えびす組劇場見聞録:第42号(2013年1月発行)

第42号のおしながき

今回は女優特集
この世には男と女、そして女優という生きものがいると言ったのは誰だったでしょうか。売り出し中の若手から円熟のベテランまで、この限りなく魅力的な女優という存在に、えびす組の女たち四人が正面からぶつかります。
女優名 劇評タイトル 執筆者
奈良岡朋子 『物語がはじまった〜奈良岡朋子のこれまでとこれから〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
栗田桃子 『ひたむきな姿が語る 栗田桃子の透明感 by C・M・スペンサー
片桐はいり 『個性を超える人』 by マーガレット伊万里
杏 / さくら 『二世女優の明日』 by コンスタンツェ・アンドウ
あとがき ○●○ 劇場賛江 設置御礼かたがた ○●○

  

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『物語がはじまった〜奈良岡朋子のこれまでとこれから〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 俳優と観客とのかかわりは不思議だ。自分の意志とは関係なく出会いがおとずれ、いつのまにか自分とその人と、ふたりだけの物語を綴ってゆく。
 奈良岡朋子。昨年十二月一日に八十三歳の誕生日を迎えた。大滝秀治亡きあと劇団民藝代表として二百名近い大所帯を率いる、まさに大御所だ。舞台、映画、テレビと多くの作品で名女優の誉れ高いが、自分の「奈良岡朋子物語」第一章は、一九八五年秋に放送されたTBSのテレビドラマ、山田太一作『東京の秋』である。
 若い男女(沖田浩之、古手川祐子)が出会う。女性は東京のサラリーマン家庭の娘、男性の家は所沢の元農家で、農地を売って豪邸に住む土地成金だ。畑仕事をこよなく愛する寡黙な父親が佐藤慶、気楽な暮らしを素直に喜んでいる母親が奈良岡朋子である。息子に恋人ができたと知った母は勇み立ち、相手の両親に挨拶にゆく。帰宅するやあきれ顔の息子を前に、対面の次第を嬉々として再現してみせる。いかにも上品な奥さま風にめかしこみ、「●○(息子の名)の母でございます」と恭しくお辞儀をして次の瞬間、あーやれやれとかつらをむしり取り、おやつをぱくつく。
 ドラマの後半、両家は顔合わせの席をもち、そこで息子たちの結婚話が両親たちの話に急展開してしまう。奈良岡の妻は機嫌よく暮らす一方で寂しさを抱えていたのだろう、「いつも畑に行ったきりで私とは口もきいてくれない。畑がいい畑が好きだって」と夫をなじる。するとあの佐藤慶が重い口を開き、「お前も好きだ」とひと言。「お前も好きぃ?」。仰天する妻に「だから、何とかすべえと思っている」。精いっぱいの愛の不器用な告白だ。子どもたちの前できまり悪いやら嬉しいやら、妻は「そんなことはじめて言われた」と泣きだし、ぎくしゃくした空気が一変、ふたつの家族を温かく包む(ストーリーや台詞は筆者の記憶によるもの)。
 いっぽう舞台ではたしか『放浪記』で林芙美子のライバル日夏京子役をみたのが最初で、つぎは翻訳もの、『十二月-下宿屋四丁目ハウス-』の再演が久びさであった。その後も『カミサマの恋』(畑澤聖悟作 丹野郁弓演出)を見のがして、ようやく二〇一二年、ふたたび畑澤、丹野コンビの『満天の桜』に、江戸時代初期の津軽藩の姫君の女中頭役で主演する舞台をみることができた。
 残念ながら本作は戯曲と演出のバランスの不安定な箇所が散見していたためにじゅうぶん味わえず、かといって「何はともあれ、奈良岡朋子はすばらしい」とまとめるのが本稿の目的ではない。
 生身の俳優が「いま、ここ」で行っていることを、同じく生身の観客がみる。演劇最大の特質だ。しかし演劇にはもう一歩別の旨み、楽しみ方があるのではないか。
 それは「かつてあそこで、いつかどこかで」という視点である。
 想像力のありったけを駆使して、いまの俳優の立ちすがたから、みることのできなかったその人のこれまでを考えるのだ。舞台だけでなく、戯曲や演劇評論などもいっそう深く読みこまねばならないだろう。
 たとえば菊田一夫は随想集『落穂の籠』において、六十九年民藝公演、宇野重吉演出の『かもめ』でマーシャを演じた奈良岡を「なんといういい女優なんだろう」と絶賛している。「誠実な、つまり、裏表のない演技だった」。具体的なことは記されていない。
 しかし奈良岡の魅力をずばり言い当てていて、みていないにも関わらず、「わが意を得たり」と思わせるのだ。その手ごたえを頼りに『かもめ』の戯曲を読みかえし、心のなかで奈良岡のマーシャを動かしてみる。
 となるとつづいて宇野重吉の演出論「チェーホフの『桜の園について』」を開かざるを得ない。七十四年の民藝公演『桜の園』で、奈良岡は家庭教師のシャルロッタを演じた。宇野は演出メモにシャルロッタのことを、「なんとも奇妙な女だ」「まことにわかりにくい役だ」と書き残している。自分はこの役に注意して『桜の園』をみたことがない。しかしこれまでの『桜の園』観劇体験におけるシャルロッタを思い起こし、本役を演じる奈良岡を想像することによって、この役への視点だけでなく、これから出会う『桜の園』そのものが未知の顔をみせる可能性もあるのではないか。戯曲や批評からその俳優の存在が匂い立ち、新しい劇世界が生まれる瞬間が体験できたら。想像しただけでぞくぞくする。
 奈良岡朋子の『東京の秋』における地方色まる出しのおばさんぶりと素朴な可愛らしさは衝撃的であった。非常に地味なつくりのドラマであり、代表作という視点からはやや離れた位置づけになるが、奈良岡を考えるとき、消すことはできない。自分の「女優・奈良岡朋子物語」にとって必要なページなのである。
 物語はまだはじまったばかりだ。
 みることのかなわなかったマーシャやシャルロッタを蘇らせることができるだろうか。そしてこれから先のまっ白なページには、どんな物語が記されることになるのか。
 新しいページが加わる過程において、かつらをかぶった所沢の農家のお母さんは何かと言っては顔を出すにちがいない。だいじょうぶ、あなたを忘れてはいません。心して向き合い、物語を綴ってゆきます。 

 

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『ひたむきな姿が語る 栗田桃子の透明感』
C・M・スペンサー
 一九九四年、文学座アトリエ公演で『鼻』を観た。作・別役実、演出・藤原新平。この鼻とは、シラノ・ド・ベルジュラックを象徴するあの鼻である。入院中の、ある老俳優の後悔。かつてシラノ役で付け鼻を忘れて舞台に出てしまった彼は、今でも目の届くところにあの鼻が無いと不安なのだ。年老いて幻想の中で生きる俳優には三津田健が扮し、聞こえてくるロクサアヌの幻の声は杉村春子だった。そんなゆったりとした存在の感傷に浸る中、若い女性の看護士が登場して、現実的な物言いをする。これから花が咲かんと活力に満ちた姿がとても新鮮だった。と、同時に文学座の顔ぶれに新しい時代が来た、という衝撃を覚えたことが思い出される。 
 その看護士に扮していたのは、栗田桃子。初舞台だったそうだ。クリッとした瞳に、愛らしい口元、ハッキリとした口調に、華奢な身体ながらしっかり芯の通った立ち姿が印象的だった。初舞台から十九年、彼女を語るのに様々な切り口があるが、作品を通して見える栗田桃子像について書いていこう。
 さて、『鼻』以降、私の中で再び彼女の存在が大きくクローズアップされたのが、二○一○年文学座公演、作・ソーントン・ワイルダー『わが町』のエミリーだ。演出・坂口芳貞。
 優等生的な役柄も、彼女の佇まいと声、その存在だけで十分に伝わる。一見、冷静に見えるエミリー、うっかり抜けるような愛嬌のあるエミリーを、愛さずにはいられない。そのエミリーが結婚後間もなく若くして死んでしまう。彼女が死後に家族や隣人を見守る眼差し、想いを語る姿に、生きて残る者と想いを確認し合うことのできない無念さを痛切に感じ、心から泣いた。
 こんな風に観る者の心が重ねられる「透明感」が、栗田桃子にはある。この年、彼女は大活躍した。文学座本公演での主演が続く。
 『麦の穂の揺れる穂先に』は、小津映画で有名な『麦秋』をベースに、現代に移して平田オリザが書き下ろした。演出・戌井市郎。鎌倉で父親と二人暮らしをする娘の早紀子が栗田の役どころ。父親の心配を胸に秘め、周囲の結婚の心配をよそに動物園に勤務する毎日。しかしここぞという時に、父の同僚の助手である子持ちの男性との結婚を宣言する。その姿の清いこと。ずっと彼の姿を見てきた彼女の物言わぬ姿に、自身の胸の内を見つめて真っ直ぐな答えを出した早紀子の心情が窺えた。
 そして『くにこ』。作・中島淳彦、演出・鵜山仁。作家・向田邦子の幼い頃から娘時代までを描いた作品で、栗田はその「くにこ」を演じた。二人の妹と弟の姉として、長女として、家族に気を配ることを常としてきた「くにこ」。転校の多い子供時代に、妹たち相手にその土地の言葉を覚える努力を惜しまず、また同居する祖母の姿を大きく見開いた眼で見つめ、様々なことを感じてきた「くにこ」。彼女がどんな大人になって、どんな恋をしたかが、家族とともに描かれた作品だ。いつも「くにこ」が家族をしっかりとつなぎ止めてきた。芯のしっかりした可憐な女性像。栗田は魅力的に「くにこ」として舞台に居る。向田邦子の作品が、今でも読者に愛されているように。
 『くにこ』は、昨年末から引き続き今年も日本各地の演劇鑑賞会で上演されている。
 ところで、昨年十一月に新国立劇場で上演されたアーサー・ミラーの『るつぼ』は記憶に新しい。演出・宮田慶子。
 十七世紀末に実際に起きた魔女裁判が題材となっている。少女たちがでっち上げた魔女として告発された女性の一人、エリザベスを演じた。少女に横恋慕されて一度だけ気を許した夫を許せなかったエリザベス。過ちを後悔する夫と、期待を持つ少女。妻の存在さえなければ、という利己的な策略に周囲の大人たちが分別をはき違えて巻き込まれていく。身に覚えの無い疑いを認めることのない人々は、次々と悪魔に魂を売ったとして処刑されていく。エリザベスも、そして彼女の夫も例外ではなかった。透明感のある存在の強さ。目に見えない真実と正義が、彼女が静かに主張することにより、観る者の気持ちを大きく揺さぶった。
 栗田桃子とは強い女性なのか?いや、演技を見る限り、役の信じるものを信じて、素直に感情を寄り添わせているように見える。そして突き進む先にはハッピーエンドが待っていて欲しいと願ってしまう。なぜなら、いつしか彼女の演じる人物のひたむきさに心を奪われて、一緒にひた走っているように感じてしまうからだ。
 最後に、井上ひさし戯曲のライフワークと称されて再演が重ねられてきたこまつ座の『父と暮らせば』を挙げる。演出・鵜山仁。栗田は二○○八年から美津江役として参加し、この役で朝日舞台芸術賞寺山修司賞、第四五回紀伊國屋演劇賞個人賞、広島市民劇場女優賞を受賞している。残念ながらまだ観ていないのだが、この二人芝居がどんなに胸を打つ作品となったかは想像に難くない。栗田桃子の美津江で再演を望む作品だ。
 今や劇団にしっかりと根を張り、外に向かってどんどん枝葉を伸ばしている栗田桃子。その名のとおり沢山の実をつけた姿が、ますます私たちを魅了する。

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『個性を超える人』
マーガレット伊万里
 本谷有希子作・演出「遭難、」を観る。二〇〇六年に第十回鶴屋南北戯曲賞を受賞した作品で、今回は配役をかえての再演である。
 生徒が自殺未遂を起こしたことを発端に、閉鎖された職員室で毎日繰り返される保護者や教師たちの終わりなきバトル。主人公の女性教師・里見(菅原永二)は、他の先生達からも信頼が厚いが、その本性はとんでもないことがしだいに明かされてゆく。どこまでも落ちて行く里見の深い自意識の穴。そんな彼女の策略にはまってゆく同僚教師達。初演では、里見をナイロン100℃の松永玲子が演じ、自意識の過剰さをこれでもかと見せつけられたと記憶する。
 自殺をはかった仁科京介の担任・江國(美波)をはじめ、学年主任の不破(松井周)、最初に里見の嘘を見抜く石原(佐津川愛美)。日々職員室に通い、教師達を責める仁科京介の母親(片桐はいり)。
 今回の再演は六年ぶりである。当初、里見先生を別の女優が演じることになっていたが、急な降板で、まさかの男優が演じることになった。これには驚いたが、菅原永二演じる里見を目にしてみると、危惧するほどの違和感はなく、男性が演じることで、里見のキャラクターのどぎつさが薄まっており、この戯曲とまた新たな気持ちで向き合うことができた。
 作品中、職員室に押しかけては、彼らの責任を問いつめる仁科の母親は作品を動かすキーパーソンといっていい。初演時は、佐藤真弓が演じた役を今回片桐はいりがつとめると聞いて、はじめは少し不思議な気がした。片桐はいりといえば、生活臭のあまりない個性的な女優。もちろん年齢的には母親役に異論はないが、すぐにはイメージがわかなかったのだ。
 息子が自殺未遂をして意識が戻らないなか病院へ通い、自宅では、義母と義父の介護に追われているという設定だ。そんな忙しい身にもかかわらず、連日職員室にも通いつめ、教師達に猛烈な言いがかりを続ける。事件の真相をつきとめたいというよりは、ところかまわず教師にあたりまくる有様である。
 だが、息子が残酷な目にあい、自分は冷たい世間の目にさらされながら苦しんでもいる。追いつめられ、逃げ場を失った母親は、勢い余って教師の不破と不倫の関係に陥る。教師達に怒りを剥き出しにしていたにもかかわらず、不破との関係に走るというアンビバレンスな面をもつ難しい役だ。
 一つボタンをかけ違えば、てんででたらめな女としてしか映らないだろう。これを必要以上に女の部分を感じさせずにできるところが片桐はいりのすごい所であった。
 不破との場面も色仕掛けではなく、その真剣さとふざけたような仕草があいまって、無垢なかわいらしささえ帯びてくる。少々大げさだけれど、性別としての「女」をこえて、作家や演出家が求める人間の根源的な訴えかけを体現しているのではないかと思わせる。
 一見とぼけたキャラクターで語られがちだが、その実、他の女優ではどうやっても太刀打ちのできない存在感。ひたむきに咲き続ける名もなき白い花のような可憐さとでもいえばいいだろうか。
 役者を評して、憑依型とか役に自分を近づけるタイプと言ったりするが、彼女は観客とのキャッチボールを楽しむタイプか。自分に求められる役割を十二分に理解し、役と自分と観客との間で次はどんなボールを相手に投げようか、どんなふうに受け止めてやろうかと考えながら演技をつづけられる。観客がそこにいる限り終わりはない。
 いわゆる女優の美しさとか演技力といったことでは片付けられない魅力をもっているのである。リアルだと痛すぎる場合でも、この人が演じると、フィクションの衣を軽々と身にまとい、観客をあっという間にその劇世界に引き込む。
 一九八〇年代からブリキの自発団の看板女優として活躍し、映画やドラマ、CMまで幅広く活躍、一度見たら忘れられない個性で、松尾スズキの作品なども常連である。二〇〇七年に、同じ本谷有希子作・演出による劇団♪ダンダンブエノ「砂利」では、似ても似つかない田中美里との姉妹役を演じていた。ここでも自分が観客に求められる役割を感じ取りきっちり演じている姿は崇高ですらあった。
 彼女は多くのアーティストから信頼を得ると同時に、常に観客の期待を裏切らない新鮮さを保ち続ける。
 ずっと演技を止めないでほしい、と見ているといつも思う。片桐はいりを通して、演劇をながめたいのである。
(十月七日観劇)

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『二世女優の明日』
コンスタンツェ・アンドウ
 最近の舞台では、「下手」と感じさせる女優にあまりお目にかからない。個人的な「下手」の基準が下がっているのかもしれないが、経験の浅い女優でも、皆そこそこやっているように思える。
 しかし、この数年間で二人、かなりの大物に遭遇した。共通点は「二世」「モデル」「初舞台」である。
まず、渡辺謙の娘で、モデル・女優として活躍中の杏。ミュージカル「ファントム」再演版のヒロイン・クリスティーン役で初舞台を踏んだ。(二○一○年十一月 赤坂ACTシアター 脚本 アーサー・コピット  作詞・作曲 モーリー・イェストン 上演台本演出 鈴木勝秀)  
 とにかく歌がダメ。声はボリューム不足で薄っぺら、音域が狭く曲を歌い切れない。今どき、こんな歌唱力でミュージカルに出られるとは…と驚くばかり。しかも、「天使の歌声」を持つという設定だ。主演の大沢たかおの歌もレベルが低く、客席にじっと座っているのがちょっとした修行になった。
 観劇後、初日を迎えるまでの彼女の姿を追ったテレビ番組を見たが、明らかに準備不足。配役が決まった時点での力量判断と、それに基づく長期トレーニング計画が杜撰だったと言わざるを得ない。
 もちろん、良いところもあった。動きはやや雑ながら、姿が綺麗で舞台映えがする。できないという自覚はある筈だが、変に萎縮せず、まっすぐ演じていて好感が持てた。
 私は、「初舞台」の成果に対する評価は甘くすると決めている。日本の演劇界のあり方や観客の嗜好、舞台を作る側や所属プロダクションの思惑を考えると、全てが本人に起因すると言い切れないからである。
 彼女も、鍛錬を続けてリベンジしてほしい。スケールの大きさは舞台向きだし、華やかさは捨てがたい。オリジナルミュージカルで、声質や音域に合う曲を書いてもらっても良いだろう。しかし、二○一三年一月現在、舞台出演の話は耳にしていない。
 二人目は、石田純一と松原千明の娘・すみれ。『GOEMON』のヒロイン茶々役で初舞台・女優デビューをした。(二○一二年三月 御園座 五月 明治座 原案 紀里谷和明 演出 岡村俊一 脚本 渡辺和徳)
 話せない、歩けない、お辞儀もできない。ハワイ育ちで日本語のイントネーションが怪しいのは大目に見るが、舞台上の動き全てがサマにならないのには困った。
 洋風の衣装で具体的な装置もないアクション時代劇なので、着物が着られないとか、襖が開けられないとかいう話ではない。舞台には生身の人間が立つ。しかし、生身の体のままでは、舞台上では不自然になるのだ。アメリカの大学の演劇科で舞台に主演したという経歴に疑いすら抱いた。
 モデルだけあって美しさとスタイルは抜群だが、相手役の早乙女太一が小柄なので、悪目立ちする。もちろん、背を盗むことなどできない。
私が見たのは五月で、一ヶ月以上経過してこれか…と呆然としたが、その出来なさ加減が面白くなり、次第に、彼女の出番が待ち遠しくなってしまった。そんな体験は初めて。恐るべし、すみれちゃん。次までに精進してね…と明るく劇場を後にしたが、「次」は意外に早く訪れた。
 『tick,tick...BOOM!』(二○一二年十月 あうるすぽっと 作詞・作曲・脚本 ジョナサン・ラーソン 翻訳・訳詞・演出 山本耕史)は、出演者が三人だけのミュージカル。今回が三演目で、主演は全て山本耕史。他のキャストは毎回異なり、紅一点のスーザン役(複数の役を兼ねる)は初演・再演とも歌手の初舞台だったが、ビギナーズラックとはならず、すみれが演じると聞いた時は、またか…と落胆し、諦めていた。
 しかし、その予想は良い方へ裏切られた。アメリカ人の役なので、英語訛りの日本語もさほど気にならない。狭い舞台の上で細かい仕事が多く、動きを「振り」のようにこなすことで、アラが目立たない。山本とのビジュアル的なバランスも取れていた。
 そして何より歌が上手いのである。癖のない伸びやかな歌声で、三人のハーモニーはこれまでで一番良かったと思う。ソロ曲も堂々と歌い上げ、スターのオーラすら感じさせた。
 演技面はまだ不十分だったが、『GOEMON』では「演技」について語る気にもならなかったことを思えば、雲泥の差である。
 初舞台の出来の悪さや、前任者たちに満足していなかったことから、相対的に評価が上がったのは事実である。しかし、この作品は、得意な分野を生かし、不得意な部分を上手くカバーするという点で、彼女の見せ方・使い方に成功していたと思う。
 二○一三年、すみれは二本のミュージカルに出演する。更に化けるだろうか。それとも、後戻りや足踏みで終わるだろうか。
 以前と比べ、知名度だけで舞台に起用される女優は減ったと思う。しかし、「二世」にはまた別の枠があるようだ。良くも悪くも注目されるのが二世の宿命であり、期待と実力の差を埋めるため、一層の努力が求められる。
 現在、大きな舞台で主役級の役を演じられる「二世女優」は、意外と少ない。親が存命のケースに絞ると、寺島しのぶと松たか子くらいか。
 杏やすみれがそこまで行けるかどうかはわからないが、やるからには目指してほしい。若く美しく華やかで、演技ができる舞台女優の登場は、いつの時代においても観客の悲願なのである。

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劇場賛江 設置御礼かたがた  

シアター應典院&一心寺シアター 大阪の劇団Мayと出会ったのがきっかけ。ひとの魂を鎮めるお寺が芝居への情熱をかきたて、その火が消えぬよう見守り、育む器として地域にしっかりと根づいています。(ビ)



BankART 1929 都内在住の私にとって、ヨコハマは近くて遠い「お出かけ」の町。BankARTへはアート系の展示を見に行くことが多いけれど、家との単純往復ではなく、散策や買物・食事も楽しみです。(コン)



吉祥寺シアター 開場当初、傾斜のキツイ客席が話題でした。行ってみると後方からも舞台がよく見えるんですね。劇場併設の洒落たカフェなど、思えば新しい小劇場スタイルの先駆け的存在でした。地域に根づいた愛すべき劇場です。(C)



川崎市アートセンター よく寒い季節に訪れるのですが、日差しのふりそそぐガラスのエントランスを入るとホッとします。施設内には映像館もあり、演劇と映像との楽しいコラボレーションも期待しています。(万)

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