僅かによろめく。
「静まれ! 俺達は何も害はなさない!」
「どうだか!」
舌打ちするヴェーラ。幾ら彼が剛勇の者であっても、多勢に無勢。一挙に押し寄せて来られてはどうしようもない。
彼は地を蹴ってヒラリと片方の竜馬に跨ると、背中の大刀を抜き放つ。
「お、抜いたぞ! やっぱり賊だったんだ!」
「ほらみろ!」
後方で、無責任に予想が当たった事を喜んでいる奴がいる。
剣がうなりをあげて振り降ろされる。最前列の人間は悲鳴を上げて身をすくめた。が、バサッと地に落ちたのは、二人が竜馬に運ばせていた例の大荷物の覆い布。
「え? 何を…?」
毒気を抜かれ、目を丸くする人々。好奇心にかられ、恐る恐る身を乗り出す。
「こっ、これは!」
「嘘だっ!」
驚愕の叫びが漏れる。
「何だ?」
「どうしたんだい? …見えないよ〜!」
背伸びをし、尋ねる声が聞こえる。
「よしよし。焦んなくても、今見せてやるよ」
ヴェーラはニヤリと笑うと馬上から身を乗り出し、荷物の一番上にあった物を左手で掴み、頭上高くに掲げる。
「あ、ありゃあ…! ボアルン竜の頭じゃないか!」
誰かが呆然とつぶやき、女性が魂消る悲鳴をあげる。
それは、かっと口を開き無念の形相に目をむいた竜の首。すっかり成長すれば小さな民家くらいにはなると言う巨体を堅固な甲でかため、狂暴かつ貪食な事で有名な肉食竜――ボアルンのなれの果ての姿だ。
幸いにしてその個体数は少ないものの、倒すには熟練の狩人と軍隊が必要なほどの厄介者であり、辺境の村の幾つかはこいつに減ぼされている。が、その皮は金属より軽く丈夫なので最高級の重装鎧の材料として貴ばれ、退治に軍が動員された場合には必ずと言ってよいほど、臣民から王への感謝のしるしとして献上される。
彼らの荷物は、簡単に肉を落とし処理しただけのボアルン竜一頭分の皮と首だったのだ。
「こんな物を持ち歩いているなんて…自分達で倒したのか?」
「え! ボアルン竜を二人だけで倒したとでも?」
「しかし…片方は術使いらしいぞ」
人々がざわめくのももっとも。一瞬の目くらまし程度ならいざ知らず、魔法で致命傷となる程の高度な攻撃を行うには意志の集中にかなりの時間がかかる。その上、たとえ術者にそれをやれるだけの力があったとしても、自分を守護していてくれる者か、相手の反撃に耐え得る打たれ強さを持たなくては攻撃魔法は使えないのだ。
となれば、紋章も持たない流れ者術使いで見るからに体力もなさそうなアウラが、俊敏でしぶとい怪物を相手に魔道で戦えたはずがない。せいぜい防御か治癒で手伝ったくらいだろう。殆ど戦士一人で攻撃したとしか考えられぬ。
「こいつを一人で? でも、そんな事は到底不可能だよ!」
「…いや待て! できる! あれになら!」
「あ…ま、まさか! …狂戦士?」
人族でありながら凄まじい戦闘力を持ち、一旦戦い始めたら最後、その前に立ち塞がる者が例え魔族であろうと味方であろうと必ず屠ると言う恐るべき存在――狂戦士!
外見はそれらしくないが、この金髪の陽気な若者が狂戦士だとすれば、つじつまは合う。
人々の間を動揺の波が広がっていくのを見たヴェーラが、竜の首を軽く打ち振って追い撃ちをかける。
「こうはなりたくないだろ? 静かに待っててくれるよな? なあに、すぐすむから。…ん? ほらほら、術者さん達はちゃんとお祈り続けててよ」
楽しげに広場をぐるっと見回す。
人々はゴクリと唾を飲み込み、白茶けた顔色でコクコク頷きながら、たじたじと後退りを始めた。
その時、アウラが腹の辺りで組んでいた手をすっと解き、右腕を女神像に向かって伸ばした。髪とマントが微かな風に煽られるように、ゆっくりと持ち上がる。
「!」
目をこぼれんばかりに見開いて、無言の叫びを上げる人々。
次の一言は、さほど大きくもないのに広場の一番端にいた者にまではっきりと聞こえた。古語らしく大部分の者には意味は判らなかったが。
『力よ! 蘇れ!』
声と同時に、その指先が像の額に軽く触れる。と。
ドンッと音をたてて水瓶から噴流が吹き出し、町並みより更に高い天空に向かって、きらめく白い柱が伸びる。
目の前で起こった奇跡に声もなく立ちすくんでいる人々。
そのうち、轟音と供に飛沫をあげて落ちてきた水が、あれよあれよと言う間に水盤を満たし用水管に溢れ出す。
その音に呪縛を破られたかのように、呟きが始まる。
「お…」
「ま、まさか…?」
呟きはすぐに歓喜の叫びとなる。
「み、水! 水だっ!」
「泉が蘇ったぞ!」
狂喜した人々は、もう二人の余所者の事などうっちゃって、我勝ちに泉に走り寄り、マントや頭巾、慌てて持って来た瓶等に水を受けている。
「こら! お前達勝手に水を取るんじゃない!」
「大変だ! 誰か早く長を呼びに行け!」
「もう行ってる!」
護衛兵達は槍の柄を振り回し、押し寄せる人の波を食い止めようとするが果たせず、ただただ大声で喚き散らすだけ。
術者達もあまりの事の成り行きに、詠唱も忘れて茫然自失で立ち尽くし、傍を通り抜けようとする群衆に邪険に小突き廻されるにまかせている。
…その混乱の中で、抜け目なく竜馬達の分までたっぷりと水を手に入れ終わったヴェーラが、相棒に声をかける。
「おい、もういいぜ。充分だ! 早いとこずらかろう!」
が、アウラは女神像の額に片手を押しあてた姿勢のまま、血の気が失せ強張った表情で答える。
「手が…離れない」
「んな事あるか。遊んで場合かよ」
言いながらも水盤に片手を掛け、弾みをつけて飛び上がるヴェーラ。アウラの右腕を掴んで軽く引いてみるが…ビクともしない。
「マジ? …あんたら、しっかり制御しててくれよ!」
ヴェーラが術者達に向かって毒突いたりしている間にも、像の周囲に淡い青の霧がかかりだし、噴出する水の量はどんどん増していく。そして終には女神像全体にビリビリ細かい震動が走り始める。
目を閉じ唇を噛み締め、制御を取り戻そうと懸命の努力を続けるアウラの顔に、一瞬絶望がよぎる。
「このままいけば…暴走…! その前にヴェーラ、私を…!」
「馬鹿野郎! 諦めるな! …ええい。この〜っ!」
満身のカを込めて引っ張ると、一瞬霧の色が青から明るい緑に変わってフッとかき消える。唐突に手が外れ、勢い余った二人は路面に転げ落ちる。同時に奔流がぱたりと止まる。
「…ってぇ。…ちょっと活性化するだけって言ったくせに」
「活性化しろと言い出したのは、お前の方だぞ」
相棒の恨みがましい言葉に頭を振るアウラ。顔色は蒼白。何故か虹彩が、淡い光を放つ青に変わっている。
それに気付いたヴェーラが息をのむ。
「おい!」
「…いや大丈夫。この程度なら、時間さえかければ…」
細い指を眉間に当てて目を閉じ、気怠げに答えるアウラ。
「そうか。…なら、俺の上から早くどいてくれ!」
「労りの気持というものはないのか」
「お前に言われるようじゃおしまいだな」
ブツブツ言い合いながら立ち上がろうとしていた二人だが。異様な雰囲気にハッと振り返り、反射的に身構える。
いつの間にか、水に群がっていた人々が兵士に蹴散らされ、おっとり刀で駆け付けて来た町のお偉いさん方が、すぐ傍に来ていたのだ。背後から、心配そうな面持ちで見守る人々。
術者どもは忽ち元気を取り戻し、口々に御注進する。
「おお町長、よい所へ! 聞いて下さい! この余所者達が勝手に泉を活性化したんですよ!」
「許せませんね!」
が、お歴々は思いつめた眼差しをヒタと二人に向けたまま、術者達の方はろくに見もせずに頷く。
「逃げそびれてしまったか…」
舌打ちするアウラ。町長の印を大い金鎖で胸に下げている壮年に向かい、両手を広げ柔らかな口調で弁明を始める。
「…すまなかった。説明しても信じて貰えないと思ったものだから、少々乱暴な手段を取ってしまった」
「ね? 許してよ。水は出たんだから…いいだろ?」
ヴェーラも愛敬よく付け加える。が、顔を見合わせて低くざわめいただけで、尚も近付いて来る。
「…あ〜勘弁してよ! 悪かったって言ってるだろ?」
たまりかねて叫ぶヴェーラ。その声に二頭の竜馬が、主人を守ろうと割り込んでくる。町長達は慌てて、のしかかってきた巨体に手をついて押し返そうとする。
…と、その中の一人が喉を締められたような叫びをあげた。
「こ、こっ、こっ…!」
「…どうした?」
尋ねる町長に、震える指で目の前の竜馬の額を差し示す。ちょうど泉の飛沫がかかった所を彼が触ったらしく、砂埃がとれた後に黒い体色と白い十字型の斑紋が現れている。
「おおっ! こ、こっ、黒竜!」
町長も、ゲッというような音をたてグラッとよろめく。
勿論、黒い竜馬は雪白のそれと同じくらい珍しいものだが、なにも腰を抜かす程の異相ではない。問題は目の前に黒竜を連れた者がいる事なのだ。
古の偉大な魔族ヴァシュナルと、その凄まじい力を現わす色である為、黒を使う事を許されているのは、ごく一部の魔族と余程の高位の魔道師に限られていると言うのに!
人々が慌てふためいて、バラバラと石畳に膝をつく。
ハッと何かに思い当たったらしく、もう一頭に目を向ける町長。こちらは体色は緑。額の真中に長い一本角がある。
「おお。黒の銀十字に緑の一角! …素晴らしい魔術にボアルン竜を倒す程の腕前。只者ではない、是非とも会って話しを聞いてもらわねば…とは思っていたが! なんと言う幸運! 女神様のお導きに違いない!」
一人で踊りあがらんばかりに興奮している彼を、けげんそうに見る人々。町長は少しじれて名士達に言う。
「あんた達も、噂に名高い傭兵の『黒竜と翠竜の戦士』を知っているだろう? …黒竜『銀星』を連れた魔導士アウラと、翠竜『一角』の主人、戦士のヴェーラ」
「…あ、そう言えば! 最近西から渡って来た傭兵に、減法腕の立つ二人組がいるって聞いたような…」
「なんでも、あの紅竜盗賊団をたった二人で平定したとか!」
「それなら知ってるわよ! ライナの村をボアルン竜から救ったって言う人達だろ?」
「これが、その?」
ようやく合点がいった人々の間に、希望と畏敬にかすれたささやきが密やかなうねりとなって広がる。
だが、アウラは至極冷静に答える。
「…もしそうなら、どうだと言うのです?」
突然、高価な服が汚れるのにもかまわず、ガバと膝を付き、二人に手を差し伸べる町長。
「どうか我らを、泉の町をお救い下さい!」
途端に周囲の人込みからも叫びが上がる。
「俺達の『泉の守』を取り戻してくれ!」
「お願いです!」
「このままじゃ俺達も町もおしまいだよう!」
皆必死の面持ちで訴え掛ける。手を組み、地に頭をすりつけんばかりの者もいる。彼らの叫び声がファウナの町にワーンワーンと響き渡る。
「せめて…話しだけでも聞いては下さいませぬか?」
長は膝でにじり寄りながら続ける。
「少しでもお時間をさいていただけますなら、その間できる限りのおもてなしを致しましょう。…冷たいサルン酒や汁気たっぷりのルサ果などはいかがです? 昼にはまだ早いようですが、お望みならば食事の用意も…」
いささか『花より団子』という調子の説得だが、まあ仕方あるまい。町長もこの最後の好機を逃すまいと必死なのだ。それに、意外と効果なきにしもあらずといったところ。
ヴェーラが頭の後ろで手を組み、のんびりと言う。
「なあアウラ。話しだけでも聞いてやろうよ」
無言で相棒に一瞥をくれるアウラ。
「…でないと、この町から無事に出れそうにもないぜ」
彼らを十重二十重に取り巻いた人垣を顎で差し示す。
「それとも、この人ら全部蹴散らしてまで先を急ぐか?」
アウラはゆっくりと周囲を見回す。例によって、その表情からは何を考えているのやら全く読み取れぬ。
彼の答えに全てがかかっているのを敏感に感じ取ったか、今や叫ぶのを止めて食い入るように見つめる人、人、人…。
そして――。
「話しを聞くだけなら」仕方ないと言う風に頷くアウラ。
「やったね!」ニコッとするヴェーラ。
「おお! では?」町長も人々もぱっと顔を輝かせる。
☆ ☆
「何分こんな折りですから大した物はありませんが、どうか存分に召し上がって下さい。…では私はこれで失礼致します。お話しがまとまりましたら、その呼び鈴でお呼び下さい」
町長は、にこやかな笑みを満面にたたえてお辞儀をしながら、退室していった。
ここは町長の屋敷の豪華な客間。
上等のパタンガ絹の張られた長椅子に埃塗れの身体でのうのうと寛いでいたヴェーラが、大きく伸びをする。
「しっかし、俺達知らない間に随分有名人になってたんだね。見ろよ、このもてなしよう。大した物がないどころか!」
卓一杯に並べられた山海の珍味を、顎で差して相好を崩す。
が、アウラは肩をすくめ、そっけない。
「お前が始終腹をすかしていると言うのも、有名のようだな」
彼は、長が立て板に水とばかりにトウトウと町の窮状をまくし立てていた間は、一人室内を歩き廻り、徹底した成り金趣味の調度に感心して見入る振りなどしていた。それが、長椅子の傍に戻って、腕組みをしたまま相棒をキッと見据える。
そら来た! と無意識に身構えるヴェーラ。
「…いいか、あそこで長の誘いを断っていたら、又暴動でも起きかねないと判断したから、ここに寄っただけなんだぞ。それを長々と話しなぞ聞いて。…今度は、食べ物につられて依頼を受けたりするなよ」
声こそ荒げないものの、ビシビシと畳み掛けてくる。
が、ヴェーラも負けずに反論にかかる。
「何でそんなに嫌がるんだよ。困ってる人は助かるし、俺達は満腹…いやチョッピリお金持ちになれるし、どっちも幸せ。言うことないじゃん」
「わざわざ追っ手に狼煙上げて教えてやることはない」
「狼煙ならさっきの活性化だけで充分と思うけど?」
にやにやとヴェーラ。
「あれは…水がなければ先を急げないと思ったから…」
少し歯切れが悪くなったところに、更に突っ込む。
「追っ手くらい又まけばいいだろ。この町の人達見捨てては行けないよ。術者達の話、お前も聞いていたろうに」
ここでキリッと真面目な顔になる。
「…あの水の枯れようから見ても『泉の守』は相当弱ってる。早く助け出さないと手後れだ。…もし彼女が死んじまったらファウナはお仕舞。次の制御者はまだ使い物にならないそうだから」
「確かに人材不足だな。町長に至っては万一の時の為にと、この私に、町に残る気はないか打診する始末だ!」
何故か自嘲気味に言い放つアウラ。
「仕方ないじゃん。まだここまで手配書来てないんだもん」
「ま…な。…しかしお前ね。助けたいのは『町の人々』?」
アウラが相棒の手に握られた紙を皮肉っぽく指差す。
それは町長が抜け目なく持ってきた、ファウナの土産物…『泉の守』セリアの絵姿。豊かな亜麻色の髪に濃い藍色の瞳、少しきつい感じのする美少女である。
「え? 何の事かな〜」
「食べ物の次は『捕らわれのお姫さま』か。完全に傾向を知られているな。…情けない」
「ヘ! 何だよ。美形の男だからって助けに飛んでくような危ない奴よりはマシだろーが」
「なんなんだ…。とにかく、それほど善行積みたいのなら、引き止めないから一人で行け」
「そう冷たい事言わず、手伝ってくれよ。相当人数いるうえ、天候支配の魔導士だか何だかいるみたいなんだもん。雑魚は全部引き受けるから。…そんなに手間かからないよ。ね?」
あの大きな緑の目で一心に訴える。
両者は暫く無言でにらみ合っているが、やがてアウラの方が、ふっと目をそらす。
「嫌な予感がしていたのは、この事だったのか。…本当に手早く済ませるんだろうな?」
「じゃあ?」
「…山賊退治ではなく『泉の守」の救助だけなら手を貸そう」
口調は渋々だが、満更でもなさそうである。
「わお! よかったよかった! 大好きっアウラちゃん!」
ガシッと相棒を抱き絞めるヴェーラ。
「痛…馬鹿者〜! 戦いの始まる前に傷を負わす気か」
「あ、ごめん。…や〜、これで心おきなく飯が食べれる!」
いそいそ卓に手を伸ばすが、残念ながら阻止される。
「その前に報酬の件、はっきりさせておかないと。この食事がそうかもしれん…。幾つか小道具も必要だし」
「くそ〜。いぢめっこ〜!」
戦士は情けない顔で手を引っ込めた。
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