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日本 作者のノート 3 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西
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スイス銀行の休眠口座

「スイスの銀行は笑いが止まらないであろう。何しろ戦争中にユダヤ人から預かって引き出されないままになっている預金がたっぷりあるのだから」という非難ともつかない愚痴が良くささやかれた。

ナチスに追われるユダヤ人とスイスの銀行を結び付けたのは、同国で一九三四年に制定された銀行法であった。その第四十七条には「銀行の代理人、銀行員、使用人(中略)はその職業上の秘密を守るという義務に違反した場合、もしくは、他人に同じことをするように誘いかけた者は、二万フラン以下の罰金か六ヶ月以内の禁固またはその双方に処する」とあり、ユダヤ人の銀行口座の存在をナチスから守ることを目的としていた。そしてユダヤ人は最後の望みを託してスイスにお金を預けたのであった。

その法律は原則において今も有効であり、今日でも銀行家(含む窓口の係)は街で得意客に会った際に「いつもありがとうございます」としゃべることは、その銀行との取引を想定させるので許されないと筆者も滞在中に銀行関係者から聞いた。また銀行から送られてくる郵便物には一切送り主の名前は書かれていない。

さてこうした守秘主義の元、戦後になってユダヤ人の遺族からの問い合わせに対して、スイスの銀行は本人の「死亡証明書」を要求した。しかし虐殺された多くのユダヤ人に死亡証明書なと発行されていないため、その試みは頓挫したという。

そして同法律によってスイスの銀行口座はマネーロンダリングの温床ともなった。最近の例でもマルコス元フィリピン大統領が不正蓄財した口座の存在が明らかにされた。世界的な抗議の高まりに答えて、現政府に返還が決まったのは、今年二○○三年の八月のことであった。近年はスイスの銀行も国際化の流れの中で、伝統の守秘主義を改める必要が出てきた。

こうした情報公開の流れの一環で、一九九七年、二○○一年と二度にわたりスイスの銀行協会は、第二次世界大戦中のユダヤ人の犠牲者たちの口座を思われるものを公表した。ただしどれがユダヤ人の口座であるかの判断はできないため、スイス国内の五十ほどの主要な銀行に一九三三年から四五年に開かれた外国人の口座で、四十五年の五月以降動きがない口座(休眠口座)を公開したのであった。全体で約五万四千の休眠口座が見つかり、そのうち外国人のものは一万四千であった。

外国人であるからそこには日本人の名前もある。インターネットで公表されているリストを見て筆者が見つけたのは以下の名前だ。

Akiyoshi, Minoru [Tokyo,Japan] [1]
Sasaki, Riniti [Berlin,Germany] [1]
Nishiyama, Akira [Tokyo,Japan] [1]
Inagaki, Morikatsu [Yokohama, Japan] [1]
Kitamura, Hirosi
Kagiyama, Satoru
[Rome, Italy] [1])


これらのうち東京/横浜と住所がなっているも方々は、筆者の調査では第二次世界大戦の始まった一九三九年以降はスイスに暮らした形跡がないので、それ以前にいた方か、日本に暮らす日本人が、何らかの理由で開設したのであろう。

このうちInagaki, Morikatsu
はジュネーヴの国際連盟の常任代表であった稲垣守克であろう。筆者は「戦後初の渡欧者を求めて」で氏について書いている。(2017年2月25追加)

一方ベルリンとなっている
Sasaki, Rinitiは同盟通信社でイタリアを中心に活躍した佐々木稟一であることは間違いない。戦後の一九九六年に雑誌「軍事史学」に「三国同盟の中のイタリア」を書いている。またKitamura, Hirosiは読売新聞の現地採用でスイス、イタリア、スエーデンで活躍した留学生喜多村浩と一致する。そして喜多村はおそらくイタリアを出る際に日銀の同国駐在の鍵山学を代理人にしたが、鍵山自身も終戦時はポルトガルの駐在となっている。

またSwissinfoというサイトによれば「イトウ ノボル(ヴィシー、フランス)」「イワサキ サカエ(ローマ、イタリア)」「サイトウ ケンジ」の名前もあるという。(2001年) そのうち二人は以下の通りだ。
伊藤昇 朝日新聞 1940年フランス特派員、終戦時マドリッド特派員。
岩崎栄 三菱商事 ローマ支店長
こうして見るとジャーナリスト、ローマ駐在者の名前が多い事に気が付く。ジャーナリストは個人の口座に日本からの送金を受け取ったため、またイタリアの銀行は頼りなかっため、スイスに口座を持ったのであろうか?

名前の判明した欧州滞在者の場合、敗戦国民として欧州から帰国する前にスイスを訪問して、口座を解約することが出来なかったことが休眠口座となった主な理由であろう。スイス側の説明ではこうした口座に残された金額はあまり多くないというので、戦後もわざわざ引き出しの労をとらなかったと思われる。それでも筆者とすれば、これらの方々の関係者が歴史的価値のある口座から数十年前の預金を引き出すことが出来れば幸いである。ちなみに関係者による問合せ方法は以下の英語のURLから入手できる。

http://www.dormantaccounts.ch/
2017年現在、このリストは存在しないようだ。その代わり60年以上コンタクトがない口座は、スイスの国庫に入れられるという告知がある。なお筆者はこうした邦人は、資産を隠すためにスイスに口座を残したのではなく、敗戦により日本人資産を凍結され、おろせなくなったのが原因と考えている。よって金額もさほど大きくはないはずである。

また戦時中に預けたままにした口座に関わる話として、
当時朝日新聞特派員としてスイスに駐在した笹本駿二の「私のスイス案内」に以下のような記述がある

第二次大戦が終わってから二十年もたった一九六五年の五月ごろ、僕は二度目のヨーロッパ滞在末期でボンに住んでいた。ある日東京在住のO君から手紙をもらった。

戦争末期、スイスのある銀行に四万フランを定期預金として払い込んだことがあった。その後すっかり忘れてしまっていたが、戦後二十二年もたってから、「スイスの銀行に払い込んだ金は、こちらから指令がない限りそのまま銀行で保管されている」ということがわかってきた。(中略)「面倒をかけて相すまぬが、一度いってみて出来れば調べて下さい」ということだった。

笹本はO君が覚えていた銀行名のジュネーブ支店に行き、ついで訪れたベルン支店では「その苗字の預金者は二人いるのですが、名前は何というのですか」というので「Yoshikazu」と答えると、この銀行員はにこにこ笑みをたたえながら「その人はたしかに口座を持っていて、今でもちゃんとお預かりしています」と確認してくれた。

そして笹本氏とスイスに来たO氏がベルンの支店に行くと口座の特定が出来て二十二年分の利子を含めて五万フランを受け取ったという。笹本氏のようなスイス通にはこうした手続きもさしたる苦労ではなかったようだ。

最後になるが戦時中の四万フランは大金である。「Yoshikazu」という名前はスイス滞在者の中では筆者の調査対象である藤村義一(ふじむらよしかず)海軍中佐のみである。興味のある方は以下をクリックして一読ください。

藤村義一 スイス和平工作の真実

追記

最後に取り上げたO氏に関し、それは同盟通信社の小田善一氏のことではという指摘を受けました。彼ですとOも当てはまるのでその通りと思います。私のデーターベースで彼の名前が「ゼンイチ」となっていたために気がつきませんでした。この場で訂正させていただくとともに親切な申し出に感謝いたします。(2008年4月27日)



もうひとり戦後、スイスの預金を取り戻そうとした邦人がいる。戦時中、ベルンの日本公使館付き武官だった人物である。(原作者が名前を伏せているので、筆者もそれに従う。)

降伏後、マッカーサーの指令で帰国したが、そのとき彼は現地の銀行に2万8千9百スイス・フランを預けていた。ところがスイス国立銀行は日本資産を凍結してしていた。そのため彼は帰国後、預金返還を求め始めた。

「日本に帰国した時、自宅は空襲で消失しており降伏で軍人としてのキャリアも終わりました。8人の大家族を抱えた私の唯一の希望は(スイスに残した)財産です。(中略)
サンフランシスコ講和条約が調印された今、私の資産は返還されるべきです。それが子供の進学のための唯一の希望なのです。」
と窮状を訴えた。(1951年10月18日付き書簡)
『1945日本占領』徳本栄一郎より

(2017年2月28日追加)

以上

2003年8月9日)


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