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山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧
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<プロローグ>

終戦後間もない1946年10月27日 上野の精養軒において一組の結婚式が行われた。
新郎は重光晶(しげみつあきら)。当時まだ若き外交官で、第二次世界大戦中に外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した重光葵の甥である。新婦は山路綾子(やまじあやこ)。戦時中はウィーン総領事、次いでブルガリア公使を務めた山路章(やまじあきら)の長女である。


精養軒での結婚式

終戦から1年ほどしか経っていないこの時、結婚式場は少なく参列者も限られた簡素な結婚式であった。新郎は31歳、一方の新婦は1927年11月26日生まれで19歳にもなっていなかった。

二人は中立国スイスで終戦を迎えた。そして半年ほど前の1946年3月26日、日本敗戦により欧州からフィリピンのマニラを経由し、筑紫丸で引き揚げてきたばかりであった。

それから66年後の2012年11月、OAG(ドイツ東洋文化研究会)にて綾子さんは講演を行い、戦前、戦中の欧州、特にドイツ語圏での体験を語った。その語りはすべてドイツ語である。
「スイスで終戦を迎えた邦人が健在!」ということを知り、筆者はさっそく話を聞かせていただいた。2013年1月5日(土曜) のことである。

本編では渡欧から引き揚げに至るまでの足取りを、綾子さんの記憶をもとに、筆者の調べた史実を加えて再現するものである。ドイツ、イタリア等の邦人の動静はかなり筆者のホームページ「日瑞関係のページ」でも紹介してきたが、中欧は初めてであり、貴重な資料となるであろう。


2012年11月 OAGにて

<生い立ち>

綾子さんは生まれてからの幼少期をハンブルク(1928年から30年)、ベルリン(1930年から34年3月)で過ごす。乳母はドイツ人で、物心がついてからはドイツ語を使って生活をしたが、小さかった故、当時のことはあまり記憶に残っていない。

父山路章はドイツ語を専門とする外交官であった。母は澄子。その父親小森雄介は島津家家老の子息で、後藤新平の秘書官や大企業の重役を経験した政財界の重鎮であった。“麹町番町のご隠居”と呼ばれていた人物で、家には大川周明、孫文も出入りし、澄子さんは彼らの膝の上で遊んだという。こういう家庭で育った母親の影響か「自分はどちらかというと右翼」と綾子さんはやや自嘲気味に語る。

一家は1934年に日本に戻り、綾子さんは東京の白百合学園に小学校一年生から通った。フランス系のミッションスクールであったが、ドイツ人のシスターがいた。生まれて最初にドイツ語を覚え、次いで6歳から日本語を覚えることになったが、全く問題なかった。外国帰りという理由か、日本では今で言う“いじめ”にはあったと思っている。

1938年6月、家族で再び欧州に向かう。父親の次の赴任地はウィーンであった。初代総領事に任命されたのである。

欧州に向かう船に乗り込んだのは山路章(総領事)
         澄子(母)
         綾子(長女)1927年生まれ
         陽子(次女) 1929年生まれ
         晴久(次男) 1934年生まれ

の家族五名である。長男は教育の関係で日本に留まった。彼とは8年別れ別れになったし、日本では兵隊にも取られ、多くの苦労をした。またウィーンでは三男の弘行が1941年に生まれている。


右端が日本に残った長男、続いて山路総領事、晴久、綾子、陽子 後ろが母澄子

欧州に向かった船は綾子さんの目から見ると、多くの当時の渡欧者が語るような“豪華船”ではなかった。記憶では客船ではなく、貨客船の伏見丸である。確かに約1万トンの伏見丸は、当時最先端の1万7千トンの浅間丸クラスに比べると大きさでも劣っている。

日本郵船の配船表によれば伏見丸は6月19日に横浜を出港し、7月30日ナポリに着く。その後は鉄路でウィーンに向かったと思われる。途中では停泊する港毎に、一家は船を下り観光をした。船は石炭を積むのに時間を要したからである。ポートサイド(エジプト)ではラクダに乗る体験もした。


船中にて 帽子をかぶる様子から赤道祭りか。

ポートサイドにて

当時ウィーンには日本人学校はないので、綾子さんは地元の公立学校に通った。カトリックの国故、学校は男女別で、女子校に通った。ドイツ語をほぼ母国語とした綾子さんにとって、授業には全く問題なくついて行けた。ウィーンでさらに磨いたドイツ語のおかげで、今は彼女の話すドイツ語は南のアクセントといわれる。

ウィーンの学校で外国語は英語を学んだ。よって綾子さんの英語のアクセントはアメリカ式でも英国式でもない、“ウィーン英語”と自身で言われる。アメリカで大学教授をしている娘とは、今でも英語で話すという。綾子さんのような人を“語学の天才”というのかもしれない。

日本の総領事館はケルブル通り(Koelbl Gasse)1番にあった。ウィーンはかつて、オーストリア=ハンガリー帝国の首都であり、日本も大使館を構えていた。その時からの建物のなので、総領事館は非常に立派な造りであった。調度品も素晴らしく、本物の銀製の食器には皆、金の菊の紋章が付いていたと綾子さんは言う。そして山路家は総領事館の同じその建物を公邸として住んだ。

綾子さんが学校からの帰り、総領事館の前に多くの人が行列をなしていたのを目にする時期があった。彼らは日本の通過ビザを得て、アメリカ方面に行こうとするユダヤ人であった。それに対し山路総領事は本国からの指令通り、行先国の入国査証を持つ正規の申請に対してのみに発給したのであろうと推測される。(「山路公使と命のビザ」参照)


ウィーン総領事館にて 前列左より山路総領事、奥山榮子、山路澄子、一人おいて綾子さん、奥山副総領事
後ろのどちらかが川村泰男書記生?


1939年9月、欧州戦争が勃発するとウィーン他、欧州に滞在する多くの日本人家族は日本に引き揚げたが、山路家は母親が残留を選んだ。そして以降はウィーンには日本人家族がほとんどいなくなるので、地元の人との交際が主体となる。綾子さんはそれとは関係なく外交官一家の一員として、日本人同士がかたまるのではなく、地元の人と付き合うのが当然と考えていた。ちなみに綾子さんの二人の娘も、戦後海外に暮らした間、日本人学校には一度も通ってはいない。

またドイツの開戦と共にウィーンも食糧は配給制となり、事情が悪くなる。一方まだ食料が豊富であったハンガリーに買い出しに行くのが、山路家の楽しみとなった。


ウィーンの女学校に入る前に通った高等小学校にて。前列左から二人目が綾子さん。前方右側の生徒などはナチスの「ドイツ少女団」の制服を着ている。

生き証人>

当時ウィーン郊外にはクーデンホーフ=カレルギー光子伯爵夫人(Mitsuko Coudenhove-Kalergi)が晩年を過ごしていた。彼女は1893年、日本に駐在していたオーストリア代理大使と結婚し、初の正式な国際結婚をした女性と言われている。そして1896年、夫の故国オーストリア=ハンガリー帝国に夫と共に渡った。

晩年は「日本人を恋しがっている、日本の子供と話がしたい」ということで母澄子らが時々通い、綾子さんも連れられて行ったことがある。末娘のオルガがオーストリアの、さほど大きくもない家で光子の世話をしていた。質素な生活であった。

実のところその訪問は綾子さんら子供にとっては退屈であった。そこではお世辞にも美味しいとは言えないケーキを食べた。山路家がウィーン滞在中の1941年8月27日、光子は死去する。
「本人はオーストリアに渡って幸せだったかは、自分は分からない。」と綾子さんは語る。

カレルギー家の領地はチェコにあった。一度NHKが取材しかつての城を映したが、荒れ放題であった。日本人観光客が多く来るので、最近きれいにしたという。

スキーを日本に最初に紹介した人とも親交があった。レルヒ大佐(General Lerch)は当時もうお爺さんで、絵ばかり描いていたが、一緒にスキーをしたこともある。

作曲家リヒャルト、シュトラウスは日本総領事館のそばに近くに居を構えていた。彼は1940年にはナチスの求めに応じて、当時ドイツと同盟関係にあった日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている。山路総領事は曲の完成まで、いろいろこの作曲家と日本関係者の間を取り持ったのではなかろうか?

綾子さんはこうした歴史的人物と会った最後の生き証人と言える。そのようなこともあって、綾子さんにとっても母親澄子さんにとっても、ウィーンは終生忘れられない土地となった。そして母親が90歳の時に、ウィーンに連れて行った。

当時の女学校のクラス会に綾子さんは、今も参加している。そのクラスメートの中に軍人と結婚した人がいた。戦後、ある年のクラス会では彼女のご主人である軍人が綾子さんに向かって、
「また日本と組んで(戦争を)一緒にやろう」と言った。


1938から39年にかけて ウィーン郊外のSemmeringにて

一方の山路公使に関して述べると、1941年4月22日発松岡外務大臣に宛てた至急電が外務省外交史料館に保管されている。当地で某要人より入手した情報として、
「ドイツは場合によっては対英戦の終了を待たずに、ギリシャを片付けたる後、適当な時期に(早ければ5月ごろ)果然とソ連邦打倒に打って出ることはありうる。」という内容であった。

実際にドイツはバルカン半島の攻略に時間がかかり、対ソ開戦が同年6月22日になったことを考えると、その情報は正確であったと言える。しかし電報を受けた松岡外務大臣は、ちょうどソ連を訪問し4月13日に日ソ中立条約を締結したばかりである。日独伊三国同盟にソ連を加えてアメリカに対抗しようと構想していた松岡にとっては、全く聞き入れられない情報であったろう。


1941年ウィーン郊外 日本人少女(山路姉妹)とドイツ兵の珍しい組み合わせ。ドイツ兵は手榴弾を腰に巻き、任務中と思われる

<日本参戦とブルガリア転任>

日本開戦時のウィーンの状況を書いているのは首相経験者である近衛文麿の実弟、近衛秀麿である。秀麿は指揮者として名をなし、欧州に滞在中はかなり奔放な生活を送っていた。

モーツアルト没後150周年の記念音楽祭が、ウィーンで1941年11月28日から始まっていた。
「命日の12月5日を中心に、その前後いろいろな催しが行われていた。この日は最終日で、モーツアルトの絶筆である鎮魂曲の模範演奏が、ウィーンの(演奏家)連中、総出で行われ、フルトベングラーが来て指揮した。

始まったのは夕方だったが、それも終わり、音楽に酔って外に出た時は、もう真っ暗になっていて、雪がチラチラ降っていた。僕はこの瞬間のことを生涯忘れないであろう。すると号外売り、ラジオが頻りに叫んでいる。日本が真珠湾を攻撃して、太平洋は戦争状態に入ったというのだ。

すると一緒にいたウィーンの芸術家たちは私に、“おい、そんなことして、いいのかい?”と話しかけ、他の連中も皆心配顔だった。」

駐独大使大島浩もこの式典に出席したが、12月1日ベルリンからの至急の電話で戻っている。日本参戦近し、ということであった。

その直後の12月8日、こうして日本が米英に参戦した直後、山路家はブルガリアの首都ソフィアに移る。ブルガリア転勤の決まっていた山路総領事は、欧州滞在日本人の要人をウィーンに迎え、ホスト役として大変であったであろう。

当時ハンガリーに留学していた徳永康元は12月7日、ウィーンに滞在していて、そこで日本の対米英参戦の知らせを聞く。そして翌日の総領事館の様子を日記に記している。

「総領事館には山路氏一家、奥山(幸蔵 副総領事)、村田(豊文 ウィーン大学客員教授)夫妻、川村(泰男 書記生)、遠城寺(宗徳 ウィーン大学)、伊佐治(正彦? 留学生)、渡辺(護 留学生)、近衛秀麿(指揮者)と集まっていて、御真影(遥拝)、君が代(斉唱)、乾杯をしたが、皆も呆然としたる感じだった。(中略)

山路さんは景気のいいことを言うが、果たしてそうなってくれればいい。僕もいい方に考えようと思う。」
そこには綾子さんも居合わせたことが分かる。そして上記メンバーから近衛を除き、留学生西村ソノを加えたのが、当時のウィーン在住全日本人であろう。(この項2015年12月12日追加)

当時の朝日新聞によると12月15日付けで、ソフィアにブルガリア公使として着任となっている。

ブルガリアでは綾子さんはドイツ語学校に通った。ウィーンとは違って男女共学だった。そのドイツ語学校はドイツ政府によって運営されていた。当時欧州で地位の高くなかったバルカン諸国では、ドイツ語かフランス語が出来ることが、社会ステータスとして必須であった。一方英語は一般的ではなかったし、ブルガリアも三国同盟から米英に参戦すると、同地の英語学校は閉鎖された。

ドイツ語学校の先生は“古き良きドイツ”を体現していた。教室ではいつも上着とネクタイを着用し、上着を脱ぐのにも生徒たちに断わった。なお戦後、生徒の半分は西に亡命した。当時のクラスメートとも今でもクラス会で会うことがあるという。


教室にて 手前が綾子さん


1942年 ブルガリアの合唱隊の訪問団 日本公使館前。右端が綾子さん

今も日本にはなじみの薄いブルガリアであるが、当時は在留邦人も少なかった。
1942年2月1日現在の外務省の記録では、ブルガリア公使館には山路章(公使)、泉顕蔵(三等書記官)、道正久(三等通訳官)、染宮彦一(書記生)、田上茂美(書記生)、以上5名の外交官が勤務した。(丸山茂徳書記生は1942年6月、ハンガリーに転出している。泉は翌年トルコに。)

さらに綾子さんの記憶では小沼という雇がいたという。戦後ロシア文学者として活躍する小沼文彦であるが、外交官関係は異動が激しいのでここではあまり深入りはしない。そのうち家族持ちは山路家のみであった。ちなみに山路の去ったウィーン公使館は奥山幸蔵総領事代理、川村泰男書記生の二人だけである。

それに加えて外務省からロシア語の在外語学研修生として重光晶(しげみつあきら)と根本驥(き)がいた。根本はその後ブルガリア人と結婚したという。そして朝日新聞の梅田良忠が滞在していた。梅田は以前はワルシャワの日本大使館にポーランド通として雇われていた。よって日本の本社からの特派員ではなく、ここソフィアで雇われたのであろう。

独仏伊などにおかれていた陸軍、海軍それぞれの武官室は設置されておらず、トルコ駐在の武官が兼任した。以上がブルガリアの全邦人であったと思われる。

欧州滞在全期間にわたって日記をつけていた綾子さんであるが、今では用いられない“ジュターリーン書体”のドイツ語で書かれたその日記には1942年半ば、
「ここ(ソフィア)に来た運命に感謝!」と書いてある。日本的なもの、および日本人から全く隔離されたようなブルガリアでの生活であったが、子供心に充実した日々を送ったようだ。

またウィーン時代に引き続いて、夏には家族でオーストリアのザルツブルクに近いヴォルフガングゼー避暑に行って、家を借りた。

<重光晶>

この時ソフィアにいた留学生重光晶こそが、後の綾子さんのご主人となる方である。当時14歳であった綾子さんは「重光とはソフィアではただ知り合ったのみ」(nur kennengelernt)とOAGの講演会で語るが、晶のここに至るまでの足取りは以下のようだ。

晶は1938年、東大法学部在学中にフランス語で外交官試験を受けて合格する。そして翌年ロシア語研修のため、ポーランドに留学する。

1939年4月、日本郵船の箱崎丸でマルセーユに向かい、パリ、ベルリンを経由してワルシャワに向かった。同期でフランスに向かう北原秀雄と一緒の赴任となった。3年間ロシア語を学ぶように命じられたが、ソ連は外国人のロシア就学を禁止していたので、周辺国の白系ロシア人に学ぶためワルシャワに向かい、さらに7月留学地ヴィルノ(現リトアニアのヴィリニュス)に着いた。付け加えると重光は欧州内での移動に関し、出張なども含め詳しく日付を書いて残しているので、筆者の今回の調査に非常に役立った。


筥崎丸船上にて 左から3人目が晶

ヴィルノ到着まで少し時間がかかっているがその間、7月8日にはワルシャワからベルリンを経由してロンドンを訪問している。そしてこの年、駐英大使になった叔父の重光葵(しげみつまもる)に会ったと思われる。その後叔父は1941年7月19日、鎌倉丸で4年8カ月ぶりに日本に戻り、1943年4月20日、東條内閣改造で外務大臣に就任する。

しかし留学開始後間もない8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、戦争の危機が高まり8月26日、晶はワルシャワに戻るよう指令を受ける。そして9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、晶はワルシャワ在住の邦人婦女子を引き連れ、モスクワに避難する役目を任される。

移動する車の屋根に大きな日の丸をつけ、ドイツ軍の急降下爆撃機の標的にならないようにした。ワルシャワでは空襲で燃える建物を見上げる邦人グループの写真が残っている。



1939年9月5日 ワルシャワ避難直前の邦人。戦争初期で空爆の恐ろしさがまだ認識されていなかったので、こうして外で見ることが出来たのであろう。

その後ラトビアの首都リガに移り研修を続けるが、そのリガもソ連による併合で立ち退きを命じられ、1940年9月8日、ブルガリアのソフィアに移ったのであった。

1941年10月にはフランス(ブルガリア兼務?)の陸軍武官補佐官桜井一郎とともに、マケドニア、アルバニア、ギリシャと回り、ドイツ軍によって占領されたばかりの戦場を訪問している。晶は主に通訳として同行したと思われるが、破壊された兵器を調べる姿の写真が残っている。

なお後日、この時の武官は桜井一郎ではなく、榊原主計(さかきばらかずえ)ブルガリア駐在武官であることが判明。
その判断の元となった「榊原主計追悼集」に重光の寄せた内容は、次のようである。

榊原さんは、どういうものか特別に私に目を掛けて下さった。近隣諸国への視察は常に2人で、榊原さんのベンツを(私が)運転しながらであった。

昭和16年(1941年)10月、アルバニアとギリシャに10日の日程の旅行を行った。当時のギリシャは、戦争中の日本でも想像できないような飢餓状態でした。餓死者も続出していたのです。

独ソ戦開始後、日米間の交渉の詳細については、在ブルガリア公使館は何も知らされていませんでした。榊原さんと私はこの年の12月の初めに、今度はルーマニア旅行に出かけたのです。その帰り道、われわれはその日中にソフィアに帰るつもりで8日午前3時、ブカレストを出発、まだ暗い霧の立ち込めたドナウ河をドイツ軍のフェリーボートで渡っていました。船橋から一人のドイツの兵隊が、気狂いのように、われわれの許に駆けてきました。

「戦争だ」と怒鳴るのです。我々は「なにを言っているのか、ヨーロッパで、ロシアで戦争は真っ最中ではないか」と思いましたが、
「違う、違う。パールハーバーだ!」とこのドイツ兵の怒鳴り声が、私どもの受け取った太平洋戦争勃発の第一報でした。

この項2015年12月27日 追加


1941年11月 アテネ アクロポリスにて戦地訪問のためか重光もニッカポッカをはいている。
(この写真は「榊原主計 追悼録」にも載っている。)

爆撃機の残骸

晶はソフィアでは白系ロシア人の家に住み込んでロシア語の勉強を続けた。そして同年12月8日の日本が米英に宣戦布告し、間もなく山路一家がウィーンから移って来ることになる。

重光がブルガリアでスキーをする写真が何枚か残っている。綾子さんも「スキーを教えてもらえる」というので一緒に行ったことがある。ちなみに1941年から42年にかけての冬は特に寒かった。ドイツ軍のモスクワ侵攻もこの寒さが一因となって妨げられた。


1942年1月 重光晶と山路姉妹。

加えて晶は山登りも好きだったのでその写真も多い。その他乗馬、狩猟、スキーなどのスポーツを好んだ。テニスのように他の人と一緒に、限られた場所でやるスポーツは好きではなかったという。何かに拘束されるのを嫌う性格であったという。


1945年 スイス ザースフェーにて 

その後当初の在外研修予定期間の3年が過ぎるが、開戦と共に日本への帰国の道も絶たれ、フランスのビッシーに開かれた日本大使館に官補としての辞令が出る。フランス語で外務省の試験を受けただけに、フランス語も堪能であったのだろう。1942年6月17日にソフィアを発ち、ベルリンを経由してビッシーに向かった。


重光晶がブルガリアを去るにあたって、贈られた銀の小箱。戦乱の中日本まで持ち帰った。


裏に公使館員らのサインが彫られている。中央は山路公使その上が泉さらにその上が道正(ロシア語の綴り)
さらに首長、梅田、丸山、田上、根本、小沼の名前がある。


補足すると1940年5月からのドイツ軍の侵攻で、フランスはドイツと講和条約を結ぶ。そしてフランスの南部に以前の五分の二ほどの領土を治めることを認められ、南部の温泉地ビッシーに政府が置かれ、日本も大使館を設置したのであった。綾子さんに言わせると、「今の日本人はこのビッシー政権のことをほとんど知らない」と嘆く。


ビッシーにて大使館関係者。中央が三谷隆信大使、その左は沼田照子夫人、右は本野清子。晶は沼田夫人の後ろ。軍服姿は沼田武官

<ブルガリアの特殊な立場>

欧州では独伊対米英ソの形で戦争が繰り広げられ、さらに日本も米英に参戦すると、欧州と日本の間の交通路は途絶した。(「戦時日欧横断記」参照)

一方ブルガリアは1941年3月、前年に日独伊で締結された三国同盟に加盟し、ドイツ軍の国内通過と進駐に同意したが、他のバルカン諸国とは異なり、ソ連に対して宣戦布告はしなかった。ここには独ソ間で駆け引きがあったという説もあるが実際に独ソ開戦後、ブルガリアはドイツの利益保護国となり、ソ連内に残るドイツの利益を守った。

そのためソフィアには依然ソ連の公使館が開かれていた。よって欧州の日本人にとっては、ソ連を経由して帰国するためのビザを申請する貴重な場所となった。山路公使もその対応に追われたと推測される。

まずはイタリアに駐在中の安東義良参事官は日米開戦後間もないころ、ブルガリアのソ連公使館で同国の通過ビザを入手して、日本に帰国した。

1942年4月24日の朝日新聞には、
「ローマ大使館の安東義良参事官が、シベリア経由で帰国の途に着いたのに次いで桜井、角田(ローマ)、徳永(ハンガリー)、梅田(ソフィア)、遠城寺九大教授(ウィーン)に旅券査証が下り、更に全購買連部長島秀夫ほか数氏にも査証が下りる見込み。懸案の日本、欧州連絡路再開は、シベリア鉄道を通じて開かれる」と連絡路に関し、期待を込めた記事が出る。

ただし文中の朝日新聞のブルガリア特派員の梅田良忠には実際にはビザは下りなかったのか、敗戦まで同地に留まっている。

ソ連は実質敵国である日本の外交官らに自国の領土など通過させたくはなかったが、当初ブルガリアのソ連公使館にはその意向が徹底していなかったのであろう、幾人かに通過査証が発給された。そこには山路公使の交渉も影響したかもしれない。しかしこれ以降、ビザはモスクワでの日ソの交渉で合意した人物にしか発給されなくなる。

先の徳永を含む4人が帰国の途に着くのは、5月上旬である。実際の帰国のルートもドイツから交戦状態のソ連に直接入ることはできないので、黒海に面したブルガリア、中立国トルコを経由し南からのソ連入国となった。

4名はまず、ブルガリアの首都ソフィアに集まる。そこでソ連横断旅行の必需品を買い集めた。当時その先のトルコでは、こうしたものの調達は不可能と連絡が入っていたからだ。山路公使もたくさんの缶詰の差し入れをした。日本に向けソフィアを旅立ったのは5月9日であった。

<ブルガリアの印象>

一方日本からも外交官の強化を狙い、数少ないソ連の通過ビザを利用して外交官がやってくる。
1941年12月に入省した高橋保は一年後の1942年12月20日、東京駅を発ちフランスに向かう。そしてソ連を経由してトルコに入いり、鉄路ブルガリアに向かう。彼の日記には、筆者の探した限りでは数少ない、当時のソフィアの様子が書き記されている。

「1943年2月2日
2時にスフィングラードに着いてトルコの国境に着く。ここまでほとんど平原ばかり。これからブルガリアになるのだ。ブルガリアの文字はやはりスラブ的でロシア的だが、ここはもうドイツの勢力の及ぶところ。

2月3日
午前7時半ソフィア着。駅で片言の日本語を話す、ドイツ人に似た男の出迎えを受ける。まず広場の先にある日本公使館に荷物を置き、それから朝食をとり、9時半ホテルに落ち着く。魚本(藤吉郎)いなくて淋しい。」厳しい中央アジア旅行の道中、同行の魚本は胸を病みトルコで当面静養となった。ここにある「ドイツ人に似た男」とは綾子さんの記憶によれば、当時運転手として雇われていた小林である。母親がロシア人であった。戦後もソ連の日本大使館に執事として勤務したという。(先に出た小沼雇と同一人物かは要調査)

「ここはロシア語が通じるらしく、ロシア的なところもあるが、勢力はドイツ。ドイツ語もフランス語より通じるが、昨日よりの車中は皆フランス語のみ。車掌も同様。(バルカン諸国で)いかにフランス語勢力が強いかに驚く。

公使館で道正氏に会う。皆親切なり。昼は道正氏よりソフィアホテルにておごられる。(日本から一緒の)根本官補より弱々しいが割と好印象を受ける。それから道正氏に導かれてトランクを買い、役所に行き山路公使に会う。公使は生気があまりないけれども、人間的には好人物の感を受ける。

それから田上書記生に連れられて、レストランに行き食事をする。ブルガリアもバルカンの田舎なのでソフィアの街は汚い。ソフィア日日新聞の橋本氏も共に食事をする。」

とそこには山路公使の印象も出てくる。日本から来た人間には、ソフィアの街は概してあまりきれいな印象ではなかったようだ。また日日の橋本氏とは朝日の梅田特派員のことであろう。

西隣のユーゴ内ではパルチザン活動が活発であったので、一行は北上しルーマニア経由とする。そしてフランスへ赴任するものも含めて、ベルリンを目指す。欧州に滞在する外交官は、まずはその実質的総責任者である大島浩駐独大使にあいさつするのが肝要だったのであろう。

同行した根本博によれば、ソフィアを出てドナウ川を渡ってルーマニアを目指すが、この大河は凍っていた。数人の屈強な男が根本らの乗ったそりの綱を引っ張るのだが、川の半ばに来るとこれまで愛想の良かった“車夫”たちが、急に凄んだ顔つきになり、身振りで「さらに金を出さないと先には行かせぬ」と言い出した。まるで江戸時代の追いはぎのような光景がまだあった。

1943年早々、今度は18名の集団が欧州に向かう。その中には2人のブルガリア赴任者も含まれていた。一人は陸軍武官に予定された甲谷悦雄中佐、そして公使館に勤務予定の野口芳雄通訳官である。

彼らがソフィアに着くと、甲谷中佐は任国であるがゆえに、山路公使等と共にブルガリア軍参謀本部外国武官掛を訪問する。着任の挨拶である。しかし席上同行の立石方亮駐トルコ武官(ブルガリア武官兼務)より

「甲谷中佐はアンカラ到着と同時に参謀本部よりの電報に接し、一日も速やかに在独、伊陸軍武官との打ち合わせのためベルリン及びローマに赴き、右旅行後正式にソフィアに着任するべきと命じられたるため、取り敢えず本日直ちに出発せしむることとせるに付、了承あり度」と一方的に告げた。

そして甲谷中佐はベルリンへの旅を続け、そのままベルリンに駐在した。ソ連通過査証を得る際に、目的国がソ連の交戦国ドイツでは具合が悪いため、ブルガリア駐在武官で発令したのであった。日本政府の小国軽視の態度もうかがわれる。

一方1943年11月、日本に帰国する一団があった。ベルリンに駐在する日本楽器製造(現ヤマハ発動機)の佐貫亦男がその一人であった。彼らもルーマニアを経てブルガリアに入ると、
「夜が明けて見るブルガリアの野は痩せ、林もまばらで、バルカンの中でも自然の恵みの少ない国である。ソフィアの手前で、保安員が鉄道を修理していたが、何日か前に米国の重爆B24“リベーター”が爆撃したからである」

どうも多くの邦人にとってブルガリアは、貧しい国の印象が強いようであった。そしてソ連とは交戦状態ではなかったが、すでに米国の飛行機がドイツを飛び越え、ブルガリアまで爆撃に来ていた。

佐貫は続ける。
「ソフィアのホテルのパンは際立って黒く堅かった。夜になってベッドに入ると、ここで一番のホテルなのに南京虫が出てきた。」

この話を読んだ綾子さんは「あ、南京虫ね。確かにブルガリアにはたくさんいたわ。でも袖の中に入るようなことはなく、出ている肌の部分にのみ付いたものです。」と平然と語った。後に赴任したインドはもっとひどかったとも。

またブルガリアではルーマニアに買い出しに行くことを楽しみにしていた。石油のとれた同国はドイツも一目置き、物資が豊かであった。

ブルガリアの公使館に勤務する道正通訳官もこの時一緒に帰国する。帰国に際しブルガリアの「日本友の会」が開かれた。この名前の親睦目的の会は多くの欧州諸国にあったようでイタリアにもあり、ムッソリーニ自身もこれに参加している。道正はブルガリア政府より美しい勲章をもらった。


道正久 「重光兄 昭和17年6月15日」のサインあり。

綾子さんによれば、道正氏は戦後ソ連軍に捕まり悲惨な道を歩むことになった。ロシア語の専門家であったことはスパイ嫌疑がかかるのに充分であったようだ。終戦時は満州にいたのであろう。戦時中に貴重なソ連の通過ビザを得た邦人は、周りから羨望の目で見られた。しかし道正氏はこの時に帰らずにソフィアに留まっていれば、運命は変わっていたかもしれない。

<訪問者>

先に述べた日本への帰国者の通過を除くと、当時の記録、日本人回想録などを見てもブルガリアを訪問した日本人は多くないようだ。その他中で二人の邦人のソフィア訪問が分かっている。

1942年9月24日 ベルリンに駐在する海軍混合委員阿部勝雄中将がソフィアを訪問している。山路公使、ブルガリア海軍少将駅で出迎えた。ホテル.ブルガリアに泊まった。この時の貴重な写真を阿部勝雄中将のご遺族が保存している。


日本人は右より山路章公使、野村直邦中将、阿部勝雄中将、松原明夫駐トルコ海軍武官、渓口泰麿中佐である。ベルリンの海軍責任者が3名そろっている。彼らの後ろには列車の一部のようなものが見える。駅においての撮影であろう。

この写真を見て綾子さんは野村中将をすぐに認識した。当時の記憶からではない。戦後、世田谷代沢の重光さんの隣に住んだのが、短期間ではあったが帰国後海軍大臣に任命された野村中将だったからだ。何とも言えない縁である。

黒海という大きな内海はあるものの、海に面していないブルガリアであるが、海軍はあったのであろう。

次いで1943年3月31日、ユーゴスラビアのベオグラードに入国した指揮者近衛秀麿は、ルーマニアを経由し、6月4日にはブルガリアの首都ソフィアへ公演に回った。そして国王、ボリス三世から勲章を受けた。綾子さんは「ブルガリアが当時王国であったことを知る人は少ない」と嘆く。綾子さんは近衛の指揮者としての評判は、日本ではそれほどでもなかったが、欧州では非常に高かったという。

<山路公使の活躍>

次にブルガリア公使としての山路の活躍を外交文書から探ってみる。そこからは日本にとってなじみの少ないブルガリアとの友好に務める公使の姿が浮かんでくる。

着任早々の1942年2月13日、日本―ブルガリア協会を設立させた。日独に倣い米英に参戦した(させられた)同国との友好を図ったのであろう。前文部大臣を会長に据え、山路自身は名誉会長に推挙されている。先の道正氏の帰国に際して開かれた「日本友の会」もこの協会の主催であると思われる。

1943年4月26日、日本からブルガリアに向けた特別放送があった。酒匂秀一日本ブルガリア協会会長(元ポーランド大使)、駐日ブルガリア公使らがメッセージを送った。ブルガリアの新聞も翌日には大々的に取り上げた。

1943年8月には、当地の日本語熱が高まったということで、ソフィア大学に日本語講座を開講し、ウィーンに滞在していた文学士、渡辺護を講師として招聘した。しかし1944年1月の連合国の爆撃で大学が閉鎖され、渡辺もウィーンに引き揚げる。このころが両国の友好関係も一番深まったと言えようか。

そして1944年8月24日、山路公使は重光葵外務大臣に宛てて、8ページにわたる長文を打つ。長さからもその緊急度が感じられる。また公使はこの時点では、まさか自分の娘がこの外務大臣の甥と結婚するとは想像もしていなかったろう。電報ではドラガノフ外相の議会での演説を紹介しつつ、ソ連とブルガリアの関係の悪化などを報告した。これは間もなく現実のものとなる。

唯一民間人として駐在していた朝日新聞の梅田特派員にとって生活は厳しくなっていた。日本からの送金が途絶えたからである。9月6日、山路公使は重光外相に宛てて
「梅田に対して4月以降、送金が全くなく非常事態下の生活にも支障をきたして、非常に気の毒である。
ついては朝日新聞本社に対し、送金の働きかけをしてほしい」と打電した。見るに見かねての行動であったのであろうが、朝日新聞すら外貨送金に苦労するほど、日本は追い込まれていた


以上 第一部


 
追記
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