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欧州邦人 それから 


筆者がこれまで調べてホームページで紹介してきた方々について、その後判明する事実が多々ある。細かい事は逐次本文に追加しているが、これではすでに読まれた方は気が付かないので、そうするには残念過ぎる事柄がある。今回は4名の邦人について、「欧州邦人 それから」と題して“大事な事実”を紹介する。すでに公表している本編と合わせて読んでいただければ幸いである。

またこうした事実の多くは、私のホームページを知る人から寄せられることが多い。情報が少ない分野でのネットの有効性を常に実感している。


<1.徳永太郎総領事と崎村事件>

徳永太郎、下枝―枝 若い外交官とその妻は、いかに欧州戦争を体験したか?」を公開してから15年以上経つ。筆者にとって最初に当事者にインタビューして書いた思い入れのある作品である。その後太郎の名前に出会ったのは、2006年ごろ「崎村茂樹」の調査を、加藤哲郎教授が主導され、ネットを介して行った時であった。

教授の調査力はさすがで、それは「米軍接収在独日本大使館文書」にまで及んだ。これはベルリンの日本大使館が敗戦に際し、重要書類は皆焼却したが、残ったものを米軍が接収し、マイクロ化したものである。その中に徳永太郎の名前があった。筆者はこの件を書き足そうと思いつつ、さらに10年近くが過ぎてしまったことになる。

そのマイクロ資料にあった、1944年5月28日にベルリン駐在の佐藤彰三内務事務官によって作成された報告書によれば、崎村事件とは以下の様である。

日独学徒会に出席のためドイツを訪れた崎村は、開戦により日本へ帰国できなくなりドイツに留まる。そして1943年9月7日、スエーデンに向かった。その理由は身体の静養、静かな土地における勉学、空襲よりの回避などである。

直後の9月10日、現地で邦人の運動会に出て足を負傷し11月20日まで入院する。親しくなったスエーデン人が、崎村に同情し、空襲の恐怖のあるベルリンに帰るよりストックホルムに滞在する事を勧め、宿泊場所も提供した。

そして自身のベルリンでの空襲体験などから10月ごろがドイツの危機だと信じ、周りに対してもそう発言したが、実際の所ドイツは持ちこたえた。よってその後は認識を改めた。ベルリンで崎村の所属する鉄鋼統制会では、彼がベルリンに帰って再び働くことを望んだが、崎村はその勧めに反して以降も留まった。

1944年4月28日、英国人が崎村を訪問。本人はインタビューとは知らずに面会した。そうした話が英国の新聞に発表され、ドイツ外務省が驚き、日本大使館も慌てた。敵国人との第三国での接触は、反枢軸的な行動で、大きな問題であった。

留まる崎村をベルリンに引き戻すためにストックホルムに向かったのが、在留邦人の面倒見役である総領事の徳永太郎と、邦人の思想面での監視役であった内務省出身の佐藤彰三の二人であった。

「戻らないと日本の親類縁者にも被害が及ぶ」とまでほのめかし、崎村をベルリンに連れ帰ったと言われている。元々反枢軸思想の持ち主で、スイスからベルリンの大島浩大使の元に、それが原因で転勤させられた徳永にとっては、まことに辛い仕事であったろう。

そして同年5月30日、ドイツ外務省に宛てて、徳永総領事と佐藤の名で事件の報告書を作成し提出した。ドイツ側もこれ以上は事を大きくしない事で応じた。

ベルリンに戻った崎村は徳永総領事に誓約書を提出している。要約すると以下の内容である。
「1944年7月1日 崎村茂樹。徳永総領事殿

今回のロイター事件はその波紋極めて大きく、全く恐縮にて、今後は只謹慎の生活をなす。そして以下の事を誓約する。

1 無用の旅行は一切禁止し、病気その他やむを得ざる場合には総領事館に連絡し、その了解を求めること。
2 外国人との交際は私生活に必要な以外は一切禁止。
3 外国人との文通も私生活に必要な以外は禁止。
4 邦人との交際でも政治論、外交論は一切謹慎する。」

徳永総領事はその間もなくして肋膜炎にかかり、同年9月に、スイスのサナトリウムに移る。筆者が何度かお話を聞いた妻、徳永下枝さんから、この崎村事件に関する総領事の反応などを聞けなかったのはまことに残念である。


本編:徳永太郎、下枝―枝 若い外交官とその妻は、いかに欧州戦争を体験したか?


2.山路綾子と家庭教師フルーザー嬢>

山路章ウィーン総領事、後ブルガリア公使の長女、山路綾子さん(後に駐ソ連大使夫人)にお話を伺い「山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧」をまとめたのは2013年春の事であった。

その後彼女に関連して情報を寄せてくれたのは木村 洋(数学史家)さんである。満鉄のベルリン駐在員であった西畑正倫の1945年の行動記録があることを教えていただいた。そこに短いが以下の記述がある。

1945年4月9日,
「ストローブルの山路公使のビラを訪ね、荷物の一部保管をお願いする。家政婦のフルーザー嬢は日本に居住したこともあり江藤夏雄(当時満鉄職員−筆者)君も知己とか。久方振りの日本食は美味しかった。」

陸軍武官室に雇われていた西畑は、ドイツ敗戦の直前に、ベルリンからオーストリアのバート・ガスタインに避難の途中、山路の別荘に寄ったことが分かる。そしてオーストリアの山の中で日本食を食べたのであった。

このビラ(別荘)については筆者の先述の拙文の中で紹介している。そして教育係の女性について山路綾子さんは次のように語った。
山路家にとってKinderfraeulein(子供の教育係で日本的乳母ではない)との付き合いは一生ものであった。彼女が山路家の面倒を見るのはハンブルグ駐在時代からで、1934年の帰国時には一緒に日本に来た。その後、またウィーンに向かい今回別れるが、戦後はロンドンにも来てもらい、その時は綾子さんの子供らの面倒を見てもらった。」

西畑が書く”日本にいた事のある家政婦フルール嬢”と、山路綾子の教育係の記述はぴったり一致する。こういう風に二人の証言が符合すると、筆者は無上の喜びを覚える。

そこで着物を着る西洋女性の写真が残っている。これは家政婦のフルーザー嬢ではなかろうか?さすがに外交官とはいえそう何人も使用人を雇えないであろうから。

ただし、西畑が訪れた4月9日、綾子さんらはすでにスイスに入国していた。スイス入国ビザを入手出来なかったフルール嬢が、ビラに留守番として一人でいたと思われる。そして彼女は戦後、今度は綾子さんの子供の家庭教師となった。

1944年 ストローブルの山路家の別荘の綾子さん

ストローブルにて この女性がフルーザー嬢であろうか。着物は“西村ソノ”さんのものという。

本編:山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧


3.山路章公使と命のビザ>

<序>

筆者はこれまでに多くの欧州に滞在した邦人の足跡をたどってきた。当時、満州国の公使館もベルリン他にあり、そこに勤務した日本人の消息はかなり詳しく追うことが出来たが、”満州人“の戦後に関しては一切不明であった。日本の打ち立てた国家で働いた故、新生中国では過酷な時を送ったであろうとは想像した。

ハンブルク大学で「戦前のドイツにおける満州国と人民中国の代表権争い」という興味深い研究をしているシモン.プレッカー(Simon Preker)という方から連絡をもらった。筆者が「杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」で紹介した満州国ベルリン公使呂宜文の写真に興味を持ったからであった。

筆者は初めて聞く話であるが、開戦前に満州国と中華人民共和国は、それぞれ代表をドイツに送りドイツの信任を得て、国交を開こうとしていたらしい。

1939年3月16日 在独満州国公使 呂宣文氏(中央)ハンブルク市公式訪問記念。

プレッカー氏によると、満州国のベルリン公使館で呂宣公使の下で理事官補として勤務した王替夫は、2001年に亡くなるが、生前何度かインタビューを受け「ヒトラーに会い、ユダヤ人を救った満州国外交官」と「ある満州国外交官の告白」いう2冊の本が中国で出版されている。(タイトルは筆者訳)

その中で王替夫は1939年から1940年にかけてユダヤ人に数千枚の(通過)査証を発給したと述べた。そのまま読めば、「満州国のシンドラー」とも呼べそうである。戦後呂宣文公使は処刑されたが、王潜夫は何年か刑務所に入れられたが、その後は釈放となったらしい。

それらの本の紹介文も送ってもらったが、筆者は中国語を解せないので内容は不明である。ただし後者の本には、実際の査証が写真で紹介されている。

両開きの査証の右ページに、王潜夫という文字が見え、手書きの1940年7月19日の日付も見える。そして査証の下にスタンプで“7.9.26”の数字、“7.9.29”の数字が読める。ビザの所有者はその後満州国に入ったのが康徳7年(満州国の年号で1940年を指す)9月26日で、出国が9月29日であったのであろう。

筆者が驚いたのは、その左ページにある査証である。
「通過査証 昭和15年7月2X日 在維納大日本帝国総領事 山路章」と日本語で書かれている。つまり1940年7月2X日(数字が一つ抜けている) ウィーン総領事 山路章」という査証も記載されているのである。

ウィーン総領事館 山路公使(前列左端)と家族および館員

山路公使について筆者は先に述べた山路綾子さん(のちのソ連大使夫人)の父親である。筆者は

「綾子さんが学校からの帰り、総領事館の前に多くの人が行列をなしていたのを目にする時期があった。」とすでに書いた。詳細は不明のままであったが、彼女の証言を裏付ける資料であることは間違いない。ウィーンの総領事館にも日本の通過ビザを求めて、ユダヤ人が押しかけたのであった。

<欧州最初の請訓電>

当時の史料を保存する外務省外交史料館には、ユダヤ人関係の記録が良く残されている。またこれらを調べ上げ、「日本のユダヤ人政策(阪東宏)」という本が出版されている。

それらによると1938年(昭和13年)9月30日、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送った。山路公使一家が日本郵船の諏訪丸で任地ウィーンに向かったのは同年6月の事であったので、着任早々の報告であった

その内容は、
日独間にはビザの相互廃止の取り決めがあるのでビザは不要と拒否しているが、他国を通過する時に必要だからといって、「泣訴」されている事、この数日は毎日平均50人以上が来館するので発給を中止しているなどの現状を報告し、次の項目について質問している。

1 従来通り、日独間のビザ不要の文書を出しても良いか?
2 (ビザ発給するには)何らかの提示金が必要か?
3 無国籍ユダヤ人を一般の無国籍人と同等に扱っても良いか?
4 ユダヤ人の日本入国についてどのように扱ったらよいか?

ユダヤ人の日本への渡航希望者が増えていることを最初に欧州から本国に警告したのが、山路公使であった。それに対する返事がなく、山路はその後も2度にわたり指示を要請する。

同年10月7日、ようやく近衛外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。次の2点を指示された。

「無国籍避難民に対しては渡航証明書を発給しない、ただし日本を通過するだけの者に対しでは先行国への入国手続きの完了と、250円以上の提示金を持つ者に限り、通過渡航証明書を発給しても良い。

ドイツ国籍のユダヤ人に対しては、これ以後本邦入国の願い出があっても、査証を与えざるはもちろん、その他の証明書は出さず、「本邦渡航を断念させるよう説得」されたい。」
ドイツ国籍以外としたのは、友好国ドイツに対する配慮からであろう。

<山路公使の発給したビザの意味>

山路公使の発給したビザは杉原千畝同様「命のビザ」と言えるのであろうか?専門家でないので深く立ち入れないが、杉原とは異なり、本国の指令に基づいた、「合法的ビザ」であることは間違いない。

1940年1月から1941年3月の間に発給した日本通過ビザの数は、領事館別に以下の通りとなっている。これらはほとんどユダヤ人であろう。

ウィーン総領事館 786通
ハンブルク   1414
ベルリン      691
プラハ       71
ストックホルム  334
モスクワ     152

この領事館別発給数を見た場合、ベルリンよりハンブルクの方が多く、山路公使のウィーンはそれに次ぐ。ベルリンはナチスのおひざ元であり、特に発給に厳しかったのであろう。

ちなみに杉原領事代理は1940年実質8月の一か月で本国の指令に反し2139通のビザを発給、家族を入れると5000人くらいが、そのビザで避難できたと言われている。ウィーンからも山路公使の786通のビザで、少なくとも1500人位のユダヤ人家族が避難することが出来たと言えよう。

またこの頃、別にベルリンの満州国公使館でも、王潜夫が言っているように1000通以上のビザが発給されたのであろうか?当時は欧州から日本に行く場合、シベリア鉄道をチタで乗り換え、満州国の国境近くの町オトポールから、まず満州国に入るのが普通であった。よって日本国と満州国の通過ビザ両方が必要であったのかもしれない。つまり日本の通過ビザを持つ人に対し、半ば自動的に満州国の通過ビザは発給されたのかもしれない。

まだまだ想像の域を出ない事が多い、山路公使の発行した通過査証である。


本編:山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧


「野上弥生子全集 第二部 第6巻」の欧州旅行の日記には、ベルリンのユダヤ人が迫害されている様子が記されている。そして1939年8月2日には
「(ドイツ)日本大使館員の官僚主義 通信受け場所に(緊急の)電報まで投げ込んである。
領事館でビザ取りのユダヤ人、別の入り口に列をなしたり」とドイツ開戦間際に、ビザを求めるユダが人が、ベルリンの日本大使館にも押し寄せたことを記している。

(追記 2015年7月19日)

筆者の横浜市歴史博物館での「杉原千畝と命のビザ展」訪問記はこちら



4.浅井一彦 マッカーサーへの手紙>

満州重工業のベルリン駐在員であった浅井一彦は、当時の関係者の回想録にたびたび登場してくる。筆者は「戦時下の欧州邦人、気になる人 第二回」として取り上げた。その浅井は戦後間もない、1947年9月18日、連合国最高司令官マッカーサー元帥に直訴状を書いた。それが「マーカーサーへの手紙」という本に収録されている。これを教えてくれたのも木村 洋(数学史家)さんである。

この本から浅井一彦について、さらに詳しい経歴を知ることが出来る。
浅井は1932年、東京帝国大学在学中に外交官試験に合格するが、手違いで官報に掲載されず、採用されなかったという。今では信じられない話である。仕方なく大倉商事に入社して、ベルリン駐在員になった。そしてその時の秘書エリカと結婚する。筆者が調べたところ、1937年のドイツ人名録には大倉商事の項目に浅井の名前がある。

しかし商社の仕事は性格的に向かず、強度の神経衰弱になる。一方石炭の魅力にとらわれ、退職し、ベルリンの工科大学に入学する。
また何度か紹介したアパートの消火作業で大腿骨骨折のエピソードも詳しく書かれている。そしてそれがもとで勲章を贈られた事は知られているが、具体的には剣付鷲十字章であったことが分かる。

そして新しく分かったことは、浅井は家族を残して日本に戻された事であった。

妻子をワイマール近くの寒村に疎開させていた浅井は、本人も日本に帰国する意思はなかったようだ。(市内の)地下室に避難中、踏み込んだソ連軍に捕らえられ、スパイ容疑で軍事裁判にかけられた。しかし、なぜか判決のないままに、ドレスデン監獄に収容され、やがて座った姿で木箱に入れられて飛行機に乗せられた。スパイ容疑ゆえ、家族がいるにもかかわらず一人モスクワに送られたのであろう。

着いたところはモスクワの国家政治保安部だった。「そこであなたを抑留したのは間違いだった。お許しください。」と謝罪の言葉を聞いた。この辺り、話に少し誇張があるかもしれない。

所持していた外交旅券がものを言ったとのことである。調べると浅井は満州国ハンブルク領事館の発給した満州国の外交旅券を所持していた。外交史料館に残る資料によれば浅井のモスクワ到着は5月28日、モスクワまでの特別仕立て航空機料金としてソ連側より高額17010ルーブルの請求がされている。特別に飛行機でモスクワに運ばれた事を裏付けている。

佐藤尚武駐ソ大使に引き渡された浅井は、妻子を探しにドイツに戻ろうとしたが、佐藤大使に説得されてシベリア経由で日本に戻った。
また一つベルリン残留邦人の数奇なエピソードが判明した。そして残した妻子に会う為の出国許可を得るべく、マッカーサー元帥に直訴状を書いたのであった。

本編:浅井一彦

以上 (2015年3月14日) 



<5. ブリュッケンブルク>

戦時下欧州の日本人学校」において、戦時下、主に日本人の避難所における子供の教育について述べた。終戦間際のブリュッケンブルクの状況が判明した。

ドイツ留学生であった関根正雄(旧約聖書研究者)の死後、2010年に出版された「関根正雄滞独雜記 : 1939〜1945 」によると、引き受けたのは彼であったことが分かる。ベルリンの日本人が敗戦間際で浮足立つ中、ブリュッケンブルクに家族と滞在する元パリ大使館の前田陽一が心配し、教師として雇ってくれた。赴いたのは1944年12月初めの事であった。

関根は書いている。
ブリュッケンブルクは夏は避暑地として冬はスキー場として有名な所で、当時日本人の諸家族が一つのホテルを借り切って疎開し、ドイツの外務省の一部もその地へ疎開していたのである。」 
ベルリンからヒルシュベルクという所まで汽車に乗り、そこからはそりに乗って1日がかりで着いた。そしてこの時期の先生の職は関根に平和な日々を与えた。

その地の生活は私にとってこの上ない休養の時であった。空襲は全くなく、雪に埋もれた美しい自然に囲まれ
、一人で暮らしていた時とは格段に相違した食生活で、私には少し贅沢過ぎる生活であった。一日午前午後合わせて4時間ほど多くの学科を教えた。
小学校1年生から中学校4年生までの子供たちで、国語、算術、地理、歴史、英語、漢文、第数、幾何等、何でも求められるままに教えた。(中略)
フランスにいた子供たちばかりなので、日本語と同じようにフランス語が用いられていた。日本人と結婚したフランス人などもいて私はその人々に日本語を教え、同時にフランス語の勉強をしたものである。

湯浅が固辞した避難所の教師は、関根にとってはまんざらではなかったようだ。


(2015年4月19日)



<大食漢 末松>

末松茂久少佐の戦時日欧通信記」への追加情報

同期の広瀬栄一駐フィンランド陸軍武官は戦後、ある講演で末松についてふれている。
広瀬がベルリンを訪問する、と西郷中佐などより「フィンランドから欠食児童が来たか」と言われご馳走してもらった。ベルリンも食べ物はあまり豊富ではなかったが、ベルリン在勤者は配給切符を多くもらっていたので、広瀬一人くらいにご馳走するのは問題なかった。そして末松が登場する。

「私の同期に末松というのが技術関係でやはり行っていましたが、末松は”グールマン”と言われまして、たくさん食うものですから、広瀬は欠食児童でしょうがないけど、お前(末松の事ー筆者)はダメだと言われてました。同期生ですから一緒によんでもらいたいんですが、末松と一緒はダメだという訳で、私は方々で欠食児童という事でご馳走になった。」

写真から見る末松はふっくらした体型であるが、食べる量も多かったようだ。仲間の間で”グールマン”と呼ばれていたとある。これはおそらくドイツ語の"Gourmand"(大食漢)から来ていよう。おそらく戦時下にはあまり歓迎されない嗜好であった。

(2015年4月19日)



 
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