日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップアーレンス商会軽井沢 敵国外国人コンタクト

フランツ・メッツガー(Jr)の体験した戦時下の横浜、野尻湖
Franz Metzger in Yokohama and Lake Nojiri in wartime
大堀 聰

筆者の書籍の案内はこちら

本編は書籍化されました。こちら

<序>

第二次世界大戦中、同盟国人として3000人に及ぶドイツ人が日本に滞在した。戦争の激化に伴い関東地方のドイツ人は外交官を中心に箱根地方に疎開した。次いで多かったのが軽井沢だ。

一方長野県の野尻湖には戦前より外国人別荘地「神山国際村」、通称「外人村」が作られていたが、戦時中はその規模を縮小する。国際村開発年表によれば、その間の記述は以下の通りで、ほとんど閉鎖された印象だ。

1941年  ほとんどの人、本国へ引揚げる。
1942年 キャビン70戸を日本政府が没収。
1943年 教会堂が雪のため倒壊。(有名な建築家W.M.ヴォーリズの設計のよう。)
1945年 外人村が連合軍の財産に帰属
(『野尻湖における外国人別荘地「神山国際村」の成立と展開』)

そうした野尻湖であるが、3組のドイツ人家族が戦時下に疎開していた。
フランツ・メッツガー家(Franz Metzger)
ヘルムート・ケテル家(Hellmuth Ketel)
ヘルマン・ウォルシュケ家(Hermann Wolschke)

筆者は彼らには多くの共通点があることに筆者は気づいた。3家族とも主人は第一次世界大戦中、ドイツ兵として中国・青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となり、日本の捕虜収容所で終戦を迎える。その後もドイツに戻らず日本に留まる。そして日本人の妻を持ち、食品関係の仕事に携わる。

筆者は幸い、フランツ・メッツガー家の三男で同名のフランツ・メッツガー(1935年8月9日生まれ、以降父は”メッツガー“、三男は“ジュニア”と表示)氏に資料をお借りし、話を伺う機会を持てた。本編ではジュニアの体験談を中心に、あまり知られていない戦時下の横浜山下町と、野尻湖の生活について述べるものである。

ジュニアの近影

<フランツ・メッツガー>

フランツ・メッガーは1884年9月21日にドイツ西部のエッセンに生まれた。志願兵としてドイツ海軍海兵隊に入隊し、中国の青島に配属された。1914年、第一次大戦勃発で青島に侵攻して来た日本軍の捕虜となり福岡、大阪、そして広島の似島(にのしま)収容所に転々と収容された。似島では1919年、広島県物産陳列館(現原爆ドーム)で春季「俘虜技術工芸品展覧会」が開催され、メッツガーは旋盤機械(出品番号195)と電気モーター(同251)を自ら作り、出品した。

「俘虜技術工芸品展覧会」の案内 (ジュニア提供)

1919年に解放されると、東京の小西六本店(現コニカミノルタ)に就職する。先の旋盤の技術を買われてのことであった。次いでドイツ東洋文化研究協会(OAG)のマネージャーとなった後、1926年横浜に来て本牧に住居を構えた。そして山下町92番のフランス料理店(Crescent Club)の権利を購入しオーナーとなる。

ジュニアによれば皇室関係者、外国航路の船客、ホテル・ニューグランドの総料理長で伝説の料理人と呼ばれるサリー・ワイルなどに愛され、店はなかなか繁盛したという。東京までケータリングを届けたりもした。しかし1929年からの経済大不況で、閉店に追い込まれる。

1927年ころのメッツガー。(ジュニア提供)

上の写真の裏には”Daiyama”と書いてある。中区に“本牧町字大鳥台山”という地名があったので、自宅はここであったのだろう。これはジュニアが持つ唯一のこの頃の父親の写真だ。またメッツガー家はドイツ人らしくずっと犬を飼い続ける。


フランツ・メッツガー(Jr)の体験した戦時下の横浜、野尻湖」は書籍化されました。以降は書籍でお楽しみください。



筆者の書籍の案内はこちら
関連記事
森利子さんの体験した戦中の横浜・山手
心の糧(戦時下の軽井沢)

トップ このページのトップ