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<徳永太郎、下枝(しづえ)ー若い外交官夫婦は以下に欧州戦争を体験したか? その後パート2> 


筆者がこれまで調べてホームページで紹介してきた方々について、その後判明する事実が多々ある。そうして先日筆者初期の作品徳永太郎、下枝(しづえ)ー若い外交官夫婦は以下に欧州戦争を体験したか?」への追加記録として徳永太郎総領事と崎村事件」を紹介した。しかしすぐさまいくつかの新事実が出てきた。種明かしをすると次の事情からである。

国会図書館の検索機能も随分とアップしてきている。10数年前までは紙のカードによる検索が主体であったと記憶するが、ある時期からはパソコンである。そしてそれは書籍情報に始まり、今は終戦直後の多くの雑誌の記事も作者名から索引し、そのままデジタル情報で見る事が出来る。それは筆者のような調査目的の人間に、多大な時間の短縮を実現している。それによりまさにトロール網で魚を一挙に捕まえるがごとくに、徳永夫妻が雑誌に書いてきたことを見つけ出し、調べ上げた。



まずは短歌雑誌「心の花」(竹柏会)の1941年4月号に下枝さんの短歌が載っている。
雑誌の発行月は夫妻のスイス赴任直前である。戦前、彼女は短歌をたしなんだのであろう。もっと早くに見つけてコピーを差し上げられなかったことが悔やまれるが、こうした短歌の投稿者の名前まで見つけ出せるのは驚きである。雑誌には5句載っているが、門外漢の筆者は短歌の内容にはコメントはできない。

<山路>         徳永下枝

山の木は静もり果てて夜ふかきに天地占めて蟲のみし啼く
山中のうみの彼方に夜空ゑり輝き立てりとこしえの富士
はるかなる山路けぶらす雨の中に尾花ほのぼの紅に見ゆ
丸木舟漕ぐうみの面のさざなみになづさひ流る若人のうた
このまさごこの潮騒に遅き日を今日のごとくも君と遊びし



ついで「看護学雑誌」の1950年8月号に太郎は「世界のナース D ドイツ」と題名で自分のドイツ、スイスでの入院体験について書いている。副題は「空襲下のタンカ運び」となっている。

1944年の夏、太郎は肋膜炎に患ってベルリン郊外にあった大学病院の分室に入院した。その頃はもう、ドイツがもつのも今年一杯ではないかと先が覚束ない時期であった。
「空襲は前年から激しくなっていて私が入院した頃、ベルリンの市内は半分以上も破壊され、中心地は全滅に近い状態で、大きい大学病院も幾度かの空襲で壊され、郊外の割合に安全な所に分散していた。」
ドイツの同盟国の外交官という事で、太郎は大学病院に優先的に入院でき、当時最新の治療を受けられたのであろう。

「病院には入院患者が150名くらいいた。その頃は毎晩空襲があり、空襲がすまないと落ち着いて眠ることが出来ません。空襲警報が鳴ると病院中の者は皆、地下室を補強してつくった防空壕に入ります。
一人で歩ける患者は自分で、少し良い患者は看護婦に助けられながら防空壕に行き、重病人や手術後の患者は看護婦や補助人の担架にかつがれて、地下室に下りていきます。
担架で運ばれる病人は看護婦が担架を持ってくるのを待っている訳ですが、私も入院当初は担架に乗せられて防空壕に下りました。」

入院患者の150名はあまり多くない。空爆に備え分散させていたからであろうか。女性看護師二人で体格の大きいドイツ人を担架に乗せ、地下室に階段を下りていくというのは大変な重労働であったろう。
太郎は外国人という事で、比較的早めに看護婦が来てくれたが、戦争の末期で看護師も極度に不足していて、迎え撃つドイツの高射砲が鳴り出す中、不安で待つこともあった。そして自分が地下室に運ばれた後も、看護婦たちは他の患者も全て運ぶと、ようやく防空壕に留まり、空襲が終わるのを待った。

太郎の命はドイツの医者と看護婦の手にゆだねられた。そして英米機の爆弾が近くに落ち始めると、看護婦たちは恐ろしさをし知らないのかと思われる落ち着きで、いろいろな話をして病院たちの気を紛らわし落ち着かせた。太郎はこうした看護婦の立派な態度に全く頭が下がる思いであった。そして戦時中はどこの看護師も同じような献身的態度であったろうと書いている。

その後まもなくして徳永はスイスのダボスの療養所に移る。ここ”ヴァルト・サナトリウム”はドイツ資本のサナトリウムであった。文化人にも多く利用され、トーマス・マンの長編小説「魔の山」の舞台にもなった。

太郎の担当はマリーという看護婦であった。彼女はドイツ人でベルリンから来ていた。婚約者を空襲で失い、神経衰弱になり、外科の手術に立ち会うことが出来なくなった。そこで神経が元に戻るまでスイスのサナトリウムに勤める事になった。当時のドイツの病院もこのくらいの配慮はしてあげたようだ。太郎は彼女が空襲とはいえ、全く不運な形で恋人を失った話を聞き、深く同情した。
戦後は抗生物質の発見から療養者が減り1957年、この有名なサナトリウムは保養客相手のホテルにと変わった。



スイスの徳永夫妻は病気療養のため帰国が他の外交官より遅れ、ようやく1948年2月に日本に戻った。そして同年7月号の雑誌「主婦と生活」に「戦後ヨーロッパの婦人と家庭生活:最新帰朝者ばかりの座談会」という特集に登場している。他のメンバ―渡辺護夫妻、向後英一も、敗戦欧州からの帰国が遅れた者であった。当時も日本人は欧州最新事情に興味があったので、組まれた特集であろう。

ちなみにこの記事は国会図書館の検索システムでは引っかからなかった。日本占領期の雑誌記事のデーターベースを作成している「20世紀メディアデーターベース」で見つけ出し、国会図書館、憲政資料室所蔵のマイクロフィルム化されたプランゲ文庫の雑誌から、記事を実際に目にすることが出来た。

下枝夫人の言葉を拾い上げる。渡辺夫人(ドイツ人)がドイツ人は(物が乏しい時でも)流行に合わせた洋服を着ていると述べたのを受け
「あちらではいったいに身だしなみがいいですね。スエーデンのメーデーを見ましたが、モーニングを着ているんです。」
下枝がスエーデンに行ったのはいつであろう。ベルリン勤務時の1943年5月、もしくはその翌年であろうか?1944年5月、太郎は冒頭で述べた崎村事件でスエーデンを訪問している。

次いで闇市について日欧の比較を語る
「しかしドイツの(闇市)は日本やイタリーのように簡単ではないのです。闇市があって買うというのではなく、本当に知り合いの者だけに頼んで、自分の持ち物と取り換えてもらう形になっています。」
これは下枝夫人の体験した戦争後期のドイツの状況であろう。そして焦土の日本に多くいた浮浪児は、スイスにいなかったとも言う。それは貧しさの問題よりも、スイスのような寒い国では路上生活者など存在しえないと考えている。

そして太郎が
「帰ってみて日本人は勤勉だと思いました。官吏でも会社員でも、わずかな給料でよく働いていると思います」と述べたのに続き
「しかし日本人のやり方は努力も物も無駄が多いのじゃないかと思います。訪問する時の遣い物(贈り物の事―筆者)とか、その他いろんな所で精神的にばかり考える」
ここでは敗戦後日本に戻ったばかりの下枝の、欧州に対する見方を垣間見ることが出来る。



最後に文芸春秋1957年10月号の記事「日本の立遅れはどこにあるか(座談会)」に太郎が登場している。冒頭
「私が(戦後初のハンブルク総領事として)西独に行ったのは、1954年終わりだったのですが、行く前にハンブルクは(空襲で)非常に壊されていて、住む家を探すのにも困るだろう」と述べた後、実際に行ってみるとかなり復興されていることに驚き、3年いる間に爆撃の跡はもうほとんどなくなった、と述べた。日本の復興が立ち遅れている事に対する同じ敗戦国ドイツの復興ぶりを紹介しているこれは徳永のハンブルク時代の唯一の証言である。

以上が検索システムから見つかる徳永夫妻に関する雑誌記事である。まだあるとすれば著者としてではなく、他の人の記事の本文中に登場する場合であろう。しかし古い雑誌記事はデーターとしてではなく、写真のような形で残っている。よってそれらを機械的に探す方法は今は無いはずである。

2015年4月26日


 
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