えびす組劇場見聞録:第36号(2011年1月発行)

第36号のおしながき

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
国道五十八号線解散公演
「国道五十八号戦線異状アリ」
「国道五十八号戦線異状ナシ」

友寄総市浪 作
谷賢一 演出
2010年12月8日〜13日
サンモールスタジオ 
『三鷹へ行くのだ』 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「ヘッダ・ガーブレル」

イプセン 作
宮田慶子 演出
2010年9月17日〜10月11日
新国立劇場 小劇場 
『共感から理解へ〜新国立劇場の新翻訳』 by C・M・スペンサー
フェエスティバル・トーキョー/五反田団
「迷子になるわ」
前田司郎 作・演出 2010年11月5日〜14日
東京芸術劇場 小ホール1 
『日常は続く、どこまでも』 by マーガレット伊万里
シス・カンパニー
「K2」
パトリック・メイヤーズ 作
千葉哲也 演出
2010年11月2日〜28日
世田谷パブリックシアター 
『山からの景色』 by コンスタンツェ・アンドウ
あとがき ○●○ 2010年の一本 ○●○

  

  Twitter 開設しました  
 CLICK
 

作品一覧へ
HOMEへ戻る

三鷹へ行くのだ』
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 国道五十八号戦線。この戦闘的な名を持つ劇団の舞台をはじめてみたのは、二〇一〇年夏の『反重力エンピツ』である。新作の予定が作・演出の友寄総市浪の体調不良により、急遽以前の作品を同劇団の俳優福原冠に演出を委ねて再演したものだ。
 そして冬に解散公演である。
 あっというまにお別れだ。
 『国道五十八号戦線異状ナシ』(以下「ナシ」)は二〇〇八年夏、シアターグリーン学生芸術祭においてグランプリを受賞した作品で、独立宣言をする沖縄の若者たちの狂騒的な暴走のなかに、彼らの願いが実現し得ない悲しみを色濃く滲ませた舞台である。
 『〜異状アリ』(以下「アリ」)は、劇団以外の公演に書き下ろしたおよそ十五分の短編三本に、「正真正銘最後の新作」(公演チラシより)一本を加えて一気に上演するもの。自分は「アリ」→「ナシ」の順に観劇した。
  これまで何度も国道五十八号戦線の公演チラシを目にしていたし、エレファントムーンや風琴工房の舞台に客演しているハマカワフミエの、女性でもぼおっとするほどの危険な魅力を知っていながら、どうして公演に足を運ばなかったのか、後悔が押し寄せる。
 「ナシ」をみた日は千秋楽ということもあって立ち見も出る盛況であった。しかもその夜の「アリ」が大楽という、「あと一回でほんとうに最後」のカウントダウンのごとく、劇場は異様な熱気と興奮に満ちている。所属の俳優がさまざまな舞台に客演を重ねて力をつけたこと、外部への書き下ろしによって多くの俳優や演出家から友寄作品への信頼を得ていることが、解散公演に対して「もう見られない」と惜しむ気持ちをいっそう掻き立てるのだろう。
 「アリ」四本のうち、後半の二本はひとり芝居の連作である。まず伊神忠聡による『三鷹の女』。これは二〇一〇年三月、エムキチビートひとり芝居プロジェクトで福原冠が演じたのが初演である。冒頭「今からここでしゃべること全部嘘です」と前置きして、演劇の虚構性、舞台と客席の一種の共犯関係をあっさりと示し、不安定な空気を作りだす。
  病欠した同僚の穴埋めで深夜残業した日の帰りのこと。中央線の電車で酔っぱらって彼女といちゃつく同僚に出くわした。殺意を覚えて二人が降りる三鷹で下車してあとをつけたが、二人はなぜか用水路に落ちてバシャバシャしている。拍子抜けしながらも男を殴り殺し、女の首に手をかけた。
  しかしここで再び「あ、全部嘘っすよ」と予防線を張る。用水路の上にあがったら靴が二足揃えてあり、遺書らしき封筒もある。それを読んで腹が立ち、「セブンのごみ箱に捨てたんすけど」と言うが、これも嘘なのか?
  三鷹の用水路で男女とくれば、すぐに太宰治が思い浮かぶが、本作はこのことを安易に反映させない。演じる俳優には「昔テヅカオサムが女と心中した、つって」と敢えて間違ったことを言わせ、しかし最近本屋でみつけて読んでみたと彼が取り出したのは、小畑健表紙の『人間失格』(集英社文庫)、れっきとした太宰治の小説である。
  続く『三鷹の男』は『三鷹の女』と対をなす。舞台と客席に同じ程度の薄明かりがつき、演じるハマカワフミエが「あ―私。今度結婚するんですよ。こんなところでなんなんですけど」と話し始めると、ほんとうなのかと一瞬錯覚するほどの妙な効果がある。
  相方がマリッジブルーに陥っており、何とかしたいのだが、彼が「一緒に死のう」と『人間失格』を取り出して「俺を主人公にしてくれ」と言って泣きだし、それがあまりにも可愛かったので仲直りしたのだそうだ。その彼と明日三鷹で会うという。最後にハマカワの表情がにわかに歪んだ。歯を食いしばって涙をこらえ、「とりあえず明日頑張ってきますよという意思表明的なアレでした。ハイ」と言って舞台を降り、客席の通路を踏みしめて退場する。二人で用水路に入水するのか、逆恨みの男に首を絞められるのか。
  明日の夜、彼女は三鷹で死ぬのだ。
友寄総市浪は、自身を『三鷹の女』の男(『三鷹の男』の女の相方)に投影したようにも思えるが、最後に『三鷹の男』を書くことによって、劇作家・演出家である自分から盟友たちへの訣別とともに、これからも演劇を続けていく彼らへ、はなむけのメッセージを捧げたのではないか。解散公演という二度とない特殊な状況を考えると、この三鷹の男女連作は愛惜に満ち、胸が痛む。
 公演チラシや当日リーフレット掲載の友寄本人、演出の谷賢一、主宰代行のハマカワフミエの挨拶文は、べたついたところがなく、きっぱりと潔い。
  しかし自分には友寄が書き切っていない感じがどうしてもぬぐえないのだ。出世作となった「ナシ」は、ありあまるエネルギーに圧倒されたものの、それが炸裂したまま終わっている印象があり、その後に書かれた「アリ」の短編の緻密で冷徹な筆致には、短い活動期間のあいだに、劇作家のなかでこちらが想像もつかない変化があったのではないかと感じさせる。それでも『三鷹の女』、同『男』ともにまだ試行錯誤の手つきがみえ、もう少し先の、別の地平へたどり着くことが可能ではないかと思う。
  正真正銘最後の新作と銘打ってあることがもどかしく、「ほんとうにこれで最後なのだろうか」とぐずぐずしている。当事者よりよほど未練がましい。
  自分に残ったのは「アリ」と「ナシ」二冊の上演台本とあの日出会った最後の舞台の記憶だけだ。そして以来「三鷹」と聞くと妙な妄想にかられる。
 そう、自分は三鷹へ行くのだ。あの男女に会うために。いや嘘です、でも本気です。
 つまり国道五十八号戦線と自分との儚い交わりをどうしても忘れたくないからという意思表明的なアレですね。ハイ。

 (十二月十日「アリ」、十三日「ナシ」観劇)

TOPへ

『共感から理解へ〜新国立劇場の新翻訳』
C・M・スペンサー
 九月に新国立劇場では新シーズンがスタートし、各部門に新しい芸術監督が就任した。演劇部門は青年座の演出家である宮田慶子が芸術監督となり、自ら演出するイプセン作『ヘッダ・ガーブレル』で幕を開けた。
 プログラムによると、宮田は原作のノルウェー語からの直訳(翻訳・アンネ・ランデ・ペータス)、そして上演に向けた翻訳(翻訳・長島確)という二人の翻訳家の手を経て、さらに稽古場で練り上げた彼女なりの台本を作り上げた。
 物語は、今はテスマン夫人となったヘッダと夫が新婚旅行から帰ったところから始まる。夫のテスマン氏は、根っからの分化史の研究者。美しい妻に夫と叔母は、彼女に憧れる男たちから妻を勝ち得た喜びに満足していた。
 百二十年前の女性の在り方が印象的な作品である。新たな台本から発せられるヘッダの言葉が、彼女の置かれた環境の理解を深めた。妻となる女性は男性の戦利品、もしくは目を楽しませる装飾品であることを知る。すると、ヘッダの幸せはどこに?彼女の葛藤と不安が、まるで自分のことのように身近に迫ってきた。
 夫は研究に没頭し、ヘッダは家で退屈な日々を送る。そんな彼女の心を躍らせたのが、夫テスマンの長年のライバルであるレーヴボルグの噂である。伊達男の風貌で、しばらくの間トラブルが原因で鳴りを潜めていたものの、新たに出版した研究書により再び表舞台に出てきたというのだ。
 そこにヘッダの旧友エルヴステート夫人が家庭を捨て彼を追って現れた。ほんの退屈しのぎの気持ちから、彼女を出汁に夫に頼んでレーヴボルグを家に招き入れることに成功。友人のためと装いながらの策略など、ヘッダのしたたかであるが少女のような一面が垣間見えた。
 レーヴボルグとの再会。二人きりになった途端、彼は"ヘッダ・ガーブレル"と旧姓で囁きかけた。その一言は彼女を一人の女性として奮い立たせるだけでなく、過去に彼と係わったスキャンダルの心配をも植え付けた。
 さらに、レーヴボルグの発表予定の本にインスピレーションを与え、彼を立ち直らせたというエルヴステート夫人の存在。彼女はヘッダにとって優越感の侵害である。心が支配され、敗北を味わうという事実は、女性にとってどれだけ惨めなことか。ヘッダは思いを巡らせた。二人の仲を引き裂いた上で、レーヴボルグの存在が無くなれば・・・。
 ヘッダに扮したのは大地真央。言わずと知れた最も第一線にいる俳優である。美貌の彼女が、嫉妬や愚かな優越感をチラリと本音として見せる。そこに共感が生まれた時、観客との距離が縮まるのを感じた。
 ヘッダが渡した拳銃で命を落としたレーヴボルク。その事実を判事は抜け目無く見抜き、口外しない代わりの代償を、つまりヘッダとの関係について言い寄ってきた。また縛られるという精神の苦痛。理解者も無く、彼女が選んだのは死という結論だった。
 精神の自由についてヘッダの最大の苦しみは世間体であり、それを脅かす存在であった。その心の苦痛が身に染みて、人物の悲しみが心に響く。イプセンを読み解き、共感を鏡として見えてきた女性の在り方。昔も今も女性を一人の人間として尊重し、愛して欲しい。誰にもその心を縛り、言いなりにする権利など無い。
 さて、敷居の低い劇場を目指す宮田芸術監督の「JAPAN MEETS・・・─現代劇の系譜をひもとく─」の基に企画された新翻訳のプロジェクト。ネライ通り観客の理解を得る運びとなったことだろう。それならば、今度は「女の自立」が物議を醸した同じくイプセン作『人形の家』のノラの生き方も、同様の制作工程で理解したいと思った。
(十月一日観劇)

TOPへ

『日常は続く、どこまでも』
マーガレット伊万里
 情けない話だが、不惑といわれる年齢を過ぎても、いろいろなことを見極めることができない。かえって戸惑いを自覚することのほうが多くなった気がする。そんな毎日だが、五反田団の公演『迷子になるわ』(作・演出 前田司郎)を見て、たまには戸惑うことも必要なのではと思えてきた。
 舞台前方にはベッド、一面パイプイスが等間隔に整然と並ぶ。シーンによって、役者がイスに座って会話したり、イスの間を役者達が縫うようにして演技をしたり。奥の天井からは赤い縄が一本たれさがっているだけの簡素なセットだ。
 物語をかんたんに言うと、交際している男性(大山雄史)からプロポーズされた主人公の若い女性(伊東沙保)が返事に悩み続けている。ただ、物語といっても、正直何を話しているのかわからないような女同士の会話や、へんな格好で登場する両親との生活、過去の不倫話などが断片的につづられるだけ。あと特徴的なのは、彼女の死んだと思われる姉(宮部純子)がふつうに登場すること。毎日生きている妹と死んだ姉が一緒の時間軸に同居している。
 恋人からのプロポーズは、女性の日常生活に大きな風穴をあけるできごとに違いない。そんな女性のとまどう心が、死者との対話や、病院での不思議な体験など時空を超えた摩訶不思議でファンタジックなシーンを生み出しているのではないか。夢と現が混じり合った迷宮のような作品がそこに立ち上がる。
 死んだ人間は、ふつう生きている人間の記憶の中でしか生きられない。ただこの姉妹を見ていると、死はいつでも隣りにあって、隔離されたものではないと言っているように聞こえる。そのとき会えないだけ、たまたま目に見えないだけ。「生」の延長に「死」が横たわるのではなく、「生」と「死」が所々で交差しているような、不思議な生と死へのまなざしを感じるのだ。
 人生は、ただ通り過ぎるのではなく、「生」を積み重ねて成熟していくという言い方を耳にするが、言われてみれば、これもどこかですり込まれた価値観であり、こうしただらだらした日常の絵を見せられると、ハタと立ち止まって考えざるを得ない。
 五反田団二〇〇八年の作品『生きてるものはいないのか』で、原因不明の伝染病に冒された人々が、舞台の上で、文字通り次々倒れて死んでいくという、これまで誰もやらなかったような強引さとユーモアをもって、理不尽な死を私たちの目の前にさらけ出した。だがその光景からは、「死」を正面から捉え直そうとする前田の態度がすけてみえて新鮮な驚きをもってむかえられた。彼は生きることと死ぬことを等しく見つめようとしている。
 今回、主人公が自分の存在(人生)に戸惑うと同時に、構造的にも話が前後したり、生死を超えた人物が登場したりと、二重の迷子。
 子供の頃は迷子になると、自分を知っている人達に永遠に会えないかもしれないという、あせりやドキドキ感があった。この話がいったいどこに着地するのだろうという心配とも自然と重なってくる。しかし、タイトル『迷子になるわ』とあるように、前田は積極的に「迷子になろう」と言っている。
 今はたやすく迷子にもなれない。
 悩んだり、迷ったり、そこに停滞したりと、一つところにとどまることができない時代だ。空気を読んで、イエスかノーかの判断を急かされ、じっくり考える時間など私たちに許されているのだろうか……「迷子になる」というのは、今の私たちにとっては、もはやぜいたくな行為なのかもしれない。
(十一月十三日観劇)

TOPへ

『山からの景色』
コンスタンツェ・アンドウ
 この数年で、最も激戦だったのではないだろうか。初日が明いた後に何とか手にした『K2』のチケットはまさにプラチナ。堤真一と草g剛の絶大な吸引力に加え、私には諦めきれない理由がもう一つあった。この作品をかつて二回見ていることだ。
  一回目は一九八三年のサンシャイン劇場。理由は簡単、菅原文太(ハロルド役)のファンだったのである。世界第二の高峰K2からの下山途中に遭難した二人の男の、生と死をかけた数時間の物語、というあらすじ以外はあまり覚えていない。しかし、ブロードウェイ直輸入だという巨大な氷壁の装置と、木之元亮(テイラー役)が本当の登山さながらに壁をよじ登り、転げ落ちるシチュエーションには、忘れがたい迫力があった。
  また、硬派な実録ものや、トラック野郎が代表作の「文太兄い」の口から発せられた「愛している」という言葉が印象的で、それがラストの台詞だと思い込んでいた。
  二回目は、十四年後の一九九七年、本多劇場。テイラー役の上杉祥三が目当てだ。劇場に高さがないため装置は小ぶりだったが、上杉はかなり激しく動いていた記憶がある。(演技が派手なので、そう感じたのかもしれないが。)この頃には私の観劇歴も長くなり、「男の二人芝居」として、タイプの違う役者のぶつかり合いを楽しんだ。
  そしてラストシーン。ハロルド役の加藤健一の台詞は「生きるんだ」だった。氷壁に一人うずくまり、死を待つだけの人間が、下山した友に、家族に、おそらくは自分に対しても向けたこの言葉は、作品の印象を大きく変えた。
  更に十三年、『K2』はまた姿を現した。いいペアになりそうだ、という予感がした。感情の起伏が激しく、動きが多いテイラーは草gに似合いそうだし、『瞼の母』の忠太郎よりも、のびやかに演じられるのではないかと思った。堤は、『動物園物語』に続く「受け」の役で、まだテイラー的な役柄も見たいところだが、草gをサポートしながら、芝居全体を底上げしてくれるという期待がかかる。また、ラストの台詞を確認したい、という思いもあった。
  幕が開くと、例によって氷壁が聳え立っている。世田谷パブリックシアターはサンシャイン劇場より高さがあるはずだが、装置は想像より低く感じられた。思い出は美化・誇大化されるのだろう。テイラーが壁を登ることに新鮮な驚きを得られないのも、仕方がないとは言え、少し淋しい。
  二人の会話が始まって、最初に気になり出したのは、翻訳調の台詞まわしだった。特にテイラーの「くそったれ」等が不自然で、いっそ、日本人に置き換えて書き直したらどうだろうか、と思わせるほどだった。
しかし、話が進むうち、日本では成立しないことがわかってくる。ハロルドは物理学者で、中性子爆弾の開発に携わる。若い頃はヒッピーだったが、今は良き夫・良き父であろうとしている。テイラーは地方検事補で、多くの黒人犯罪者を刑務所に送りこんでいる。女性とは刹那的な関係を持つだけで、深く愛したことはない。
  「核兵器」と「人種問題」はアメリカを考える際の重要な要素である。この作品の初演は、まだ冷戦が続く一九八二年。核兵器の持つ意味も、人種問題のありようも、現在とは違うだろうし、ハロルドとテイラーは、当時のアメリカ男性の一部を象徴しているのかもしれない。
  全ての創作物は、その作者が生きた時代(現代)を切り離せない。過去となった現代は、仮に「知識」として理解できたとしても、その時代を体験していない者、ましてや外国人が体感することは難しい。『K2』という戯曲が、二十八年前のアメリカ人に伝えられたであろうことが、現在の自分には届かないという歯がゆさ。言葉の違和感だけではない、翻訳劇の難しさがここにもある。
  もちろん、これは「ないものねだり」。時を経ても伝わるものがあるからこそ、数多くの戯曲が再演されるのだ。『K2』で描かれる、死に直面した人間達が答を選択するまでの苦悩は、他人事でも絵空事でもなく、ストレートに胸に響いてくる。
  K2へ挑戦するまでの経験を積んだ登山家同士ならば、死の覚悟もしているはずだし、様々な遭難のケースも知っているだろう。極寒で空気の薄い現実の山では、もっと静かに判断が下されるのかもしれない。しかし、観客は、虚構の山、K2に限らない普遍的な場所で、二人の心を目撃するのだ。
  予感通り、二人はいいペアになったと思う。草gの演技の魅力は、制御できているのかいないのかわからない程の、感情の迸りにある。時にそれは作品や観客を置き去りにしかねないのだが、役者としても役柄としても深く根をおろしたような堤が、穏やかに引き寄せ、押し戻し、強く支えることで、二人の対比を明確にしつつ、バランスを保つことができたと思う。堤自身は、受けに徹するのではなく、動きが制限される中、的確で豊かな台詞の表現力で「主役」としての存在感を示した。
  同等の技量を持つ役者の二人芝居という醍醐味は薄い。しかし、先を行く役者と後を追う役者が、互いに全力で向き合う姿は、神聖な儀式のように、おかしがたい空気に包まれていた。
  ハロルドが一人になり、ラストが近づく。「愛している」は、少し早く出てきた。やはり私の記憶違いで、「生きるんだ」が最後だ、と思ったが、ハロルドが口にしたのは「受け入れろ」だった。「生きるんだ」には進むイメージが、「受け入れろ」にはとどまるイメージがある。ほんの「ひとこと」だが、ここでまた、作品の印象が変わった。
  帰宅して本棚をひっくり返し、二冊のパンフレットを探し出した。八三年の演出はブロードウェイ版と同じテリー・シュライバー、翻訳は篠原陽子。森村誠一が寄せた文章に、「ラストの『生きるんだ』というせりふは・・・」と書かれているので、「生きるんだ」と訳されていたのだろう。
  九七年の演出は綾田俊樹、翻訳は今回と同じ小田島雄志。両方とも加藤健一だと思っていたので意外だった。座談会によれば、加藤と上杉にあてて訳したようである。今回も役者にあてて再訳したのだろうか。
  どちらの台詞も、一つの原文から生まれたものだから、基本的には同じことを意味している。生きることは受け入れること。受け入れることが生きること。しかし、やはり違いはある。
  観客は無意識に、翻訳家が選んだ言葉を通じて作品に接する。その言葉の僅かな違いや、自分の思い込みで、作品の印象が変わることもある。
  注文から数週間たって戯曲が届いた。私には、その全てを英語で読んで理解する力はない。ラストの台詞は、「hold on」。
  『K2』から眺めた三つの景色は、本当に作品が描いた世界だったのだろうか。それとも、そのときの景色を信じていれば良いのだろうか。
十一月二十七日観劇)

TOPへ

 あとがき  

◆劇団印象第十三回公演 鈴木アツト作・演出『匂衣』。劇作家の劇的な変貌に遭遇しました。終演後、冷たい雨が上がった下北沢の街の何と静かで温かなこと。あの至福は忘れがたく、次もきっと、もっと!夢が膨らみます。(ビ)



◆『ザ・キャラクター』。何が題材かの事前情報が殆どなかったと思う。個人的には印象に残る一本になったが、被害者が予備知識もなく見たら、心の傷をえぐられるのでは、という危惧を覚えた。地下鉄も劇場も、不特定多数が集まる密室である。(コン)



◆昨年は私にとって驚異的な観劇の本数となった。その数およそ百四十本。小劇場から大劇場、そして日本の伝統芸能からオペラまで。そんな中で心に残るは『夢の裂け目』。井上ひさし作品を観続け伝える観客になりたいと思います。(C)



◆劇団青年団リンク ハイバイ公演『武蔵小金井四谷怪談』。言わずと知れたお岩さんの話をもとにこんな料理の仕方があったのかと感心ひとしきり。この作品をきっかけに、時々ギクリ、だけど楽しいハイバイ公演に向かう足取りは毎回軽かった。(万)

TOPへ


HOMEへ戻る