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日本 靖国丸、最初の欧州引き揚げ船の全記録(第一部)   瑞西

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靖国丸、欧州引き揚げ船の全記録(第一部)
―加藤綾子さんと眞一郎さんの証言を交えて

<序>

1939年10月19日付け朝日新聞には次の見出しが出ている。
「故国の姿に安堵。靖国丸横浜へ帰る」。続いて
「去る9月4日ベルゲン港を後にグリーンランドから霧の大西洋もパナマもつつがなく、避難者を無事送り届け、天晴れ使命を果たしたのである。」とこの航海のあらましが紹介されている。

日本郵船靖国丸のこの航海は、欧州で第二次世界大戦が勃発したため、急きょ邦人を日本に帰国させるためのものであった。そしてこの引き揚げに関しては、筆者も自身のホームページの中で何度か触れてきたし、幾人かの体験者が自分の書物で触れている。

しかしこの歴史的ともいえる引き揚げ航海に関し、本格的に取り上げた報告類は今日までないようである。そこで筆者は今回同船の船客であった加藤綾子さん、眞一郎さん御両名の協力を得て、この引き揚げ船の航海詳細にを再現し、その歴史的意義を明らかにするものである。

そのためには出来るだけ多くの証言を取り上げる。一部証言の内容が重複しているものもあるが、この航海を細大漏らさず記録にとどめようとする目的からであるということを最初にお断りしておく。また乗船客数など、報道によって若干の違いがあるが、基本的にはそれらもそのまま載せた。

2013年9月22日 加藤綾子さん(右)、眞一郎さん(左)

<靖国丸ハンブルクで待機>

日本郵船の靖国丸は去る1939年6月25日に横浜を出港した。「第24次往航」、通常の航海であった。欧州に向かうこの便にはベルギーのソルヴェイ会議に出席する湯川秀樹博士(のちのノーベル物理学賞受賞者)、ベルリンで開催予定の国際結核予防会議の日本代表遠城寺宗徳博士らが乗船していた。

シンガポール、コロンボと予定通りの欧州航路を取って同船は8月2日ナポリに到着した。ドイツ方面に向かう多くの船客を下し、その後最終目的地ロンドンに向かった。すべての乗客を降ろした後、通常通りさらに積荷を下すためハンブルクに向かった。到着は8月20日であった。

日本郵船ベルリン支店長有吉義彌は、欧州の大元締めロンドン支店から再三の回船催促を受けたにもかかわらず、大島浩駐独大使の命令で、同船をそのままハンブルク港に引き止めた。有吉の回想によれば、状況は次のようであった。

前年1938年のミュンヘン会談の結果、英仏国民にも和平への期待が高まってきたころも、大島大使は必ずや開戦だという見通しを立てていた。それで大使は前々から有吉支店長に「婦女子の引き揚げの準備をやっておけ」と気合いをかけていた。そこに靖国丸が日本かハンブルクにやって来た。大使は「この船を抑えて引き揚げに使え」と言った。

有吉が「まだ戦争は始まっていませんが」と抗議すると大島大使は「始まるに決まっとる」と自信満々であった。そして
「そんなに心配なら、とりあえずデンマークかノルウェーのどこかの港までやって、そこで待たせろ。ミュンヘンの時のように平和に落ち着いたらハンブルクに帰せ。みんなでクルーズに行ったらいいじゃないか」とのんきなものだった。しかし
「その代わりに開戦になったらすぐ日本に向けろ。決してイギリスのそばに寄っちゃいかんぞ。必ずドイツの潜水艦にやられる。なるべく遠くを迂回して大西洋を南下せよ。」と付け加えた。

日本の同盟国ドイツの潜水艦が一番危ないというのは、皮肉であった。レーダーのない時代、潜水艦が海面下から敵か味方の船を識別するには潜望鏡に頼るしかなかったので、誤認も多かった。

<ベルリンからの引き揚げ>

1939年4月15日にはベルリン日本人学校が創立3周年を迎えた。26名の小中学生がその記念写真に納まった。冒頭に紹介した加藤家は大倉商事ベルリン支店長加藤鉦次郎さん、妻節子さん、長女綾子さん、次女洋子さん、長男眞一郎さんの5人家族であったが、加藤家の3人の子供もその記念写真に写っている。

日本人学校の記念写真 最後列左から3番目が眞一郎さん、後ろから二列目右から二人目が綾子さん、同左端が洋子さん。

当時ベルリンの在留邦人は約500名であった。そして加藤家のような商社関係者が駐在員の多くを占めていた。そのため民間人で組織されたベルリン日本人会においても、会長は三菱商事支店長の渡辺壽郎で、理事長が加藤家の父親であった。これにドイツ三井物産の綾井豊久支店長を加えた3名が民間日本人のリーダー的存在で、日本人会の要職は毎年彼らの持ち回りであったようだ。

付随する婦人会も彼らの各夫人である渡辺徳子さん、加藤節子さん、そして綾井章子さんが中心であった。三名それぞれ個性の強い方であったようだが、節子さんはその筆頭とも言え、写真を撮っても中央に収まることが多かった。彼女らはそろって今回の引き揚げに加わり、本編でもたびたび登場する。

ベルリン日本人学校前にて。中央が加藤節子さん。右端が渡辺徳子さん。左端が綾井章子さん。右から二人目は小島海軍武官夫人。

1933年以来5人そろってドイツに暮らす加藤さん一家はほぼ毎年、夏休みには北海の海岸に海水浴の休暇に出かけた。北海特有の防風のキャビンに収まったものであった。毎年の休暇の写真が残っているが、1939年のものはない。この年は戦争の予感もあり、自粛したと思われる。

1939年8月23日にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結されると、ベルリンでは「これで戦争だ」と誰もが覚悟をした。ソ連の後ろ盾を得たドイツがポーランドに侵攻すると考えられたからだ。日本では「欧州情勢は複雑怪奇なり」とのせりふを残して、この事態を予測できなかった平沼騏一郎内閣が総辞職する。

ベルリンの駐在員の家族は薄々と危険を感じていたようだ。三菱商事に勤務する山本道太郎夫人すみゑさんは、独ソ不可侵条約成立の2日前の8月21日付けで夫の実家に次のように書き送っている。

「もうドイツは戦争準備です。私たちは不自由しませんが、ドイツ人のご婦人たちは肉が買えないので困っています。もし帰国となれば何も持っては(船に)乗れませんので、お出迎えの節はその支度をお願いいたします。」

不可侵条約成立を受けて大島浩大使は「婦女子及び不要不急のものは、ハンブルク港に待機中の靖国丸で帰国せよ」と発令した。独ソ中立同盟成立翌日の8月24日のことで、ベルリン日本人会も一般の在留邦人に対して退去勧告を出す。

しかし大島大使の引き揚げ勧告の文書は見つかっていない上に、回想録等では発令の日時に若干のずれがある。もっぱら各家庭には電話で伝えられたので、口頭による勧告であったかもしれない。

加藤さん一家が知らせを聞いたのも引き揚げ2日前のことであった。それは綾子さんら子供にとっては寝耳に水のことであった。日本人学校では戦争に備えての注意などは、それまで全くなかった。綾子さんは語る。

「“荷造りをしないといけない”と、お母さんは即刻近所のデパート"KaDeWe"(カーデーベー)に行き、トランクを全部買い占めた。」

この辺の節子さんの行動力はさすがである。何十個という数のトランクが家に置かれたのを眞一郎さんは覚えている。しかしそれら全部を持っては帰れない。一部だけを持ってハンブルク行きの列車に乗ったのであった。残ったトランクのいくつかはお父さんが、後日送ってくれた。この時、他の日本人も同じようにトランクを大量に購入したので、ベルリン中の店からトランクが消えてしまったという。

そして眞一郎さんは帰国後2年ほど経った小学校六年生の時に「祖国めざして」の題名で、帰国までの経過を記録している。これは貴重な資料としてこの後も何度か引用する。そこにあるベルリン出発光景は次のとおりである。

「アンハルター駅でハンブルク行の汽車に乗った。ふとガード下を見ると二階付きバスが通っている。このバスともお別れかと思うと、悲しくなってしまった。道行く人、電車、建物など一つ一つが懐かしい。」

「祖国めざして」の自作の表紙(右からの横書き)。色が付き本格的な絵である。

加藤家など子供を持つ家族の多くは、26日午前10時6分発のハンブルク行きの急行列車に乗った。出航に間に合う最後の便である。同区間は280キロの距離である。綾子さんは一つのエピソードを紹介する。

「三菱商事の渡辺家では母親徳子さんが臨月で、しかも4人の子供を抱えていたため、最後のハンブルク行の列車に乗り遅れてしまった。仕方なく会社の車で後から追いかけることになった。

加藤家を含めた引き揚げ家族は靖国丸に乗り込み、甲板に出て、岸壁の残る父親達と別れを惜しんでいた。しかし渡辺家を乗せた車は、皆心配して待ったが、なかなか来ない。ようやく見慣れた大きな車が見えた時はほっとして”渡辺さん、万歳!”と叫び声が上がった。」


同盟通信の江尻進は妻治子さん同伴で一ヶ月もかけてインド洋を渡って着任してきたばかりであったが、大使館の命令ですぐさま治子さんのみ帰国組に加わった。そのためもあり、治子さんは港では大泣きであった。治子さんにはほとんど世界一周の旅となるが、こうした乗客は他にもいた。

靖国丸上の加藤綾子さん

この時のベルリン市内の様子を、引き揚げ者の一人で、靖国丸の往路便に乗って出張に来たばかりの湯川秀樹博士(のちにノーベル賞を日本人初の受賞)が「旅行記」の中で回想している。

「22日の朝の新聞に独ソ協定が結ばれたことが出た。(21日夜にラジオ放送で締結されることが発表され、正式な締結は23日―筆者) その後数日は別に変ったとこもなく、ポーランド方面の騒ぎも大したことはなさそうなので、予定通りスイスに行くつもりでいたところ、25日の朝早くベルリン日本人会から電話があり、形勢がひっ迫してきたから一応ハンブルクに立ち退き、そこに待機している靖国丸に乗るようにとのこと。寝耳に水で様子がよく分からぬので、大使館へ行ってみると、やはり特別の任務のある人以外は引き揚げた方が良いとのことであった。(中略)

とも角いったん立ち退くほかはないと決心し、大急ぎで荷物をまとめ、その夕方出発することになった。私共日本人ばかり泊まっている宿の主婦や女中は、皆が急に出て行ってしまうのでどうなることかと心配するばかり。(中略)
街はところどころに出征兵士を見かけはするものの、至極平静である。(中略)」

<ハンブルク出航>

湯川博士が眼にしたハンブルク港は戦時下のようであった。敵機の侵入を防ぐ阻塞(そさい)気球が空いっぱいに上がり、夜は灯火管制で真っ暗であった。そして26日の午後9時半に靖国丸は岸壁を離れる。北ドイツの夏は昼が長く、ようやく日が暮れかかるころであった。眞一郎さんは暗がりの中で、お父さんの振るハンカチが白くチラチラと揺れているのを船から確認できた。

「皆甲板に立って別れを惜しんでいる。僕はもう、お父様にしばらく会えないのかと思って泣いてしまった。やがてけたたましくドラがなる。汽笛が大きな音を発する。ロープが外される。いよいよ出航だ。」

ハンブルク出航風景。夕暮れ時、港に残る父親に別れを告げる。写真は「日本郵船歴史博物館所蔵」

靖国丸の木村庄平船長はハンブルクでの邦人収容の様子を日本郵船の本社に打電している。(日本時間29日午前6時、着電)

「ハンブルクに停泊中は欧州の風雲が急迫しているのに比して、案外市内の空気は静かであった。目立って戦争気分というものは見えず、ドイツ人は概して落ち着いているように見えた。
当地日本人の話では戦争となれば極端な激戦になる見込み。(中略)要は英国の動静によって危機が来るということだけで、何とも見通しはつかないらしい。

本船に収容した避難同胞は総数188名だが、主として夫人子供客である。乗り組みにも別に大した混雑はなく、半日で順序良く終わり、一同極めて元気である。ご安心を願いたい。何分にも避難のことなので、船内生活は不自由が多いが、皆忍んで行く覚悟を決めている。

ハンブルクを出港する時は、幾らか変わったことでもあろうかと半ば好奇心で緊張しつつ港を後にしたが、平時と少しも変わらぬ水路を見て、むしろ拍子抜けの形であった。」

この日の出港は欧州の総責任者ともいえる大島大使の命令であった。同日付けでハンブルク領事館の川村博総領事は有田外務大臣に打電した。
「(大島浩)在独大使と連絡の上25日、靖国丸船長に対し命令ある迄当港(ハンブルクのこと)碇泊を命じ、次いで本26日午後9時当港出帆。ノルエー国ベルゲン港に直行し、追って命令する迄同港に碇泊を命じた。 ベルリン、スエーデン、ロンドン、ウィーン、ブラハに転電せり。」

転電はそれらの地に留まる邦人に帰国のチャンスを最後まで与えるためであろう。ロンドンなどから何人かがベルゲンから乗船している。

そして靖国丸が出航すると川村総領事はもう一本、本国に宛てて打つ。(8月29日付け)
「8月26日午後9時半、ノルエーのベルゲンに向かい出航せり。乗船者、邦人および満州国人総計187名(男50、女76、子供61)。その他の国籍を有するものなし。」

日本郵船ベルリン支店長有吉によれば、船室の振り分けには郵船にとっての“得意先第一”の気持ちが働いていたので、三井、三菱、大倉と言った日ごろ取引の多い商社の家族の人たちを一番良い一等に入れ、自社である郵船の家族や留学生、普通の旅行者は船底に“押し込んだ”。

よってお父さんが大倉商事の支店長であった加藤さん一家は一等船室であった。一方では先に紹介した湯川博士や、もう一人の後のノーベル物理学賞受賞者、朝永振一郎博士は3等であった。

付け加えると誰もこの引き揚げ船の利用料金に触れていない。混乱の中で乗船券の事前の手配も出来なかったと思われる。航海の性格に鑑みて、ドイツの大使館が船を借り切ったのであろうか?

次は綾子さんの証言である。
昭和8年諏訪丸で、妹とふたりドイツに行きました。その時の部屋係のボーイさんに、靖国丸で再会しました。懐かしい人でした。ずいぶん大きくなったねと言われました。彼もおじさんになっていました。当時の客船には、各客室に担当の掃除係の女性と、ボーイがいました。

靖国丸船上の眞一郎さんとボーイさん。しかし綾子さんが諏訪丸以来に再会したボーイさんではないとのこと

<ベルゲンへ>

ベルゲン到着は8月28日午前10時であった。ここで待機となったが、靖国丸の帰国の経路はこの時点では定まっていなかった。開戦となればアメリカを経由であるが、そうでなければ通常のインド洋ルートで戻ることも検討されていた。

ベルゲンまでの航海で、靖国丸は波にもまれもう船酔いをする夫人が続出した。ベルリン大使館勤務の神田穣太郎の長女愛子さんは当時15歳であったが、元気であったので、代わって乳飲み子の面倒を見たという。よってここベルゲンでは船底に砂利を積み込み、船を安定させた。また日本の船であることを明示するために、船の両側に大きな日の丸が描かれた。
ここでも湯川博士の回想である。

「ベルゲンでは日本人は非常に珍しいと見えて、毎日船の碇泊しているところへ大勢の市民が入れ代わり立ち代わり見物に来る。
私共は形勢が気になるので、毎日街へ出ては新聞を買うのであるが、ノルウェー語のこととて、何が書いてあるかよく分からぬので、街の人を誰彼の差別なくつかまえて、英語かドイツ語に訳してもらうことにした。(中略)
この間にポーランドとドイツとの戦争が始まり出したが、乗客の多くはこの戦争も拡大せずに済み、再びドイツへ帰れるだろうという望みをまだ失っていなかったのであった。」

ベルゲンでは待機なので、邦人は自由に下船して街の散策などが出来た。下の写真のように阻塞気球が上っていないのは中立国であったからであろう。

ベルゲン港にて停泊中の靖国丸。綾子さんが陸上選手からもらった写真。丘の上から陸上選手団が靖国丸を見つけた瞬間の写真であろう(後述)。船腹の日の丸が見当たらない。この後に塗られたのであろう。ベルゲンの靖国丸の写真は貴重である。

九州帝国大学より会議出席のためベルリン出張中であった先述の遠城寺博士は次のように回想している。
「ベルゲンには、一週間くらい停舶したが、毎日散歩に上陸した。道々の話題はドイツに引き返すことへの幻想ばかりであった。湯川さんが“遠城寺さん、ここにしばらく残ってドイツに帰れる時期を、待とうではないか あなたは医師をやれば食えるでしょう。私は数学の先生でもやりますよ”など、たわいのないこともなかば本気であった。」
二人は政府の援助がなくなっても、ベルリンに戻ることを強く望んだようだ。彼らは往路も靖国丸で一緒だった。

眞一郎さんも書いている。
「翌日はベルゲンの町に上陸した。デパートに行ったりバスに乗って名勝を見物したりする。(中略)ノルウェー人の子供に自転車に乗せてもらう。言葉はドイツ語で通じるから訳はない。(中略)また甲板から網を投げて、たくさんのカニをすくい上げ、釜ゆでにして食べた。」

また街のレストランで初めて取り放題のバイキング料理を体験したと綾子さんは回想する。ベルゲンは子供たちにとって平和なひと時であった。

<外交官の活躍>

綾子さんらがベルゲンで待ち続ける中、外交官はいろいろ動いた。
8月28日、ロンドンの内山清総領事は「靖国丸にはまだ100名ほどの収容余力があるそうなので、英国邦人より乗船希望者が出ている。出来る限り同国西岸に寄港させてほしい」と有田外務大臣宛てに打つがその後、大島大使はイギリス近海に行くのは危険だと断った。靖国丸は一等121人、二等68人、3等60人の計249人が定員であった。

次いで内山総領事はイギリスが駄目なら、イギリスより独立を承認された独立国アイルランドの首都ダブリンに靖国丸を寄せ、そこでイギリスの邦人婦女子を乗せることを提案し、今度は大島大使も同意した。次の引き揚げ船がいつロンドンに来るかまだ分からなかったからである。

しかし駐ドイツ海軍武官遠藤喜一が「同船を危険地に入れることは絶対に反対」との意見で回航は見送られる。海軍軍人の目から見るとかなり危険な航海となるのであろう。

またベルゲンのあるノルウェーには日本の外交機関がなかった。担当はスエーデン公使館であった。28日、ストックホルムの栗山茂公使は「靖国丸に必需品の購入等の便宜供与を当地のノルウェー公使館を通じ、ノルウェー政府に申し入れた。」と協力を要請した。

川村総領事はさらに救命胴衣の心配もしている。
「靖国丸の目下の乗船者数はベルゲンにて乗船するものを加え203名。乗船者用救命具総数は278個。差引余分は75個。よって75名の追加腫収容は可能。しかも万やむを得ない場合は食料及び救命具の可能なことを条件にしてさらに6,70名の追加収容は可能である。」と定員以上の乗船にも備えた。

ハンブルクでは間に合わず、ベルゲンで乗船したものも多くいた。
同年8月24日〜27日、ウィーンで開催された第8回国際学生競技大会に参加していた日本人選手団12名は、独ソ中立条約締結の報を受け、大会2日目で引き揚げ、ハンブルク経由、ベルゲンに向かったのであった。また監督の大島鎌吉はベルリンオリンピックにも参加しているが、彼については後にまた述べる。

古河電気工業の山田雄吉がベルリンを発ったのは靖国丸がハンブルクを出た後の8月29日であった。当初はイタリアに出たいと考えたが、イタリアへの道はすでに閉ざされていた。種々研究の末、靖国丸に乗ることに決め、デンマークの対岸ワルネミュンデから連絡船でデンマーク、そこから鉄道でスエーデンに、さらにノルウェーのオスロを経由してベルゲンに何とかたどり着いた。

イギリスからはロンドン大使館商務官、本重志とその妻マージョリーが9月2日、イギリスのニューカッスルからノルウェー船でベルゲンに着く。9月1日の夜からロンドンは灯火管制で真っ暗になり、外出しようとしても徴用されたのか、タクシーが全くなかった。

このようにして靖国丸の乗客はドイツの邦人のみでなく、その交戦国イギリスの在留邦人、さらには出張者など多岐にわたった。

<木村庄平船長>

そうした状況を考慮してか、木村船長は船客に向け訓示を行った。
「我が国は不介入方針を決定しましたから、皆さんも見聞された欧州の事情につき、感情的な表現はお避け下さるように」
ドイツ在住邦人は必然的に親独、一方英国在住邦人は親英であったから、このようなことに起因する船内での軋轢の発生を恐れたのであろう。

木村船長(54歳)は日本郵船に30年勤務し、欧州航路は数十回の経験豊かな人物であった。伏見丸、サイパン丸の船長を経て、その年の春から靖国丸の船長となり、6月25日横浜を発った第24次航海で初めて、同船の船長として横浜を出帆した。
日本郵船本社よりは27日「責任重大なり。ご奮闘を乞う」との激励電報が送られた。
 
木村船長を囲んだ女学生 白い夏の服装からして、パナマ運河を渡るあたりか。
左より川村皆子(ハンブルク総領事)、加藤洋子、神田愛子、二人飛んで川村綾子、綾井瑛子、加藤綾子

<女子誕生>

9月15日、栗山スエーデン公使が阿部信行外務大臣に宛てた、「靖国丸提出の報告書類」には木村船長による次の記述がある。
「避難民187名を搭載し、ハンブルク日本帝国総領事の命により26日午後9時30分同港を出港し、28日午前9時ベルゲン港到着。(略)9月1日ベルゲンにて避難客渡辺徳子、女子1名を分娩 。父はドイツ三菱商事支配人の渡辺壽郎。」

すでに述べたようにハンブルク行の列車に乗り遅れた渡辺家は、多産家族であった。靖国丸にはすでに4人の女児が乗船していたので、5人目である。さらに日本に残る男の子が一人、またベルリンで男児一人を失っていた。

靖国丸で生まれた子には「靖子」と言う名がつけられた。そして10月18日未明、靖国丸は横浜港に戻るが、翌日の朝日新聞には、
「靖子ちゃん元気」の見出しで「かわいい靖子さんはオギャアオギャアと元気な声を出して、ミルクを飲んでいる」と母子の写真入りで全国に紹介された。

渡邊靖子さんの誕生に際しては綾子さんの母親、節子さんが大活躍した。
「9月1日の夜中の3時頃、渡辺家の長女洋子さんが“母親が産気づいた”と連絡してきた。渡辺家は一等の通路を挟んだ加藤家の向かいの船室であった。節子さんは急いで下の2等に医者を呼びに行った。(乗船リストには医者“又吉全興”と言う名前がある)起こされた医者は寝ぼけまなこながらも、ちゃんと白い上っ張りを着て来た。」と綾子さんは覚えている。

<ベルゲン出航>

9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、同月3日に英仏がポーランドとの条約に基づきドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。靖国丸にとっては最悪の事態となった。

湯川は書いている。「9月3日の午前11時に、(英国の)チェンバレン首相が放送をするというので、船内の喫煙室のラジオのそばに大勢集まって固唾を飲んで聴いていると、いよいよ(ドイツに)宣戦するという。」

一等喫煙室 洋子さん(正面)、綾子さん(右)もここで英国の参戦のラジオ放送を聞いた?

9月3日、英仏参戦の知らせを受けストックホルムの栗山公使は、かねてからの大島大使の指示に従い、靖国丸木村船長に速やかに出航するよう命令を発した。港にはノルエー人がたくさん来て見送ってくれた。大勢の日本人は彼らには珍しかった。
出航に先立ち船腹に大きく描かれた日の丸をバックに記念写真が撮られた。写真には以下の文章が焼きこまれている。今日まで変色しない写真は靖国丸専属のカメラマンの撮影であろう。

文章は「昭和14年秋、欧州の風雲急を告げ、滞独同胞、8月26日ハンブルク港より靖国丸に搭乗、難を避ける。ベルゲン港に待機数日、(ドイツの)宣戦布告となり9月4日正午、故国に向かう。ここに記念撮影をする。」日の丸も描かれて出航直前と思われる。

同日大島大使は新任の阿部外務大臣に宛て、
「当ベルリン大使館勤務の宇佐美、神田、法華津、古内、法眼、福田、青山、ハンブルク 川村、今井、山川、プラハ総領事館 佐藤各家族および従者は靖国丸に乗船せり。」と乗船した外交官家族名を連絡した。

そして9月4日栗山公使は次のように東京に送った。
「靖国丸4日正午、ニューヨークに向け出航すべき旨、同船長より通報ありたり。」

<乗船客>

靖国丸の乗船名簿が残っている。別に部屋割りの名簿もあるようだが、筆者が目にすることが出来たのはいわゆる乗船名簿である。日本郵船博物館が所蔵しているが、「乗客の住所が載っているので、(今ではどれだけの人がそこに住んでいるかはわからないが)残念ながらお見せできない。」と返事をいただき、代わりにリストの内容を要約して個人情報にならない形でいただいた。そしてその後、綾子さんが同じリストも持っていることが判明し、閲覧させていただいた。

それによると第24次復航の船客は合計214名である。
最終港(横浜)まで  173名(ほとんどが婦女子)
陸上競技選手一行 11名(先述のウィーンの大会に参加した選手。大島鎌吉監督は下のニューヨーク下船者に含まれるので、実際は12名)
ニューヨーク下船者 35名 (夫婦または男性単身)

ハンブルク出航時が187名とすると、ベルゲンでの乗船者は27名である。しかしこれは完ぺきではないようだ。リストにない植村盆蔵氏が帰国時に新聞に船の様子を語っているが、その名前はない。軍人とか特殊任務の人物は秘された可能性がある。そして帰国時、朝日新聞は220名と報じている。

また214名の中には外国籍の人物(満州国)が25名いた。日本が打ち立てた満州国公使館の婦女子であった。また日本人名の満州国公使館勤務者は日本人に含んだ。さらにカタカナで書かれた西洋名の夫人が2名乗船したが、先の情報によれば日本国籍所有者である。

乗船名簿表紙 上部に日本郵船のロゴが入っている。この名簿コピーは渡辺家よりもらったとのことである。靖子、国子、丸子と書かれているが、靖国丸で生まれた女児にどう名前を付けようか考えた跡と思われる。


左はベルゲンからの陸上競技の選手であろう。奥のベンチにも子供と語る姿の陸上選手が見える。綾子さんの持つ船内の写真のほとんどは、選手の内の誰かが撮ってくれたのであるという。

<ニューヨークへ>

次は綾子さんの回想である。

「ベルゲンを出てしばらくは、沢山の機雷の敷設された海でした。最初の数日間は、木村船長は乗客の前に姿を見せませんでした。それほど必死で仕事をしておられたのでしょう。

私たちは何も知らず、ただ寝るときには、全員救命具を附けるように言われておりました。多分、五日目だったと思いますが、船長さんが初めて顔を出され、”今までは、不眠不休で、機雷をジグザグに避けながらの航海であった。無事、危険海域を抜け出すことが出来てよかった。”とお話がありました。

私たちは、船長その他、機関室の機関士さんにも深く感謝しました。その後、照國丸が同じ海域で機雷に触れ、沈没したと聞いています。」


また先述の救世軍の植村盆蔵(乗船リストには名前が出ていない)は帰国後、新聞記者に聞かれて答えている。
「靖国丸は、夜は火を消してジグザグに航路を転じつつ航行、英国艦が40時間絶えず視野の裡に遊弋して、追求あるいは先導してくれました。」

英国の制海権の海をアメリカに渡るので、英米間の通商破壊を企てるドイツの潜水艦が、靖国丸の一番の脅威であったのであろう。

この警戒は大げさなものではなかった。綾子さんも覚えているように、靖国丸が日本に出港してから2か月後の1939年11月20日、水先案内人により厳重な警戒で、さらにいつもより多い見張り員を付けた同じく日本郵船の照国丸がロンドンに向けてテムズ川を上りはじめた直後、機雷に触れて沈没してしまう。機雷はイギリスとドイツ、どちらが仕掛けたものかは今も分からないままである。

再度湯川博士の回想である。
「ちょうど(英国の客船)アセニア号がドイツの潜水艦に沈められた矢先ではあり、ロンドンが空襲されたなど様々なデマも飛ぶので、皆大分心配した。ベルゲン市民に行先を知らしてはならぬという掲示が出る。船の横腹と甲板に日の丸を描く。夜は船首の日章旗を照明する。船の位置を知られるといけないから電報も打てない。と言うようなありさまで船長はじめ、乗組員の苦心は一通りではなかっただろうと思われる。

ノルウェーの海岸に沿って北の方に迂回し、アイスランドと英国の中間あたり、霧深い灰色の海上に、時折ボーボーとなる汽笛を聞きながら進んだ。この間、荷物を積んでいないので少しの波にも揺れる。」

ベルゲンでは船底に砂利を積み込んだが、それでも船は揺れたようだ。加藤家の船室ではベッドの下に入れたトランクが、揺れで反対側のベッドとの間を行き来した。

この揺れに苦しんだのは哲学者西田幾多郎の姪で、ベルリン日本人学校の教師を務めた高橋ふみであった。綾子さんは述べている。加藤さん一家は高橋先生と同じ食事のテーブルであった。

「毎日食事を先生と共にする生活が始まった。先生はナプキンを首のことろからかけられ、船が揺れ出すと“もう、いかん”と言って中腰で退場なさるのだが、必ずテーブルの真ん中にあるバナナを一本手に持って行かれるのを微笑ましい思いでみたものだ。」

貨物を積まないこともあったが、普段から大西洋、太平洋は欧州航路のインド洋より波が高かった。詩人深尾須磨子はアメリカ回りの帰国を見送り、理由を次のように書いている。
「(開戦直後、船は)ロンドンからアメリカ回りになっていて、勿論超満員、おまけに大西洋や太平洋の揺れを想うと、恥ずかしながら船には微塵自信のない私にはとてもとてもである。」

そんな中でもお母さんの節子さんは船酔いもせず、一日と欠かさずに食堂で食事を取り、船員さんからもびっくりされたという。

ベルゲン出航直後の9月6日、ニューヨーク総領事館の若杉要総領事は阿部外務大臣宛てに打電する。
「靖国丸避難客250名を収容、15日正午ニューヨークに到着の予定なる旨、在スエーデン栗山公使より来電のところ、ご来示の(アメリカ)大陸横断希望者数は、当地日本郵船と協議したるも予め決定いたしがたき事情もあり。
本船の(引き揚げという)使命にも鑑み、横断許可取付けは病人及びその家族のみに制限したい。その旨は当地郵船より船長宛てに打電する。

なお停泊中の一時上陸は、当地移民当局において考慮すべき旨回答来たところ。念のため船客全員の許可取付けを、お願いしたい。」
実際のニューヨーク着は9月14日であった。また250名の避難客と言うのも少し数が多い。いずれにせよ靖国丸乗客の管轄はスエーデン公使館からニューヨーク領事館に移った。


以上(2部に続く)

 
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