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日本 靖国丸、最初の欧州引き揚げ船の全記録(第一部)   瑞西

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靖国丸、欧州引き揚げ船の全記録(第一部)
―加藤綾子さんと眞一郎さんの証言を交えて


書籍化されました。こちらからお求められます。


<序>

1939年10月19日付け朝日新聞には次の見出しが出ている。
「故国の姿に安堵。靖国丸横浜へ帰る」。続いて
「去る9月4日ベルゲン港を後にグリーンランドから霧の大西洋もパナマもつつがなく、避難者を無事送り届け、天晴れ使命を果たしたのである。」とこの航海のあらましが紹介されている。

日本郵船靖国丸のこの航海は、欧州で第二次世界大戦が勃発したため、急きょ邦人を日本に帰国させるためのものであった。そしてこの引き揚げに関しては、筆者も自身のホームページの中で何度か触れてきたし、幾人かの体験者が自分の書物で触れている。

しかしこの歴史的ともいえる引き揚げ航海に関し、本格的に取り上げた報告類は今日までないようである。そこで筆者は今回同船の船客であった加藤綾子さん、眞一郎さん御両名の協力を得て、この引き揚げ船の航海を詳細に再現し、その歴史的意義を明らかにするものである。

そのためには出来るだけ多くの証言を取り上げる。一部証言の内容が重複しているものもあるが、この航海を細大漏らさず記録にとどめようとする目的からであるということを最初にお断りしておく。また乗船客数など、報道によって若干の違いがあるが、基本的にはそれらもそのまま載せた。

2013年9月22日 加藤綾子さん(右)、眞一郎さん(左)

<靖国丸ハンブルクで待機>

日本郵船の靖国丸は去る1939年6月25日に横浜を出港した。「第24次往航」、通常の航海であった。欧州に向かうこの便にはベルギーのソルヴェイ会議に出席する湯川秀樹博士(のちのノーベル物理学賞受賞者)、ベルリンで開催予定の国際結核予防会議の日本代表遠城寺宗徳博士らが乗船していた。

シンガポール、コロンボと予定通りの欧州航路を取って同船は8月2日ナポリに到着した。ドイツ方面に向かう多くの船客を下し、その後最終目的地ロンドンに向かった。すべての乗客を降ろした後、通常通りさらに積荷を下すためハンブルクに向かった。到着は8月20日であった。

日本郵船ベルリン支店長有吉義彌は、欧州の大元締めロンドン支店から再三の回船催促を受けたにもかかわらず、大島浩駐独大使の命令で、同船をそのままハンブルク港に引き止めた。有吉の回想によれば、状況は次のようであった。

前年1938年のミュンヘン会談の結果、英仏国民にも和平への期待が高まってきたころも、大島大使は必ずや開戦だという見通しを立てていた。それで大使は前々から有吉支店長に「婦女子の引き揚げの準備をやっておけ」と気合いをかけていた。そこに靖国丸が日本からハンブルクにやって来た。大使は「この船を抑えて引き揚げに使え」と言った。

有吉が「まだ戦争は始まっていませんが」と抗議すると大島大使は「始まるに決まっとる」と自信満々であった。そして
「そんなに心配なら、とりあえずデンマークかノルウェーのどこかの港までやって、そこで待たせろ。ミュンヘンの時のように平和に落ち着いたらハンブルクに帰せ。みんなでクルーズに行ったらいいじゃないか」とのんきなものだった。しかし
「その代わりに開戦になったらすぐ日本に向けろ。決してイギリスのそばに寄っちゃいかんぞ。必ずドイツの潜水艦にやられる。なるべく遠くを迂回して大西洋を南下せよ。」と付け加えた。

日本の同盟国ドイツの潜水艦が一番危ないというのは、皮肉であった。レーダーのない時代、潜水艦が海面下から敵か味方の船を識別するには潜望鏡に頼るしかなかったので、誤認も多かった。

<ベルリンからの引き揚げ>

1939年4月15日にはベルリン日本人学校が創立3周年を迎えた。26名の小中学生がその記念写真に納まった。冒頭に紹介した加藤家は大倉商事ベルリン支店長加藤鉦次郎さん、妻節子さん、長女綾子さん、次女洋子さん、長男眞一郎さんの5人家族であったが、加藤家の3人の子供もその記念写真に写っている。

日本人学校の記念写真 最後列左から3番目が眞一郎さん、後ろから二列目右から二人目が綾子さん、同左端が洋子さん。

当時ベルリンの在留邦人は約500名であった。そして加藤家のような商社関係者が在留邦人の多くを占めていた。そのため民間人で組織されたベルリン日本人会においても、会長は三菱商事支店長の渡辺壽郎で、理事長が加藤家の父親であった。これにドイツ三井物産の綾井豊久支店長を加えた3名が民間日本人のリーダー的存在で、日本人会の要職は毎年彼らの持ち回りであったようだ。

付随する婦人会も彼らの各夫人である渡辺徳子さん、加藤節子さん、そして綾井章子さんが中心であった。三名それぞれ個性の強い方であったようだが、節子さんはその筆頭とも言え、写真を撮っても中央に収まることが多かった。彼女らはそろって今回の引き揚げに加わり、本編でもたびたび登場する。

ベルリン日本人学校前にて。中央が加藤節子さん。右端が渡辺徳子さん。左端が綾井章子さん。右から二人目は小島海軍武官夫人。


























「祖国めざして」の自作の表紙(右からの横書き)。色が付き本格的な絵である。























靖国丸上の加藤綾子さん

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<のちのノーベル賞受賞者の乗船>















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<ハンブルク出航>

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ハンブルクを出港する時は、幾らか変わったことでもあろうかと半ば好奇心で緊張しつつ港を後にしたが、平






















時と少しも変わらぬ水路を見て、むしろ拍子抜けの形であった。」

この日の出港は欧州の総責任者ともいえる大島大使の命令であった。同日付けでハンブルク領事館の
次は綾子さんの証言である。
昭和8年諏訪丸で、妹とふたりドイツに行きました。その時の部屋係のボーイさんに、靖国丸で再会しました。懐かしい人でした。ずいぶん大きくなったねと言われました。彼も当時の客船には、各客室に担当の掃除係の女性と、ボーイがいました。


靖国丸船上の眞一郎さんとボーイさん。しかし綾子さんが諏訪丸以来に再会したボーイさんではないとのこと

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<ベルゲンへ>



















ベルゲン港にて停泊中の靖国丸。綾子さんが陸上選手からもらった写真。丘の上から陸上選手団が靖国丸を見つけた瞬間の写真であろう(後述)。船腹の日の丸が見当たらない。この後に塗られたのであろう。ベルゲンの靖国丸の写真は貴重である。


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<外交官の活躍>


















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<木村庄平船長>

















日本郵船本社よりは27日「責任重大なり。ご奮闘を乞う」との激励電報が送られた。

 
木村船長を囲んだ女学生 白い夏の服装からして、パナマ運河を渡るあたりか。
左より川村皆子(ハンブルク総領事長女)、加藤洋子、神田愛子、二人飛んで川村綾子、綾井瑛子、加藤綾子


<女子誕生>

9月15日、栗山スエーデン公使が阿部信行外務大臣に宛てた、「靖国丸提出の報告書類」には木村船長による次の記述がある。
「避難民187名を搭載し、ハンブルク日本帝国総領事の命により26日午後9時30分同港を出港し、28日午前9時ベルゲン港到着。(略)9月1日ベルゲンにて避難客渡辺徳子、女子1名を分娩 。父はドイツ三菱商事支配人の渡辺壽郎。」

すでに述べたようにハンブルク行の列車に乗り遅れた渡辺家は、多産家族であった。靖国丸にはすでに4人の女児が乗船していたので、5人目である。さらに日本に残る男の子が一人、またベルリンで男児一人を失っていた。

靖国丸で生まれた子には「靖子」と言う名がつけられた。そして10月18日未明、靖国丸は横浜港に戻るが、翌日の朝日新聞には、
「靖子ちゃん元気」の見出しで「かわいい靖子さんはオギャアオギャアと元気な声を出して、ミルクを飲んでいる」と母子の写真入りで全国に紹介された。

渡邊靖子さんの誕生に際しては綾子さんの母親、節子さんが大活躍した。
「9月1日の夜中の3時頃、渡辺家の長女洋子さんが“母親が産気づいた”と連絡してきた。渡辺家は一等の通路を挟んだ加藤家の向かいの船室であった。節子さんは急いで下の2等に医者を呼びに行った。(乗船リストには医者“又吉全興”と言う名前がある)起こされた医者は寝ぼけまなこながらも、ちゃんと白い上っ張りを着て来た。」と綾子さんは覚えている。

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<ベルゲン出航>

9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、同月3日に英仏がポーランドとの条約に基づきドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。靖国丸にとっては最悪の事態となった。

湯川は書いている。「9月3日の午前11時に、(英国の)チェンバレン首相が放送をするというので、船内の喫煙室のラジオのそばに大勢集まって固唾を飲んで聴いていると、いよいよ(ドイツに)宣戦するという。」

一等喫煙室 洋子さん(正面)、綾子さん(右)もここで英国の参戦のラジオ放送を聞いた?
この写真のイメージを現存する氷川丸に求めました。こちら参照ください。

9月3日、英仏参戦の知らせを受けストックホルムの栗山公使は、かねてからの大島大使の指示に従い、靖国丸木村船長に速やかに出航するよう命令を発した。港にはノルエー人がたくさん来て見送ってくれた。大勢の日本人は彼らには珍しかった。
出航に先立ち船腹に大きく描かれた日の丸をバックに記念写真が撮られた。写真には以下の文章が焼きこまれている。今日まで変色しない写真は靖国丸専属のカメラマンの撮影であろう。


文章は「昭和14年秋、欧州の風雲急を告げ、滞独同胞、8月26日ハンブルク港より靖国丸に搭乗、難を避ける。ベルゲン港に待機数日、(ドイツの)宣戦布告となり9月4日正午、故国に向かう。ここに記念撮影をする。」日の丸も描かれて出航直前と思われる。

同日大島大使は新任の阿部外務大臣に宛て、
「当ベルリン大使館勤務の宇佐美、神田、法華津、古内、法眼、福田、青山、ハンブルク 川村、今井、山川、プラハ総領事館 佐藤各家族および従者は靖国丸に乗船せり。」と乗船した外交官家族名を連絡した。

そして9月4日栗山公使は次のように東京に送った。
「靖国丸4日正午、ニューヨークに向け出航すべき旨、同船長より通報ありたり。」

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<乗船客>

靖国丸の乗船名簿が残っている。別に部屋割りの名簿もあるようだが、筆者が目にすることが出来たのはいわゆる乗船名簿である。日本郵船博物館が所蔵しているが、「乗客の住所が載っているので、(今ではどれだけの人がそこに住んでいるかはわからないが)残念ながらお見せできない。」と返事をいただき、代わりにリストの内容を要約して個人情報にならない形でいただいた。そしてその後、綾子さんが同じリストを持っていることが判明し、閲覧させていただいた。

それによると第24次復航の船客は合計214名である。
最終港(横浜)まで  173名(ほとんどが婦女子)
陸上競技選手一行 11名(先述のウィーンの大会に参加した選手)
ニューヨーク下船者 35名 (夫婦または男性単身)

ハンブルク出航時が187名とすると、ベルゲンでの乗船者は27名である。しかしこれは完ぺきではないようだ。リストにない植村盆蔵氏が帰国時に新聞に船の様子を語っているが、その名前はない。軍人とか特殊任務の人物は秘された可能性がある。そして帰国時、朝日新聞は220名と報じている。

214名の中には外国籍の人物(満州国)が25名いた。日本が打ち立てた満州国公使館の婦女子であった。また日本人名の満州国公使館勤務者は日本人に含んだ。さらにカタカナで書かれた西洋名の夫人が2名乗船したが、先の情報によれば日本国籍所有者である。


乗船名簿表紙 上部に日本郵船のロゴが入っている。この名簿コピーは渡辺家よりもらったとのことである。靖子、国子、丸子と書かれているが、靖国丸で生まれた女児にどう名前を付けようか考えた跡と思われる。


左はベルゲンからの陸上競技の選手であろう。奥のベンチにも子供と語る姿の陸上選手が見える。綾子さんの持つ船内の写真のほとんどは、選手の内の誰かが撮ってくれたのであるという。

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<ニューヨークへ>






















とが出来てよかった。”とお話がありまし

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再度湯川博士の回想である。
「ちょうど(英国の客船)アセニア号がドイツの潜水艦に沈められた矢先ではあり、ロンドンが空襲されたなど











様々なデマも飛ぶので、皆大分心配した。ベルゲン市民に行先を知らしてはならぬという掲示が出る。船


以上(2部に続く)

 
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