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山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧(第二部) 

<疎開 1>

先にも書いたように英米の空襲が始まり、山路一家は公使だけを残し、オーストリアのヴォルフガング湖(Wolfgangsee)のそばシュトローブル(Strobl)に戦火を避けて疎開する。例年の避暑に訪れていたサンクトギルゲンとは同じ湖の反対の場所である。

1944年1月24日、「明日。ソフィアを去ります」と綾子さんに日記に記してある。そして1月30日にウィーン着、2月6日ウィーン発、2月10日シュトローブルに着いた。この年の1月の爆撃は、先に述べたようにソフィア大学が破壊されるほどの大きなものであった。よってこの空襲が、疎開の一因かもしれない。


疎開して住んだコテージ

シュトローブルにはウィーンの公使館に勤務する山西善一書記生の妻知恵子と、生まれて間もない長男が近くに疎開していた。ほかのウィーンの日本人外交官とはあまりコンタクトはなかったという。山西書記生については後ほどまた述べる。

疎開とはいえ、当初は戦火もなく何度かウィーンにも出かけた。綾子さんはザルツブルクの女学校に通うことも考えたが、軽便鉄道のような列車に乗って毎日行き来するのに不安があり取りやめた。しかし近くには教育関係者も沢山いて、数学他の個人指導を受けた。


1944年夏 シュトローブル オーストリアの民族衣装を着る綾子さん

また同地にはドイツの国家保安本部長官カルテンブルンナーの家族が居を構えていた。ナチスの高官であった彼は戦後ニュールンベルク裁判にかけられるが、オーストリアの出身であった。そして同地でその息子にドイツ語を教えたのは、なんと綾子さんと弟晴久だった。近くに現地の学校がなかったからだというが、日本人がオーストリア人にドイツ語を教えるというのは、何とも奇妙な光景である。

戦時下とはいえオーストリアは綾子さんにとって依然、住みやすく良いところであった。音楽好きな国民に支えられ、ザルツブルクの音楽祭は終戦の前の年である1944年も開催された。さらには翌1945年もドイツ降伏直後の8月に開催されている。

ソ連に対しそれまで中立を守ったブルガリアであったが1944年9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦布告する。小国ブルガリアが崩壊するのは間もなくのことであった。そして左翼勢力からなる内閣が成立する。

ブルガリアは取り敢えずソ連の支配下となり戦火も収まった。この状況でシュトローブルの山路一家は主人の残るソフィアに戻ることも考えたが、オーストリアとブルガリアの間では、独ソ間で激しい戦闘が行われていて、戻ることは出来なかった。

オーストリアの山間に取り残された山路一家に対して、ベルリンの日本大使館からは「ベルリンに引き揚げろ!」の指令が来た。しかしベルリンは連合国の占領の主目標として、オーストリアとは比べ物にならない連夜の空襲に見舞われている。

それ故に「冗談じゃない!」というのが家族の反射的な反応で、指示に従わなかった。実際この時期、イタリアの日本人外交官らはベルリンに向かい、その後は大島大使らと行動を共にした。

「ドイツの崩壊も遠い日ではない」との見通しから、母澄子はスイス入国を考えるようになった。しかし周りのオーストリア人の手前、それを口に出すのははばかれた。オーストリアを支配するドイツが負けることを意味するから。

しかし相談をしたオーストリアの人々が「そんなことを言うな。スイスに行け」と言ってくれた。列車の切符の手配なども彼らの世話になった。

そうしてスイス国境に近いフェルトキルヒ(Feldkirch)のスイス領事館に入国ビザを申請した。
厳密にいうとフェルトキルヒ(Feldkirch)か(ドルンビルン)Dornbirnのどちらかにスイスの領事館があり、他方に泊まってビザの発給を待ったというのだが、筆者の推測では領事館はおそらく前者にあったろう。

一家のスイス入国申請は、ベルリンの日本大使館の指示に従ったものではないから、外交ルートでのスイス政府に対する要請はなかったようだ。その代わりに奔走したのは、かねてからの知り合いであったオーストリア人達であった。その中には今は悪評高いナチス党員の人もいたが、かれらの多くはたまたまナチス党に所属していたという風に綾子さんは理解している。

そしてスイス入国のビザが下りた。しかし生まれてからこれまでずっと山路家の面倒を見てくれたドイツ人の乳母フルダ(Frau Hulda)はこの時スイスには入れず、故郷のハンブルグに戻った。

山路家にとってKinderfraeulein(子供の教育係で日本的乳母ではない)との付き合いは一生ものであった。彼女が山路家の面倒を見るのはハンブルグ駐在時代からで、1934年の帰国時には一緒に日本に来た。その後、またウィーンに向かい今回別れるが、戦後はロンドンにも来てもらい、その時は綾子さんの子供らの面倒を見てもらった。(「山路綾子と家庭教師」参照)

またオーストリア人の料理人ともここで別れた。大公使が海外に赴任する際、多くは日本から料理人を連れて行った。公邸でのパーティーが多いからである。しかし山路家はウィーンでオーストリア人の女性を料理人に雇った。日本人の料理人との違いは、子牛なども自分でさばくことが出来たことである。戦後日本人の料理人に同じことを頼んだら、震え上がったという。

<疎開 2>

ソ連の影響下で作られた新ブルガリア政府は、11月7日今度はドイツに宣戦布告する。大国に振り舞わされる小国の悲劇であろう。そして同じ日に対日断交を通告する。11月10日、山路公使ら在留邦人対し一週間以内の国外退去を要求した。

しかしすぐにはソ連の通過査証が得られなかったため11月14日、山路公使以下ソフィアに残った邦人9名は中立国トルコのイスタンブールに避難する。そのうちの一人清水武男陸軍武官は1944年3月ベルリンから赴任したばかりであった。

翌年1945年3月一行はイスタンブールを出発、ソ連を経由して日本に帰る。山路公使は家族をスイスに残したままでの帰国であった。一方スイスに残った母澄子は、残った家族に対し留守宅手当が出るか、心配した。本人が先に帰国し家族が残った例が、外務省でもなかったからであるが、この問題は解決され、その後金銭的に困ることはなかった。

もう一方の重光晶は1944年3月、フランス政府の置かれたビッシーからドイツ軍占領下のパリに勤務先が代わる。前田陽一官補と二人でかつての日本大使館の建物を守り、かつ依然パリに残っている邦人の保護にあたるためであった。

そして連合軍がパリに迫ったので8月13日、パリを発ちストラスブールを経由してベルリンに向かい、24日に到着する。重光にとってはワルシャワに続く、戦火を避けての避難である。
そして9月にヒルシュベルクに住まいをおいた。ベルリンの大使館が用意した避難所の一つと思われる。

重光はほどなくして他3名のフランスからの引揚外交官と共に、スイス赴任を命じられ、同国への入国ビザを申請する。このころにはドイツの形勢も悪くなり、フランスからの外交官が働くほど、ドイツ大使館にも仕事はなかった。またドイツの崩壊を見越して、日本大使館の機能の一部を中立国スイス、スエーデンに移すという考えの一環でもあった。

1944年9月29日付けのスイスのシュトッキ(Stucki)外務次官あてのメモが、スイス公文書館に残っている。それによるとスイス入国を希望する4名は鶴岡千仭、重光晶、堀川春夫、石川虎吉であった。メモを起草したスイス外務省職員は、交代要員である鶴岡のみにビザを発給し、他の純増の3名は様子見でよいのではないかと提言しているが、4名とも査証を得ることが出来た。晶のスイス入国は10月16日であった。

4名の査証申請に際し、日本側は日本に駐在するスイス公使館員も増えているとほのめかした。スイス側も外交官の待遇を増やしたかったのであろう。外交官となると食料の配給量なども違ってくるからである。

また晶を含む多くのフランス駐在の外交官はベルリンに避難したが、三谷隆信大使他若干名は南ドイツの小都市、ジグマリンゲンに移った。日独が依然支持するビッシー政府がペタン元帥以下、同市に移ったからである。

翌1945年3月11日、重光はスイスのベルンよりドイツに入り、コンスタンツを経由してジグマリンゲンにかつての上司、三谷大使らを訪れた。2月、ジグマリンゲンの北原秀雄官補から
「この冬の間に戦況の悪化が考えられ、その場合恐らくオーストリア、スイス国境方面に行く事態に備えてタイヤチェーンを持っていたい」と連絡が入った。

それで晶がスイスからわざわざ重いチェーンを4本運ぶことになるわけだが、物不足のドイツではタイヤチェーンすら入手することが出来なくなっていた証左であろう。またキャリアー組の外交官がわざわざチェーンを運ぶというのは今にして思うと滑稽だが、当時はまさに死活問題であった。

同じくフランス駐在陸軍武官でジグマリンゲンにいた沼田英治は1945年早々、スイスの岡本清福陸軍武官が軽い脳溢血で倒れると、猛烈にスイス入りを本国に訴えた。妻と子供二人を抱え、彼らの安全を考えたようだ。それがかない1945年2月14日、沼田武官一家はスイスに向かう。

ドイツ最期のこの時期、多くの邦人がスイス入国を望み、試みた。先に述べたソフィア大学で日本語を教えた渡辺護も、家族と共に陸軍武官室雇としてスイスに入国した。

スイス入国を希望したのは日本人だけではない。綾子さんが戦後間もなく知り合ったスイス人は、終戦時に国境警備にあたっていた。「若いドイツ兵が来て“スイスに入れてくれ”と言って来た。追い返すのがとても辛かった」と後に述べた。

<スイス入国>

山路さん一家がオーストリアを発ったのは1945年2月12日である。同日の綾子さんの日記に
「これからスイスに向かう」と記されている。そして2月17日にスイスに入国した。間に日にちがあるのは、国境の手続等で少し時間がかかったためかもしれない。山路家にとってはブルガリアに続き、今度はスイスで重光晶に迎えられることになった。

当初は有名な観光地インターラーケンに近いトゥーン(Thun)のホテルに荷をほどいたが、間もなくフランス語圏のラ.トード.ペールに移る。こちらはローザンヌとモントルーの間の小村で、今日でも日本人にはあまり馴染みのない場所である。

ドイツ語に全く不自由のない山路家であったが、外国人の居住を厳しく制限していたスイスは州ごとに外国人の数を管理し、ドイツ語圏のチューリッヒ、ベルン州はすでに日本人が多すぎるとされていた。

そこでまだ少ないフランス語圏に住むことを許されたと思われる。こうしたことから、オーストリアに留学していた“西村ソノ”がローザンヌに住んだ。彼女は文化学院の創立者西村伊作の四女である。また先に述べた三谷フランス大使以下4名は、ストッキー次官の特別な計らいで、査証のないままスイス入国を許されたが、間もなくモントルーのパラス.ホテルに住んだ。


1944年ストローブルにて この女性の着物は“西村ソノ”さんのものという。ウィーンに留学していた彼女は、しばしばシュトローブルの山路家を訪問したという。

ラ.トード.ペールにはすでに現役を引退した裕福な英国人がかなり住んでいた。最初に山路一家が借りようとした別荘の持ち主も英国人であった。持ち主本人は気にしていなかったが周りの英国人の反対で、その別荘は借りることは出来なかった。

綾子さんはドイツ語がほぼ母国語なので、フランス語圏の学校には通わずに寄宿してベルンの大学に通い、週末に家族の元に帰った。スイスの大学入学資格(Matura)は勿論なかったが、入学試験に受かって入った。

スイスでは本来18歳にならないと大学に入れないのであるが「いつ帰るかわからないから」と説明し17歳で入れてもらった。スイスの教育界はなかなか鷹揚であったといえようか。

枢軸国の劣勢なこの時期、スイスでは街の人、ベルンの大学生も、綾子さんをはじめとする枢軸国関係者には冷たかった。しかしベルン大学のドイツ人の教授は別であった。

綾子さんは後に母親に冗談半分に文句を言ったものである。「ローザンヌの学校に通ったらフランス語もマスターできたのに」

1945年4月13日、ウィーンがソ連軍の手で陥落する。母と共に思い出深いウィーンの陥落の知らせは綾子さんには一番のショックであった。家族で涙した。そしてドイツの降伏、終戦というこれまで体験したことのない中、今後どうなるのであろうかと考えても見当がつかなかった。

少し戻って1945年1月、奥山幸蔵ウィーン領事の管轄する地域において山路一家を含め依然35名の邦人が残っていた。帰国直後の奥山領事の邦人避難に関する報告書によると、ウィーンでは1944年11月ごろから空襲が激しくなった。山路さん一家もかつて住んだケルブル通り(Koelbl Gasse)1番の官邸および事務所も炎上した。そして館員は翌年4月4日にゴルディック城に疎開する。

すでに妻子を山路家と同じシュトローブルに避難させていた山西善一書記生は館員の疎開に先立つ4月2日、領事のもとを離れることにして自分の車で家族のもとに向かう。ほかにも2名の館員が別行動を取って西に向かった。東から来る“ソ連軍に保護される”という領事の方針に対し、西から来るアメリカ軍に捕らえられることを望んだからであろう。

そしてこの奥山領事のかなり長い報告書であるが、山路一家についての記述はない。山路一家はオーストリア人の世話になり、ウィーンの日本総領事館の保護のもとにいなかった証左であろう。

なおシュトローブルの山西書記生一家はドイツ降伏直前の5月3日、ベルリンからドイツ大使館員の避難場所オーストリアのバード.ガシュタインに避難する陸軍武官室のメンバーに拾われ、同地に着き“無事“アメリカ軍に保護された。


1945年6月 ブリエンツ湖にて 猪名川治郎官補(左)と晶。ドイツが降伏し日本がまだ戦いを続ける時期である。

<日本敗戦>

綾子さんはベルンで重光晶と会うと、いつもスパゲッティを御馳走してくれたという。綾子さんは「高給取りの外交官なのであるから、もう少し豪華なものを食べさせてくれても良かったのでは」と思っているようだ。しかし四方を枢軸国に囲まれたスイスも食糧事情は良くはなく、週一日は肉なしデーがあり、食料を買うにも事前に支給された切符が必要であった。

確か8月15日と思うが、母は綾子さんに向かって「重光官補のところに寄って、これからどうなるのか聞いてきて」と言ったので、綾子さんは公使館に出向いた。応対に出た重光は「心配するな!」と言うのみだった。しかしその後で外に出たら号外が出ていて”Japan hat kapituliert!”(日本、降伏!)の大きな見出しが見えた。
「のちの夫は終戦について知っていたのに自分には何も言わなかった」とその役人的態度を恨んだ。

しかし晶の回想によれば、彼は前夜、大変な苦労をしている。
ポツダム宣言を最終的に受諾するという御前会議の決定を、スイス政府を通じて連合国に伝えるため、8月14日午後7時半、加瀬公使は外務省のシュトッキ外務次官を訪問するが、晶は公使のプロトコル(秘書)として同行する。その後は放心状態で、家に帰って寝入った。しかし夜の午前2時半、連合国側からの連絡が来ているとの知らせで、またスイス外務省を訪問した。その長かった翌日に、綾子さんは晶と会ったことになる。

また陸軍スイス駐在武官、岡本清福中将の自殺がスイスの新聞に報じられ、綾子さんも知った。日本開戦の責任を感じての事であった。

日本終戦時、綾子さんは17歳であったから比較的のんきであった。一方母親は子供四人をかかえて欧州に取り残されて、大変だったと思う。日本降伏の知らせで山路家の自宅の前を、ここで老後を送るイギリス人達が国旗を持って行進した。控えめな示威行為であった。

同じころ日本では7月31日、先に帰国した山路公使は叙勲を受ける。東郷外務大臣の名であった。記録は残っているが、敗戦の直前のこと、実際に授与されたかは定かではない。

モントルーのホテルに住む三谷大使以下は男だけなので、母が幾度か食事に招待した。戦後天皇陛下の侍従長を務める「三谷大使はいい人であった。」と綾子さんは回想する。メンバーの一人で、同じくフランス大使館に勤務していた北原秀雄は、書いたように晶と同期で同じ船で欧州に向かった人である。

1945年のクリスマスには三谷大使一行に加え、かつての部下であった重光も家に来た。そしてローザンヌの“西村その“も加わった。スイスのフランス語圏の邦人がすべてそろった。その時の貴重な写真が、小さいが残っている。


1945年山路家でのクリスマス。右端の男性が三谷大使。中央が綾子さん、左端が重光晶 前列右が西村ソノ。(ベタ焼きの写真を拡大

スキー場にて 西村ソノさん提供。

<帰国>

日本への帰国が決まった。欧州中立国に住む(公務の)邦人は、スペインを出る特別仕立ての船に最寄りの港で乗り込み、帰国するようにというマッカーサーの指令が出たからだ。

加瀬俊一スイス公使の名前でスイスの外務省に提出された帰国者リストには、計71名の名前がある。山路一家、そして重光晶もその中にいた。ただし71名のうち4名はスイス入国を希望しながらも果たせず、オーストリアに留まっていた井上賢曹書記官一家、およびフランスのペルピニャンに抑留されていた、高和博マルセーユ領事他2名であった。スイス公使館が国外の彼らの面倒を見たのであろう。そして40名ほどがなおもスイスに残るが、経済的な問題はないと加瀬公使はスイス側に説明した。

筆者が見せたそのリストを見ながら、綾子さんは次のような感想を述べた。

“西村その”: 民間人であったが、一緒に帰れるように肩書を外交官山路家の“従者“とした。また留学していたウィーン大学でも評判の美人であった。気も強く、ふざけてキスをした学生の頬をはたいたという伝説がある。
白旗友敬三等書記官:主人の一期上、病気で療養中であった。
森山隆介三等書記官:奥さんは学習院で母と同じ。賢い子どもたちであった。
上田常光三等書記官: 主人と同期
藤田喜三郎書記官: 奥さんフランス人。子供は大学生だった。
末国章雇: 本人は病気で具合が悪かった。奥さんは若いスイス人。結局ナポリで船には乗らずにスイスに戻った。奥さんがスイス人故、日本に帰るかどうか最後まで迷った末の決断かもしれない。
海宝章: 公使館の料理人。おでんを作るのが上手であった。

神田襄太郎チューリッヒ領事:終戦近くにスエーデンより転入。父親と同期。
長女の神田愛子はスエーデンで外交官瓜生復男と結婚したので、父のスイス異動にもかかわらず残った。そして日本引き揚げに際しては、生まれたばかりの赤ん坊を連れて他の外交官らとスエーデンからナポリへ向かった。敗戦で何もないドイツをバスで通過して大変だったという
北村孝治郎:正金銀行。スイスの和平工作に関わったという。戦後はいろいろな人がそのようなことを語ったが、自分はあまり信じない。

また加瀬公使の書類の宛先であるシュトッキ氏は外務次官。その息子もスイス外務省にいた。主人(重光晶)の本にその名前が出てくる。

スイスの外務省は当地のアメリカ、英国、中国の外交官と日本の降伏について調整をした。そして日本の公使館の建物、残った資産の引き渡しを取り持った。在留邦人の帰国に際してはスイスの国鉄とイタリアの国鉄が話をして以下のような計画を策定した。

1946年1月24日 
ベルン発 9時2分 キアッソ着 14時54分
コモ発 18時15分 ミラノ着 19時36分
ミラノ発 23時30分 ローマ着 6時 (翌日)
1月25日
ローマ発 11時30分 ナポリ着 18時

スイスを出て列車がイタリアに入ると監視のためにイギリスの兵隊が乗り込んできた。ナポリではイギリス軍のキャンプに泊まった。「荷物は自分たちで運べ」との指示が出て、公使も自らトランクを運んだ。西村ソノは次のように回想している。
「そのキャンプがひどいの。トイレも満足にない状態で、浜辺に穴を掘って山路さんのお嬢さんと二人で交代で見張りをしながらすませたのよ。(笑)」

1月29日、午後4時加瀬公使以下、山路一家も含めた一行が4800トンのプルス.ウルトラ号に乗り込んだ。この船で帰国したのは、先ほどの71名の他、書物等で見る限りでは

ポルトガル:森島守人公使以下44名
スペイン: 須磨弥吉郎公使以下48名
イタリア:日高信六郎大使以下29名 
バチカン:公使館員およびウルバン大学留学生20名 (原田公使夫妻は別途乗船)
スエーデン:岡本季正公使他73名。(ベルリンより同国に避難した海軍軍人を含む)
クロアチア:三浦和一代理公使以下3名
トルコ:栗原正大使以下 33名

である。これに最初の71名を加えると321名となる。回想の多くは300名ほどの乗船だったと書いているので、かなり正確と言えよう。

欧州に来た時と違い、みじめな船であった。それでも綾子さんは2等の船室をもらった。厳密な規則で部屋の割り当てが行われ、5歳の弟弘行を連れた母澄子は1等で、若い晶は外交官といえ、3等でもない船倉のハンモックであった。スペインの船で船長は、地中海より東に航海したことがないとのことで誰もが不安を覚えた。


プルス ウルトラ号上の綾子さん。胸には日本に帰る期待と不安を秘めて。

船にはスペイン人の船医がいたが、引き揚げ者に日本海軍の医者も乗っていた。妹が盲腸になった時「自分が切ってもいい」と申し出てくれたが、寄港地コロンボのインド人の医者に診てもらい、ペニシリンか何かの薬で抑えた。綾子さん自身は長旅になるからとスイスで慢性盲腸を切ってもらった。厳しい航海になることは皆事前からよくわかっていた。

マラッカ海峡には水雷が浮いていたのでその間を縫うが、海軍の軍人が波間を注視した。その効果のほどは甚だ疑問ではあったが無事マニラに着いた。そこで乗り換えた6000トンの筑紫丸では、ぼた餅が出たのをよく覚えている。

筑紫丸が神奈川県の浦賀に着くのは1946年3月26日朝7時である。港で待っていたのはアメリカ兵のみで日本人はいなかった。裸で検査され、レントゲンも撮られて、指輪も全部没収された。厳しい検査が行われたのは、終戦時に在外公館のすべての財産を連合国に渡すように命令したが、それに従わなかったものがいて、自分自身や家族に分配したものがいたからであった。栗原大使が6000ドルを没収され、婦人の着物にダイヤが縫いこまれていた例もあったという。

再び西村ソノの回想によると、山路さんのお母さんが毅然として、自分の娘をかばった。
「大人はどんなことをされても、戦争に負けた以上我慢します。けど、罪もない娘には手を触れないでください」と言うとアメリカ兵もたじたじとなり、綾子さんら二人の娘は検査所をそのまま通過出来た。

山路家で没収されたものは後に戻ってきたが、全てではなかった。綾子さんの日記も取られ、戻ってきた時は鍵の部分が壊されていた。中を調べたらしいが、古い “ジュターリーン書体”のドイツ語で書かれていたので、誰も読めなかったと思うと綾子さんは語る。この三冊の少女の日記は、自分が死んだら棺と一緒に燃やすつもりであると本人は語る。


綾子さんの日記。鍵にかける皮の部分が切り取られている。

<戦後>

最後に日本に戻った後について、綾子さんの記憶を拾い集めて記す。戦後を語る貴重な証言である。

冒頭に述べたように帰国した年の10月に綾子さんは重光晶と結婚する。いつ結婚をすることを決めたのかなどは聞けていないが、それはこの論文の主題ではないので、読者にもご勘弁いただこう。

ただ晶の著書「ロシア人の憶出」(非売品)には次のような記述がある。
ブルガリア留学当時、日本の外務省では国際結婚に反対する意見が強く、その急先鋒が叔父、重光葵であった。そのことを下宿の女主人に言うと、自身国際結婚に失敗した経験から
「あなたのお嫁さんは日本人でなければいけない。そうです。ここの(山路)公使さんのところに娘さんが二人いらっしゃるけど、あの上の娘さんはどう?いろいろ人に聞いたところでは、とてもよい娘さんということですよ」と静かに語った。重光は咄嗟に
「まだあんな小さい女の子を妻にと考えるなんて、おかしいですよ」と答えた。

また同じ本の別の個所では
「1946年4月、7年ぶりに日本に引き揚げた私は、その年の秋、前の駐ブルガリア公使の上の娘の綾子と結婚しました。未だスイスにいた時に、この話(結婚のこと)が最初に持ち上がった時に、私にはそれが当然の事の様に思えたのです」とあるので、スイス時代に婚約をしたことが分かる。

綾子さんの口からは
「戦時中のブルガリア、スイス同じような境遇にいたことで、価値観が共有でき、話も合ったのです」と筆者は直接聞いた。

冒頭の記念写真では綾子さんは怖い顔をしているが、主人は虫も殺さぬ顔だと少し悔しがる。参列者は少なく、皆痩せているのは戦後の食糧事情のせいである。晶の元上司である三谷大使には参列をお願いした。叔父重光葵は戦犯として巣鴨に収監中であったので出席できなかった。

結婚すると、日本酒一升の特別配給があった。新婚旅行は熱海で、自分らでお米を持って行った。翌年8月には上の娘が誕生して、今は同じ家の上の階に住んでいる。

1952年には主人の弟の結婚式があった。式もだいぶ華やかになった。一方綾子さんの実の兄もそのころに鹿児島で結婚。母親は農村の生活改善運動に取り組み、結婚式の簡素化も運動に含まれていたので、少し残念ではあったがそれに従って行った。

山路家は、帰国後は父親の故郷の鹿児島に住んだ。そうしないと自分らの土地が、GHQにより施行された農地改革の流れで、不在農地として没収されてしまうからである。そして実家の百姓屋に住み、かまどでご飯を炊き、井戸で水を汲む生活になった。父はGHQと日本政府の連絡を担う終戦連絡事務所に所属し、鹿児島の出張所となった“かのや”に勤めた。

すぐ下の弟晴久さん、末っ子の弘行さんはそれまでドイツ語しか話せなかったが、最初の日本語として鹿児島弁をすぐに覚えた。終戦後の混乱、苦労を体験したので、綾子さんは「今は何があっても動じない」と語る。

その後東京に出てからは、早稲田大学のサークルではドイツ時代に一緒だった二つ年上の秋山美智子さんと共にドイツ語を教えた。学生と年が違わなかった。その頃の学生は意外と内気であった。質問に対して返事もしない。綾子さんは
「ヤー(はい)かナイン(いいえ)位言え!」と怒った。

戦後の外国勤務のスタートはロンドンであった。1954年7月、ロンドンに向かう一家を、羽田空港まで叔父の重光葵が見送りに来た。叔父が巣鴨を仮釈放されたのが1950年で、1954年12月には鳩山内閣で外務大臣に任命される。この時はロンドンまで飛行機でも50時間かかった。羽田を飛び立ち、最初に着陸したのは、米国占領下の沖縄であった。

ロンドンで夫の晶は、主として国交のないソ連(今のロシア)との国交交渉にあたった。日ソ間に外交関係がなかったので、交渉は第三国で行う必要があった。その時綾子さんはロシア語の勉強をした。国交成立後、夫はソ連に赴任となると思ったからだが、次の赴任先はインドだった。

その後1961年に参事官としてソ連に赴任となる。ソ連では重光の戦時下ブルガリアでの留学経験がようやく生かされることになる。そしてそれからというもの、ロシアも綾子さんにとって大変好きな国となる。

1965年にはルーマニアの戦後初代大使。その後1970年ナイジェリア大使となる。この時重光夫婦は自分らから希望を出したとのことだ。ナイジェリアは当時軍政であったが、今の方が治安は悪いと言う。大使は防弾ガラスの装備された車に乗っているようだから。そして1974年にはソ連大使となる。1981年には日本中近東アフリカ婦人会を中心になって設立した。

重光晶さんはその後2000年に84歳で亡くなる。綾子さんは庭いじりなどをして悠々自適の生活をおくるが、“ドイツ語を話す夫人の会”に一番の長老として出席するのを楽しみにしている。

終わり

参考にした資料は各箇所に記しましたが、それ以外に以下の書籍を参考にしました。

1 「臣下の大戦」足立邦夫
2 「日本・欧米間、戦時下の旅」 泉孝英


山路綾子さんは2017年8月23日に脳梗塞の発作で倒れ、12月8日に永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 
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