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光延東洋海軍武官一家が体験した戦時下の欧州 第一部

                                 
<序>

下の母と子が写る写真には「海軍武官邸1945年3月20日ベルリン入り」という説明書きが付いている。写っているのは元駐イタリア光延東洋(みつのぶとうよう)海軍武官の妻豊子(トヨと呼ばれる)と子供たちである。ベルリンをほぼ包囲したソ連軍は、いつ市内に総攻撃をかけるかもしれないというヒトラーのドイツ帝国の末期に、イタリア武官の家族がなぜこのような場所にいたのであろうか?

光延海軍武官については、イタリアのパルチザンに襲われて戦死するという悲劇が、日本においてかなり知られている。本編ではその光延武官の足取りを新たな事実を含めて紹介する。しかし本編では主として光延武官の父親としての姿をとらえる。そして一家の子供らの視線で、欧州の戦争を見て行くものである。

筆者はすでに当時欧州にいた駐在員の子供の体験を主体に、「日本人小学生が体験した、戦前のドイツ」と「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア」をこのホームページ上に紹介している。本編はその続編としてとらえるものである。



<イタリアへ>

1897年生まれの光延東洋中佐(当時)は1940年2月7日付けで在イタリア日本大使館付き海軍武官を任ぜられた。そして同年5月2日、先任の平出英夫大佐と共に、天羽英二駐イタリア大使を訪問し、着任のあいさつをしている。この時の欧州赴任に際して特筆すべきは、光延武官は家族を帯同したことである。その家族は以下の通りだ。

妻トヨ、  (1908年生)
長女 孝子 (1930年生 当時10歳)
長男 旺洋 (1934年生 当時6歳)
次男 明洋 (1937年生 当時3歳)
厳密に言うと幼くして男の子を一人失っている。また1943年には七洋がイタリアで生まれている。

1939年9月にドイツがポーランドに攻め込んで以来、ドイツ、イギリス、フランスが交戦国となった。ドイツでは邦人の避難勧告も出され、駐在員の婦女子はほとんどが日本へ引き揚げた。フランスのマルセイユからイギリスに向かう日本郵船の照国丸が機雷に触れて沈んだのは同年11月21日のことである。非交戦国である日本の船も、戦災の危険に直面するようになった。
翌年になっても欧州からの邦人の帰国の波は続いた。1940年3月4日の朝日新聞には
「話題満載の榛名丸帰る。7つのお嬢さん、人形と女中を連れて帰国」と、7つの子供が親を残して一人で欧州から船で引き揚げる模様を伝えている。逆に欧州に向かう邦人は非常に限られた。

そんな中、天羽英二駐伊大使も日本にいる妻美代をローマに呼び寄せるべきか悩んでいた。そして1939年12月12日には来欧を見合わせるよう打電した。しかし最終的に美代は翌年2月2日の筥崎丸でナポリに向かった。そしてそれから1カ月半ほど経った3月16日、光延一家は白山丸に乗船したのであった。幸いイタリアはまだ交戦国ではなかった上、外交官パスポートであれば保護も厚いので、家族の帯同が可能であったのであろう。また光延武官は家族と一緒に過ごしたいという気持ちが強かったとも言えるかもしれない。当時の日本郵船の配船表によると白山丸のナポリ到着は5月2日である。その日のうちにローマに着き天羽大使に挨拶したことになる。

それにしても欧州開戦直後、子供連れで航路、欧州に向かったのは筆者の調べた限りでは光延家ぐらいである。(翌年はシベリア鉄道を利用した外交官家族の赴任例がある)

この白山丸の航海に関し長女孝子さんは次のようなことを覚えている。
船は横浜から神戸に止まり次の門司では一泊する。最後の日本ということであろうか、その際に光延家は山口県の温泉に泊まった。旅館の仲居さんが夕食の献立表を持ってくると、武官は
「そういう客用ではなくて、君達が食べる魚がるだろう」と聞いた。中居さんが
「メバルがございます」と答えると、
「それを煮付けてきてくれ」と半ば命じるように言った。
これが光延家の最後に日本で口にした魚であった。そして戦後もずっと長女孝子さんはメバルが好物となった。

ナポリまでの約40日の航海中、慣れない洋食のコースで母親トヨはお腹を壊して寝込んでしまう。
そして船が赤道近くを通過するとき、恒例の赤道祭りではないが、なんと武官は羽織袴で顔を描いたお腹を出して、反っくり返り、おへそに煙草をくわえさせた踊りを乗客の前で披露した。いわゆる「へそ踊り」である。

孝子さんが戦後、光延武官の上司に当たるベルリン駐在であった阿部勝雄中将の遺族、信彦さんに書いた手紙には
「しかし阿部様は父親、光延東洋の広く(?)知られた、かくし芸などはご存じないのですね?本人が言う訳もなし、と私一人ニンマリしております。“へそ踊り”、“どじょうすくい”、、、etc
この話は家族のみが知らなくて、父が何故にローマへの航海の船室への手荷物には、絶対袴を入れろと言い張ったのか、母が悟りました時は、船室にこもって号泣したとか。」

ローマには先に清水盛明陸軍武官が着任したところであった。清水武官は三味線が自慢であった。
そこで二人の間では清水が三味線を鳴らしたら、光延がへそ踊りをするという申しあわせになっていたが、実現しなかったという。

ローマの武官邸バルコニーにて 左から孝子、武官、明洋、トヨ、旺洋



<ローマにて>

先述の天羽駐伊大使の記した「天羽日記」には5月11日、早速光延武官のエピソードが出てくる。

「昼 光延のために(イタリア)空軍関係者招待。食後庭前でコーヒー。光延手品。遅くまで雑談」

光延武官はイタリア空軍関係者が多く集まる席で早速手品を披露し、好評を得たようである。光延武官は総じて芸が達者であった。

もう少し天羽日記から光延武官の登場する個所を拾って見る。
「6月4日 光延中佐来談。時局の件。パリ在留民は引き揚げたるが、戦争の危険切迫。
6月8日 何となく気騒がし。光延武官時局切迫談。」

1940年5月10日 ドイツ軍はベルギー、オランダに侵攻する。そしてさらにドイツ軍は南下してパリにも迫った。昨年のドイツに続いて、今度は多くのフランスの邦人が引き揚げを始めた。パリが占領される6月10日には、いよいよイタリアもドイツ側について英仏に参戦する。こうした状況の中、光延武官はドイツ軍の侵攻見通し、イタリアの態度などについて大使と語っていた。日記を続ける。

「6月19日 光延海軍武官 諜報者より5000リラにて仏国に対する独伊の(講和)条件内報を受ける。そのうち一部本日の新聞にすっぱ抜き。金儲けにかかりしか。
6月25日 光延武官、停戦条件を諜者より入手せりと得意。」

イタリア参戦間もない時期、光延武官はその務めとして、イタリア人の諜報者を使って情報を集めようとしている。しかしイタリア人特有か、あまり質の良い情報ではなかったようだ。外交経験の長い天羽大使は、そんな光延武官の行動を、少し距離を置いて見ている印象である。

11月15日に武官は大佐に昇進する。そして年末には天羽大使こが本国に帰国したため、これまで幾度か引用した天羽日記による当時の詳しい状況は分からなくなる。

<武官の性格>

イタリア勤務となった武官はイタリアの風習のままに午前中は武官室で仕事、昼食にいったん帰宅、ゆったり間をおいて午後から夜へとまた仕事で、夜は宴会も多かった。
お昼の帰宅の途中では、街角で売られているアツアツの焼き栗を外套にくるんで
「ホラホラ、温かいぞ」と子供たちに渡した。秋から冬にかけてのことであろう。
子供たちは本当に温かい焼き栗をフーフーと頬張った。武官の人柄を表すエピソードであるが、これが気に入らなかったのは、生真面目な母トヨである。
「いやしくも日本帝国海軍武官ともあろうお方が、街のおばさんが売る焼き栗を懐に抱えてとは、、、」と嘆いた。

また時間厳守に対しては脅迫的に近いものがあった。
孝子さんのピアノの先生を決める際には約束の時間の少し前から、武官は外を窺っていた。そしてある先生候補は約10分前に到着し、5分前に門扉のベルを鳴らしたのを見届けた。当時のイタリアでは珍しいことであろう。武官はすぐさまこの先生に決定した。遠縁の中にユダヤ人の血が混じっているということで、イタリア国立サンタルチア音楽大学を退職させられた先生であった。
ピアノの上には「孝子、ピアノは弾くべし、叩くべからず」というメモ書きがあった。これは武官の手によるものであろう。

母親トヨはオペラにのめりこんでしまった。夜は外交的な付き合いがあるので好きなオペラ鑑賞に行くことができない。そこで考えたのがマチネー(昼間の興行)であった。武官事務所の一番小さな車フィアットを頼んでおいて、オペラ会場へ。終演後帰宅すると直ちに夜の服に着替え、素知らぬ顔で客を待ち受けた。鷹揚な武官はそんなことは全く気付かなかった。

<武官のもてなし>

次に筆者が見つけた光延家に関する記述は頼惇吾中佐の記した「その前夜」である。頼は日独伊三国同盟締結受けて欧州出張中で、イタリアも訪問する。

1941年5月18日には以下のように記されている。
「8時半ごろ宿を出発し(光延)武官邸に向かった。“光が東洋に延びる”と、縁起の良い名前として知られていた。可愛らしいお嬢様と、二人のお坊ちゃん、それに奥様も愛想よく出迎えて下さった。やがて食堂が開かれて、貴重な日本酒にビール、それから数々のご馳走が出た。」

光延東洋の名前について語られているが、当時は上の説明と同じような意味から「光は東方より」ということが日本では語られていた。簡単に言えば東洋礼賛である。偶然苗字に「光」の字があるので、ご両親は「東」の字を名前に入れたのであろうか。
そしてこの光延家の名前へのこだわりは子供にも引き継がれた。男の子の名前が旺洋(おうよう)、明洋(めいよう)、七洋(しちよう)と皆「洋」が最後にくる。海軍の軍人故、太平洋にちなんだ「洋」の文字を入れたのであろう。付け加えると、同じ発想から当時は洋子という名の女性が多かったという。

「最初にご夫婦で献立の相談をされたとき、ご主人(武官のことー筆者)は奥様に品数が多すぎると言われたそうだが、夫人はまたお呼びする機会もあるまいからと、出来るだけ品数を揃えることとし、今日も早朝から起きて、買い出しに行かれたそうである。

ご主人の光延武官も料理に興味があり、夫婦で包丁を執って、出来るだけ客人を喜ばせようとする、好意が満ち溢れていた。その並々ならぬ好意を忘れぬために、献立を覚えておいた。

鰹の刺身、
奴豆腐(豆腐は主人の手製)
胡瓜なます、
焼小鯛(小らっきょう添え)、
卯の花玉子青豆入り、
新空豆塩煮、
吸い物(鰻の肝吸い)、
鰻のかば焼き(焼くのに随分苦労した由)
小エビをオリーブ油でお座敷天婦羅、
焼いた目刺(夫人の手製)、
くさやの干物、
牛肉の照り焼き(豆葵付添え)、
油揚げ味噌汁、
蕗と蕨の佃煮(イタリアの材料で手製)、
漬物、
ご飯

という、何とも大変なご馳走であった。目刺を作るのにご主人も一緒に、大層骨を折られたそうである。」

当時の軍人で、料理を客に自ら作るというのは珍しかったのではないか?そしてこれだけの料理を夫婦で用意した。材料は一年以上前の赴任時に、船に積んで持ち込んだものを除いては、現地の代用品で日本食を作った。今でも海外でこれだけ作れる日本人でもはいるであろうか?
一方著者の頼惇吾氏は良くここまで詳しく記録しておいてくれた。技術者の正確を求める性格ゆえであろうか?もう少し頼の日記からこの日の描写を続ける。

「皆久し振りに頂く、本式の日本食が嬉しくて、子供のように飽食し、(一緒に訪問したお客の)中には心易いままに、あとから消化剤を求める人さえあった。
この日のご主人は羽織、袴に白足袋、夫人も和服であった。食後日本のレコードをかけて旅情を慰め、十二時ころ、辞去した。」

この日も白山丸での赴任時に、船倉に預けずに船室に持ち込んで来た羽織と袴が用いられている。

また当時品薄になっていたイタリアのワインを武官は買いだめした。自身は特にお酒は好きというほどではなかったが、部下が来ると「地下室に行って好きなワインを取ってこい」と言って自身も楽しんだ。孝子さんも12歳のころ(1942年)からこの地下室のワインを薄めて飲んだので、その後を通じてお酒好きの部類になってしまったという。

付け加えると武官の人をもてなす血は、子供たちにも引き継がれているようだ。父の姿の記憶のない七洋すらも、のちに自宅に40人ほど会社の人を自宅に呼んだパーティーを好んで行ったりした。

 

1941年3月5日 ローマ 左は阿部勝雄中将 阿部は日独伊三国同盟軍事委員
として光延武官の上官でもあった。


<日本開戦>

1941年3月5日の朝日新聞には「ローマの邦人、帰国のためにソ連の通過査証を待っている」と出ている。欧州から最後の帰国ルートはシベリア鉄道経由であったが、ソ連は容易くは査証を発行しないので、どの家族もそれを得ることは出来なかった。そしてこうしてイタリアには例外的に沢山の婦女子が戦時中も滞在することになった。

日本が真珠湾でアメリカ海軍に襲いかかり、開戦の知らせがローマに届いたのは、時差の関係で1941年12月7日の夜であった。その時の光延武官の反応が残っている。

朝日新聞のローマ支局長を引き継いでまだ7カ月の衣奈多喜男は、街の日本参戦に関する反響に関する電報を日本に向けて打った後、深夜にもかかわらず大使館内の武官に電話を入れた。

「とうとうやりましたね!」と衣奈が言うと
「そうか、そりゃーよかった」と元気な返事が返ってきた。
衣奈にはこの返事はとんちんかんに響いた。武官は日米交渉の平和的解決を信じ、そればかりを念じていたからである。よって
「日本がハワイを攻撃して大成功というニュースです。」と説明すると、
「ああ、そうだったのか」と冷ややかに声が落ちて黙ってしまった。

念ために補足すると光延武官は衣奈より「とうとうやりましたね」と聞いた時に、日米和平交渉が平和的に解決されたと思ったのである。

衣奈はここではただ「武官」と書いている。厳密にいうと当時ローマには光延海軍武官の他に、清水盛明陸軍武官が駐在していた。しかし筆者は、これは光延武官の発言で間違いないと考える。後に紹介するが、ローマ脱出の際、光延武官の冷静な行動に関し、衣奈がとても好意的に書いているのと同じ語調だからである。つまり光延武官は海軍内部では、日米和平推進派であったと言って間違いない。

<子供たちの日常>

イタリアには日本人家族が、開戦を迎えてもかなり残留していた。光延家の孝子、旺洋、明洋が親しくしていたのは以下の2家族である。以降何度か登場するので、紹介しておく。

毎日新聞ローマ特派員小野七郎家の子供
小野満春 (1934年生)
紀美子   (1937年生)
他に隆吉、町子

イタリア三菱に勤務する牧瀬裕次郎の子供
満治  (1933年) (小野満春と名前の読みが同じで、ミミちゃんと呼ばれる)
晴子  (1936年生)
利春 (1941年生)

どの家庭も子供の数が多いのは、当時の一般的特徴であろうか?1934年生まれの長男旺洋は特に同年代の小野満春、牧瀬満治と仲が良く、1937年生まれ次男明洋が小野紀美子、牧瀬晴子と同年代であった。彼らは戦時下のイタリアを共に経験し、逃亡生活の中で敗戦を迎えることになる。

開戦当初、これらの子供達は駐在員の家族としての生活を楽しんでいた。それを生き生きと表しているのは、上に書いた小野満春が帰国後まもなく書いた「僕の欧米日記」である。出版されたのは戦後間もない1948年、当時14歳である。筆者の調べる当時の状況に関し、この本によって実に多くが解明されたことをここで述べておく。そして日記の冒頭は次のように始まっている。

「ローマの思い出。五つの時、イタリアに来て、10才の時まで約5年間のローマの生活は、今から考えると、天国のような暮らしだった。」

筆者自身もこの「天国のような暮らし」という言葉を、取材中何度か他の欧州戦争体験者からも聞いた。広いアパートには女中がつくのが当然で、日本では到底出来ない生活であった。日記にはイタリアの日本人小学校の様子も語られている。



ローマ時代 前から2番目が光延孝子さん。子供のころから色が黒かった。

「ローマには大勢の日本人の子供がいた。けれど日本の学校は出来ていなかった。僕がイタリアへ来て2年目、日本クラブの中で、僕たちは四宮先生(昭和通商駐在員)に勉強を教えていただくようになった。
そのうちまた子供が増えたので、日本クラブでは、とても部屋が足りなくなった。そこで
“ウーゴ、バルトロメオ”というイタリアの小学校の教室を五つ六つ借り受けて、そこで勉強することになった。

先生もだんだん増えて、僕が三年生になった頃には、内本先生(テノール歌手として留学中)、五十嵐先生(外務省)、野一色先生(外務省)、鍵山先生(日銀)、幸ちゃん、佐藤先生と先生の数も増えた。」

現地の親たちによって運営された小学校で、先生は駐在員の中から選ばれた人が担当した。教科書も充分な数がなかったので、親たちが手書きで必要部数を作成した。

「僕らはバチカン(日本)公使館の庭で、運動会をやったことがある。その時、リレーで僕らの組が勝って、賞品をいただいた。
その後“労働の後の劇場”で僕らの学芸会があった。僕とミミちゃん(牧瀬満治のこと)、(光延)孝子さんとで、(狂言)“末広がり”をして、大人の人々を笑わした。」



この運動会を写した写真は偶然井上まゆみさんが持っていた。

また建国記念日、天皇誕生日などの日本の祝日にあたる日には、邦人は大使館に集合して共に祝った。そんな大使館に向かう日、迎えの車が来ているのにメモ(明洋のこと)だけが現れない。武官はイライラし出したが、ようやく現れた明洋はものすごい匂いを発した。トヨが「キヤー」と悲鳴を上げた。明洋はお洒落をしようと、母親の香水をひと瓶振りかけてしまったのだ。トヨはあわてて風呂場に連れて行った。

大使館に着くと、正門の左右には制服姿のイタリア人の門衛が立っていた。その姿によほど偉い人と思ったのか、明洋はそれぞれの前に出て深々と最敬礼した。どこかお茶目であったようだ。

そして当時の子供たちの良き思い出の筆頭は、次の出来事だろうか?
「1942年4月のある暑い日であった。ローマにいた日本人は、皆“日本の友の会”の発会式に出席した。ムッソリーニは堀切大使と一緒に来られた。
僕らは牧瀬君たちと並んで迎えた。こんなに間近にムッソリーニを見たのは初めてであった。」
勿論光延家も出席している。



写真後方右より光延トヨ、おそらくその隣が小野七郎の妻桃代。
中央着物を着た背の高い女性が光延孝子。旺洋、明洋はその右側3人目と4人目。



1942年10月21日 ベルリンから阿部勝雄中将(中央)とその秘書 辻壽(つじ すず、右端)が来て、ローマ近郊の観光地を訪れた。左からトヨと明洋。辻とはこれが縁か、終戦時に共に行動することになる。

<ローマ脱出>

しかしながら日本開戦からほどなくして、イタリアも劣勢となる。翌1942年末にはイタリア軍はロンメル将軍と共に戦ったアフリカから撤退する。1943年春、特別にソ連の通過ビザを得て日本からイタリアのローマに赴任してきたばかりの日高信六郎新大使は書いている。

「着いた翌々日が天長節(4月29日)。例年の通り大使官邸に集まった在留民諸君に会ってみると、婦人子供が3,40人もいるのですっかり面喰った。聞いてみると、アテにしていた最後の日本船が来なくなったため、開戦以来殆ど全部の人がそのまま残っているのだということであった。

ともかく万一に備え、この人達をおびえさせず、また外部にも目立たぬように、安全な地方に移ってもらうことを工夫しなければならぬと考え、主だった人々に相談して、まず避暑という名目で北伊の山間に家族を移すことにし、次に(オーストリアの)ウィーン近郊に適当な建物を見つけて、集団生活が出来る手配をしたのであった。」

5月8日、日高大使はイタリア国王エマヌレ3世に対し信任状を提出するが、光延武官、清水陸軍武官ら合わせて20名の外交官、軍人がその場に出席した。国王はソ連、トルコを経由しての長旅をねぎらった。

実際には7月9日に連合軍がシチリア島に上陸した後、大使館より邦人への避難勧告が出る。日高大使の書く「避暑という名目」と合致するタイミングだ。また7月25日にはムッソリーニが内部クーデターにより失脚する。この時、小野七郎ら特派員は「(引き継いだ)バドリオ政権が連合国に休戦を申し込むのも近いだろう」という見通しであったのに対し、日高大使、光延、清水両武官は
「イタリアは日独と共に、あくまで共同戦線を張るであろう」イタリアの説明に基づいた楽観的態度であったという。



大使館前にて 主なる外交官、軍人が集合 堀切善兵衛大使(中央)と光延武官(前列右から3人目)、清水陸軍武官(前列左から3人目)

上記ウィーン近郊の避難場所(ウォーフィング)に先立ち、日高大使が家族を移した“北伊の山間”とはメラーノのことであった。多くの邦人家族はまず避暑地メラーノに移っている。光延家も同様であった。以下も僕の欧米日記からである。

「8月初め、小野満春がメラーノのパルクホテルに到着すると)光延君や牧瀬君が、ぞろぞろ挨拶にやってきた。(中略)そしていろいろと新米の僕に(メラーノのことを)教えてくれた。」

8月より前に光延家はメラーノに避難していたことが分かる。

家族を避難させた後も依然ローマに残る光延武官はローマ脱出直前の8月20日、嶋田田繁太郎海軍大臣宛てに「親展」で手紙をしたためている。骨子は以下の通りだ。

☆ 小官としては伊国の戦力は勘定に入れる価値なし。少し極端かも知れないが、看板として使用する他、実際の戦闘には役に立たない。

☆ 自分らは伊海軍と最後まで行動を共にする意向にて、場合によってはバチカンに逃げ込むことも考え居り候。帝国海軍の名誉を汚すようなことは致さぬ覚悟にあり候。

☆ 家族はローマ爆撃前に北伊メラーノに移転、皆元気、但し子供の学校だけは閉口致して候。

子供の教育のことを心配する親心が出ている手紙である。またローマが危ない場合はバチカンに逃げ込むことも検討していたというのは、これまで知られていない史実である。ファシスト政権下のイタリアに囲まれたバチカン市国には、それまで連合国の外交官が籠城するような形で留まっていた。逆に連合国がローマを占領したら、今度は日本がバチカンに籠城しようという考えであったのであろうが、入国ビザもないまま入り込んだら、それこそ帝国海軍の名を汚すことになっていたであろう。

嶋田海軍大臣宛てであるが、厳密に言えば同年7月17日付けで海軍大臣は辞任している。そして親展の手紙を書いているのは、光延武官の妻トヨと嶋田海軍大臣の妻が姉妹に当たり、嶋田海軍大臣は光延武官にとって義理の兄にあたるからである。切手も貼られていない手紙の裏には1944年1月11日受と赤字が入っている。同年1月5日にソ連の通過ビザを得て、例外的に欧州から帰国した日本人外交官に託され、運ばれたのであろう。

この手紙は孝子さんの遺品を整理していて、七洋さんが見つけたものである。戦後、嶋田海軍大臣の関係者より返還されたと思われる。

さかのぼって1941年10月、嶋田が海軍大臣に任命された知らせをローマで受けた武官は、
「何で義兄が?東條首相は言ってみれば八方美人のような義兄ならば組みやすしとみたのではないか?」と感想を家族に漏らしたという。嶋田は武官の海軍兵学校時代の直属の師でもあった。



封筒の表書き


手紙の1枚目 (「写真館」では全文公開しております)

9月8日、いよいよ外交官、軍人ら最後までローマに踏みとどまっていた日本人も、集団となって車でローマを脱出、北上した。朝日新聞の衣奈多喜男は同僚と一台の車に乗って移動中、車のトラブルでグループから遅れてしまう。そしてすっかり日も暮れて心細くなった時、自動車の一群が道の片側に休止しているのが分かった。

「路上に白いシャツと海軍帽がくっきり浮いて、はっきり海軍武官の光延大佐だと分かった。
“武官”と、大きく声をかけると
“おう、止まれ、止まれ。急ぐこともなかろう。この列に入って一泊しろ”
いつもの落ち着いた口調である。(中略)

半月が上がるころ、彼(光延武官)は用意の冷や飯を取り出して、器用な手つきで握り飯を作り始めた。三角握りというのが彼の特徴であって、普通の者にはそう簡単に握れるものではないというような話を、ポツリポツリ言い出すのが、この人の重厚な性格を表していて、騒がしかったここ一両日だけに、聞いていてかえって頼もしい感じがするのであった。」

この危機的状況下でも、冷静な光延武官の料理の腕前が披露された。

「海軍は艦隊行動をとる。歩みは遅くても、一人の落後者も出さないことにしている。
(中略)敵がいつ追いついて来るかもしれない逃避行に、武官は断々乎と落ち着いて、そんな話もした。海軍軍人として、まさかの時は立派な態度で死ねるようにと、いつも制服制帽をつけていた。」

当時の駐在員の中でジャーナリストは、戦後は軍人に辛らつな言葉を書く人が多かったが、ここでは違った。そしてこの好意的な描写から、先に紹介した開戦時の武官は、光延武官であったと筆者は確信するのである。

大使館はベネチアに移ったが、光延武官の海軍武官室は今後の独伊海軍との連絡を考え、ローマより北方670キロのオーストリア、スイスとの国境に近いメラーノに移る。あらかじめ家族の避難していた場所である。



避難先メラーノで。この写真の真ん中で唯一、衣奈の文章通りに制服を着ているのが光延武官。
説明書きに「ペンション ローザ」とある。ここに海軍武官室をおいた



車でローマを脱出する際の光景。


メラーノへ避難した海軍関係者の署名

<メラーノにて>

そして1943年10月24日、光延七洋(しちよう)さんがここメラーノで生まれる。また同年8月11日には毎日新聞の小野七郎家では、町子がやはりメラーノで生まれている。近くのコルティナ ダンペッツオに避難していた満洲国外交官の長女山下洋子さんも1943年、同地で生まれている。さらには大使館嘱託野上素一夫妻にも1944年5月17日、子供が生まれ光子と名づけた。まだ多くのイタリアの日本人は、枢軸国側の将来に期待を抱いていた証左と言えるのではないであろうか?

三菱の牧瀬家他民間の日本人子女はウィーン近郊に移り、メラーノには海軍武官府に働く数名の日本人と光延一家、そして小野一家、さらに仮日本領事館員として外務省の馬瀬金太郎が残るのみとなる。ローマに日本人学校があったのはすでに書いた。この時、コルティナ ダンペッツオに避難したグループの小学生には学校が開かれたことが分かっている。しかし小野満春の日記から判断すると、メラーノでは小学校は開かれていないようである。武官の悩んだ子供の教育問題は解決しない。



1944年5月 旺洋、明洋と庄司元三(左)と鮫島教授がピクニック。イタリア降伏1年前の最後の楽しい出来事?
鮫島龍雄海軍大学教授 通訳として日本の潜水艦 伊29号で1944年3月11日ロリアン港に着いたばかり。庄司元三中佐はドイツの潜水艦U234で日本に向かう途中でドイツが降伏、自殺で自殺する。


<光延武官の死>

武官の死については多くの書物等で詳細に書かれている。よって筆者はここでは簡潔に、米国による日本外交の暗号電報の解読文書から状況を述べるに留める。

1944年6月6日 東京はベルリンに向け光延武官のスイスへの異動を伝え、後任は山仲伝吾であると打電する。光延武官はスイスの駐在武官として異動することが正式に決まったのであった。

6月7日、光延武官は山仲伝吾補佐官とともに、モンテカシーノにドイツ海軍司令部を訪問し翌日8日の17時、メラーノに戻る途中、アペニン山中でパルチザンに襲われ左前頭部を撃たれ死亡する。
光延武官、山仲補佐官とも制服を着用し、攻撃したパルチザンは連合国の支援を受けている部隊であったとし、欧州にて最初の戦死者と認定された。これは欧州側の働きかけであったが、戦死かどうかで恩給とかの額も変わるという事情もあったのであろう。

こうして光延一家がスイスに移る計画も無くなってしまった。イタリアの北部の山中に海軍武官がいても正直それほど仕事はなかった。(筆者の“スイス和平工作の真実”参照)
協調すべきイタリア海軍はもう弱体化している。しいて言えば欧州情報の収集と、航空機等の技術の購入位であったろう。よって光延武官はスイスに移った方が、中立国で情報収集もさらに積極的に出来て、仕事も充実したものになったのではなかろうか。

同じころベニスからメラーノに向かった三菱の牧瀬裕次郎と、大倉商事の朝香光郎はベニスから来た40キロの地点で同じくパルチザンに捕えられ、殺害されてしまう。依然ムッソリーニの支配下であったが、パルチザンは大掛かりに活動していた。牧瀬裕次郎は旺洋と仲の良かった満治(ミミちゃん)のお父さんである。

武官の死に対する孝子さんの戦後60年以上経た回想は以下のようだ。

「山中の道路にはパルチザンが車をパンクさせるための大きな鋲のようなものを撒いてあり、車を止めたところを撃たれてしまった。しかしあの時、パンクしようがしまいが、突っ走っていたらどうだったのであろうか?

スイスに入国していようが、イタリアに残ろうが、ポチダム宣言を日本が受諾した時に、父は生きていなかったような気がします。かの庄司中佐がドイツ降伏の後、ドイツ潜水艦の艦内で自殺なさったように。」

孝子さんは言葉の端々から、武官がどこか達観していたのを感じ取っていたのであろう。

「丁度、父が亡くなったその時刻、母が台所で働いているとどこからともなく一羽の雀が迷い込んで来て、左前頭部をガラス窓にぶつけて落ちたと。あれは父の魂だったのかも。あなた(七洋のこと)死後の魂という存在をいかが思います?」


「1944年5月9日 コルティナ ダンペッツオ→ベネチア」と説明がある。
陸軍武官室のコルティナ ダンペッツオを経由して、大使館のあるベネチアに向かったのであろう。
武官生前最後の写真のはず。


三井物産の駐在員で、開戦とほぼ同時期にベルリン海軍武官室嘱託となった和久田弘一は丁度この時、特別の旅行許可証を持って、ドイツ軍人の使う休暇列車を利用して、メラーノとの間を往復した。

6月6日、メラーノに到着すると武官は顔を見るなり
「大変な時にやって来たなあ」と言って笑った。そしてその翌日に武官が亡くなった。
武官室は大騒ぎとなり、密葬を済ませると和久田は出張の日程を切り上げ、戦死の第一報を持ってメラーノを発った。三井からイタリアの海軍武官室勤務となった一色義寛夫妻がシトロエンでブレンネル峠の列車の駅まで送ってくれた。


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