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日本 歴史散歩 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西
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歴史散歩

第二次世界大戦中の邦人とゆかりの深い場所です。古い建物が良く残り、昔を忍ばせます。
こういう場所を訪れるのも一味変わった観光?
(写真は作者自身が撮影したもの)
Bern  

Thunstrasse 55
1939年から1945年4月まで日本公使館。海軍事務書も間借り。
今は信託会社が入っているが建物の外見は当時を踏襲している。
 
 
 
 
 

Kirchenfeldstrasse 56
公使公邸の建物。今も周りには各国の大使館が並ぶ。
 
 
 
 
 
 

Daxelhofstrasse 20
1945.4.19より公使館,陸軍武官室、海軍事務所が一になって終戦にあたる。今も日本大使館として使われている
 
 
 



Sulgenauweg 16

1944年から45年4月までの陸軍武官室。今はアパートが建ち、かつての面影はない。

Hotel Sternen/ Muri
今も存在するこのホテルのレストランを、当時の外交官がよく利用した。1937年8月11日スイス公使としてベルリンに着任した天羽英二はその日の日記に次のように記している。
「井上夫婦らと Hotel Sternen Muriに招待。 会食す。ベルン第一夜を寝る。子供も久し振りに安眠す」
藤村中佐がアメリカの諜報機関OSSのスタッフと和平交渉をした場所と戦後証言するが、、、

Zuerich
Bellerivestrsse 8
岡本中将の事務所。おそらく建物は昔のままであろう。1945年8月15日、終戦の比に開戦の責任をとってピストル自殺をする。
朝日、同盟通信社の駐在員も含め当時の邦人は、湖畔のこのあたりに住んでいた。いまも領事館がこの辺にあるのは関係があるのでしょうか?
現在はこの地番に建物は存在しない。2番の次は10番に飛んでいる。

Boersenstrasse 18
朝日新聞の事務所。笠信太郎の「海外で聞く八月十五日」に登場します。新聞社だけあって、市内金融の中心街に事務所はあった。

写真提供:手塚 薫さん(ホテル ドルダーの写真も)

Grand Hotel Dolder
横浜正金銀行(今の東京三菱)出身の北村孝治郎はバーゼルの国際決済銀行理事として同ホテルに長期滞在していた。外貨の乏しい日本としては破格の待遇であった。
 

                                                                       

主要人事

歴代公使,武官の名簿です。
スイス公使 陸軍武官 公使館付海軍事務所
天羽英二特命全権
1937.08.11-
山本敏武官、赤松貞夫補佐官 39.09.07 着任 山田精二中佐 39.09.15 着任 (出張ベース)
塚本毅  39.11.13-    
馬瀬金太郎(代理)40.02.01-  
栗原正   40.03.06-  
三谷隆信  40.10.29- 40.10閉鎖  公使付海軍顧問として外交官扱い 42.7-
徳永太郎 (代理) 42.04.16-  
阪本瑞男(死亡)  42.11.16- 岡本清福(中将) 44.03.16-(再開)  西原市郎大佐
与謝野秀 (代理) 44.07.05-    
加瀬俊一  44.08.25-46.01.24   藤村義一中佐(補佐)

海軍武官室は海のないスイスでは開設が認められなかった。一九四二年七月、スイスの提案で公使館付海軍顧問として、外交官待遇で山田中佐が駐在。山田中佐はドイツからの出張扱い西原大佐はスイスへの入国申請日が、1943年10月28日。



スイスの戦争中に関する書物に登場する日本人                                

スイス人が体験した第二次世界大戦に関する書物でも在留日本人が登場する場面がわずかですがあります。筆者が見つけたのは以下の通り。

1 Werner Rings著 Schweiz im Krieg Verlags Ex Libris Zuerich P361

Nachrichtenzentrum Schweiz
Dann in der Zuericher Belleriverstrasse das den Agenten bekannte Buero des japanischen Militaerataches Okamoto, der, wie sein Kollege Onodera in Stockholm, wertvolle Nachrichten mit anderen Geheimdiensten austaauschte, angeblich auch solche, die aus dem britischen Kriegsministerium stammten, ihm aber auf dem Umweg ueber Moskau bekannt geworden sein sollen.


「スイスの諜報網
チューリッヒのベレリーベ通りには、諜報員の間では知れ渡っていた、日本駐在武官岡本の事務所があった。岡本はストックホルムの小野寺同様に他の秘密機関と重要な情報を交換していた。イギリスの国防省の情報も、モスクワ経由でかれの元に入っていたと言われている」

補足
情報の入手経路まで記されているが、この情報の元は明らかにされていない。筆者の調査では、この内容は噂に基づいて書かれたもので事実ではない。

2 Erich Gysling,Mario Koenig, Michael T. Ganz共著 1945−Die Schweiz im Friedensjahr Silva Verlag P51

Menschen an der Suedgrenze
Die kleinen Herren der Japanischen Botschaft in Rom, eingetroffen in glanzschwarzen Limousinen, sitzen auf eidgenoessichen Wolldecken in der Wiese und bekommen Suppe aus unseren Gamellen und warten auf Asyl,das sie auch bekommen.


「南の国境の人々
ローマの日本大使館の小柄な紳士一行が良く磨かれた黒いリムジンで到着し、スイスの毛布をしいて牧草地に座って,我々の食器に注いだスープを受け取っている。かれらは入国許可を待っていて,それを受け取ることになる」

補足
1945年5月、イタリアとの国境でイタリア人の難民を押し返していたスイスの国境警備員の前に、なんと日本人が現れた。イタリア駐在の日高信六郎大使他の外交官であった。ここでは入国が許可されたとなっているが,事実は異なる。かれらは入国を拒否され、イタリア側で進駐してきたアメリカ軍に捉えられ,アメリカの収容所に送られた。
ちょうど少し前に日本軍はフィリピンで同地のスイス人を殺戮した。それに対する報復からかれらへの入国が拒否された。

3 Neue Zuericher Zeitung 1945年 8月15日 第一面
「Die Uebermittlung der japanschen Antwort durch Bern
Am 14.August ,um 20 Uhr 10, hat der japanische Gesandte in Bern dem Politischen Department die Antwort der japanischen Regierung auf die Erklaerung uebergeben, die die Vereinigten Staaten,Grossbritaniens, der Sovietunion und Chinas ihr am 11.August hatten zukommen sollen.以下略」


日本の回答がベルンを介して渡された
8月14日 20時10分、ベルンの日本公使は政治局に対しアメリカ,イギリス,ソ連,中国によって8月11日に出されたとされる要求に対する日本政府の回答を手渡した。

補足
日本に降伏を勧告する勧告するポツダム宣言の受諾を日本政府は決めた。しかしそれは直接相手に伝えられず,中立国のスイスおよびスエーデンを通じて行われた。ここでのベルン公使は加瀬俊一
 


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