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書評 「1945 予定された敗戦」 小代有希子  2015年12月30日発行 



朝日新聞の書評欄で紹介された本書は、すでに読まれた方も多いのではないであろうか?
原著は英文で、おそよ15年前の2001年に大平正芳賞を受賞している。

とても読みごたえのある本である。
「膨大な資料を漁り」と言う表現は、研究書に対する賛辞として常用されるが、本書はまさにその代表格であろう。
著者は当時アメリカを本拠とした。夏冬の休暇を利用して日本に戻って来るたびに、公文書館で史料を読み漁って
「戦争をどう終わらせるか」を考える日本の指導者の姿を浮かび上がらせたという。

そして論拠のベースとなるのは新史料ではなく、すでに発表された史料、当時の新聞、日記などである。そこには憲兵隊が集めた街の人の声もある。「新史料、新史料!」と探し回る評者には耳の痛い話であるが、すでに多くの日本人がソ連が日ソ中立条約を破棄して、満州に攻め込むことを予測していた事例を紹介している。



そして最高戦争指導会議のメンバー(鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海軍大臣、阿南惟幾陸軍大臣ら計6名)は史料として会議の記録等には残されていないが、「戦争をこう終わらせようとした」と次のような従来説にはない考えを述べる。

1 鈴木貫太郎内閣が「黙殺」を持ってポツダム宣言に応じた真の理由を知らない一般市民たちでも(中略)、(ソ連が日本の軍事占領に強引に参加してくるといった)国際情勢をここまで推察できたのだ。
よって日本政府がコメントしない、という事は、アメリカのみには降伏しないという意思表明だったのはないだろうか。(235ページ)

2 ポツダム宣言が、アメリカとソ連の最終対決の始まりで、それはまた日本が戦争を終わらせるまでのカウントダウンの始まりであることを、最高戦争指導会議のメンバーは、おそらく合意しあっていたのであろう。(235ページ)

3 大日本帝国崩壊後、ソ連が中国や朝鮮とどう関わっていくつもりなのかを探るためにも、和平交渉と称してソ連と外交的に接触し、コミュニケーションを保ち続けようとしたのが、真意ではないか。(140ページ)

東郷外務大臣はソ連が間もなく(対日)参戦することを分かっていながら、この時点から戦争終結のときまで、「ソ連の善意を信じて疑わない」ようにふるまい続け、そうした言動を公けの記録に残すようにしたようだ。(236ページ)

こう推測するに根拠を、著者はしっかりページを割いて述べている。あとはそれら裏付ける史料等が見つかれば完璧であろう。

評者がコメントを加えるとすれば、著者は自ら同書の中で、
「(個人の戦争体験を)何万人分収集したとしても、政策決定者が軍事戦略家のビジョンや目的、政策、それらを実行に移した過程は分からない」(301ページ)と述べている。

これは情報にも当てはまらないであろうか?つまりソ連の対日参戦情報が多く入ってきたとしても、政策決定者(最高戦争指導会議のメンバー)がそれをどう消化したかを判断するのは、やはり難しいかのではないか?
また憲兵は思想の統制が仕事である。かれらが集める「市井の声」は進歩的な人の声が主とはならないか?



同書では評者の専門分野である藤村義一中佐、岡本清福中将など欧州中立国の「和平打診者」についても、かなりのページが割かれている。そこでは
「(アメリカ政府は)彼ら(藤村ら)の提唱する”和平への条件”は日本政府の公式見解ではないと判断して結局一切応対をしなかった」と書いている。確かにそうであろう。しかし著者は別の個所で

「(1945年)春から初夏にかけて、ヨーロッパで日本人”和平打診者”がアメリカ当局に接近をしてきた際、アメリカ側は何としても応じなかった。しかし今、広島と長崎への原爆投下に「成功」したことで、日本とソ連双方に脅威を与えた余裕が出来たせいであろうか。(中略)これ以降アメリカが単独で、日本の降伏と戦争終結について交渉にあたっていく」(248ページ)
と述べているが、日本政府の公式見解でないものと、公式見解を比較するのには無理がないか?

最後にもう一度、巻末の参考文献を対比しながら読むと、とても読み応えのある日本終戦史である。付け加えると、評者は著者と同年代であるが、視力の弱った評者には、文字がもう少し大きいと助かった。

2016年2月21日 大堀 聰


 
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