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史料館

日瑞現代史の研究には以下の史料が利用できます。利用した個人的印象を添えます。
外務省外交史料館
電話  3585-4511

二度の戦災で史料はかなり焼失したとのこと。戦前のものはわりと残っているのは、実のところは敗戦後、自分の手による焼却が多いからではと想像させる。
またURLは外務省のHPの一部に利用説明がある程度。

国毎に整理された史料は少ないため、目安をつけて引き出して調べるので効率は悪い。そんな中,スイスが史料の題名についているのは
A700 9‐65「スエーデン,スイス,ヴァチカン等における終戦工作関係」
M210 13‐17 「大公使任免関係雑纂 瑞西の部」等です。

コピーが注文してから入手までに時間がかかり、かつ一枚百数十円するのは困ったものです。食堂はありません。道の向かいのとんかつ弁当は安くておいしい。ロビーで食べるとわびしさが漂います。

スイス公文書館
ベルンにあります。戦災がないため史料は完全に残っています。目録は日本関係のにはJがふられているため、検索は容易です。

日瑞間の戦時支払い協定、米英蘇に対するスイスを介しての日本の降伏などの史料があります。特に前者については朝日新聞でもスイスの暗部として取り上げられた事があります。
コピーは一枚30RPくらいです。ただし文書の保護のためスキャナーで読み取っているので、薄めの仕上がりです。

問題は近くにも食堂が全くないことです。歩いて十分の所にようやく全く地元の食堂を見つけました。

アメリカ公文書館
当時の日本と欧州出先機関との交信録が一番良く残っているはここです。これらは日本の暗号電報を傍受解読したものです。外務省,海軍,陸軍のを見れば完璧ですが、すべてを見るのは短期間では無理でしょう。一部は「Magic Summary」として日本でも国会図書館でマイクロフィルムで利用できますが、個別にはここで見るしかありません。

ちなみに海軍関係は「Translation Reports Of  Intercepted Naval Attache Messages1942-1946」で約五千枚あり、スイス関係は百枚くらいでしょうか?筆者は海軍と陸軍のスイス関係の電文はすべて探し出し,コピーを持ってます。

公文書館は二ヶ所ありますが、戦時中のものはメリーランドにあります。コピー1枚10セントなので,気がねなく取れます。
設備が立派で食堂も充実しています。しかし交通が不便です。近くのホテルを取り、車で送迎してもらう事が一番でしょう。

国会図書館
通常の書物の他、憲政資料室では先に述べた「Magic Summary」が一級史料ですが、「天羽英二」なんていうファイルもあります。

コピー枚数の制限が痛い。一回五十ページまでで三回まで。自分でコピーを取るのではなくて、高い人件費の人がやっているからであろう。毎回書く申請書だけでも膨大な紙を消費しているであろう。また著作権の関係から一冊について半分までしかコピーを取れない。

だけど一冊を三回に分けて注文したらチェックできない。また三回を過ぎた人はいったん出て、新たなカードをもらい三回新たに取ることも可能。図書館の人も分かっているはずであるが、、、、

要参考文献
主として以下の文献がスイスの邦人について触れてます。 これらは基本的に国会図書館で閲覧可能。
天羽英二日記.資料 私家版
欧州戦争勃発時のスイスの邦人社会の様子を克明に残している。
回顧録  私家版 三谷隆信著  1980年
1940年末からのスイス公使時代、終戦間際はフランス大使を務めるが、スイスへの避難行の様子が克明に記されている。
回想 笠信太郎 朝日新聞社 1969年
代理公使徳永太郎氏が後に朝日新聞論説委員となる笠信太郎とのスイスでの交流,終戦後日本への引き揚げについて書いている。その他のスイス時代の同僚による回想もあります。
その日 あの日 与謝野秀著 ジープ社  1950年
一外交官の思い出のヨーロッパ 与謝野秀著 築摩書房 1981年
阪本公使の死後代理公使となる同氏が、ドイツの敗戦間近のスイスの様子を書いている。後者は前者の焼き直しに近い。 筆者は与謝野鉄幹,昌子夫妻の子息
世界の心と窓 不死鳥社   1949年
戦争中最後の公使、加瀬俊一氏の回想があるが、氏が努力した日本への和平勧告、工作について全く触れていないのは残念。
私のスイス案内 笹本駿二著  岩波新書 1991年
氏は朝日新聞のチューリッヒ特派員でした。同書を含む岩波新書3冊で当時のスイスの事情についふれている。
回想のヤング尾根 田口二郎 
朝日新聞特派員であった氏はアルプスの山に魅せられ、同国に住む。1943年7月という戦争の真っ只中における登山記である。世界山岳全集 第12巻に収録
東条秘書官機密日誌 赤松貞雄著  文芸春秋 1985年
1939年9月から1年間陸軍武官としてスイスに滞在した筆者は帰国後,東条英機首相の秘書官を務めた。余談ながら陸軍の人は機密と言う言葉が好きの様。 
追憶のドイツ 佐貫亦男 ○燈社 1991年
日本楽器のドイツ駐在であった筆者はチューリッヒのエッシャー.ヴィース社のプロペラを見る名目で1941年10月、翌年7月、翌々年1月とたびたびスイスを訪れる。そして仕事を終えるとスイスの山に繰り出した。
大東亜戦争始末記 田々宮英太郎著  経済往来社
駐スイス陸軍武官、岡本清福中将のチューリッヒでの自殺までの経緯を書いている。珍しい当時の写真も見ることが出来る。
海外で聞く八月十五日 世界 1951年8月号  笠信太郎著
氏がチューリッヒの朝日新聞の支局で、日本の終戦直前に悶々とする様子を書いている。
痛恨!ダレス第一電 文芸春秋 1951年5月号 藤村義一著
海軍中佐として終戦直前スイスに滞在した同氏による、アメリカの情報機関との和平交渉に関する回想。ただし内容には誇張が多いと自分は考えている。
体験ヨーロッパ戦線証 桜井一郎著    雑誌「史」
岡本武官の下で補佐官を務めた氏の欧州赴任から帰国までの回想。スイスの部分もかなり詳しく書かれている。
その前夜 頼惇吾 晃文社 1972年
海軍視察団のメンバーだった筆者は,1941年7月、スイスでエリコン社,エッシャービーズ社等を訪問する。
僕の思い出ばなし 倉知緑郎 JBAG News
終戦間際にベルリンを脱出してスイスに半ば難民として入国し,それから今日までスイスに暮らす同氏の半生記非常に興味深いが、これはジュネーブの日本人会の会報に連載で書かれたもので,入手は非常に困難。
第二次大戦とスイスの中立 北村孝治郎  時事通信社 1962年
スイス和平工作の立役者のひとりの著書。残念ながら内容はスイスの中立の研究書。この本は国会図書館にもない。筆者はインターネット上のある古本屋さんで見つけて入手。経緯はこちらに。
ヨーロッパのバルコニー スイス 鶴岡千仭訳 岩波書店 1952年
スイス人による第二次世界大戦中のスイスについての通史。訳者は当時日本公使館2等書記官であった人。
三時代の日本 カミイユ.ゴルジュ
戦時中日本公使であった氏の回想。米英の利益代表として日本政府と交渉に当たった様子などが書かれている。「日本-スイス国交百年記念」 1964年という冊子に収めれれている。
夢のあとで−フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝− 星谷とよみ
ベルリンからビザ無しでスイスに入国する模様が描かれているが、上述の「僕の思い出ばなし」以上の内容はほとんどない。フランス時代の諏訪根自子との写真は貴重。

歴史ストーリー
ベルン、一九四五年八月十日
連合国との戦争で敗色濃厚の日本であるがこの日、ポツダム宣言を受諾する旨の公電が、東京の外務省からスイス公使館宛に送られた。残された史料からベルンの日本公使館,スイス外務省の八月十日前後を再現する。

八月九日(木)

チューリッヒから神田襄太郎(こうだじょうたろう)総領事、北村孝治郎(きたむらこうじろう)国際決済銀行理事が公使館を訪問。神田は独自に起草した和平の具申電案を持ってきたので、加瀬俊一(かせしゅんいち)公使以下のベルンのスタッフを交えて議論し、翌朝日本に向け発電することとなった。

議論は長引き、二人がチューリッヒに戻る最終列車はもう出た後だったので、神田総領事は与謝野秀(よさのとおる)参事官のアパートに泊まった。

八月十日(金)

その夜中、皆の去った公使館に至急電が届けられた。当直が電信課員を呼び出し,すぐに平文に直された。

いくつかの部分に分かれており第一電は、東京時間八月十日午前六時四十五分発信であった。時差を考えるとスイスでは九日午後十一時四十五分、神田の電報文に対する検討が終わった頃であろうか?そして事態の急展開で、神田の電報文は日本へは送られなかったようだ。

以下が届けられた電報の内容である。

東郷大臣発、在瑞西(スイス)加瀬公使、在瑞典(スエーデン)岡本公使宛

【三国宣言受諾の件】

「戦争の惨禍より人類を救わんとする大御心に副い奉らんが為、帝国政府は瑞西政府及び、瑞典政府に対し、別電第六四八号(右 英訳文別電合第六四九号)の通り、帝国の意向を主要交戦国に対し伝達依頼する一方、在京ソ連大使を通し、直接ソ連政府に対し右趣旨を伝達することに決定せり。

就いては在瑞西公使よりは米国政府及び支那政府に対し、在瑞典公使よりは英国政府及びソ連政府に対し最も速やかに右伝達方並びに相手方の速答を得る様斡旋方、夫々任国政府に対し申し入れられ結果大至急御回電相成り度」

続いて受諾の内容を伝える別電第六四八号が到着する。スイスの郵便局も内容を察してか、異例な配送の早さであった。通信事情の悪さから、これまでは通常四、五日を要していた。

加瀬公使にはスイス政府を通じアメリカ、中国にポツダム宣言の受諾を伝える大役が回ってきた。

十日朝五時半,与謝野は公使館から電話で「重要なものが来ているからすぐ来てほしい」と起こされた。公使館に向かうと、翻訳は終わっていた。早速加瀬公使と打ち合わせを持つ。
すでに手元にある情報によれば、まもなく英文の受諾文が届くはずなので,それを待つことにする。日文を現地で翻訳するには、あまりにも機微な問題を含んでいたからだ。

与謝野は夕刻の公使訪問をスイス外務省に伝え、郵便局にも至急電の配送を督促した。しかし第一電から約二時間後に送られた英文電は、なかなか届かない。しょうがなく翻訳文を作ろうかとするころ、ようやく英文が到着した。

公使がそれを持って外務省に向かうと、玄関には敵国の新聞社のカメラマンが、いっせいに待ち構えていた。

加瀬公使の訪問を受けたストッキー外務次官の報告が、スイス公文書館に残っている。内容は以下のようだ。

【日本の降伏】

「午後十五時ころ、日本(加瀬)公使より電話があり,夕刻重要な話し合いを申し込んできた。申し合わせ通りに十八時、公使が現れる。公使は日本政府の宣言文を三部手渡した。「天皇陛下の地位保全の条項のみ保留して、ポツダム宣言を受け入れる」(直訳―筆者)という内容であった。

そして米国及び中国政府に速やかに伝達する様、(加瀬)公使は日本政府の名前で依頼した。また公使は手交する英文のみが正式な内容であるとの認識であった。

私(次官)は速やかな伝達を約束し、もう三部のコピーを依頼した。そしてそれらは十九時ころ届けられた。

加瀬公使が去るとすぐさま、暗号化されたテキストがワシントンのスイス公使館に送られた。翻訳が遅滞することのない様、別に平文で暗号電の到着を連絡した。後者は十九時三十五分に送られた。

スイスは重慶に外交機関を持たないため,中国政府への連絡はベルンの中国公使を介して行った。問い合わせに対し公使はルツェルンに居るとのことで、彼とは電話で連絡を取ることが出来た。

私の求めに応じ、彼はすぐさま部下を私の元に送り、その人物に対し私は必要な説明とともに文書を手渡した。 同じく私の依頼に基づき、アメリカ公使も訪問した。彼に対しても説明と共に文書を手渡した。」

その日の夜八時、加瀬公使は東郷外務大臣に返電する。東京着は翌十一日十四時十五分である。

「十日午後六時,本使外務次官に面会(大臣は休暇不在)貴電第六四九号英訳文を手交し、最も速やかに米国政府及び支那政府へ伝達方並びに回答入手方申し入れたり」

与謝野秀は戦後,こう書いている。
「翌十一日の午前中に,いち早く連合国を代表する米国の回答がスイス政府から公使に手交されたのには、少々驚かされた。

(2000年7月16日

スイスに滞在していた朝日新聞の笠信太郎もこの頃ことを日を追って回想しているので、こちらも参照願いたい。(「スイスを愛した日本人」第二部

また当時スイス公使館に勤務した重光晶(しげみつあきら)、のちのソ連大使も当時のことを書き残している。

彼によると太平洋戦争が最終段階に入ると、公使館ではスイスの郵便局に対し、東京からの公電は優先的に、かつ24時間体制で処理するように依頼した。

8月10日午後6時(スイス時間)に、加瀬公使がポツダム宣言を受諾する日本政府の意向を伝えたのは、スイス側でストッキー外務次官がすでに紹介した中で書く通りである。

これに対する連合国側の意向は、与謝野が驚いたようにもう翌11日午後9時半、加瀬公使に対し伝えられた。「日本政府の国家統治の権限は、降伏後は連合国最高司令官の指揮下に置かれるものとする。」と言う主旨の内容に加えて、「米政府は日本側の最終回答を待つ」とあった。

そして8月14日、御前会議の決定を連合国側に伝えるべく14日午後7時半過ぎ、外務省にストッキー外務次官を訪問する。この時はプロトコル(秘書)であった、重光も同行した。重光は書く。

「これで戦争は終わったのです。公使館に帰っても、何をする気にもなれません。ただロイターとかアメリカ系の通信社から、じゃんじゃん電話がかかってくるだけなのです。家に帰って寝てしまいました。

加瀬公使からの電話で、寝込みばなを起こされたのは、15日の午前2時半頃でした。ストッキーから電話で、連合国側からの連絡が来ているので、取りに来てくれとのことで、今から自動車で寄るから、準備していてくれと言う話でした。」

公使と重光は人っ子一人いない夜更けのベルンの街を通って、やはりガラガラの外務省の建物の次官の部屋に向かった。そして次官より連合国の最初の指令が手渡されたのであった。

(2014年2月23日)


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