日瑞関係のページ 論文
日本 戦時日欧横断記(第二部) 瑞西
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<遣欧
使節団>


モスクワのビザ交渉に舞台を戻すと一九四二年十月二十七日、ソ連側の提案はソ連船員四十三名に対し、邦人十六名のみの許可という傲慢な内容で、谷外相は大いに不満ではあったが、妥結を急いだ。

その代わり十月三十日、希望として(条件ではないと注釈を付け)新たに申請をする二十五名の内、大至急を要する四名に対しソ連側が審議を促進するようモスクワに訓令を与えた。

この四名とはスイス陸軍武官に任命された少将若松只一、同じくフランス海軍武官の小野田捨三、スイス一等書記官与謝野秀、ブルガリア公使館付武官甲谷悦雄中佐であった。かれら四名は欧使節団のメンバーであった。

日本の思惑に反して始まった独ソ戦に関して、日本は当初から、自らの仲介により両国の和平を成立させたいと希望していた。日本の敵は米英のみであったので、独伊もそうなれば、戦力を効率的に投下する出来るはずであった。したがってドイツを説得するための特使派遣は、政府内で常に話題に上っていた。

一九四二年九月、イタリアからソ連を経由して帰国した安東義良欧亜局長、田中新一陸軍第一部長、甲谷第十五課長の間で特使派遣に関して会談が持たれた。席上「東條首相自ら渡欧すべき」とか「大島大使を召還しては」などの意見が出たが、「この問題は逐一研究」でとりあえず意見の一致を見た。

東京での特使派遣の動きに対し九月二十八日にはドイツから大島、野村直邦海軍中将の名前で、特使派遣反対の電報が入る。しかしながら十月三日の政府、軍部の連絡会議において
「ドイツに日本の実情を説明するため」という名目での特使派遣が決定する。

外務省外交史料館には、彼らの派遣に関し次の様な文書が残っている。
「遣独伊連絡使の旅券に関する件
大本営政府連絡会議決定に基づく遣独伊連絡使は、シベリア鉄道利用の他差当り方法なきに付、これに依ることとし、外務及び陸海軍より陸軍少将若松只一、海軍大佐小野田捨次郎、外務書記官与謝野秀、陸軍中佐甲谷悦雄の四名派遣せらるること一応内定せり。

然る所ソ連査証要求上、種々機微なる関係あるに付、旅券請求は左の資格において為すこととし、右は全然仮のものなるに付、任命等の手続きを行わず。(与謝野書記官のみは正式に任命す)

又任国政府にも先方より質問ありたる際に初めて何分の申入れを為すこととすると共に機密事項なるに付陸海軍よりの正式手続きを省略し、旅券発給手続きを進める事と致し度。

在瑞西公使館付陸軍武官
若松少将
在仏国大使館付海軍武官
小野田大佐
在瑞西公使館一等書記官
与謝野 秀
在ブルガリア公使館付陸軍武官
甲谷中佐 」

これら四人の辞令は本来の渡航目的を秘匿すものであるから非公式であり、先方国にも前もっての連絡はしないという方針であった。さらにこのうちスイス行きを予定した若松は翌年一月二十二日、都合によりとして突如岡本清福少将に代わる。一月三十日、佐藤大使はこの変更をソ連に告げ、それでも岡本も日高大使一行と同時のソ連通過ができることをを求めた。


<ビザ交渉>

一九四二年十月、駐伊大使に日高信六郎が任命される。そして堀切大使は当面欧州に留まると発表された。日高はこの時南京にいた。 十一月二十四日日高大使の外、平田雅二理事官、菅良通訳官が同じくイタリア赴任として通過査証を申請した。またトルコに向かう三名の書記生の分も申請された。

それに加えて民間人の欧州出張者も申請をする。洋書の販売を手がけていた丸善の中村春太郎である。国内の各方面から最新の海外の情報が求められていた。外務省の菅良も調査局で必要な書籍を購入するためであった。文部省からも犬丸秀夫が最新技術資料の入手のため通過査証を申請する。

十二月に入って日高の随行員には寺岡洪平三等書記官、野口芳雄通訳官(ブルガリア勤務予定)、木内良胤参事官(安東の後任)、従者柳澤嘉寛が申請者に次々と加えられた。野口はロシア語通訳として先の松岡訪欧段に加わり、以降も東京で東郷外相の通訳を務めるロシア語の専門家であった。日高らはソ連の敵国イタリアへの赴任ということで、ビザ取得は難航した。

第三次査証交渉は、かれらに四名の連絡使節団員を加わえ、合計十八名の邦人渡欧予定者と、三十二名のソ連船員であった。翌一九四三年二月五日になっても、まだ日高大使ら十人分しか通過査証は発給されない。連絡使の分はまだであった。

欧州では丁度この年の年二月二日、独ソ戦の天王山といわれたスターリングラードからドイツ軍が総退却する。ドイツ軍不敗の神話が崩れはじめた。日本の中枢部ではドイツの実情を知るため、連絡使を早期に派遣する必要があるという声が益々高まる。

しかし独ソ戦でのソ連の優位は、日本とのビザ交渉にも影響が現れてくる。ビザ問題にソ連は他の懸案事項も絡めてきた。二月九日、谷外相は佐藤大使に厳しい口調で訓電する。
「今回のソ連側の約束違反は極めて遺憾にして、我が方としては津軽海峡問題は再考の余地なき(中略)この点についてはあくまで厳然たる態度で交渉に臨まれ度」

ソ連はアメリカに向かう自国船に、津軽海峡の通過を同時に要求してきた。それを跳ね除けての佐藤大使の督促に対しソ連は二月十日、残りの八名について数日中に確答をすると答えた。

そして四人の連絡使に対してビザが下りた二月二十二日、陸軍大臣東條英機の名前で「遣独伊使節団に与える訓令」が出された。駐独伊大使及び陸海軍武官に、日本を中心とする東亜の情勢を伝えると共に、独ソ戦終結方策、英屈服のため取らんとする方策、独伊の現状及び将来の見通しを調査するという課題が与えられた。

ビザが下りようやく赴任の決まった日高大使に対しては、
「今更行ってどうなる?」とか
「トルコあたりで断られて、追い返されるのではないか」と
ひどいことをいう友人がいた。

1944年1月1日コルティナ ダンペッツオにて。ほぼ中央の左側が日高大使。

横道にそれるがここにスイス公使として、冒頭に述べた吉田茂の名前が入る事は可能であったであろうか?筆者の推測では首相を経験した近衛は無理であろうが、吉田は可能であったのではないかと推察する。イタリア大使レベルの交換が可能であるならば、元駐英大使にもビザは下りたのではなかろうか?

かれらが特急富士で東京駅を出発し、ソ連経由の赴任の途についたのは、二月二十六日であった。総勢十八名であったが新聞、ラジオの発表は十五名であった。おそらく三人の軍人に関しては機密扱いであったからであろう。しかし放送で十五名と聞いた満州の領事館では、本当の所一体何人が来るのであろうかと混乱した。

そして一月十三日、ちょうど欧州から中央アジア経由で帰国する坂西駐独武官らを、外務省はハルピンで掴まえて、最新のソ連通過情報を求めた。メンバーの一人陸軍武山岸逓信事務官は外務省の持つ列車の時刻表を有効と確認した後
「度々乗り換えを余儀なくされた」と語った。


<ソ連横断旅行>

一行のソ連入りは三月十日であった。ソ連との国境に至る途中でメンバーの一人木内参事官は発病し、入ソを見送った。極寒のシベリアから中央アジアを横断し、無事トルコに着くと四月九日、谷外相に宛ててソ連通過に関する報告を送る

「ソ連側の態度
一.座席二十及び貨車一両の約束に対し満州里クラスノウォドスク間及びバクー、レニナカン間とも事実上、貨客車各一両直通の扱いを為し、車室又特に二人詰め一等九室を割き便宜を計りたり。荷物の扱いも丁寧にて何ら事故無し。

二.満州里"ク"間は尾行者二人宛て(約五回交替)"バ""レ"間は鉄道職員を装える者一人同車せるが少数の例外を除き態度慇懃にて、進んで荷物積み替えの手伝いまで為したる者あり。尤も乗換え地に於いては一行は常に車室又はホテルに於いて軟禁状態に置かれた」

かれらも交替でソ連官憲の目を盗んで、国内の情勢を頭に刻み込んだ。アメリカが援助した、DC−三型飛行機、トラックが途中で何度となくかれらの目にとまった。
一.ソ連の鉄道輸送
ニ.ソ連鉄道沿線の軍事情報
三.鉄道沿線の建築事情
に分かれており、膨大な電報となった。この電報もアメリカは解読している。それによってアメリカはソ連に向けた自国の援助が、実際に役立っていることを確認したという。

連絡使の四名はトルコからベルリンに向かう。途中のブルガリアの首都ブカレストでは、甲谷中佐が表向きの任国であるがゆえに、山路公使等と共に同国参謀本部外国武官掛を訪問する。一応着任の挨拶である。しかし席上同行の立石方亮駐トルコ武官より

「甲谷大佐はアンカラ到着と同時に参謀本部よりの電報に接し、一日も速やかに在独、伊陸軍武官との打ち合わせのため伯林及び羅馬に赴き、右旅行後正式にソフィアに着任するべきを命ぜられたるを以って、取り敢えず本日直ちに出発せしむることとせるに付、了承あり度」と一方的に告げ、甲谷もベルリンへの旅を続けた。

ルーマニアを経由し使節団がベルリンに着いたのは四月十三日であった。岡本は歓迎会に続いて、日本から預かってきた家族からの便りを、駐在者に配った。

一向に交じっていたトルコ赴任の三人の外交官は、アラビア語習得のための留学生であった。トルコ入りするや否やイスタンブールで研修に入るが時局柄、勉学だけというのには後ろめたさがあったようである。かれらは栗原大使に相談する。

「三留学生より、当地には適当なるアラビア語教授殆ど居住しておらず、現在程度の勉学は任官するも続行し得べき見込みに付、時局柄任官の上、館務に服し度き希望ある旨申出たる所、右は尤もの儀と認めらるるのみならず、在欧公使館書記生払拭の際にも鑑み、同人等の希望を容れること適当と存ぜられるに付、何分の詮議相成度」


<集団帰朝>

ソ連通過のビザ交渉に関して日本側は、常に不満を持っていた。一九四二年十二月十一日にはビザ交渉に疲れた佐藤大使から谷正之外相に、長い依頼電が入る。

「現下の世界大戦は東亜に於いても欧州に於いてもますます長期戦の形態を帯るに至れる所、枢軸側は相互間直接の交渉を保ち得ざる弱点あり。
速やかに人的交通を確保する要あるも、現在は僅かにソ連邦と困難なる交渉を経て、我が方要求通過査証の一小分を満足せしめ居るに過ぎず。而もそれすら重要人物の往復に至りては、ソ連邦が果して承諾するべきや甚だ疑問なり。(中略)

戦時の今日、彼の都合の良き範囲内においてのみ、我方に満足を与える以上には出て難く、到底我が方戦時の必要を充たすを得ざる現状にあり。独ソ関の成行き等でいつ停止せらるるやも計り難き。(中略)

ついてはかなりの犠牲を犯しても、飛行機、潜水艦等に依るドイツとの直接交通路の開設に勤められたし」

飛行機潜水艦等による交通路というのは、勿論簡単にはいかない。しかし日本参戦後一年経って佐藤は、もはや通過ビザはソ連側が必要とする範囲内でしか日本側が得られない、不安定なものであることを実感していた。そしてもし航空路が開設されれば、佐藤はこのわずらわしいビザ交渉から、解放されるはずであった。

また当時欧州に暮らす邦人は、予想に反し余り充実した日々を送っていない。一九四三年三月十六日大島大使は、谷正之外相に向けてドイツの邦人の情況について説明し、意見具申をする。

「在独邦人集団帰朝に関する件
目下当地在住の陸海外蔵四省関係を除く邦人は約二百名に近き所、商社関係者は殆ど仕事なく、また他官庁出張者其の他多くの技術専門者も旅行の制限、其の他の生活上の不便より、現在充分の研究を遂げ得ざる情況にて、多くは空しく日を過ごし居れりと言いて不可ならず。(中略)

この際以上邦人にして帰朝を希望するものを、一括集団として帰還せしむる為、積極的方法を講ずる事は、以上の事中に依り必要なるのみならず、在留民保護の責務を有する責務を有する外務官憲として、当然の措置と存ぜらる(後略)」(棒線筆者)

選ばれた欧州駐在者が、空しく日々を過ごしているというのは皮肉な話である。
しかしこの集団帰国希望に対して、外務省からは極めて現実的な回答が届く。五月三日付けで発信者である外相は重光葵に代わっている。

「御来示の趣、御尤もにして此の種邦人の帰国に関しては当方としても腐心して居る次第なるが、既に外務省員、陸海軍人の査証すら在蘇大使館を通じ事務的、政治的に凡ゆる方法を盡して交渉せるも、甚だ不満足なる結果を得居る現状に於いては、遺憾乍ら如何に先方を説くも、二百名以上の邦人を此の際急速に帰国せしむることは見込みなく、従而査証に関する対蘇交渉は、陸海外関係者等極めて限られたる範囲に限局せざるを得ざる次第(後略)」

文部省派遣留学生でフィンランドに暮らしていた桑木努は、この年の一月留学期限が切れるため、ベルリンを訪問し、帰国のためシベリア通過のビザ申請を行う。その時の日記には

「これが遂に可能性のまま永遠に喪われるのか、ライプニッツのいう共可能性(ママー筆者)のひとつが現実性となって実現するのか、そこに働く適合の原理は如何、などと考えると、全知全能の神の存在を信じたくなり、ライプニッツの弁神論もウソじゃないと思われてくる」

そして当時邦人の間では以下のような会話が交わされていた。
「いったいいつ頃、日本に帰れるんでしょうな」
「トルコからコーカサスを抜け、シベリア経由の国際列車で帰ることは、理論的には可能でも、ソ連の査証がいつ下りるかが問題ですね」
「妻子を国に残して、この遠いヨーロッパくんだりにただ一人、いつ帰れるやらあてもなし、この島流しのおれかいな、、、」


<その他の交流>

開戦一年目の一九四二年、他の方法でも日欧の交流が行われた。まずはドイツの海上封鎖突破船である。ドイツは日本が参戦した後も、自国の輸送船をアフリカ大陸の南端を経由して強引にアジアに派遣した。南方の資源が欲しかったからである。これは敵の攻撃を覚悟の上の航海であった。

当初は制海権が比較的枢軸側に有利であったため、十隻以上がドイツ、占領下のフランスから日本の南方勢力圏に到達した。日本ではこれらの勇敢な連絡船を柳船と呼んだ。柳のようにしなやかに、敵をかわしながら航海をするからであろうか?

柳船は日本の希望するドイツの特殊兵器、精密機械、鋼材などを運んできた。日本に赴任する技術者も乗り込んできた。そしてこれらの柳船は生ゴム、錫、モリブデンなどを積み込んで欧州に向かった。(逆柳船)しかしかれらが帰途につく頃には情況も変わり、イギリス空軍が優秀なレーダーを備え大西洋上で待ち受けていた。そしてドイツまで戻ったのは三隻のみという。

この柳船は日本人を輸送しなかったものの、その内の一隻は上記の物資の他に、日本からの便りも運んで戻ってきた。一九四二年四月十七日ドイツの小松光雄武官補は参謀本部に礼を述べる。

「お手紙拝領。家族よりの手紙も一年ぶりに受取り武官外一同御好配感謝しあり。今後とも(柳船のー筆者)便あり次第、秘密ならざる(公用)書類、宣伝資料(写真は独側も奪い合いなり)、新聞雑誌等(月遅れにて結構)送付ありたし。一同内地の事情に飢えあり。尚柳船は撃沈せられし例もあることなれば、各船に同様の品物分配積載せられたし」

危険の大きい柳船に対し、日本海軍は大型潜水艦のドイツ派遣を計画した。大型潜水艦でアフリカの南端を経由し、ヨーロッパに着く考えであった。その第一弾として伊号第三十潜水艦が幾多の危機を乗り越え一九四二年八月六日、フランスのロリアン軍港にたどり着いた。

ドイツ軍の首脳部も潜水艦による日独連絡路の開通を喜び、遠藤忍中佐艦長は、ヒトラーの招待を受けクロス勲章を授与される。ただしこの潜水艦は乗組員のみで、いわゆる欧州への赴任者は運んでこなかった。また陸軍武官室がこの派遣に冷ややかであったのは、先の電文に見た通りである。

海軍は戦争中、都合五隻の潜水艦を欧州に派遣するが、無事日本まで帰り着いたのは一隻のみで、欧州には到着したものの、帰路はシンガポール迄が二隻という結果であった。派遣された五隻うち、最後の伊号第五十二潜水艦については、最近NHKの番組で取り上げられた。それによればアメリカ軍は、日本海軍の暗号を解読する事によって、同艦の位置を正確に把握し、駆逐艦が待ち伏せして撃沈させた。まさに情報力の差が出た。

そして海軍はこれらの潜水艦で、海軍関係者を往来させた。ドイツ、フランス駐在海軍武官なども乗員に交じって長い航海を経験した。ソ連の通過査証は、海軍はプライドもあってかほとんど利用しない。大戦中を通じての潜水艦による交流については吉村昭の「深海の使者」に詳しくい。


1943年8月19日、ベルリンの在欧海軍武官会議 前列右端はイ号第30潜水艦艦長の遠藤忍(阿部信彦さん提供)


<第四次ビザ交渉>

日高ら一行が欧州に旅立った日でもある一九四三年二月二十六日、佐藤駐ソ大使から谷外相宛てに電信が届く。
「日高大使一行の査証解決。残余の我方の通過査証申請者四十九名、ベレコウプ号乗組員三十二名と関連せしめ解決方を詰めたき。ついては我方四十九名の順位を、電報にて連絡されたし」

日本側にも交渉のカードがあり、電文はどこか明るさを含んでいる。希望者全員の帰国が出来ない中、この優先順位は今回の交渉では大きな意味を持ってくる。日本は大島大使に向け同じ質問を発する。それに対し大島は

「機微なる問題につき送り側の会社と(そちらで)調整をされたし。ただし官民平等にすすめ外交官、軍関係者を除いて五名に対し一、二名の民間人を含めるよう」と返答した。

大島は帰朝者の順位付けをする基準などはないので、申請の日付順でよいと考えていたくらいで、個人的にも優先させたいものの氏名は出さなかった。帰朝の話の高まりに呼応するように、ドイツの邦人、特に民間人の通過査証申請が急増する。
それに呼応して同年二月、ドイツ大使館は「帰朝旅行に関する参考事項」という冊子を作成している


冊子の表紙。印刷製本 田口正夫となっているが、実際に必要としたのは30人に満たなかった。

交渉に先立ち、日本側はソ連側と一定の枠内で相互に無条件に通過査証を発給する取極めを結ぼうとするが、佐藤駐ソ大使から一蹴される。すると東京は、同数主義とすれば

「これまでの交渉で香港ソ連人四十三名に対して日本人は十六名で、二十七名の差がある。前回がソ連人三十四名に対する十八名で同じく十二名の差。今回ソ連が三十二名分のの査証を希望するなら、日本側は合計七十一名分の査証を要求出来るはず。その氏名は追って連絡する」と伝えてきた。

この要求を受けたソ連の領事部長は、鼻であしらうように
「我々は船員のみであるのに対し、日本には将軍、大使等に査証を与えてきた。これを一対一とはとんでもない」と全く取り合わなかった。

日本では四月、谷外相に代わって元英国大使の重光葵がその任につく。そして四月二十八日、初の重光人事として昌谷忠フィンランド公使が更迭され、南京駐在中の中村豊一が後任に指名される。モスクワでのビザ交渉を、当てにした辞令であったが、公式発表された。

更には五月二十三日、ルーマニアの筒井潔公使とハンガリーの大久保利隆公使にも帰朝命令が出される。後任はそれぞれ前コロンビア公使の柳井恒夫、前ブラジル公使の森喬であった。二人とも交換船の帰国者である。

六月二十五日には元アメリカ局長の寺崎太郎に、フランス公使の辞令が発せられた。寺崎は一九四一年十月東条内閣が誕生すると
「東条の下でなんか働けるか」とアメリカ局長を辞任し、外務省を去った硬骨感であった。

こうした状況で、七月九日に重光外相から佐藤大使に送られた通過査証の優先者リストには七十一名の名前があった。外務省はあくまで、七十一名の査証は正当であると考えた。

リストの一番は先の森喬、二番は柳井恒夫、三番が柳井の従者半田鶴吉と欧州に向かう外交官が筆頭で、以降帰国する外交官、軍人と続き、民間人は五十番目以下に載っている。潜在的帰国希望邦人は、大島が書いたように当時二百人といわれた。

交渉中も日本側の優先順位は変わる。九月四日、寺崎新フランス公使の名前がリストの三番目に入り、半田は適当に後ろに回すよう指示された。そして七十一番目の古河電工の北島正元は、リストから削除される。これは彼にとって後に大きな重みを持つ。会社の同僚が帰国するにもかかわらず残留となった北島は、その一ヵ月後に肺を病み、敗戦直後にスイスのサナトリウムで病死する。

九月二十日、重光外相からまた訂正が入る。日本楽器の佐貫亦男を筆頭とする六十番以下の民間駐在員五人が、二十八番から三十二番に繰り上げられる。理由は分からない。企業からのヒアリングの結果であろうか?

十月二十日、欧州側六名の邦人にまず査証が発給された。ドイツの牛場信彦書記官、ハンガリーの大久保公使、ブルガリアの道正久通訳官、そして民間からは先述の佐貫、古河電工の川村、松尾の二名であった。三名の内、古河の駐在員が二名含まれていた。

更には満州国の強い要請で、ドイツ満州国公使館の河野徳太郎にも査証が出た。ソ連人か帰国するには、満州国の通過査証も同時に必要であったからである。

ベルリンからの民間人の帰朝は開戦以来初めてである。かれらは残ることになる同僚からずいぶん妬まれ、悪意のデマで困らされもした。
 
一行は翌一九四四年一月五日夜、東京に着く。牛場は宮城前で必勝を祈願し、その後家に帰り漸くほっとすることが出来た。その牛場の帰朝談はドイツ礼賛に終始する。しかしハンガリー公使であった大久保は帰国間もない二月二十九日、天皇陛下に欧州情勢を御進講する。そこではかねてからの自説に従い
「ドイツは後一年か長くて一年半」と述べたという。

一方日本からは森公使、土屋準二等書記官(スエーデン)、田辺宗夫三等書記官(トルコ)、武川基官補(スイス)の四人にビザが出た。土屋の辞令は前年の十一月三十日に発令されている。今回もソ連側は三十二名の船員と七名の上海在住者の査証を得た対し、日本側は満州国と合わせて十一名のみであった。交渉の巧みなソ連は、この間アフガニスタン引き揚げ邦人六名と、日鮮丸の船員七名の帰国に査証を発給したことを持ち出したりもした。

日本からの渡欧者、は刻々と変化する世界情勢にもかかわらず、出発まで一年も待たねばならなかった。そして彼らは最後のシベリア経由の渡欧者となる。

しかし通過ビザを得た森新ハンガリー公使は、心臓病を患い赴任が不可能となった。二月二十二日重光外相は佐藤大使に宛て、慌ててその枠を柳井公使に振り替えるよう指令するが、かなえられない。残りの三名は十一月二十九日東京を発ち、ドイツの後退の始まった欧州に向かう。スエーデンに赴任する土屋書記官は翌年一月、まずドイツに入った。

土屋はそれまでに発令済みの公使等への、天皇陛下の御委任状を運んだ。外交慣例として、これを相手国政府に出す必要があった。そして預かってきた私的な手紙を在留邦人に配る。貴重な外交クーリエであった。

スイス赴任の武川官補は欧州入りして間もなく、胸を病んだ。ダボスの療養所に入り帰国も他の外交官に比べて遅くなる。

十月二十四日、佐藤は重光外相に対し
「通過査証に関しては、我方に適当な代償なくソ連側の承諾を得るのは困難。しばらくは事態を見送らざるを得ず」と打電した。


<対独ソ和平特使>

一九四三年二月、中央ロシアのスターリングラードでドイツ軍は大敗北を喫した。同じ時期、日本も死闘のガダルカナル島から撤退せざるをえなかった。枢軸陣営の劣勢は明らかである。そこで重光外相は表面上依然存続する日ソ中立関係を利用し、独ソ間の戦争を集結させ、日ソ間の関係も根本的に調整しようとした。

訓令を受けた佐藤大使は九月十日、モロトフ外相に対し、日本から特使が
「ソ連政府に対し正確なる意向を伝達する目的で、日本政府を直接代表する重要人物を派遣したき意向にして、且この特使はモスクワにおいてソ連政府との間に意見の交換を行いたる上は、さらにトルコを経由して西欧に赴く予定」であり、旅行便宜供与を依頼した。

さらに付け加えて
「特使は西欧で各国の重要人物と会見する予定であり、帰国時に再びソ連政府との間に会談をすることが可能である」と語り、その目的は日ソ友好関係増進であると強調する。そして真の狙いである独ソの和平斡旋については一切触れなかった。

モロトフは九月十三日、先の提案に対する回答を佐藤大使に読み上げる。
「特使の目的はドイツとソ連との休戦、もしくは講和準備のための仲介をなさんとする試みであることは明白であり、これはドイツとの講和を一切考えていないソ連の政策とは一致しない」と日本の狙いを見抜いてきっぱりと断った。

この時、日本側が政府の重要人物として特使に考えていたのは、広田弘毅元首相であった。昨年の近衛元首相と吉田元駐英大使の渡欧計画に続いて、大物政治家のソ連横断による渡欧は今度も実現しない。

独ソの和平は日本にとって劣勢挽回のための、切り札であった。よって翌年に入っても三月、九月と繰り返し同様な提案を行うものの、ソ連側の返事はいつも同じであった。そして少し先回りすると一九四五年五月のドイツの崩壊後、追い詰められた日本は日米和平の調停を、またしてもソ連に申し出る。これに対するソ連の回答は対日参戦だ。日ソ中立条約にそれ以上を期待した日本は,最後までソ連に翻弄される結果となる。


<航空路>

先の潜水艦に続き、空路による交流も試みられた。一九四二年七月、イタリアは自国の飛行機を日本占領下の中国の包頭に飛ばしてきた。黒海からイラク、アフガニスタンのカブール、そしてゴビ砂漠と中立国を経由して来たものの、ソ連国境すれすれのコースであった。これは北方ルートと呼ばれた。ドイツもその直後、ここに定期航路の開設を提案してくる。飛行距離五千五百キロに対し、フオッケウルフ二○○Bは七千キロの、ノンストップ飛行が可能であった。

しかしながら一つ間違いがあってドイツ機がソ連領空を侵犯し、ソ連を刺激しては大変と、このルートの使用を、日本は認めなかった。ドイツと違い日本は、ソ連との中立関係に極度に気を配った。

日本でも自国機での欧州飛行を考えた。朝日新聞と陸軍が共同でそれにあたった。使用されるA二十六型機は、亜成層圏を飛行することから「セ号飛行」と命名された。しかし東条首相は北方ルートの航行を、この時も認めなかった。

よってセ号機はまず立川からシンガポールまで六千百七十六キロを無着陸で飛ぶ。ついでドイツ軍占領下のクリミア半島迄の無着陸飛行に挑むことになった。シンガポールを飛び立ったのは一九四三年七月七日、現地時間の午前八時十分であった。

搭乗員は機長が陸軍の中村昌三中佐で、操縦士以下他の五名は朝日新聞社の社員であった。そのうち機関士の塚越賢爾は1937年4月、神風号でロンドンまで最短の飛行記録を樹立し、その後にはベルリンにも飛行し、当地の日本人学校の生徒からも大歓迎で迎えられた。

ベルリン出発に際し、日本人小学校の生徒加藤綾子、洋子姉妹から花束をもらう。左が飯沼正明、右が塚越賢爾

また陸軍からは同乗者として、西義章大佐と香取孝輔中佐がドイツ武官補佐官の辞令を持って赴任目的で乗り込んだ。この陸軍関係者三名のうち、二名は欧州との係わりが深い。


機長の中村は欧州に駐在し、今年の初め、希少な通過査証を得て、ソ連を経由して帰国したばかりであった。それだけに飛行を成功させ、ベルリンの同僚との再開を果したいという気持ちを、人一倍強く抱いていた。

香取中佐はドイツへの赴任が決まっていたものの、戦況により渡航を阻まれていた。かれはまず一九四一年六月七日、ドイツ武官輔佐官としてソ連経由の旅券を申請する。次いで同年九月十日、浅間丸でリスボン経由の申請をするがこれも駄目であった。そして今回は一九四三年六月十七日、他のメンバーと共に旅券を申請する。外務省の旅券申請書類にはしっかりと「ソ連の通過査証取り付け不要」と書かれている。

三人目の西大佐はメキシコ駐在陸軍武官として開戦に遭遇し、一年前に日米の交換船で帰国したばかりであった。

かれらを乗せたA二十六号は、多くの期待にもかかわらず、クリミア半島に姿を見せなかった。これに関し戦後の専門家は何等かの事故が原因と見ている。同機の航路にはセイロン付近とエジプトに英空軍が展開していた。しかし英国国立公文書館に残された英国空軍戦闘記録には、何の記述もないという。つまり英軍との空戦はなかったというわけだ。

しかし筆者は、待ち伏せする英軍によって墜落させられたと考えている。根拠は幾度か取り上げたマジックサマリーである。


<セ号機>

アメリカは例のマジックサマリーで、日本航空機の欧州飛行計画を計画段階から詳しく掴んでいた。そこには今日でも日本では知られていない事実が含まれているほどである。

「A二六の一号機は一九四二年九月に完成し、十一月二十三日から十二月二十九日までの一ヶ月あまり性能試験が行われた。その結果、一万五千キロの長距離飛行は可能という結論が出た」と試験飛行の成功が、前年早くもアメリカに知られている。

翌年一月六日、マジックサマリーは
「日本陸軍は東京のドイツ陸軍武官室とすでに計画の詰めに入った。また重光外相は最近長距離飛行機を開発した。テストの結果は良好であった」と報告している。

さらに六月十三日、
「以下の交信は日本陸軍が、すでに南方ルートの飛行に機種を選んだことを明らかにしている。機はおそらくベルリンに向かいすでに日本を飛び立っている。
a.五月三十一日、ベルリンの陸軍武官は東京に対し"ドイツ空軍は東京のドイツ大使館にセ号機の航路の気象情報を六月一日に送る。機のシンガポール着の日程を連絡されたし」と報告され、そこには次の解読者の注釈が添えられている。

「MIS(暗号解読班)はセ号機というタイプの飛行機を特定できない。セというのはおそらく計画の名称であろう」何という情報力であろう。

同電報は続く。
「b.六月一日、東京はセ号機の特徴を送る。
一.翼の長い双発エンジンで単方向舵
ニ.胴体は塗装されていない。しかし翼は灰色に塗られ、黄色の線が翼の先端に付けられている。日の丸が胴体の両側と、翼の下側に描かれている。翼の幅は三十メートルで高さは三メートルである。 さらにドイツ側が認識のために必要な情報があったら連絡されたし」

これは連合国にとっても識別に有り難い情報であった。ついで六月二十七日にローマの武官室に打った電報である。

「この電報によると飛行機の出発は六月三十日ころまで延期された。シンガポール、クリミア半島のサラブツ、ベルリンという飛行ルートは変更ない」
以下飛行メンバーは中村昌三ほか六名とまで書かれ、中村の経歴まで調べ上げている。

当時アメリカはこうして解読した情報を英国にも提供していた。英国は代わりに、ドイツのエニグマの不十分な解読文を提供した。完璧な飛行情報,機の特徴を手にした連合国が、みすみすドイツまで飛行させることを許したであろうか?成功すれば枢軸側は大々的に宣伝するはずである。

暗号解読が明らかになる危険に比べて、重要度が低いと判断され迎撃はされなかった可能性もある。そして本当に何らかの機体のトラブルで墜落したのかもしれない。しかし状況から判断してセ号は、待ち伏せする英国機に撃墜されたとするのが自然ではなかろうか?

シンガポールを発って三日後の七月九日、ベルリンの大島大使はスペインの須磨公使に依頼する。
「英国の無線放送に注意を払ってください。そして欧州に向かう日本陸軍機に関する情報があれば至急連絡を」

同じ日に大島は日本にも電報を書いた。
「今回の失敗によって、日独の連絡路の開設をあきらめるべきではない。そしてもう一度北方ルートを使用するべきである。岡本連絡使のメンバーも、敵に囲まれ、長く危険な南方ルートによる帰国を嫌がっている」

連絡使は使命終了後、この連絡飛行機で日本に帰国する予定のようであった。十月六日、先にベルリンに到着していた岡本特使の電報が解読された。
「岡本はかれの電報を次の要求で締めくくっている。かれのメンバーの一人は、最近の情勢を直接伝えるために、次の帰国の手段を最優先に与えられることが約束されている。それがどんなに危険な行程であっても、この状況では心配などしてはいられない」

これもマジック情報からであるが、連絡使のうち実際に日本に終戦前に帰国したのは、潜水艦を利用した小野田大佐だけであった。


<アフガニスタン>

すでに書いたように中央アジアでは、アフガニスタンが唯一枢軸側とも国交を保った。そこは日欧の丁度中間地点にあり、無線の中継地点としても重要な位置にあった。そのためか戦時中も何度か日本との往来が計られた。

一九四三年七月二十二日、アフガニスタンの七田基元公使から、内務省の技師らの帰国申請がなされた。内務省から派遣された小林源次らは、ダム建設の技術指導を同国で行っていた。これに対しモスクワの佐藤大使は

「すでに百数十名に達する目下のビザ交渉に、小林他六名の査証を当地において交渉するのは不適当なのでそちらで交渉されたし」と逆に提案する。イランで市河公使らのビザがあっさりと取れた例に倣い、現地での交渉となる。

予想に反し申請後一月も経たない八月十一日、七田はソ連領事館より査証発給の通知を受ける。一行には体を壊した公使館雇の亀山六蔵もいた。亀山も実は陸軍中野学校を出た諜報の専門家であった。ここの公使館にも軍の諜報機関の人間が派遣されていた。そして亀山の後任には同じくなかの出身の桜一郎が選ばれたが、もう赴任は出来なかった。

また先のペレコープ号乗組員三十二名とのビザの交渉に際し、ソ連側はこの六人分も引き合いにだし、日本は結局十名の新たな発給と、七名の日本人船員のみに甘んじなければならなくなった。巧みなソ連の戦術であろうか?

翌年五月十三日、先に帰国していた勝部俊男三等書記官は、七田公使にシベリア旅行の経験について打電する。
「ソ連旅行経験により、気付きの点、新帰朝者の参考まで左の通り
一.タシュケント、ノボ、チタに於いて乗り換えあり。その度毎に自分にて汽車及びホテルの予約する要あり。ロシア語を話す事絶対必要なり。
二.荷物は成るべく手荷物預けとし乗り換え毎に積み込みの有無を確かめること便利且安全なり。但し荷造り包装を厳重にすること。
三.南京虫多く駆除剤を用意のこと
四.食堂はシベリア本線のみにあり
五.在チタ領事館へはノボより電報し置くこと

重光外相の満州里の松田領事、ハルピンの宮川領事に宛てた電文が残っている。
「在アフガニスタン公使館嘱託渡辺および井上書記生家族一行七名満州里経由(七月中頃)帰朝する所、一行の貴地通過の際は便宜供与あり度。尚ソ連およびアフガン等の政治情勢については、新聞記者等に対し、口外せざるよう厳達しおかれ度」(棒線筆者)

ソ連やアフガニスタンの情勢が、すでに日本にとっては好ましく無くなっていたためであろう。このような事情であるから、新聞等にもかれらの帰国話はもう出てこない。

さらに同年六月二十三日になってもなお東京のソ連大使館に朝倉延壽三等書記官及び酒井一太郎のアフガニスタンへの通過査証を要求した。佐藤大使への訓令によればこれは軍部の切なる希望によるものであった。おそらく二人も変名を使った軍人であろう。朝倉は語感からして、先の中野学校出身の桜一郎でないかと筆者は推測する。


<代償なき四十四年>

先にも述べたごとく日本にはソ連側に提供する代償がないため、一九四四年に入ると査証交渉を佐藤大使は主として、日ソ双方に駐在の外交官のソ連入国査証に絞った。通過査証は欧州入りするためのもので、ソ連との往来は入国査証である。

同年五月二十三日佐藤大使は重光外相に書き送る。「ソ連は邦人の通過査証問題にはなはだ熱意が感じられない。しかし香港にいる三人のソ連人に対し、帰国希望が出されたのは交渉をする良いチャンスである。ただしルーマニア、フィンランド等ソ連近接諸国赴任予定の日本公使、各地の陸海軍軍人等の査証解決は、何れも不可能であろう」と交渉を前に釘をさした。

一件だけ例外があった。欧州で査証を待つ邦人のうち、堀切善衛兵前イタリア大使は何としても帰したいと、日本は考えていた。後任の日高大使はすでに着任していた。そこで三月十一日、重光外相がマリク駐日ソ連大使と会談した際、直々に堀切大使の査証を依頼した。その甲斐があって三月十八日、栗原トルコ大使はソ連大使館より、堀切大使の通過査証許可の知らせを受けた。その直後、一人では大変との周囲の計らいで、従者として柳井庄五郎もビザを得ることが出来た。

1942年4月、ムッソリーニの後ろが堀切大使。

五月下旬、国境の満州里に着いた堀切大使は語る。「ドイツの食糧事情はまだまだ改善の余地がある。たとえばフランスの国民は農業に力を入れていない」
上京し六月十六日には外務省で記者会見を行う。ただし新聞に発表されたその内容は紋切りなものであった。

また依然未解決問題として加賀伝書使の件があった。加賀は一九四二年の五月、ソ連の通過査証を最優先で受けている。しかし先述のように病に倒れ,スイスで療養生活を送っていた。四十四年には加賀の健康は回復した。そして二年前に入手した通過査証で,帰国しようとした。するとソ連側は「加賀は外交行李を運ぶのか?単独にて帰国出来るのか?」などらりくらりの対応であった。

加賀はこの時帰国したのか、それとも敗戦後,トルコ駐在の外交官と共にハイファ港から引き揚げ船に乗り込んだのかは,確認が取れていないが、筆者は後者であろうと考えている。

日本側が交渉でお手上げになっていた六月一日、満州国の首都新京の梅津大使から重光宛てに電信が届く。
「ソ満間で交渉がまとまり、羅駐伊公使他十二名(家族含まず)に査証が下りた」

さらにそこには五名の日本人外交官、満鉄職員が含まれていた。これを知った大島大使から重光大使に宛てて抗議の電報が届く。
「今後は日満一体共同歩調にてソ連側と交渉されたし。日本側関係者の査証取付けが満州国関係者に比べて著しく渋滞していることはすこぶる面白からず。また在留邦人に対しても大使館の威信が失墜である。集団帰朝をする必要は益々増大している折、一層のプッシュをお願いする」ドイツの邦人の帰国が殆ど行われていなかっただけに、大島の怒りも大きかった。

これに対し重光は
「満州国は独立国の立場上、日満一体の交渉は出来ない。ソ連は交渉に熱意を示さないが、粘り強く交渉するのみ」と答えた。また佐藤大使は行き詰まりを打開するために、在支のソ連資産を交渉に持ち出すことを提案した。

査証の下りた満州国外交官がトルコを発ったのは九月四日であった。しかし三代晁雄一家四人はそのまま残った。女中浜田チヨの査証がまだ下りなかったからである。浜田の査証は十月二十三日ようやく下りた。
 
満州国経済部に在籍し三年半ぶりにドイツから帰満した根澤二郎は、上京する。そして読売新聞に対して近況を語った。あまり語れることもないためか「為政者への絶対的信頼」といった事位しか新聞には載っていない。


<集団帰朝>

先に大島が書いた集団帰朝については、さる六月七日連合軍がフランスのノルマンディーに上陸して本格的な反攻が始まると共に、再び話題に上ってくる。大島大使は六月三日、昨年に続き重光外相に書き送っている。

「在独官民の多数帰朝又は交替は、何れの点よりするも望ましきこと客年往電三○六号を以って電稟したる通りにして、右に対し当時同貴電第三○○号を以って今後適当なる機会を捉え、シベリア経由帰朝方措置すべき趣旨の御電報に接し爾来、当方においても鶴首待ち居る次第なりしが、過般のソ連邦と漁業条約乃至我が利権対ソ還付交渉は、正に好機会なるべに付、必ずや対ソ本件申入れありたる事と存す」

これに対し重光外相は六月七日
「従来は何れもソ連船員三、四十名程度の査証請求ありたるが、現在は僅か二、三名ありたるに過ぎず」と否定的に答えている。

さらに六月二十日には、在留邦人の世話役である徳永太郎ベルリン総領事より重光外相に訴えが入る。
「在欧邦人の集団帰朝の件に関しては、既に在独大使より稟請の通りこれが実現の必要は申すまでもなく、当館に於いても今後も在留民保護の見地より是非とも実現を切望する次第にして、ソ連邦との交渉に際しては、従来の比率主義に依らず、政治的解決を御配慮ありたし」

ここで徳永らのいう集団帰国とは、ドイツ崩壊による集団引き揚げと考えるのが自然であろう。「ナチスかぶれ」と戦後非難された大島は、ドイツ崩壊間近までその不敗を信じていたと広くいわれている。しかし先の電文にあるように大島は敗戦一年前の六月の時点でドイツの軍事的勝利はない、と判断していたと考えてよさそうである。


<敗戦による引揚げ>

四十四年も下半期に入ると、ドイツの周辺国から崩れはじめる。七月二十日ヒトラーの暗殺計画が実行されるにおよんで、日本政府もドイツの将来に見切りを付けるようになった。

九月六日、モロトフ外相との会談を前にした佐藤大使は、討議事項を予め本国に送る。そしてその三番目は
「バルカン諸国(或はフィンランドを含めて)駐在の我が方使臣引き揚げの場合を予想し、予め蘇の協力を求め、彼の意向を探ること」とある。佐藤はすでにフィンランドなどからの、ソ連を経由した邦人引き揚げの必要性を感じていた。

佐藤の会見に先立つ九月四日、ドイツでは大島大使が、同じく本国からの訓令でヒトラーに会見し、独ソ和平の仲介を申し出る。
「スターリンがそのようなこと申し出を受ける訳がない。日本政府に於いては一切この問題に触れないことを多とする」とこちらも独裁者から、きっぱり断られた。

そのフィンランドは同年九月二十二日午後三時半、外務省に出頭した昌谷忠公使に対し断交を通告する。北欧の同盟国はソ連と単独に講和を結んだのである。すぐさまフィンランドの邦人は自宅軟禁となる。そして間もなく日本のフィンランド人とかれらの、シベリア鉄道を介しての交換の申し合わせが成立する。ソ連はそれに呼応し、自国の通過ビザを即座に発給した。昌谷公使一行が帰国のためソ連の軍用機でヘルシンキを飛び立ったのは、十一月二十三日のことであった。
 
初の欧州からの引き揚げ者を迎えたモスクワの日本大使館員は、かれらの持ち物や服装が立派な事に驚いた。着の身着のままの同胞を予想していたら、昌谷公使夫人などは毛皮の外套を羽織り、傍らには立派なシェパードを従えていた。フィンランドはまだ国力を残しての講和であり、焦土からの引き揚げではなかったからである。

この時ヘルシンキ大学の講師をしていた桑木努は、持ち帰れない本はフィンランド人の知人に預けて引き揚げ、戦後それらの本を再び手にすることができたという。われわれの今日理解する悲惨な引き揚げとは少し様子が違っている。

一行は大使館員の世話でモスクワ見物をし、二十六日佐藤大使らに見送られシベリア鉄道の本線に乗り込んだ。車中では車掌が常に監視し、窓のブラインドは下ろされたままであった。満州国境の満州里駅に着いたのは十二月八日の事であった。

引き揚げた昌谷公使は、間もなくおとずれる本国の終戦に際して、名前が登場する。一九四五年二月二十六日、東条陸軍大将の天機奏上の際、天皇より
「ソ連が武力的に立ち上がる事なしと思うや」と御下問があった。それに答えてかつての首相は

「この点を観察せし両者、一人は一月程前にフィンランドより帰朝せし者、他の一人は、二週間ほど前にシベリア経由帰朝せし者、この両者の観察異なる。前者はソ連の人民には大体戦意はなしと観測す。(以下省略)」

昌谷はソ連を縦断して、ソ連には対日戦の意欲なしと理解したようだ。また三月末には、昌谷はかねてから懇意のバッゲスエーデン公使と会談する。そしてバッゲよりスエーデン側から米国の意向を探る事も差支えないとの提案を受けた。昌谷はさっそくこれを重光葵外相に取り次ぎ、同意を得た。しかし四月十一日東郷茂徳に外相が代わり、この話はうまく引き継がれなかった。

続いてブルガリア政府も対日断交を通告する。そして十一月十日、在留邦人対し一週間以内の国外退去を要求する。しかしすぐにはソ連の通過査証が得られなかったため、取敢えず全員がトルコに避難する。

さらにルーマニアが対日断交を通告するのは十月三十一日である。同国にいた筒井潔公使ら一行十五名は、ソビエト経由で帰国予定と朝日新聞に報道されるが、かれらは終戦後も一年以上抑留される。


<邦人リスト>

欧州戦争七年目の一九四五年に入ると、ドイツは西でも東でも、かつて戦争を始めた地点まで押し戻された。戦場はドイツ領内となった訳である。帰国の出来なかった邦人も、身近にせまるベルリン陥落に備えなければならなかった。
 
ベルリンの日本大使館、武官室、報道機関では敗戦対策として幾人かのスタッフを隣接する中立国スイス、スエーデンに送った。しかし両国は限られた数の入国ビザしか発給しない。またスペイン、ポルトガルへの唯一の連絡法であった航空路も閉鎖された。

それでも日本とソ連の間には依然、松岡外相によって締結された中立条約が存在していた。よって欧州の日本人は、アメリカ軍なら抑留されるが、ソ連軍によって救出されれば、故国に無事送り返されるはずであった。そこで二月、ベルリン総領事館では残っていた邦人すべてに対し、ロシア語で書かれた身分証と保護を依頼する文書を渡した。ロシア兵が進出してきた場合、日本人であることを説明し、保護と無事な帰国を求める護身証であった。

そしてこの頃には邦人は殆どがベルリンの市内を離れ、郊外に避難していた。かれらの名前と、おのおのの避難場所が記載されたリストが作成された。そのリストはベルリンから日本の外務省に連絡され、さらにモスクワの日本大使館に送られた。そして最後は佐藤大使によってソ連側に渡され、邦人の保護が依頼された。

この要請もソ連側に快く受け入れられ、ソ連は全軍にさっそく邦人保護の指令を発した。ここでは中央で決まったことの伝達速度は速かった。この時作成された邦人リストによれば、最後までドイツに残った邦人は、次の様に分類された。

まず職業別に見ると
大使館関係 ー一0九名
総領事館関係ー三十八名
陸軍関係 ー六十一名
海軍関係 ー四十七名
その他の官雇ー十名
銀行、会社関係ー一一六名
新聞社、通信社ー三十七名
その他 ー一二四名
計 ー五四二名
と合計五百四十二名中、外交官、軍人関係者が半数を占めている。

次いで地域的に見ると
ベルリン総領事館内 四八九名
ウィーン総領事館内 三五名
ハンブルク総領事館内 十八名
と圧倒的にベルリン地区に集中している。

ただしこのリストに名前のある邦人のうち約二十名は、実際は入国ビザを得てスイス、スエーデンにすでに避難している。

またリストのベルリン地区邦人の中には、ドイツ軍の占領地から一年以内に引き揚げてきたばかりの人々が、二百名ほど交じっていた。フランス、イタリアからの避難者のみでなく、遠くアフリカのモロッコに駐在していた邦人もいた。

イタリアからの引き揚げ邦人三十五名は、ドレスデン近郊に、またフランス、ベルギーからの二十八名は北ドイツ、メクレンブルクのいくつかの村に分散した。大人数を抱える三菱商事の関係者は、三十四名まとまってベルリン東方ズコーに疎開した。しかし三月、ズコーの家屋はドイツ軍に徴用されたため、全員ベルリン西方八十キロのリンデの荘園に落ち着いた。

さらにベルリンの北方九十キロの地点には、大使館通商部嘱託を中心とするグループがいた。かれらはその後、付近の小村クレヒレンドルフの古城に避難する。
 
この他の民間の在独邦人は二月中旬、ベルリン西方七十五キロのベルチッヒ地区に分散避難した。かれらは、最後はそこから程近い所に孤立して立つマールスドルフ城に、集結することになっていた。


大使館関係者はベルリン西方のモルヒョウの別荘にまとまって避難していたが、二月、三月と二回に分かれ、殆どが南独に向った。ドイツ側が南ドイツの保養地バード.ガスタインに枢軸、中立国外交官用に避難所を用意した。かれらは全員、外交官パスポートを所持するから、アメリカ軍が来ても大丈夫であろうと、ベルリンに残る邦人は羨望も込めて噂した。また民間人では大使に可愛がられていたバイオリにストの諏訪根自子のみが、南独行に加わった。彼女の職業は例のリストによれば、大島大使夫人豊私設秘書となっている。

大島大使自身は四月十三日、大使館員、陸軍、海軍関係者それぞれ数名と共に南独のバード.ガスタインに避難した。以降は十数名の若手の外交官が、ベルリンの大使館の地下壕に残留し、ロシア占領軍との折衝にあたることになった。もともと居留民の保護の責任を負う総領事館関係者もベルリンに残り、各地に散らばる在留邦人の保護にあたることになった。

陸軍関係者数十名は一九四五年早々から南に避難し、後にガスタインに合流した。海軍関係者は小艦艇を予め手配しておき、最後の瞬間にスエーデンに逃げ込んだ。


<集団帰朝実現>

四月に入るとソ連軍のベルリン総攻撃が始まる。大島が常に訴えていた在留邦人の集団帰朝が実現するのは、それによってドイツが崩壊してからであった。

四月十四日、ソ連軍の最後のベルリン総攻撃が始まった。同じ日にベルチッヒの在留邦人に対して、マールスドルフ城に集結するよう指令が出た。城には様々な社会の日本人が百四十名ほど集まった。外交官、商社員、留学生等の他にサーカス団員、柔道師範など、当時の日本人が海外で活躍する事の出来た、ほとんどの分野にわたっていた。ここでは自治会が組まれ、皆が平等な自給自足の合宿生活が営まれた。城には電気も電話も通じなかった。

五月二日、ヒトラーの戦死(実際は自殺ー筆者)とベルリン陥落の知らせが城にも入った。三日、ソ連軍は近郊のベルチッヒに入った。ソ連軍の進駐に備え、城の門にロシア語で帝国総領事館の門標を掲げ、屋上と門に日の丸の国旗を掲げた。日本が必至に維持してきた日ソ中立条約が役に立つ時が来た。

婦女子は万が一に備え三階の一室に隠れた。翌四日午前七時、城に五名のソ連兵が現れた。ロシア語の得意な横井喜三郎が「この城は日本総領事館で在留邦人の避難所である」と説明すると、ソ連兵は二人を歩哨に残し退去した。やがて一個小隊の兵士がやって来て、それから絶えず邦人の保護にあたった。ベルリンではドイツ人に対し、強奪の限りをつくしたソ連兵であったが、日本人には恨みはなかった。

五月十三日、日本人会によって園遊会が企画された。そしてソ連兵も招待した。
「日ソの民謡の交歓があり、ソ連兵も自国の民謡が日本人の音楽家のバイオリンで演奏されるのを、目を細めて聞き入っていた」と当時の滞在者の日記に記されている。

十八日早朝、ベルリンよりソ連国境警備師団長が来て、本日中に全員ベルリンに発ちそこからモスクワ経由で帰国させると伝えた。軍の命令であるから従うほかなく、一行は四時、トラック四台に分乗してベルリンのリヒテンベルク駅向かう。同駅に着くと、そのまま近くの民家に二泊する。そこにはベルリンの大使館の地下壕に篭城していた大使館員のほか、スイス、スエーデンといった他の中立国の人々もいた。みな知恵を出して、戦禍を逃れたのであった。

二十日、百五十二名にふくれた邦人は、ベルリンを出発する。途中の鉄道は何ヶ所も寸断されていた。二十五日朝九時、ようやくモスクワに着く。モスクワでは一行は、駅を出ることすら許されなかった。代表十数名のみが日本大使館が赴いた。

佐藤大使は残留希望者に対して、一刻も早い帰国を厳しい口調で伝えた。ソ連はすでに日本との中立条約の非延長を伝えてきて、大使館内は殺気立っていた。それでも病気、身重等でどうしようもない九名がモスクワに留まり、列車は午後四時東に向って出発した。シベリア鉄道を経て満州国境に着いたのは、六月三日であった。ついに実現した集団帰朝は、無事全員を日本に送り届けることができた。

民間人はハルピンで世話をする宮川総領事に、ソ連の印象を次の様に語った。日本の関心は当時、ドイツ崩壊後ソ連が日本に参戦してくるかであった。
「秩序立ちて輸送の世話を為せる赤軍当局は、あくまで懇切の態度を示したる由なるも、将兵中には"日本はファッショ国なり、今に我等も日本討伐に赴くべし"とか"東京で又会わん"とかの言辞を弄し、或は"日本軍は装備に於いて到底蘇軍に敵わざるべし"と公言する者の少なかりし」

ソ連の軍人は日本に対し、かつてない自信を持っていた。さらに軽視出来ない出来事として、途中に車中に居合わせた一将校は、ある邦人女性を見初めた。そしてかれは自分の首の鎖を、件の女性にプレゼントし
「貴女を東京にて探し出す」と語ったという。既に正式に命令が出ていたのかは分からない。一般ソ連兵は教育のためか、強気の対日感を抱いていたようだ。またこれらの情報に接しても国内ではソ連の対日参戦は、殆ど有り得ないとされた。

他の避難所の邦人も同様に、皆無事に帰国する。どこでもロシア語で作成した保護援助の依頼状が大いに役立った。一部には意思でベルリンに残った邦人もいた。

また南に避難した大島大使ら百八十余名は
アメリカに送られた。軍人は何度かの取り調べを受けた。かれらは終戦の年の十二月六日、アメリカ船で浦賀に着く。

スイス、スエーデン、スペイン、ポルトガル、トルコ等に駐在した邦人三百二十一名は翌年三月二十六日、浦賀に帰り着く。さらにスイスに残った新聞記者ら十六名が四十七年十二月日本に向かう。

以上のように、多くの被害者が出た欧州においても邦人は、引き揚げに際しては一人も犠牲者が出ることなく全員が日本、満州に引き揚げることが出来た。そして欧州に日本人は、現地人と結婚したものを除き、実質一人もいなくなった。


<終章>

ソ連を経由する邦人の日欧渡航の歴史は終った。これまで見てきたように、潜水艦、飛行機などあらゆる手段が考え出された日欧交流であったが、最も安全で大規模に行われたのがこのシベリアルートであった。しかしながら戦時中から、大きく取上げられることはない不思議な交通路であった。

またこうした動きに細心の注意を払った日本であったが、その交信文によって全てがアメリカの知る所であった。アメリカは地球の裏側にいながら、日本の外交軍事情報を全て抑えていたのである。その気になれば、潜水艦等で強行突破しようとするものは、全て妨害することができた。唯一こうした攻撃からも安全であったのが、ソ連の通過ルートであった。

貴重な通過査証で日本に帰った軍人、外交官は一人としてドイツの苦境、遠くない崩壊を然るべき場所で発言しなかった。当時の日本とはそういう発言を許さない雰囲気を国全体が持っていたのだろう。勿論それにもかかわらず、真実を伝えなかった物の責任も無しでは済まされまい。

一方欧州に残った外交官の交信録を見ると、かなり率直にドイツの苦戦を伝えているものがある。しかしそれらを日本において、真剣に取り上げたという跡は見られない。

確かに戦時中の日独の交流について語る史料はほとんど残されていない。しかしこうしてアメリカの史料などから再現しても、実際にほとんど何もなかったというのが戦時中の日独関係といえよう。数少ない人間による日独交流の試みは、その中でも幕間の人情劇とでも呼ぶのがふさわしいのかもしれない。

最後に本書で取り上げたのを中心に戦時中に日欧間を行き来した邦人のリストを添えておく。

欧州より日本

一九四二年
一.安東義良 駐伊参事官
二.桜井三郎 駐伊内務省事務官
三.徳永康元 日ハンガリー交換留学生
四.角田文衛 日伊交換留学生 京大考古学研究室より
五.遠城寺宗徳 九大教授 ウィーンで結核予防の研究
六.丸才司 司法省
七.関口保 蒙古政府顧問、ドイツ出張中帰国不可能に
八.芳賀檀
九.橘
十.伊藤香象 満鉄ベルリン事務所長
十一.高田正 司法省
十二.西ヶ谷徹
十三.園田忠 外交伝書使 トルコより帰国
十四.谷照夫 書記生 本名谷林勝主計少佐
十五.藤塚止戎夫 陸軍少将 ルーマニア陸軍武官 妻りゅう同伴
十六.坂西一良 陸軍中将 ドイツ陸軍武官
十七.芳仲和太郎 陸軍少将 ハンガリー陸軍武官
    妻千壽 長男和夫同伴
十八.西郷従吾 陸軍中佐 ドイツ
十九.山本敏 陸軍大佐 ドイツ 謀略担当
二十.飯島正義 陸軍大佐 ドイツ
二十二.中村昌三 陸軍中佐 ドイツ
二十三.館野基史 陸軍中佐 ドイツ
二十四.榊原主計 陸軍中佐 ドイツ、イタリア兼務
二十五.山岸重孝 逓信事務官 ドイツ陸軍武官室勤務
二十六.前田義徳 朝日新聞トルコ駐在員
ハンガリー人妻同伴

一九四三年
二十七.大久保利隆 ハンガリー公使
二十八.牛場信彦 駐独一等書記官
二十九.道正正 駐ブルガリア通訳官
三十. 佐貫亦男 日本楽器 ドイツ
三十一.川村知 古河電工 ドイツ
三十二.松尾敏彦 古河電工 ドイツ

一九四四年
三十三. 堀切善衛兵 前駐伊大使
三十四. 柳井庄五郎 堀切従者

日本から欧州
一九四二年
一. 小林高四郎 官補 トルコ
二. 渡辺真治 理事官 バチカン
三. 都倉栄二 書記生 ドイツ
四.河原田健雄 書記生 ドイツ
五.竹内伍一 書記生 ドイツ
六.村山七郎 理事官 ドイツ
七.高橋保 官補 ドイツ
八.魚本藤吉郎 官補 ポルトガル
九.根本博 官補 ポルトガル
十.中根正巳 官補 ドイツ

一九四三年
一.日高信六郎 駐伊大使
二.木内良胤 駐伊参事官
三.寺岡洪平 駐伊三等書記官、後にハンガリー代理公使
四.野口芳雄 通訳官(ブルガリア)
五.柳澤嘉寛 日高従者
六.平田雅二 駐伊理事官
七.菅良 通訳官
八.犬丸秀雄 文部事務官
九.中村春太郎 丸善社員
十.多田利雄 書記生(トルコ)
十一.新村徳也 書記生(トルコ)
十二.岡忠 書記生(トルコ)
十三.永田大二郎 三等書記官(スイス)
十四.中川進 三等書記官(ドイツ)
十五.岡本清福 陸軍少将 遣欧使節
十六.与謝野秀 一等書記官 遣欧使節
十七.甲谷悦雄 陸軍中佐 遣欧使節
十八.小野田捨次郎 海軍大佐 遣欧使節
十九.土屋準 二等書記官(スエーデン)
二十.武川基 官補(スイス)
二一.田辺宗夫 三等書記官(トルコ)

満州国邦人、フィンランドとの国交断絶による相互の交換、アフガニスタンへの赴任等は省略した。

以上

参考文献

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