日瑞関係のページ | HPの狙い |
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「スイス和平工作の真実」その後 このタイトルで自分のホームページに藤村中佐の和平工作について公表してから、すでに数年が過ぎた。以降もこれを越える調査は出ていないと自負しているが、その後出版された関連図書などについて書いてみる。感想は辛口になってしまうのは容赦願いたい。 1. 幻の終戦工作 ピース.フィーラーズ 1945 夏 竹内修司 文春文庫 平成17年7月20日発行スイス駐在の横浜正金銀行 北村孝治郎、吉村侃、陸軍駐在武官岡本清福と国際決済銀行のパー.ヤコブソンらを中心とした和平工作を、パー.ヤコブソン自身の残した一次史料を元に分析。こんな史料があったのかと筆者は驚くばかりでした。 この本の中で“藤村工作については、○○○氏(筆者のこと)がインターネットに設けているホームページ「日瑞関係のページ」で詳細に分析している。興味のある読者は参照されたい。 と読んだとき、筆者は思わず赤面しそうになった。 また“「日瑞関係のページ」の各項は、随所で参照させていただいた。というのもとても嬉しい言葉。 筆者はポール.ブルーム氏について「>本当にダレス機関で日本問題の主任であったのかさえ、疑わしくなってくる」と疑義を呈したが、この本で実際にOSSのメンバーであったことが確認出来た。 ちなみにインターネット上の百科事典ウィキペデイアに「藤村義郎」の項目がある。そこの外部リンクが3項目あり、そのうちの一つが「日瑞関係のページ」である。 ウィキペデイアに藤村について書いたのは主に竹内修司氏のようである。筆者の調査を常に評価してくれているようで感謝している。 2. 昭和史を動かしたアメリカ情報機関 有馬哲夫 平凡社 2009年1月15日 初版 「第4章 終戦を早めたダレス工作」の中で藤村工作などについて書いているが、登場人物の肩書がかなり不正確である。筆者のコメントを矢印に続けて添える。 P122 駐ドイツ日本大使館海軍武官酒井直衛は、自分はいつでもダレスと食事が出来るといっていたという。 →酒井直衛は現地で雇われたベルリン海軍武官室嘱託である。このような人物にOSSの欧州責任者ダレスが会うことはないであろう。 P127 田口次郎と坂本俊二がいる朝日新聞チューリッヒ支局 →それぞれ田口二郎、笹本俊二の誤記である。 P129 ザアカリスは田口が東郷外務大臣へ送った報告書について触れている。 →朝日新聞の現地雇いの田口二郎が東郷外務大臣に報告書を送ることもあり得ない。加瀬俊一公使の間違い? P131 朝日新聞の津山重美 →大阪商船駐在員で当時ベルリン海軍武官室嘱託が正しい P139 チューリッヒ大使館付陸軍中将岡本清福 →「戦略情報局文書から」と引用形式だが、「ベルン公使館付陸軍武官でチューリッヒに事務所を構えた」が正しい。 アメリカ側史料より見た検証なので、日本の人物にはあまり注意を払わなかったのかもしれない。 さすがに第2版以降は修正されていると思うが、、、 書評「スイス諜報網」の日米終戦工作
9. 「日本降伏」 纐纈厚(2013年12月8日版) 興味深い本が出たのでさっそく読んでみた。日本の終戦までの動きを克明に追っているが、スイスでの和平工作に関しては 「高木惣吉などは、対ソ交渉の非現実性から、むしろダレスを介してのアメリカとの直接交渉する口(原文のまま)にしていたのである。所謂ダレス工作である。」の一文のみ。 日本においてはスイスからの和平交渉の呼びかけは重んじられなかったという史実を筆者は改めて実感した。 それにしても引用した文章のアンダーラインの部分は少し変だ。「直接交渉することを口にしていた」の誤植であろうか? その前も気になっていたが、その後も何カ所かの誤植に気付いた。例えば 直ちに重臣・宮中グープが。→ 「グループ」の誤りであろう。(238ページ) 施策の腹案をを樹てさせよう→「を」のダブり。(239ページ) 構成委員会同に於ける討議→「構成委員会議」の誤り?(288ページ) 私がかつて書いた「日本海軍の終戦工作」(新書、1966年刊)→1996年の誤り。(345ページのあとがきの中の誤り) これらは出版社側の問題かは分からない。発行日が12月8日となっているので、日本開戦の日を発売日とすべく関係者が急いだのかもしれない。難しい文章の理解をますます難しくしている。 あと全体の構成に関して言うと、時系列に書かれた文章は第6章で1945年7月まで進み、さあいよいよ最終幕の8月だと思ったら、第7章で1944年10月に戻ってしまう。そしてまた時系列に進んでいくのだが、同じ史料の引用、自説が何度か繰り返される印象である。 (2014年2月9日) 10.藤村の新たな人脈? 友岡久雄教授 最近筆者は「外務省嘱託、友岡久雄教授の体験した欧州戦争」という文章を書き上げた。そこでは友岡教授はポルトガルに赴任したのが、日本の官憲による逮捕から逃れるためであったこと、また朝日新聞のベルリン特派員、笠信太郎と懇意であったを述べた。 戦後の笠信太郎(左)と友岡 (戦後も付き合いは続いた) 一方の笠は、藤村中佐のスイスでの和平工作の数少ない理解者であった。ここからも三段論法的に、友岡と藤村の関係を推測することは出来る。しかし実際にその繋がりを裏付ける資料が見つかった、それは先にも紹介した扇一豊の日記である。扇一豊海軍大佐はベルリン時代、藤村のよき理解者であった。 扇の日記には次のような個所がある。 1944年9月某日(5日と10日の間) 藤村君や友岡先生の下宿に泊まり、深更まで話した。 1944年10月6日 藤村、友岡と三人で夜中の2時まで深刻な時局に関し、胸襟を開いて語る。 1945年2月16日 夜、友岡先生の所へ招待され、藤村中佐と共に、自動車を運転して行く。 友岡教授と藤村中佐の間には直接のコンタクトがあったことが分かる。1943年春にポルトガルからベルリンの日本大使館勤務となった友岡教授であるが、時間をおかずに扇らと知り合ったようだ。そして扇は1944年9月には「友岡先生」と日記に書くが、10月6日は「友岡」となっている。関係が急速に親密になったことが推測される。 話し合いの内容は「深刻な時局」としか分からないが、「ドイツは米英に対して、長くは持たない」という、決して公けには話せない事であるのは間違いない。さらに突っ込んで「日本の運命も同様であろう」ということも話したかもしれない。こうしたことから戦時下のベルリンには藤村、扇、笠、友岡という枢軸側の不利を論じるグループが存在していたと言える。そしてそれが藤村のスイスでの和平工作の発端となったのかもしれない。 また1945年の2月16日に友岡の方が、藤村と扇を招待している。その前日には「黒田を瑞西に派遣する問題で、藤村君に喰ってかかられる。」と扇は記している。スイスに派遣するメンバーについて最後まで揺れていた。友岡家の食事でもその話題は上がったに違いない。 少しさかのぼると扇大佐は1943年12月、潜水艦でドイツに向かうべくシンガポールに着いた時、ちょうどドイツから同じく潜水艦で戻ってきた横井忠駐独雄海軍武官、伏下(ふしか)哲夫海軍主計中佐と懇談した。ドイツの(不利な)情勢が細かく分かり、大変参考になったという。(藤岡秦周) 実は友岡教授は、日本に戻るその伏下中佐を自分のアパートに招き、娘へのお土産を託している。(こちら参照) さらには笠と一緒に日独伊混合委員の海軍責任者である阿部勝雄海軍中将を訪問もしている。(1943年10月11日) 海軍武官室、阿部中将のサイン帳 阿部中将のサイン帳に関して言えば、1944年7月10日にも友岡の記帳がある。 「小野田大佐を送る 春の海 潜り抜けたか 鵜の行方 友岡久雄」 小野田捨次郎大佐らを乗せたイ号第29潜水艦は同年4月16日フランスの軍港ロリアンを出港し、7月14日にシンガポールに到着する。その直前に、友岡は小野田の乗る潜水艦を鵜に例えて、句を詠んだのであろう。 ベルリンの外交官で、海軍とこれだけ交流している人物は、他には見当たらない。 ご遺族の話では友岡は海軍に対して、戦後も好意的な言葉を発していたという。ベルリンにおいて友岡は、戦況に対し現実的な見方をする海軍駐在者と交流し、その一人が藤村中佐であったことは間違いない。 (2014年6月14日) 11. 藤村の新たなサインを発見 最近筆者は「杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」という小文を書いた。ご遺族から沢山の資料を提供いただいたが、その中に藤村のサインがあった。 漢字に加え、Fujimuraと名前をローマ字で書くが、少佐でありながら陸軍大佐木原友二より上に書いている。自己顕示欲の強い人物であったという周囲の証言を裏付けよう。 筆者はすでに藤村のベルリンでのサインを一つ入手して紹介しているが、富士山の絵がどちらにも書かれている。そこから富士山が藤村自身のトレードマークであったと分かった次第であるが、名前の藤(ふじ)から来るものであろう。(1945年3月12日の藤村のサインはこちらを参照) またこうして藤村が1943年8月にハンブルクを訪問した経緯は、こちらを参照ください。 (2014年6月14日) 「(続)戦時下のスイスと日本の交易は中立違反」において、藤村中佐の日本資金の逃避計画を紹介しました。 (2017年3月5日) 筆者の書籍の案内はこちら |
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