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山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧(第二部)

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「第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)」 

<疎開 1>

先にも書いたように英米の空襲が始まり、山路一家は公使だけを残し、オーストリアのヴォルフガング湖(Wolfgangsee)のそばシュトローブル(Strobl)に戦火を避けて疎開する。例年の避暑に訪れていたサンクトギルゲンとは同じ湖の反対の場所である。

1944年1月24日、「明日。ソフィアを去ります」と綾子さんに日記に記してある。そして1月30日にウィーン着、2月6日ウィーン発、2月10日シュトローブルに着いた。この年の1月の爆撃は、先に述べたようにソフィア大学が破壊されるほどの大きなものであった。よってこの空襲が、疎開の一因かもしれない。


疎開して住んだコテージ

シュトローブルにはウィーンの公使館に勤務する山西善一書記生の妻知恵子と、生まれて間もない長男が近くに疎開していた。ほかのウィーンの日本人外交官とはあまりコンタクトはなかったという。山西書記生については後ほどまた述べる。

疎開とはいえ、当初は戦火もなく何度かウィーンにも出かけた。綾子さんはザルツブルクの女学校に通うことも考えたが、軽便鉄道のような列車に乗って毎日行き来するのに不安があり取りやめた。しかし近くには教育関係者も沢山いて、数学他の個人指導を受けた。


1944年夏 シュトローブル オーストリアの民族衣装を着る綾子さん

また同地にはドイツの国家保安本部長官カルテンブルンナーの家族が居を構えていた。ナチスの高官であった彼は戦後ニュールンベルク裁判にかけられるが、オーストリアの出身であった。そして同地でその息子にドイツ語を教えたのは、なんと綾子さんと弟晴久だった。近くに現地の学校がなかったからだというが、日本人がオーストリア人にドイツ語を教えるというのは、何とも奇妙な光景である。

戦時下とはいえオーストリアは綾子さんにとって依然、住みやすく良いところであった。音楽好きな国民に支えられ、ザルツブルクの音楽祭は終戦の前の年である1944年も開催された。さらには翌1945年もドイツ降伏直後の8月に開催されている。

ソ連に対しそれまで中立を守ったブルガリアであったが1944年9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦布告する。小国ブルガリアが崩壊するのは間もなくのことであった。そして左翼勢力からなる内閣が成立する。

ブルガリアは取り敢えずソ連の支配下となり戦火も収まった。この状況でシュトローブルの山路一家は主人の残るソフィアに戻ることも考えたが、オーストリアとブルガリアの間では、独ソ間で激しい戦闘が行われていて、戻ることは出来なかった。

オーストリアの山間に取り残された山路一家に対して、ベルリンの日本大使館からは「ベルリンに引き揚げろ!」の指令が来た。しかしベルリンは連合国の占領の主目標として、オーストリアとは比べ物にならない連夜の空襲に見舞われている。

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<疎開 2>


<スイス入国>



1944年ストローブルにて この女性の着物は“西村ソノ”さんのものという。ウィーンに留学していた彼女は、しばしばシュトローブルの山路家を訪問したという。



1945年6月 ブリエンツ湖にて 猪名川治郎官補(左)と晶。ドイツが降伏し日本がまだ戦いを続ける時期である。

<日本敗戦>



1945年山路家でのクリスマス。右端の男性が三谷大使。中央が綾子さん、左端が重光晶 前列右が西村ソノ。(ベタ焼きの写真を拡大




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<帰国>



プルス ウルトラ号上の綾子さん。胸には日本に帰る期待と不安を秘めて。


<戦後>



山路綾子さんは2017年8月23日に脳梗塞の発作で倒れ、12月8日に永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 
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