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欧州邦人 気になる人(第4回) 藤村義一中佐の盟友 ポール・ブルーム

<序>




ポール・ブルームは第二次世界大戦中、スイスにおける日本の和平工作に名前の登場するアメリカ側の組織OSS(戦略情報局)の一員である。筆者は自著「スイス和平工作の真実」の中で、ブルームについて以下のように紹介した。

「典型的な例を挙げると、前章で触れた(OSSスイス代表、通称)ダレス機関の日本担当として、藤村らが接触したとされるポール・チャールズ・ブルームがいる。ブルームは戦後、なんと日本に来て藤村の興した会社で共に働くことになる。当然証言は藤村寄りとなることが想像される。 」

実際ブルームは終戦史を扱った本「昭和史の天皇」(読売新聞社)の取材に応じ、
「当時、われわれはヨーロッパの日本大、公使館と外務省を往復する暗号電報は全部解読し、その日のうちに読んでいた。ただ、今のうちの、(藤村)社長の使っていた九七式のものだけは、ついに解読できなかった」と語る。

一見説得力のあるアメリカ側の当事者の発言であるが、調べるとその内容は全く事実ではないことが分かる。(詳細は「スイス和平工作の真実」参照)そうしたことからブルームについて
「本当にダレス機関で日本問題の主任であったのかさえ、疑わしくなってくる」と疑義を呈したのであった。

その後、いくつかの事実が分かってきた。まずはブルームが実際に、OSSのメンバーであったことが確認出来た。2005年に出版された、竹内修二の「幻の終戦工作」によってである。竹内によれば戦後公開されたOSS の文書に以下のように登場する。

1945年7月11日 (ダレスの秘書)ゲフェルニッツからダレスに宛てた文書に
「ヤコブセンの行動については出来る限り最少の者のみが承知しておくことが極めて肝要である、と私は彼にいい、スイスの日本側を別とすれば、110、476、ロバート・シーア、ポール・ブルームに限るべきだという点で一致。」(番号はそれぞれOSSメンバーを指す暗号。)

また7月13日 ダレスがムーアに宛て
「私はK(北村孝治郎)はさしたる権威も後ろ盾もなしに、観測気球を上げているのではないかと言う考えに傾いている。(中略)
O(岡本)将軍のことは余りよく知らない。貴君かポール(ブルーム)が、彼の本国での地位が持ち得る力について、何か情報を得られたら、知らせてくれるとありがたい。」

アメリカの公文書にしっかり名前の登場するブルームであるが、終戦前に藤村と直接、和平に関し話し合いを持ったという記録はない。

またブルームに関しては冒頭に紹介した“Blum-san”という伝記がアメリカで出版され、日本語のウィキペディアにも彼の項目がある。さらには横浜の開港資料館には本人の寄贈による、日本関係の洋書、浮世絵などからなる「ブルーム・コレクション」があることも判明した。

OSSメンバーとは全く別の顔があったのである。こうした事から再度、ブルームという人物について、和平工作を中心に考察する。



<1 経歴>

開港資料館報に掲載された「ポール・ブルームのいくつもの人生」によれば、ブルームは次のような経歴である。

ブルームは1898年、横浜山手の居留地で生まれる。1912年、一家はパリに移住する。1916年にアメリカのイェール大学に合格すると、アメリカ国籍を申請する。1928年秋、パリに戻る。ドイツ軍の侵攻が始まると、ユダヤ人のポールはスペイン、ポルトガルを経てアメリカに脱出した。

「横浜外国人居留地」という本には
「ブルーム邸の内部と外観 1900年ごろ」というタイトルで写真と共に、住所が山手241A番、
「ヴィトコフスキー商会経営者アンリ・ブルーム氏一家が1894年頃から1912年まで住んでいた家」という説明がついている。
サイト『Bluff Archieves』でその写真等を見ることが出来る。こちら。


現在241番には数軒の建物があるが、道路沿いのここがブルーム邸の場所と思われる。(筆者撮影)

さらに「後年、日本関係洋書のコレクターとして知られるようになる長男ポールはここからセント・ジョゼフ・カレッジに通学した」とポール・ブルームについて触れている。このように横浜の外国人居留地の研究者の中では、ブルーム一家の存在はよく知られている。

やがて日米開戦、ブルームは対日戦ではなく対独戦に参加することを熱望する。1943年冬、OSS(CIAの前身)から呼び出しがあった。すでに内部にいた従弟のロバート・ブルームやイェール大学の恩師が、ブルームをスカウトした。しかるべき訓練の後、対情報工作員となり、リスボン勤務を経てベルンに赴いた。1944年8月のことである。

ブルームは日本敗戦後もスイス勤務が続く。その際には(藤村中佐のような)滞欧日本人の帰国手配などの仕事に関わった。
1947年春にポールはアメリカに帰国し、その年の暮れ大使館員として東京に着任する。1958年以降は民間人として東京に在住。藤村が起こしたジュピターコーポレーションに非常勤重役として名前を連ねた。

1981年6月にブルーム・コレクションが一般に公開された。開館式典にブルームは参加したが、帰国後体調を崩し、同年8月16日にニューヨークで亡くなった。




<2 藤村供述の中のブルーム>

戦後幾度となく、自身のスイスでの和平工作をマスコミ等に語ってきた藤村は、ブルームついてどう語っているのであろうか?

戦後間もなくの1948年1月8日、高木惣吉元海軍少将は藤村から聞き取りを行ったが、そこにはブルームの名前は登場しない。仲介者であるハックとOSSのスイス支局長ダレスの名前が出てくるのみである。

ついで1950年の10月24日と26日にGHQが行った聞き取り調査では、日本問題の専門家としてブルームの名前が何度か登場する。1947年12月に日本に来たブルームと再会し、親密な関係になっていたことと関連していようか?

しかしGHQの聞き取り調査の内容をベースに書かれた、1951年5月号「文芸春秋」誌上に掲載された「痛恨!ダレス第一電」では、ブルームの名前が消える。該当箇所は次のような表現となっている。

「そういうわけで私はここに元ダレス機関要人の同意を得て、当時の経緯を公表することにしたわけである」

世間に名前を出せばブルームのOSSでの活動が明るみに出て、発表時点での日本での大使館員としての職務内容への疑惑の持ちあがる恐れがあったため、という説がある。(春名幹男)

一方、同年CIAの副長官となったダレスの先見性を示すために、この時期に藤村ストーリーが公表されたという説もあるが、とすればそれを裏で後押ししたのは、公表に同意したブルームという事になる。

それらに加え1949年まで日本ではGHQによる出版物への検閲が続いていた。それが解けたとはいえ、アメリカの諜報機関について書くことは、藤村にとっても出版社にとってもリスクが無いとは言えなかったはずだ。そんな時、アメリカ大使館に勤務するブルームの同意を得たという事は、大きな安心材料となったであろう。

他にも藤村のこの手記には
「その時、その席には日本問題の主任であるダレス機関の要人(特に名を秘す)も同席せられた」とか「要人B氏」「要人は現在東京におられるが」と登場する。

藤村の手記は、戦後の藤村と「日本にいるダレス機関の要人」との関係が強調されることで、権威づけに貢献したであろう。


<3 ブルーム登場>

先の「痛恨!ダレス第一電」以降、藤村は何度となくマスコミに登場するが、次の大きな変化は、ブルーム自身のマスコミへの登場である。

冒頭にも紹介したように「昭和史の天皇」でブルームは
「当時、われわれはヨーロッパの日本大、公使館と外務省を往復する暗号電報は全部解読し、その日のうちに読んでいた。ただ、今のうちの、社長の使っていた九七式のものだけは、ついに解読できなかった」と語る。
そして「69歳とは思えぬ元気のいいおじいさんである。」と付け加えられているので、1898年生まれであることを考えると、取材は1967年であったことが分かる。

次いで「証言・私の昭和史」 (きき手、三国一郎)ではブルームは録音で藤村のインタビューにコメントを添えている。

「ダレス氏は、ヨーロッパについては若いときからたいへんよく知っておりましたけれども、東洋は全然わかりませんでした。私は日本のことは少しわかりましたから、藤村さんの提案に対して、どうでしょうか、どうしましょうか、と聞きました。ダレス氏は,さあ(会って)みましょう、と返事しました。
藤村さんとのミーティングは、その一週間くらいあとに、ベルンのすぐ郊外のムーリという所にある小さい田舎ホテルで、日本人は藤村さん一人で長いお話しました。(後略)」

後者のムーリのレストランでの会談についても、解読電などから確認されず、藤村の創作と考えられているが、それをブルームは認めている。放送は昭和42年(1967年)8月7日である。前記の「昭和史の天皇」と同じ1967年にインタビューに応じている。そしてその頃撮ったと思われる、二人が一緒に写る写真も載っている。

先に紹介したダレスは1953年にCIA長官となり、1961年11月にその職を解かれ、1969年に死亡する。その間の1966年にダレスは「秘密の降伏」という本を出し、スイスでの和平工作について触れた。よって1967年時点で、ブルームもそろそろ表に出ても良いと考えたのであろうか?

そしてやはり自分が勤務する会社の社長を援護する気持ちが、藤村証言を援護する発言をさせたのであろうか?



<4 “ブルーム さん ”Blum-San”>

ブルームの従姉の息子にあたるロバート・Sグリーンが、ブルームの伝記を出版している。“Publisher: Jupitor/Rsg (1998)”となっているが、出版社(出資者)は藤村が設立したジュピターコーポレーションのようだ。今も青山に本社をおく同社はホームページ上で、Jupitorという造語に関し、

「社名のJUPITOR CORPORATIONは、和平工作に携わった米国・スイス・ドイツの友人から贈られました。 JUPITERとは古代ローマ神話の全能の神の名前で、天体の「木星」を表します。 本来の綴りは「JUPITER」ですが、神に対する崇敬の念からスペリングを1文字変えて「JUPITOR CORPORATION」とし社名のJUPITOR CORPORATIONは、和平工作に携わった米国・スイス・ドイツの友人から送られました。」と説明している。

藤村は1992年に亡くなるので、実際に援助したのは藤村の長女で現会長の薫さんであろう。彼女の写真もこの本には登場する。ブルームと藤村家は家族ぐるみの付き合いであったようだ。

この本は、アメリカで出版されたためか、国会図書館には所蔵されていない。幸い「ブルーム・コレクション」のある横浜開港資料館にあり、目にすることが出来た。

筆者の読んだ限りでは、関心の的であるスイスでの和平工作に関しては、藤村によってすでに書かれたことからの引用である。
「8月14日に日本から電話で“藤村、あの話、今からなんとかならんかね”と切迫して用件を伝えた。それを聞いた藤村が“馬鹿ヤロー”と叫ぶと、そばのハックは読んでいた新聞を丸め“百日遅い。みんな亡びるしかないであろう”と言い捨てた」という”有名な“エピソードも出てくるが、藤村工作に対するブルーム自身の言葉は聞かれない。

また本の中の写真についても触れておく。「藤村と東京にて」という晩年の写真の他に
「津山(重美)、ポール・ブルーム、藤村、笠(信太郎)」という4人で写る写真がある。バックが白くて断定はできないが、場所はスイスであろう。撮影は終戦後、藤村らの帰国までの間と考える。また右の笠とされる人物は若くて笠ではない。

ブルームは日本人の帰国の面倒を見たと書いているので、両者は終戦後初めて知り合ったと考える。二人はその年のクリスマスに会っていることを示す記述もある。




<5 終戦直後>

そして終戦直後に、ブルームが日本にやって来たころの話は、藤村の話と、ブルーム本人の回想が交じっているようである。

日本に戻った藤村であるが、海軍兵学校時代の仲間で戦死した者の家族の面倒を見た。千葉県に粗悪な芋の買い出しに行き、神田の通りでそれを売って生活費を稼いだ。そしてしばらくして、笠信太郎にコンタクトを取った。笠は連日朝日新聞に記事を書いていたなど、藤村を中心とした活動が紹介されている。

一方日本に外交官として赴任してきたブルームは、当初日本人との接触を禁じられた。しかしその禁を破って、笠にコンタクトを取った。笠は藤村が営む神田の小さな店に行き、ポールが日本に来たことを告げた。

しかし、藤村は「自分がどこにいるかをポール (ブルーム)に言わないでくれ!」と答えた。みじめな生活を送っていたからであるが、笠に説得され面会に行く。(この辺は若干「昭和史の天皇」の中で藤村は述べている)

すぐさまブルームは藤村に援助を申し出たが藤村は断った。(「昭和史の天皇」にもある)一方藤村がジュピターコーポレーションを設立したのは1948年4月の事であった。ベルンのクリスマス以来、2か月半ぶりの再会であった。以降青山で同じビルの二階と三階に、二人が住むのも特筆に値しよう。

他の資料から検証すると、藤村がスイスから日本に戻ったのは1946年3月26日である。スイスで勤務を続けたブルームは1947年12月に日本に赴任する。一方しばらくスイス留まった笠は1948年2月19日に日本に戻る。

つまり、ブルームが日本で最初に笠にコンタクトを取ったとすれば、それは1948年2月19日以降であり、それから藤村が面会に行き、援助を受けて4月にはジュピターコーポレーションを設立という、非常に慌ただしい展開をした事になる。よって筆者は一部に記憶違いがあるのではと考える。

そしてこの時のブルームは外交官の資格であったが、まだ表だって活動できなかったCIAの初代日本代表でもあったという。
「複数のCIA,国務省関係者らの新しい証言から、ブルームが外交官を装ったCIAの初代東京支局長であったことが初めて確認できた」と春名幹男は述べている。

なお付け加えると日本初のスパゲッティ専門店「壁の穴」の創業者・成松孝安は、このころブルーム邸で執事として働いていた。
1953年にブルーム邸を退職した成松は、ブルームや知人の資金援助で東京・田村町(今の西新橋)に「Hole in the Wall(壁の穴)」を開店した。店の名前はブルームの命名とのことである。(ウィキペディアより)
筆者の壁の穴訪問記はこちら



<5-A 日本文学研究者ドナルド・キーンの回想>

ドナルド・キーン著作集に収められた『自叙伝 決定版』には、戦後の付き合いについても書かれている。

「1960年頃から数年の間、日本訪問の度に南青山のポール・ブルーム家で過ごした。
(藤村)元海軍武官がスイスから東京に戻って3階建てのビルを建て、ブルームさんとその蔵書のための特別な部屋を作った。
それらの蔵書は現在、横浜開講資料館にある。ブルームさんの家では日本に関する洋書をいつでも自由に使えて、大変嬉しかったが、青山のような高級住宅地には魅力を感じなかった。」

遺産のあったブルームに対し、藤村が住まいを提供したのは興味深い。藤村は戦後は、闇のようなビジネスからスタートしたという。
(2017年3月23日追加)



<6 ブルーム・コレクション>

冒頭に紹介したブルーム・コレクションは横浜開港資料館内にあるが、筆者はすでにここを訪問したことがある。しかしこのコレクションに気付かなかった事に情けなく感じた。

同資料館の解説によれば
「コレクションの中心は16世紀以来、欧米人が著した日本関係の洋書約5,200冊。そのほかに洋学関係や横浜関係の和書約700冊、横浜浮世絵・瓦版・欧州版古地図など約500点が含まれる。」とあり、日本関係洋書のコレクションとしては、国内屈指とのことである。

筆者は美術品に関しては門外漢ではあるが、早速訪問した。ただしコレクションは貴重な物なので、リストから請求しないと閲覧できないとの事であった。

その閲覧のために「ブルーム・コレクション書籍目録」(全4巻)があるが、第一巻の末尾には、著名な日本文学研究者ドナルド・キーンが追悼文を寄せている。そこから分かることは以下のようなことだ。

1941年の夏、ブルームはキーンと共に日本語を学んだ。何という日本語の取り持つ縁であろう。この時ブルームの日本語は、子供の時に習ったままで、それから何年も使った事がなかったという。そしてエール大学卒業後、ブルームは莫大な遺産を相続した。

キーンがフランス文学を生涯の仕事にしようと話したら、ブルームは
「フランスで育ち、当然ながら私よりもフランス語を良く知っているアメリカ人はいくらでもいる。(それよりは)中国語と日本語の勉強を続けるように」と忠告した。これがキーンの人生を決定したと本人が書いている。

またブルーム・コレクションの書籍類の収集は戦後日本に来て始めたのではく、パリ時代から始まったのであった。戦後藤村の会社の重役となった後も、遺産で世界を旅行し、書物を収集したという。

1981年6月にブルーム・コレクションが公開され、本人も式典に参列した。それから間もない8月にブルームは死去する。

ブルームが膨大な日本関係図書を集めるにはお金がかかった事は想像に難くない。しかし資産家であり、かつ外交官で当時は強大なドルで給料をもらっていたブルームには、資金面の問題はなかった。

ここから分かるのは、戦後のブルームが藤村の会社の非常勤の重役に入ったというのは、生活の為ではないという事だ。藤村とブルームは本当に共感し合う部分があったのであろう。

横浜開港資料館(筆者撮影) 当然内部の撮影は禁止。



<7 GHQの資料に出て来るブルーム>

1946年7月16日付のGHQメモによると、ブルームは父アンリ・ブルームの所有していた横浜山下町93番地と、神戸の2か所の土地の状況を照会している。山下町93番地はアンリが興したヴィトコフスキー商会のあった場所である。337坪、4階建ての建物があった。

書いたようにポールは1947年12月に日本に来るので、問い合わせは戦後まもなくアメリカからなされたことが分かる。書類にはfrench(フランス人)と書かれるのみで、米国の機関で働いているような記述はない。

戦時中こうした外国人の所有した物件は、強制的に取り上げられたが、借りた側はそれまで賃料、税金を払ってきたので、権利を主張し簡単には返還しなかった。

この争議が日本政府との間でまとまるのは1951年2月のことである。日本ではアメリカ大使館に勤務して、CIAの初代日本代表とも言われたポールであるから、立場を利用してもっと迅速に進める事も可能であったのではと筆者は考えるが、これだけ時間がかかった背景は不明だ。

いずれにせよこれらの3か所の不動産が、ポールが手にした遺産で、これを元にブルームコレクションが形成された事は間違いない。
(2018年11月4日追加)



<8 終わりに>

戦後、藤村のストーリーを裏付ける発言をしたポール・ブルームは、戦時中は確かにOSSに所属して、諜報活動に従事した。一方ほぼ生涯にわたって、父親の遺産を元に、膨大な日本関係洋書コレクションを残した。一人でも多くの人に、この事実を知ってもらえればと思う。

またスイスで終戦工作を行った藤村と、戦後は親交を結んだという奇妙な関係もあった。そこには打算はなく、真の友情があったと考える。藤村は人間的な魅力にあふれていて、それがブルームを惹きつけたのかもしれない。

さらに考えていくと、藤村の魅力ある人間性が、スイスの終戦工作に関する戦後の数々の聞き取り調査においても、発揮されたのかもしれない。功名心からではなく、読者を喜ばせようとして、創作の交じった話をしたのである。そしてそれを消極的に肯定したブルームを、勿論非難するつもりは毛頭ない。

(2015年11月15日)
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