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光延東洋海軍武官一家が体験した戦時下の欧州 第ニ部
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<ドイツへの避難>

このころからメラーノに残る邦人は、ベネチアや、コルティナ ダンペッツオに分散していた外交官と話し合いつつも、「どうしようか、どうしようか」とうろたえるばかりであった。

光延武官の殺害された頃、アメリカの重爆撃機がイタリアを空襲し、連合国軍がフランスのノルマンディーに上陸する。それまで決めあぐんでいた大人たちもようやく対策を決めた。そしてベネチアの日高大使は9月12日、大使館員の今後の対策を日本に打電した。

「自分と木内参事官、他二名はガルドーネに残る。幾人かはメラーノに移りベルリン大使館と接触、邦人のドイツへの疎開の世話を行う。他の館員と家族は早急にドイツに移動する。おそらくベルリンのドイツ大使館に向かうであろう。民間の不要不急の者はウィーン南方40キロのウォーフィングに(すでにイタリアからは幾人かの邦人が避難している)避難する。」

小野満春の言葉では「もうどうなってもドイツに逃げろ」と言うことになり、ベルリン郊外のメクレンブルクが彼らの避難先となった。このころすでにベルリンでは、不要不急の邦人はベルリン郊外にグループで疎開していた。

しかし間もなく、「メクレンブルクは止めて、ドレスデン近郊のケーニッヒシュタインに行け」という指令を受け取った。先回りするとこの変更は、移動距離は少し短くなったが、イタリア在住邦人にとってとても高いものについた。その後の日本に帰るまでの苦労が、実際メクレンブルクに避難したフランスなどからの引き揚げ邦人と比べて、格段と大きいものとなったからである。

こうして9月28日、小野家、光延家はメラーノを発ってドイツに向かう。今度は800キロの北上である。列車で越えた独伊の国境ブレネル峠は、9月というのにもう銀世界であった。

ドレスデンの駅で乗り換える間、駅のそばのホテル“ドイッチャーホーフ”で朝食を済ませると、満春は旺洋らと駅の近所を見物して、習いたてのドイツ語で一、二軒の店を冷やかした。子供は言葉を覚えるのが早かった。

その後ウィーン郊外ウォーフィングに避難していた元ローマ駐在者で、民間人を主体とするメンバーがケーニッヒシュタインに合流する。牧瀬一家がその中にいた。旺洋、小野満春、牧瀬満治の仲良し三人組が再会した。
10月1日にはベルリンの阿部勝雄中将が、嶋田元海相宛に光延一家の無事な避難を伝えた。光延一家に関してはベルリンの海軍武官室も常に気を配っていたようだ。翌日には5月にメラーノを訪れた鮫島通訳をケーニッヒシュタインに派遣した。

ベルリンからは大使館の人間も来て、今後についていろいろ相談して帰って行ったという。元ローマの大使館勤務者の内、家族持ちはすでにベルリンに転勤となっていたが、外交官の優先か民間人はここケーニッヒシュタインに留まるようにということになった。

ドイツの敗戦を考慮しなくてはいけなくなってきた。ドイツの日本大使館の基本的考えは、外交官パスポートを持つものは、交戦国アメリカの保護に入る、一方多くの民間人は田舎に疎開し、そこでいまだ日本とは中立のソ連軍に保護され、日本に送り帰してもらうというものであった。よって西からは米英軍、東からはソ連軍が攻め込んでくる中、慎重にソ連が占領する地域を予測し、その中に避難地を探した。ケーニッヒシュタインもソ連軍の占領下にはいると予想したのであろう。

そしてこのグループには外務省の関係者が同行しないので、岩崎栄三菱イタリア支店長が臨時外務省職員として一行の代表を務めることになった。他にここに滞在することになるのは、以下のメンバーであった。

光延家族 (妻 子供4名)
小野七郎(妻 子供4名 七郎は翌年2月より合流) 女中 井上幸子
藤井歳男 (三菱)
渡辺俊夫 (三菱 妻 子供4名)
野上素一 大使館嘱託 (ハンガリー人妻マルキット、子供1名)
井上正 海軍書記生(三菱という記録もある) (妻 子供2名)
一色義寛 三井支店長 (妻)
内本實 テノール歌手
牧瀬せつ子 (子供3名) 女中 利田(かがた)千代
田村清生 (貿易斡旋所)
村田豊文 ウィーン大学客員教授 (妻 ローマ組ではない)
小西今太郎 (料理人、ローマ日本人会)

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子供の多い避難グループであった。筆者が計算したところ18名になる。ちなみに1945年1月20日「在留邦人保護、避難及び引き揚げ関係 在独邦人名簿1945年1月20日」というドイツ大使館の作成した名簿には、井上正を除いてケーニッヒシュタインのイタリア組も含まれている。それによればドイツには欧州各国からの避難者を含め総勢542名の邦人が滞在し、内女性が97名、子供は男女合わせて78名であった。

ケーニッヒシュタインで子供達は地元ドイツの小学校に入った。このよう状況でも子供の教育が大事と親は考えたのであろう。旺洋らは五年生であったが、言葉の関係で二年生のクラスに入った。満春はメラーノでドイツ語を習っていたからそう困らなかった。しかし「(光延)旺洋ちゃんはまるっきり分からないから、僕と牧瀬君はその世話をするのに大変骨が折れた。」と日記に出ている。さらに

「町の東はずれに、この町に似合わぬ堂々たる墓地がある。そこに光延さんのおじさんと、牧瀬さんのおじさんと、もう一人ウィーンでジフテリアで死んだ守(マモル)ちゃんのお墓が出来た。三人のために石碑は一つだけど、立派なお墓だった。
(もう一人の犠牲者である)朝香さんの遺骨は未亡人と共に、(ベルリンの邦人避難場所)ノイルッピンに行った。」

これからの苦労が予想される避難行動を考えると、遺骨はいったん埋葬した方がよいと考えたのであろう。そして同地は戦後東ドイツに入り、入国すら困難となったが、ドイツが統一されて間もなくの1994年、ほぼ50年を経て、長女光延孝子さんが母トヨを連れて、その遺骨を引き取りに行った。



1994年 孝子さんのケーニッヒシュタイン再訪時 このモルダル川の支流のほとりの丘にお墓はあった。

1945年の2月、一行はケーニッヒシュタインから8キロ離れたバード.シャンダウに移るよう勧められた。良いホテルが開いているからとのことであった。

日々情勢が悪くなってきた。3月12日にはドレスデンへの大空襲があった。そこでようやく3月15日、引っ越した。この避難生活はこれから少し続くのだが、少年満春の観察眼はなかなか鋭い。日記には

「大人たちは(バード.シャンダウ引っ越しに関し)小田原評定を繰り返し、ぐずぐずしていた」とか、後には
「けちん坊の団長(岩崎のこと)さんに隠れて、お父さんたちがこっそり渡した酒とたばこで反ドイツのチェコの国境を突破した。」などである。

そしてバード.シャンダウにも空襲警報が発令されては、地下室に逃げ込む生活になった。

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光延家ベルリンへ>

また満春の日記である。
「光延さんの家族は、スイス国境に近いボーデン湖のほとりの“コンスタンツ”に行けと、ベルリンの海軍武官の方から命令が来た。
(1945年)3月26日の昼の12時。ちょうど空襲の最中だった。無数の米機の舞い狂う空の下を、カムフラージュをした自動車は、光延さんの家族を乗せてベルリンの方向へ、北を指して走り去った。
後でお母さんらは、ケラー(防空地下室)の中で“こんな危険な中を通ってまで、遠い遠いコンスタンツに行くほどこともあるまいのに”」と言っていた。
全くそうであった。急に5人も人が減って、僕は何か心がさみしかった。」

このように光延家はさらに250キロ北を目指した。この移動は当時満春も書くように、筆者にとっても興味深い。誰の発意によるものなのか、そしてなぜ西北に700キロ先に位置するコンスタンツに直接行かずに、最も危険なベルリンに行ったのか?などである。

この移動は部下である光延武官の遺族を思うベルリンの阿部勝雄中将の発意によるものであろう。阿部は前年の12月28日、日記に「光延夫人より手紙来る」と書いている。内容には触れられていないが、トヨは避難生活の窮状、子供の健康状態などを訴えたのであろうか。

また光延家の遺族は外交官と同じ待遇を受けるべきと考えたのであろう。同じ時期、清水陸軍武官の家族もいったん避難したドイツから、イタリアに留まる清水武官を含む外交官一行に戻っている。そして途中の道路状態などを考えると、直接コンスタンツに向かうより、陥落も近いベルリン経由の方が良いと考えたのか。

またベルリンに駐在していた扇一豊海軍大佐の日記より、その日程を知ることが出来る。(憲政資料センター蔵)

「3月22日 和久田弘一は車でバード シャンダウに向かう。
3月24日 光延夫人と子供4人、午後7時ベルリン着。和久田君の自動車旅行もご苦労であった。」

満春の日記では12時過ぎの出発なので、ベルリンへは7時間ほどかかったことになるが、この時期にしては苦労なく来られたと言えるのではないか。付け加えると一行がベルリンに向かった日時は、満春の日記の方がずれているようだ。扇の日記は続く。

「3月25日 今日は一日、光延家族のための日曜日となる。
子供4人が何れも弱々しく、奥さんも疲れ切った姿で痛々しく、気の毒に思った。
3月26日 光延家族は午前中、カイザーアレー(の旧武官室)に移す。」

なお3月25日、武官室は東京の嶋田元海軍大臣との電話をつなげることが出来た。トヨは泣きながら話をした。最後まで繋がっていた日本とベルリンの間の電話回線が閉鎖されるのは4月14日である。日曜日を光延一家のために費やした扇大佐だが、当時はもう仕事らしい仕事はなかったようだ。

三井物産の駐在員であったが海軍の嘱託となっていた和久田弘一は、実は光延武官殺害の前日にメラーノを訪れている。家族とも面識があったのが、選ばれた理由であろうか?そして和久田はこの時のことを戦後、自身の回想録に書いている。

「海軍事務所の運転手キューンと一緒に、大爆撃を受けた直後のドレスデンを通って行くことになりました。キューンはベンツ、私はフォルクスワーゲンで後を追うようにベルリンを朝早く出発しました。美しいドレスデンの街も一夜の爆撃で無惨に破壊され、死者5万人出たとのことです。

途中の村々で(ベルリンからの脱出者を取り締まる)検問を受けつつ、昼過ぎにイタリア組の宿泊している豪農の農園に到着、メラーノ以来の邂逅を果たしました。ベルリンに戻る朝、町外れの鉄道線路沿いの小高い丘にある光延武官のお骨を埋葬した所にお別れをして、帰路につきました。」

また阿部中将の日記では
「光延一家和久田君の車で着。劇的会見。子供達思ったより元気。茶菓を供す」と述べられている。再会を非常に喜んだことが窺える。

冒頭に紹介した写真は、この時に撮られたものである。写真からは想像できないが、市内は連日砲声が鳴り響き、空は煤煙で曇っていたはずである。

ベルリンの海軍武官事務所は初めグラーフ.シュペー街、日本大使館横の棟にあったが、1944年1月29日早暁の英空軍の大空襲で爆破され、カイザーアレーの武官邸に応急的に移った。


空襲を受けた後の海軍武官室

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しかしそれから一カ月と経たぬ間に同じ運命を辿る。そして2月の末に市の中心より南寄りのシャルロッテンブルグ地区、ベルリーナー.シュトラーセ93番地に移っていた。それでもベルリン市内である。そして日本人婦女子はすでに皆、ベルリンから郊外へと避難していた。光延家がおそらく最後にベルリンを発った婦女子であろう。


武官邸にて 孝子に抱かれる七洋と明洋。七洋が写った唯一の写真



ベルリン海軍武官室 “昭和18年以降記念署名帳”の光延家らの自筆サイン 3月24日ベルリン着、26日発、4月1日コンスタンツ着と読める
「計9名 午後6時40分、アンハルター(駅)よりコンスタンツに向かう」と下のカッコの中に書はいてある。阿部中将は敗戦引き揚げ時、後難を恐れずにこの署名帳を持ち帰った。

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この時、光延一家を連れてコンスタンツに向かったひとりの皆川清海軍中佐も、戦後手記を残している。その避難行は彼の手記のメイン部分ともいえる。自身にとっても印象的事柄だったからであろう。

皆川は敗戦間近にもかかわらず、奇しくもスイス国境の町コンスタンツのシュミット教授のもとを訪れ、ドイツ軍のロケットミサイル兵器“V1”用電池の特許の技術指導を受ける予定であった。ドイツの敗戦は近くとも、日本はまだ戦い続けるので、少しでもその技術を習得しようと考えていた。

下里一男技師、富士電機出身の嘱託神谷巷が同行を予定した。そして皆川は内心ではそのままスイスへの越境を考えていた。そこから、この時の様子を抜粋する。

「ちょうどベルリンに逃げて来た光延一家を、どこかに逃がさないといけないが、子女の胸が悪いのでスイスが適当ということになり、ちょうどコンスタンツに行く上記三名が同行することになった。
ドイツ海軍もイタリア武官の未亡人と言うことでいろいろと気を使い、汽車の切符の手配や、ドイツ海軍陸上勤務兵を一名随行させた。

コンスタンツまでの鉄道ルートは、ミュンヘンを経由するか、シュトットガルトを経由するかの二通りが残っていたが、独軍部はシュトットガルト経由の方が安全と判断した。」

3月26日午後6時40分、ベルリンのアンルター駅を発ち一行9名は南に向かった。ここには阿部中将の秘書の女性 辻壽(つじすず)も避難者として加わったので、光延家5名、総勢は9名である。阿部中将のイタリアの出張にも同行していた辻は光延家の子供たちとも面識があったから、同行したのかもしれない。

それにしても、女性ながら単身最後までベルリンに滞在していた辻の存在も興味深い。彼女は1913年生まれで、1941年1月6日発行のパスポートを所持していた。それから判断するとその前に日独伊三国同盟の軍事委員としてベルリンに着任した野村直邦中将の秘書として後を追ったようだ。(野村中将が潜水艦で帰国後は後任阿部中将の秘書に)

南へ避難するドイツ人でごった返す列車は、走っては止まりを繰り返した。貨車に乗り換えたり、貨車の中で夜を過ごしたりして、4月1日ようやく800キロ離れたコンスタンツに着く。普段なら一昼夜足らずの旅であった。

この時の孝子さんの記憶である。灯火管制の中、貨車の中で過ごした時間。残りも少なくなったオイルサーディンの缶詰で食事をとると、缶の底に残ったオイルの中に細い布きれを入れて、小さな灯火をともした。孝子さんは戦後もずっと、オイルサーディンというと、中のオイルを捨てることが出来なかった。「三つ子の魂百までも」ではないが、パスタに和えたり、野菜を炒めたりと利用した。

皆川らは小型トランク二個の軽装であったが、光延家はトランク十数個の大荷物であった。4人の子供の衣類等の必需品に加え、武官の遺品などもあったのであろう。
途中で乗り換えるたび、日本人と随伴のドイツ人でそれらの荷物を運び、夜はプラットホームに積み置いたそれらのトランクを、ドイツ兵が不寝番で見守った。
と言う訳で随行するドイツ兵がいたことはとても助けになった。それは老兵であったとのことだが、彼自身も市街戦が始まる前にベルリンを脱出できたことで喜んでいたであろう。

一行がコンスタンツに着いたころ、ベルリン海軍武官室ではスイスと日本に向け暗号電報を打っている。

まずは3月29日スイス、ベルンの西原市郎武官宛てた暗号電である。 
「光延一家はケーニッヒシュタインに滞在中、四人の子供の健康は悪化し、由々しき事態に達した。結果事態が急変するなか,危険ではあるが一家は南ドイツに移動することにした。辻雇いが同伴している。
彼らがコンスタンツに到着後、速やかに彼ら六名のスイス入国ビザの手配をお願いする。我々はベルリンとコンスタンツの二箇所で申請をしている。申請はすでにベルリンでなされたが、スイスへの伝書便に問題がある。よって我々は現地で申請したほうが早いのではないかと考えている。

彼らがスイスに入国できるよう、注意を払われたい。この件は加瀬公使にも伝え,影響を行使してもらう様に。」

電文の「現地でビザの申請」がコンスタンツでのことか、それともスイスでのことを指しているのかは判断できない。しかしながらスイスの海軍武官室、公使館が光延家の入国に関し動いたという記録は筆者の調べた限りではない。

次いで4月2日、阿部中将は日本(海軍省)に光延一家のコンスタンツ着を打電する。

「ベルリンからの旅行は6日かかり大変であったが、ドイツ側の協力により無事到着。
彼らは3名同行させた。(皆川によるとドイツ兵は1名)
光延一家と辻は可及的速やかにスイスに入国するでありましょう。すでにビザの申請は出されております。
この件、嶋田元海軍大臣にもお伝え願う。」

嶋田元海軍大臣は光延武官の義兄に当たることは、すでに書いたとおりだ。またスイス入国ビザ取得に関し、阿部中将のこの楽観はどこから来たのであろうか?そのころフィリッピンでは日本軍によってスイスの複数の民間人が殺され、スイスの日本に対する態度は硬化していた。
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<スイス入国を目指す>

コンスタンツに到着した一行はホテルに分宿する。国境に接したこの町は、ドイツ政府関係者の家族などが大勢流れ込み、特別の許可なしでは滞在できなくなっていた。

皆川は宿泊するホテルで偶然同盟通信社の菊池守に会った。彼はどうも社命に従ったのではなく、独自行動でこの町に来て、スイス入国をうかがっていた。皆川も本来の使命である技術の習得はほどほどにして、機会あるごとに国境の検問所に行って様子を探ったりした。ベルリンの阿部中将らが期待した、コンスタンツのスイス領事館で入国ビザを得る、という動きは最初からなかったようだ。

その後、同盟の菊池が連日国境のあちこちを動き回わり、めぼしい通り抜け道などを探したが、無駄であった、と疲れきって語った。そしてもう越境の見込みはないから、いっしょに行動させてくれと言ってきた。皆川は「若い新聞記者が一人でも国境を越えられないのだから、子供連れでは到底無理だろう」と諦めの境地になった。

4月26日、ホテルの前の道にはアメリカの戦車が入り込んで来た。装備はアメリカのものだが、兵士たちはフランス軍であった。子供を連れた一行では足手まといになるからと菊池とは別れ、皆川らは国境の検問所に向かった。スイスは4月19日、国境を閉鎖し12か所のみ残した。そのうちの一か所がコンスタンツであった。

検問所はスイス入国を希望する大勢の人が押し掛けたが、スイス側の兵士に押し留められた。ドイツ側国境検査所にはもう兵士はいなかった。皆川はスイス側官憲に入国を申し入れたが「しばらく待て」と言われ、それを何度か繰り返した。「病気子供がいるから人道的見地より入国させよ」とでも説明したのであろうか?

そのうちにフランス軍の士官が車で乗り付け、スイス側検問員と握手を交わし、ドイツ兵がいた場所に連合国軍の兵士が立つと、国境の門は閉ざされ出入り禁止となった。万事休すであった。光延家に関して言えば、二度目のスイス入国ならずということになる。

やはりスイス入国ビザのあてのないまま、コンスタンツに婦女子を送ったベルリンの海軍武官室のやり方には無理があったようだ。付け加えると最近の調査では、スイスは終戦前最後の20日間に92000人の難民を受け入れ、それはそれまで戦争の全期間を通じて受け入れた人数の倍に上った。スイスとしてはこれまで言われてきた「国境を閉ざし、避難民に対し冷たい態度であった」というイメージを払しょくしたいようである。しかし受け入れは強制的にドイツに連れてこられた外国人労働者、迫害を受けたものが主であった。日本人の子女は想定外であった。

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<バード ガスタインへ>

これまでのホテルを追い出された一行だが、皆川は現地で付いてくれたドイツ人の女性秘書に市役所との交渉にあたらせた。まだ役所は機能していたようだ。そして一行にはアルマンスドルフのユースホステルのタワーに避難することが許された。そこに荷物を押して行った。10階建ての建物で7,8階のフロアーを占有出来た。難民であふれる町でまともな部屋が割り当てられたのは日独同盟のおかげか?同伴の子供のためか?またこうした際にドイツ語を話す現地人の同行は不可欠であった。

10階建てのタワーというのは当時先進的であったであろう。元々ドイツには高い建物はあまりない。調べるとそのタワーは今もユースホステルとして使われている。


光延家が滞在したユースホステルとマイナウ島(後ろの島)

しばらくしてフランス軍より移転を命じられたが、行くあてもないのでまたドイツ人の秘書に交渉させ、さらなる滞在を許された。フランス兵は女性には甘かった様だと皆川は書く。

5月7日、ドイツ軍降伏の日は町中でサイレンが鳴り響いた。「降伏だ、降伏だ!」と喜びの声をあげていた。ドイツ人は負けても戦争が終わることの方が嬉しかったのであろう。皆川に関しても、スイス入国は果たせなかったが、光延家を無事に避難させるという使命は達成した。そしてローマ以来ここに来るまで、光延家は多くの人の手によって守られた。

その後は農家に移ったが、フランス軍による抑留は緩やかなものであった。
そして6月12日、トラックでバード ガスタインに移された。(神谷巷と菊池守はフランスに移送)ここはオーストリアの保養所で、ベルリンの大島大使以下の外交官、ベルリンの海軍武官室の小島武官他100名以上の邦人が避難していたが、進駐してきたアメリカ軍によって抑留状態におかれていた。

バード ガスタインはドイツ側が用意し、外交官が避難していた場所であったが、終戦後に連れて来られたのは光延家族らを含む一行だけであろう。フランス軍は日本人の抑留など想定していなかったので、アメリカ軍の手に委ねたのであろう。

ここでは日本人の子供も多かったが、期間も短かったのか小学校は開かれなかったようだ。語学に長けた外交官による、英語、フランス語、ドイツ語、外国人夫人のための日本語の講座が開かれたが、これらは大人向けであった。



バード ガスタイン 当時の避難者が買い求めた絵ハガキ

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<アメリカへ>

7月24日、今夜ホテルを出発すると告げられた。一人あたりの荷物は45キロと制限された。光延家のように子供が4人の場合はどうなったのであろうか?点検に手間取り実際の出発は翌25日夜中の午前2時になり、7台のバスで約80名の抑留者は山を下りた。バスを降りたのは夜明けのザルツブルクであった。

そこからは3機の飛行機でフランスのメッツにいったん着陸し、最終目的地は大西洋に面した港町ル.アーブルであった。そこにはすでに別の一機が着陸していた。バード.シャンダウで別れた小野満春らの一行がその乗客であった。満春の目には後から来た光延一家を含むガスタイン組のスーツケースは、自分らのものに比べて立派なものばかりであった。

先着組の中に知った顔を見つけた旺洋は、
「キミちゃーん」と小野紀美子の所に駆け寄った。しかし子供にもかかわらずアメリカのMPに、
「オー、ノー」と制止された。先発組には牧瀬満治(ミミちゃん)もいた。

子供同士で再会を喜び合った。小野満春はバード.シャンダウで光延一家と別れて以来、再会(牧瀬家とは3回目)までの経過を語った。本編では詳しく述べないが、バード シャンダウに残ったイタリア駐在の民間人のその後は、避難者の中では最も過酷であったグループのひとつであった。日本との中立国ソ連軍に保護される予定が、敵国アメリカ軍が先に接近してきたため、さらに避難したことが最大の原因であった。

旺洋と孝子はベルリンからコンスタンツに向けてニュールンベルク、バンベルク、シュバインフルトを経由して6日もかかって着いたこと、それからフランス軍に抑留されたことなどを満春らに語った。

集められた邦人の子供は、もっぱらフランスとイタリアからの引き揚げ組に分かれた。ドイツからは開戦早々婦女子は帰国していたからだ。そしてフランス組とイタリア組の子供の間でローマとパリのことで、(どちらがすごいかなどを巡って)喧嘩もあった。
「ここはフランスです、イタリアではないですよ」と話すフランス組の夫人もいたという。こうしたところで一種の郷土自慢が出たのであろうか?

その後一行は「サンタ ローザ」号でアメリカに向かう。日本で生まれたが欧州で育った子供達は、許されて甲板に出て、第二の故郷に別れを告げた。

アメリカではペンシルバニア州のベッドフォードスプリングというホテルに抑留される。8月15日、日本の敗戦を知ったのは一行が着いて間もなくのことであった。

敗戦の報を聞いたとき、長男旺洋は常日頃母親から「軍人は生きて虜囚の辱を受けず」と聞いていたので、「何であの軍人さんたちは自殺なされないのか?」と質問した。母親は
「天皇陛下から“忍びがたきを忍び”との御勅語があったからだ」と言い聞かせた。
「ふーん」と旺洋はそれなりに納得したものの、明洋は軍人の集まるところに自ら行って
「おじちゃん、死ななくてもいいの?戦争に負けて捕虜になったのでしょう?」と真剣に質問した。

またある人がトヨに対して
「4人の子供を(奥様ひとりで)お育てになるのは大変でしょう。お一人は自分のところで引き受けましょう。御次男も承知していますし、、、」と語った。明洋が自分から「小父さんの子供になる」と話をしていたのだ。トヨがびっくりしたのは言うまでもない。

ここでも日本人小学校が開校された。先生もベルリン滞在者から選ばれ強化された。その中には元ベルリン日本人学校の専任の校長先生もいた。しかし音楽の担当は声楽家の内本實、イタリア組であった。

旺洋、満治、ミミちゃんの3名は年齢相応に5年のクラスに入り、光延明洋、小野紀美子、渡辺靖子(三菱イタリア渡辺俊夫、長女)、牧瀬春子は3年のクラスに入った。

そのころ旺洋は病気にかかり別室に隔離される。病名は不明である。先述の皆川の回想に「胸が弱い」という記述があるように胸の病であったようだ。ほかの子供たちは直接会うことは許されず、図書や書いた手紙は、川北先生を経由して旺洋に渡した。

その後一行は日本への送還が決まり、西海岸まで列車で移動する。車中4泊の厳しい旅である。大島大使と、妊婦の一名のみに寝台が与えられたが、残りは皆座席シートであった。しかし旺洋には特別に病院車(寝台車?)をあてがわれた。途中、皆のいる座席車に顔を出した母親トヨは
「病院車の待遇は非常に良い」と心から喜んでいた。アメリカは人道主義が徹底していたといえようか。

一方明洋はシカゴの駅で駅員が列車から荷物を積み出しているのを見て
「ギャングだ、ギャングだ。荷物を盗むらしい」と騒いで皆を笑わせた。昔からシカゴはギャングで有名であったのだろう。

シアトルからはジェネラル、ランドル号に乗り浦賀に着く。皆涙ぐみ、船の窓から手を振った。しかし旺洋は窓から手を振ることはなかった。

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<終わりに>

その後平成9年(1997年)に母トヨが亡くなり、旺洋が2002年、明洋が2006年、孝子が2011年11月に亡くなった。旺洋、明洋が70歳を待たずに亡くなったのは、戦時下の病身での避難行の影響もあるのであろうか?筆者はこれらの方々から当時の逃避行について、直接話を聞くことが出来なかったは残念至極である。末っ子の七洋のみが健在である。彼は今もIT企業の社長として活躍しているが、ベルリンからの逃避行時は2歳に満たなかったので、これらの記憶はない。

そうした中でもこの記録をまとめ上げることが出来たのは、光延家に関して多くの関係者が記録を残しておいてくれたことが大きい。光延家との思い出は各人に思い出深いものであったのであろう。そしてそれらの多くは私家版の形で出版されており、広く知れることはなかった。

また光延家の長女で、当時のことを一番よく覚えていた孝子さんの生前、末っ子の七洋さんが聞き取りを行っていてそれを提供いただいた。武官の父親としての姿、子供たちの体験談を生き生きと再現させることが出来た次第です。

さらにはベルリン駐在で光延武官の上司にあたる阿部勝雄中将のご子息阿部信彦さんより、当時の写真、資料等を提供いただきました。ローマを脱出するときの写真など残っているとは思ってもいなかったので、それを見たとき、筆者は興奮したと言っても過言ではない。これらの方々に心からお礼を申し上げます。


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