日瑞関係のページ
日本 靖国丸 欧州引き揚げ船の全記録(第二部)  日瑞関係トップ新たな考察アンケート 瑞西

靖国丸、欧州引き揚げ船の全記録(第二部)
―加藤綾子さんと眞一郎さんの証言を交えて―
 


ニューヨーク到着>

船は12日にアメリカ領海に入った。この時アメリカは欧州の戦争に対し、中立を保っていたので、靖国丸が誤って攻撃を受ける可能性はほぼなくなった。朝日新聞は避難客総勢219名、うち成人男子が77名、女性81名、子供が61名、さらに船内で生まれた渡辺靖子さんを加えると220名と伝えた。これが正しい人数であろう。子供は綾子さんのような女学生がおそらく7名(男子学生はゼロ)、眞一郎さんのような小学生が20名程度、残りは就学前の乳幼児であった。

若杉総領事の奔走もあってか、靖国丸の避難者に対しアメリカの国務省は好意的に対応した。着の身着のままの避難者の中はアメリカの入国査証は勿論のこと、パスポートすら所持しないものがいた。それに対し国務省は
「靖国丸乗船の日本人避難者に対してはあらゆる便宜を与えるように。また持ち物の検査は出来るだけ簡略にするように。ニューヨークで同船を離れて米大陸に滞在、もしくは旅行することを特に許す。」とニューヨーク税関に連絡した。

アメリカはこの時まだ日本人避難民に寛大であった。またパスポートも持たずに乗船した人がいたとは、今回の引き揚げがいかに急であったかを物語る。

14日午後3時、靖国丸はブルックリンの日本郵船埠頭第16に入港した。港にはニューヨーク在住の日本人婦女子数百名が、欧州からの仲間を迎えに出て、船内も波止場も大変なにぎわいとなった。

船にはほどなくして、特設の電話が設置された。今から70年以上も前に、このようなことが可能であったことは少し驚きであるが、ベルリン立ち退き以降、初めて日本に残る親族との会話が可能になった。

朝日新聞の伊藤ニューヨーク通信局長が船に乗り込み、この電話を使って本社に電話をしてきた。
伊藤「今私は船の中におるのですが、、、オヤオヤ、私が東京と話しているというので、私の周囲に沢山の引き揚げのお客さんが集まっています。どうですか、その方々から直接お話を伺うことにしましょう。では南博士がおられますから。南胃腸科病院の南大曹博士です。」と始まるが、「オヤオヤ」とか、少し寛いだ口調なのは喜びの表れであろうか。

続いてベルリン大使館参事官の宇佐美虔恵夫人が喋る。そしてその後はウィーンの陸上競技会に参加した前田嚴であった。
「私たち一行は26日の午後2時にウィーン引き揚げの指令を受けて、大急ぎでポーランドの国境を通って、ハンブルクに向かいましたが、靖国丸はあいにく出帆した後だったので、荷物は皆そこに置いたまま、三日三晩かかってベルゲンに行きました。本当に避難民の悲しさを味わったわけです。」
大きな荷物はハンブルクの領事館か郵船の支店に預け、ベルゲンに向かったのであろう。

マイクの前に立つ人は続いた。横浜正金銀行ハンブルク支店長の妻北村葉子さんが登場する。
「靖国丸は交戦国の船と間違えられないよう、船の両横に約10メートル四方の日章旗を大変鮮やかにペンキで塗ってあります。船の中では私たち女と子供が1等と2等を大体占領してしまって、男の方が3等に遠慮されて何もかも感謝で一杯なのです。」

ハンブルクで靖国丸に出向命令を出した、川村総領事の妻ヨウも避難組であった。マイクに向かって船内でのお産に触れ、
「ここにその方のお母さんがおられますから、さ、どうぞ」と三菱商事渡辺夫人に継ぐ。

「9月1日になったばかりの午前零時35分でしたの、、、、。名前ですか、ホホホ、、、靖子と付けましたの、靖国丸の靖(やす)ですわ、、、ホホホ。
船医様を始め、本当に皆様のお蔭で、少しの不自由もなく、今日初めて起きたところです。」と“ホホホ”が2度書かれている。渡辺夫人は相当上機嫌であったようだ。(綾子さんの記憶とお産の時間はずれているがそのまま表示−筆者)

井瑛子>

次は三井物産綾井豊久支店長の令嬢瑛子さんである。聞く本社側が彼女に興味を持った風でもある。
本社「怖くなかったですか?」
綾井嬢「別に、、、何しろ、お船の中には小さい子供さんが沢山いて、、、、この電話の所にも集まっていますが、、、ドイツ語や英語ではしゃぐ者もいて、嬉しい旅でしたわ。」
彼女は「嬉しい旅」と言い切った。

さらに本社は「あなたはおいくつなのですか?」と奇妙な質問をする。
綾井嬢「わたし、22ですわ。わたしあちらに3年ほどおりました。ベルリン大学でドイツ語を勉強していました。(ドイツ人の)お友達は最後まで戦争にならないと信じて、私がお別れをしても“大丈夫よ”とばかり言って、“今お別れしてもまたすぐに会うことになるわ”と言っていました。」

綾井瑛子さんはベルリンで音楽も勉強していた。よって毎朝、甲板で犬を抱いて発声練習をした。彼女の口紅がいつも真っ赤であったのが綾子さんには印象的であった。

右端が綾井嬢。愛犬ボビーを連れての帰国だった。口紅の赤さが写真からも感じられる。その左から綾子さん、洋子さん、神田愛子さん

綾井さんは帰国後間もない1940年、「婦人画報」2月号に「日本のひとに是非はなしたい話」という記事に写真入りで登場している。
「瑛子さんは有名なマリア・トールの先生であるローランド・ヘルという人について声楽を3年学んでこられました。けれど音楽は趣味なので、決して声楽で立たれるつもりはないそうです。

郊外の荻窪の静かな住宅地を訪れると、お母さんをご一緒に交え、ベルリンでのお話を、快活に話されました。」
3年間、ベルリンで音楽の勉強をしたのは、たまたま父親が赴任していたからというのが、大きな理由だったようだ。

<ニューヨーク上陸>

35名の乗客がニューヨークで下船して、アメリカ大陸を鉄道で横断し、西海岸から再び船で日本に帰ることを選んだ。日程が若干短くなるからであろう。また60日以上の船旅は飽きも来るからであろうか。

単身の企業関係者がほとんどであった。企業戦士は一日も早い帰国が必要との判断であろうか。また陸上競技の選手団からは大島鎌吉監督のみ、船を降りた。

湯川博士の回想である。
「大西洋の定期船ではないから、ニューヨークへ着いても上陸させてくれないのではないかなどと取越し苦労もしたが、避難船というのでかえって税関の検査も簡略で、(行きと帰り)二度も世話になった懐かしい靖国丸と別れて、その夜は久しぶりで陸上のホテルに泊まったのであった。」
博士は直接西海岸に向かうことなく、アメリカ内で研究者に会ったりして帰国はさらに遅れる。

ニューヨークにて 左から節子さん、綾子さん、大倉ニューヨークの夫人(?)

湯川と同じ会議に出席する予定であったアメリカ人研究者も英国船を予約していたが、危ないと思いドイツ船に予約を替え、満室なので子供の遊戯室に泊まってアメリカに戻ったという。誰もが大西洋の横断を警戒していた。一方の朝永博士は靖国丸での旅を続けた。湯川博士と異なり経済的に余裕がなかったからという。

当時ニューヨークでは、かのエンパイヤーステートビルディングが出来たばかりであったが、展望台の上った眞一郎さんは、その高さに圧倒された。
「屋上に出てみて驚く。(略)遠方を望むと少し曇っているが、港に世界最大の仏国汽船ノルマンディ号が岸壁に着いている。またその右手には英国豪華船クイーンメリー号が本国帰途につくため、船体を灰色に塗り替えている。これは途中でドイツの潜水艦に襲われないよう、艤装しているのだ。」(実際は軍事輸送船としてシドニーに向かった。―筆者)

次いで大倉商事ニューヨーク支店長宅を訪問する。そして
「部屋を見せてもらうとなかなか贅沢である。台所には電気冷蔵庫が備え付けてある。又お茶碗等を洗う機械などがある。お酒を飲むために作ってあるバーもある。」と冷蔵庫、食器洗い機のある台所に驚いた。

支店長宅はマンハッタンの中央部で、窓からの眺めにも素晴らしかった。また映画館に行っても天井は高く、そしてトイレには温風で手を乾かすエアータオルがあった。ベルリンから来た眞一郎さんにとってもニューヨークは異次元の世界であった。

こうして日本に戻った眞一郎さんは、その後悲惨な戦争を日本で体験することになるが、日本の対米宣戦の知らせを聞いた時、自分が見てきたアメリカを思うと、“この戦争は勝てないのではないか”と子供ながらも本能的に考えた。

ニューヨーク高層ビルをバックに綾子(左)さんと洋子さん 中央は母節子さん

島鎌吉>

ニューヨークで船を降りた一人である日本陸上選手団監督の大島鎌吉は、大阪毎日新聞に勤務していた。大島は1932年のロスアンジェルスオリンピックの三段跳びで銅メダルを獲得し、1936年のベルリンオリンピックでは旗手を務め、三段跳びでは6位に入賞した。毎日新聞に入社したのは、新聞社としても宣伝効果を狙ってのことであった。

大島は下船後まもなくして、毎日新聞ドイツ特派員として勤務が決まり、苦労して避難してきた危険な大西洋をドイツに逆戻りする。自分から志願してのことであったようだ。そして1945年にドイツ敗戦となるまで、ドイツ軍従軍記事などを日本に送り続ける。

日本への船旅を続ける選手団の一人だった小田洋水は
「見送る立場になった一同は、大島さんを囲んで、泣いてビールを飲んだ。」と回想している。

陸上選手はベルゲンでようやく靖国丸に乗船できたことはすでに述べた。その様子を大島もレポートしている。
「澄み切った美しい朝であった。午前10時、ベルゲンに着いた。汽車の窓を開け、旅行会社の人に”日本船はいるか?“と大声で聞くと、”いる“と言う。私は思わず”しめた!“と叫んだ。ホームを歩く足取りは自分ながら”くそ落ち着いている。タクシーを断り、どんどん歩いて丘を目指した。(中略)

赤い寺院のある丘に登ったところ、木の間から(日本郵船のマークである)二本の赤線が入った煙突が見えた。“いたぞ!”と誰かが叫んだ。恐ろしく大きな声だった。(中略)

26日にウィーンを発って以来、4日目にようやくここまで来た。我々の切符は2等室だったが、当てられた室は3等であった。しかしそのようなことはもはや問題ではなかった。私は部屋に入ると、すぐに自分の家に帰った気安さで、前後を忘れてベッドにもぐり込んでしまった。」選手を無事に日本に戻すのも監督の責任であった。

なお筆者は先に紹介したベルゲン港の靖国丸の写真は、選手の一人がこの時、丘の上から撮影したものでないかと考えているのは触れたとおりだ。

<日本へ>

ニューヨーク出帆は9月18日であった。ここからは靖国丸は引き揚げ船から、通常の北米航路船へと性格が変わったといえよう。眞一郎さんは記す。

「船に乗り込んでしばらくして、ドラガけたたましく鳴り出した。やがてロープが外された。埠頭が見えなくなってエンパイヤ―ステートビルディングを始め、多くの高層建築だけは名残惜しそうに水平線にその白い姿を見せている。」

綾子さんは語る。
「船内では小学部と中学部に分かれて学校が始まった。私たち中等部の生徒は4人いたが、デッキの片隅のテーブルで高橋先生を囲んで座り、黒板もノートもないデッキ教室での授業であった。しかし先生のお話の内容は興味深く、どんな教室にも負けない高度なものであったと思う。

また船客が代わる代わる講師になって専門分野のレクチャーがーこなわれた。湯川博士も講師となり、母親節子さんは聞きに行ったが、”全くチンピンカンプンであった”と、戻って娘たちに正直に語った。」


戦後の1953年、京都で国際理論物理学会が開かれた際、綾子さんはドイツ語の関係でお手伝いをした。そこで湯川博士と会った際、博士は靖国丸の綾子さんと知ると「あんなに小さかったのに」と驚いてくれた。しかし内心では「そんなに小さくなかったのに」と思ったと、秘密を明かした。

そしてパナマ運河を9月24日に通過する。アメリカ西海岸のロスアンジェルス着がおそらく10月2日、出航が翌3日である。

パナマ運河ガトゥン水門にて。中央の少年が眞一郎さん

加藤さん一家はロスアンジェルスで下船して日本人街を訪れる。眞一郎さんは書く。

「港内に入ってまず目に入るのは沢山の汽船と沢山の軍艦である。誰でも初めてこの港に入るときはびっくりするという。(中略)日本人町に入ると八百屋の店先に柿やナスが出ているのが珍しい。昼は日本の料理屋で日本料理をお腹いっぱい詰め込んだ。」

また1932年のオリンピックスタジアムも訪問するが、これについてはその次の開催地で自分も観戦したベルリンのスタジアムの方が勝って見えた。

日本郵船の北米航路はサンフランシスコとシアトルが拠点であるにもかかわらず、ロスアンジェルスを経由地としたのは、少しでも航行距離を短くするためか?また当初はホノルルを経由するはずであったが、避難船であるが故に、まっすぐ横浜を目指すこととなった。

船内でも通常のイベントが催されるようになる。通常の航海でのように、一週間に一度は甲板で映画を上映し、お茶会、月見の会、仮装会が行われた。また甲板上での運動会もあったのは子供が多いゆえであろう。

靖国丸三等運転士塚越さんによる綾子さんのサイン帳へのサイン。太平洋に入った安堵感が書かれている。


仮装パーティー。最後列左から4人目、5人目が洋子さん、綾子さん。その前の列右から二人目はヒトラーの仮装である。この写真は「回想の朝永振一郎」にも掲載されている。朝永博士は加藤姉妹の右三人目で後ろを向いている人とのこと。


仮装パーティーの後の食事会。手前に用意されているのはビュッフェ。

船客の旅情を慰めるために、楽焼き会も日本郵船の客船では催されてきた。そしてそれはこの航海でも行われた。
「靖国丸 欧州より避難の途、太平洋上に於いて 1939年10月7日」と裏面に書かれた楽焼きには、10数名のサインが焼き込まれている。後のノーベル賞学者朝永振一郎の名前があるが、その隣は加藤節子の名前である。そしてその隣は綾井章子さんだが、渡辺徳子さんの名前はない。また高橋ふみの名前も焼かれている。日時からすると横浜到着も近い太平洋上である。

また船上で遊ぶ姿の写真が何枚か残っている。長い航海をデッキで紛らわしたのであろう。そして普段は分けられている一等と二等のデッキも、この時は区別なく使用された。

二等Aデッキ


目隠し鬼の遊び こちらを向くのが綾子さん。

船客の山下勇さんには綾子さんは五目並べを教えてもらった。当時玉造船所(今の三井造船所)の技師であったが、戦後1970年には同社の社長になっている。

<到着間近>

10月10日午後5時、サンフランシスコから横浜に到着した龍田丸には、先述の靖国丸をニューヨークで降り、列車で東海岸に向かった邦人が乗船しており
「ごった返す避難ルート、欧州からの最初の避難客」と朝日新聞に紹介された。
古河電工の山田雄吉、前ロンドン大使館勤務本重志と妻、救世軍少将植村盆蔵の談話が出ているが、その内容はすでに紹介した。靖国丸に対し8日間、日程が短くなった。

また横浜に2000カイリ(4000キロメートル弱)の地点の靖国丸から中継放送が行われた。船からの電波が届く距離に到達したからであろう。10月12日午前7時42分から8時10分の間、今のNHKによってラジオで全国に向けて放送された。

最初にマイクに立つ木村船長の家族の元には新聞記者が同席した。その中「私は船長木村であります」と家族に懐かしい声が聞こえてきた。次いで、
「靖国丸がハンブルク停泊当時、在留邦人間の意見では戦争は必ず起こるという見通しでした」と前置きした後、慌ただしいドイツの国内情勢、チェンバレン英国首相の宣戦布告を知った時の船内の動揺等を落ち着いた様子で語った。

その後にマイクに立ったのはベルリン日本人学校教師稲沼史(ふみ)、外務省嘱託田中東彦、そして常連、三菱商事渡辺徳子さんであった。外務省、民間人とバランスよく選ばれたのであろうが、乗船客の中では名士とまではいかないまだ若い稲沼先生の選ばれた根拠は不明である。

稲沼先生による眞一郎さんのサイン帳への書き込み。

<日本帰着>

明日は横浜到着という最後の夜には送別会が行われた。大人は一等食堂、子供は二等食堂に集まった。二等、三等の客が一等の食堂で食べるのは通常の航海ではありえないことである。

最後の晩の眞一郎さんの記録である。
「その晩は横浜上陸の準備をした。そうしてぐっすりと寝てしまった。お母さんの声にはっとして目を覚ますともう4時だ。窓からのぞくと横浜港らしいものが、電気の光によって見られた。

急いで洋服を着替えて上陸の準備を整えた。朝食を食べて甲板に出てみると祖国の姿が眼前に見えている。懐かしい、懐かしい、日本に着いてしまったのだ。

ハンブルクで船に乗ってから正味51日間、僕は少しも船上生活に飽きたことはなかった。船を降りるのが何となく惜しい。」


10月18日、靖国丸は横浜港に到着する。朝日新聞が報じている。

「故国の姿に安堵。 靖国丸横浜へ帰る」
ロスアンジェルスから太平洋を一路横浜へ帰航を急いだ戦乱欧州から横浜への避難第一船、郵船靖国丸は入港直前の台風の影響もなく、18日未明の3時10分、無事入港、第三区に投錨した。
去る9月4日ベルゲン港を後にグリーンランドから霧の大西洋もパナマもつつがなく、避難者を無事送り届け、天晴れ使命を果たしたのである。

同時に停泊するカナダ太平洋汽船会社の巨船の無気味な灰色の船体を背景に、(靖国丸は)くっきりと船腹に日章旗が染め出され、郵船のマークも鮮やかにこれが避難船とは思えぬ程の朗らかな入港振りである。」

一行は午前6時半に検疫が終了し、9時半には多数の出迎えが待つ桟橋D号に横付けされた。
「未明というのにどの船客も衣服を整えて、デッキから喜びにあふれる顔を突き出して、出迎えのランチ(小型船)に歓呼の声を上げる。」
眞一郎さんの手記にあるように、早朝にもかかわらず上陸に備えて子供まで洋服を着替えたのは、海外駐在員の奥さんたちの矜持からであろう。さらには

「避難客のホッとした気持ち、出迎えの人の安堵がキャビンやデッキで朗らかに衝突(入り混じっての意味でしょう―筆者)して、船中はもう湧きかえるような大混雑であった。子供達は到着してもなお所狭ましと走り回り、あるいは朝食のパンをかじりながら鬼ごっこをしたり、全く戦雲を忘れたような朗らか部隊だ。検疫も旅券検査も笑顔の中に済まされ、郵船水島、大矢両重役もニコニコしている。」と報じられた。

そして「靖子ちゃん元気」の見出しで、渡辺靖子さんの元気な姿が写真入りで紹介されたことはすでに述べた。

ハンブルクを出港して以来、この200名ほどの乗客の動静は、無線、電話など当時の最新の技術で日本に伝えられ、新聞、ラジオを通して国民に伝えられてきた。当時の国民の関心の高さを物語るものであろう。

<終章:欧州最初の引き揚げ船とは>

欧州からの第一弾の引き揚げは無事に終わった。一方フランス、イタリアではかなりの邦人の子供がそのまま両親と共に残り、戦乱の中を逃げ回り、はるかに辛い行程で敗戦後に日本に戻った。その後を考えた場合、ドイツの子供たちははるかに恵まれていたと言える。

大島大使の帰国勧告の強さと、靖国丸がまさにそのために待機したことが、ドイツの婦女子の帰国のきっかけとなった。フランス、イタリアでは家族の離れがたさを断ち切るまでの強い動機がなかったのが、婦女子が残った最大の原因であった。

フランス、イタリア両国に較べ格段に人数の多いドイツ、特にベルリンの婦女子が残った場合、皆無事に帰れたかの保証はない。その意味では靖国丸は邦人保護の役割をしっかりと果した。

当時欧州航路には10隻の客船が当たっていたが、やはり今回の引き揚げを担うのは靖国丸でなければならなかったと筆者は考える。1930年製造で特に多くの旅行者の脳裏に残っている靖国丸は、欧州航路の代表とも言える船である。筆者は「日本郵船、欧州航路を利用した邦人の記録」でも同船を最初に取り上げた。

その靖国丸であるが、これを最後に欧州旅行者の誰の回想録にも登場しなくなる。開戦に伴う同航路の乗客減を理由に、南米西岸線に回されたのであった。そしてその後も細々と維持されてきた欧州航路は、1941年1月8日にリスボンから横浜に戻った伏見丸で幕を閉じる。

加藤家においては次女の洋子さんが、帰国後わずか4か月目に急病で亡くなる。危篤になった病床には高橋ふみ先生が駆けつけ、「洋ちゃん、頑張れよ、頑張れよ」と号泣した。また葬儀には日本人学校の仲間のみならず、靖国丸で一緒だった陸上選手たちも参列した。

そして日本が米英に宣戦すると、靖国丸は特設潜水母艦となり、1944年1月31日、トラック諸島北方でアメリカの潜水艦の雷撃を受け沈没する。

また冷静に避難者を日本まで送り届けた木村船長は、1943年2月、龍田丸船長として兵員輸送のため、太平洋を航行中、アメリカの潜水艦の攻撃を受け龍田丸の沈没と共に殉職する。

終わり

主要参考文献
「湯川秀樹 欧米紀行」 
「日本.欧米間、戦時下の旅」 泉孝英
「臣下の大戦」 足立邦夫
「七塚町広報」


靖国丸に関する新たな考察はこちら(2016年1月2日更新)
横浜に係留される氷川丸に靖国丸の面影を求めました。こちら (2016年8月20日)
以上

 
 第一部 トップ