えびす組劇場見聞録:第45号(2014年1月発行)

第45号のおしながき


劇作家も演出家も、俳優も劇団も、全てを見て語ることはできません。
出会い、心に触れただけでも奇跡。そのひとつひとつを大切に綴ります。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
シンクロ少女
「ファニー・ガール」
名嘉友美 作・演出 三鷹市芸術文化センター星のホール
10/4〜10/14
がんばれ演劇女子たち 〜親きょうだいにはなれないが〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
月刊「根本宗子」
「中野の処女がイクッ」
根本宗子作・演出 新宿ゴールデン街劇場
10/9〜10/18
劇団ロ字ック
「退カヌコビヌカエリミヌヌ」
山田佳奈 作・演出 サンモールスタジオ 
11/2〜11/10
「マクベス」 長塚圭史 演出 シアターコクーン
12/8〜12/29
死体からマクベスへ by C・M・スペンサー
維新派
「MAREBITO」
松本雄吉 構成・演出 岡山・犬島 海水浴場
10/5〜10/14
「芸術祭」で演劇を見る by コンスタンツェ・アンドウ
バック・トゥ・バック・シアター
「ガネーシャVS.第三帝国
不明 作・演出 東京芸術劇場プレイハウス
12/6〜12/8
虚と実の混合物 by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ 二○一三年の一本 ○●○

  

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がんばれ演劇女子たち 〜親きょうだいにはなれないが〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 意識したわけではないが、女性の劇作家・演出家による舞台をみる機会が多い。
 風琴工房の詩森ろば、スタジオソルトの椎名泉水、パラドックス定数の野木萌葱、ミナモザの瀬戸山美咲、てがみ座の長田育恵などが自分にとっての第一、第二世代だ。
 今回は第三世代ともいえる女性たちの舞台を三本紹介したい。
 いずれも粒ぞろいの意欲作である。
 まずは名嘉友美作・演出のシンクロ少女公演『ファニー・ガール』(三鷹市芸術文化センター星のホール/十月十三日観劇)。同ホールの若手演劇人支援企画Mitaka" Next" Selection 14thに選ばれ、これまでの小空間から天井も奥行きもたっぷりある劇場に挑戦することになった。
 離婚や再婚によって生まれる血縁のない親子やきょうだい、性欲のない妻とゲイの夫など、複数の家族が織りなす十五年の物語だが、設定や背景の特異なことはいつのまにか気にならなくなる。みるものの肌感覚に少しずつ触れるところがあるのだろう、客席の集中度も強く、休憩なしの二時間三十分を受けとめることができた。
 戯曲を立体化し、流れをつくるのは俳優はじめ、すべてのスタッフだ。劇作家への深い理解あってこそであり、シンクロ少女の最新作は、大きな成果をあげたといえよう。
 つづいて根本宗子作・演出の月刊「根本宗子」第八号『中野の処女がイクッ』(新宿ゴールデン街劇場 十月十一日観劇)。メイド喫茶のロッカールームが舞台だ。メイドやオーナー、経理担当の女性や常連客のテンポのよいやりとりを楽しむうち、メイドのじゅんが父親に買ってもらった大切な財布を盗まれてからの急展開に思わず前のめりに。犯人はメイド仲間のイブであった。中身の金を燃やした上、財布を見るも無残に汚してけろりとしている。じゅんは狂ったようにイブを責めるが彼女には悪意がなく、話が通じない。
 そこに大きな地震が起こった。震源地は東北、イブの出身は青森だ。それまで彼女を責めていたメイドたちは、「うちに連絡がとれない」と泣き叫ぶ彼女にかけよる。敵意が同情と優しさに一変したのだ。じゅんが収まるはずはなく、しかし一瞬にして周囲はすっかりイブの味方であり、「いまはそれどころじゃない」と、不謹慎だと言わんばかりにじゅんを諌めるのである。
 財布を盗むことと、地震で家族を失うこと。ことの重さは比べるべくもないのだろうか。地震は地震としてイブの行為は許されない。謝ってほしい。
 じゅんの主張は真っ当である。
 しかし「いまはそれどころじゃない」という周囲の反応も間違いではない。許しがたいふるまいをした者が、誰からも同情される「被災者」に変容した瞬間、そこにどんな感情が渦巻くのか。
 自分の知るかぎり、震災に影響を受けた創作のどれにも見いだせなかった大胆で辛辣な切り口だ。「これを書くのはいかがなものか」と懸念するいっぽうで「よくぞ言ってくれた」という微妙な爽快感も。公演リーフレットの挨拶文には「とにかくまっすぐに心を込めて書きました」とある。根本宗子の心のなかを、もっと知りたい。
 最後に劇団ロ字ックの山田佳奈。山田の描写には、優しさと暴力性、頑固に自我を押しとおすかと思えば、素直に心情を吐露する二面性が共存する。
 しかもそれらが決してバランスのよい表現になっておらず、むきだしの荒削りと誤解されかねない。少なくとも自分がはじめてロ字ックの舞台『鬼畜ビューティー』(二〇一二年夏)をみたときはそう感じられた。
 しかし前回公演『タイトル、拒絶』(二〇一三年冬)のアフターイベントで上映された山田の脚本・監督のショート・フィルム『ワールド・ワールド・ワールド』にはっと胸をつかれたのである。ラブホテルで清掃のバイトをする女の子は彼と別れたばかりだ。恋人たちの逢瀬の後始末をしながらぽつり、「セックスがしたいな」。しかしそのつぶやきは、「普通にセックスして子どもを産んで、日曜日には家族で買い物をして食料品で冷蔵庫をいっぱいにしたいな」とつづく。あからさまで単純なことばに込められた彼女のささやかな願いを知ったとき、山田作品に対する印象が変容したのだ。
 そして最新の舞台『退カヌコビヌカエリミヌヌ』(サンモールスタジオ 十一月五日観劇)は、東京近郊のスーパーの従業員控室が舞台で、そこで働く若い男女二人を軸に十人を越える人々がひっきりなしに出入りする。
 いっけん賑やかな群像劇とみせて、一人ひとりの心の奥底をそっとみつめるような余韻の残る舞台であった。
 三人に共通するのは、舞台に対する愚直なまでに懸命な姿勢である。心地よい描写ばかりではなく、もっとことばを吟味して表現を抑制すれば、多くの観客の共感を得られるのにと歯がゆいこともある。だいいち親きょうだいにはとてもみせられないぞ。
 しかし彼女たち自身の魂がこちらに向かってぶつかってくるような舞台をみていると、その魅力に心が騒ぐのである。だからまずは先入観を捨て、食わず嫌いせずにしっかりと受けとめること。ただし決して必要以上にものわかりよくはならないように。
 自分は親きょうだいにはなれないが、親戚かご近所の娘を見守るような演劇中年の立場で大いに味わい、楽しみたい。
 がんばれ負けるな、演劇女子たち。

 

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死体からマクベスへ
C・M・スペンサー
 十二月にシアターコクーンで上演されていた『マクベス』。演出は長塚圭史。数年前に、九時間一挙上演の芝居をこの劇場で観劇した折に、近くの席に長塚氏を見かけた。しかし一幕が終わると姿は無く、その代わりに入れ替わり立ち替わり関係者らしき人物が、その席に座っていた。どうやら当の本人は、幕ごとに様々な席で観ているらしい。その舞台は、向こう側とこちら側の客席で挟むように、中央に帯状に設えられていた。察するに、角度の異なる席からどう見えるのか、観察していたのだろう。
 さて、今回の客席は、さらに左右にも置かれ、中央の六角形の舞台を取り囲むように配されていた。前述の体験が演出に活かされているような、どの席から観ても何かが起こる遊び心が感じられた。
 出演者は、通路や客席にも待機して、出入りするのは舞台の下から、客席の通路から、そして劇場内のあらゆる通路を歩き回っている。彼らが今、木々が茂る森の中にいるのか、屋敷の内、外にいるのか、はたまたそれが戦場なのか、観客のイメージ次第で、私たちまでもが作品の中に入り込んでしまうという寸法だ。
 いや実は、開演前から仕組まれていた。明らかに観客とは異なる、白塗りの顔にヒゲを付け、黒のスーツに身を包んだ男たち。彼らはロビーで観客を見張るように立ち、客席に案内する者までいた。後に彼らが出演者だと知るのだが、どんな稽古(訓練?)をしたのかと思うと、思わず笑みがこぼれる。そして開演時間になると、二人の男が前説を始めた。注意して聴いていると、シェイクスピア劇によくある道化のそれではなく、どちらかと言えば、より楽しむためのアドバイスだ。特に、いくつかの席にだけ取り付けられている緑色のビニール傘について。「例のものを用意」で手に取り、とある号令で指示に従って欲しいと言うのだ。色でピンときただろう。最後の最後に観客も、一致団結してマクベスを脅かす、という観客参加型の演出なのである。
 そんな前説担当の彼らに向かって、客席から、早く始めろと女性の声で乱暴なヤジが飛ぶ。見回すと、近くに座る人物を含め、白塗りにヒゲを付けた女性が合わせて三人。前説が終わると、彼女たちは席を離れて、するすると丘を下るがごとく舞台の方へ。さながら樹海から現れた亡霊のようだった。そしていつしか私たちも、役割を持って芝居の世界に入っていた。
 こんな具合の幕開きである。時も国も超えた現代風の衣装に、セットはイスだけ。劇場全体を舞台に見立てているにもかかわらず、中央の小さな舞台の上で繰り広げられるあれやこれやの策略は、物語の縮図となって、観客の注意を集める。その舞台の上では、テンポ良く展開されていくお馴染みセリフが、容赦なく、そんな悪人ではなかったはずのマクベスを陥れていく。「やがては王となる」という予言を、マクベスが自ら進んで実現させていく過程は、そそのかされた感が否めない。突如として権力を持ち、保身のため次々と疑わしき人物を消し去るマクベス。彼に恐れを抱く者は、逃げ隠れるか、従うか。小さな舞台は、人々の焦りと驚きと怒号で溢れかえる。マクベスと夫人がどうこうする様よりも、マクベスの家臣はじめ、周囲の混乱ぶりが相当なものであることが浮かび上がっていた。
 そんな中、ぐっと芝居を掴んで進めるのは、肝心要で重要な知らせを発するスコットランドの貴族、ロスだった。扮する横田栄司の力強く、時には湧き上がる悲しみを押し殺した言葉が、声が、混乱の最中、この作品を目指す方向へと動かしていく。そして暴君となったマクベスを倒さんがため、身を隠していたダンカン王の子息が、ついに立ち上がった。
 ここからが、私たち観客の出番だ。上演前に練習した、「例のものを用意」で座席の右にある傘を抜き、号令で開く。微かに揺れる傘の群は、バーナムの森と化していた。号令に従ってみると、観客いじりの恥ずかしさよりも、舞台のセットの一部となった満足感の方が勝っていた。「例のもの」で、ネット上検索してみると、そこに書き記した多くの観客が、その席に座ってみたかったことを知る。さらに、討ち取られてゴロゴロと客席の頭上で転がされた、巨大なマクベスの首に触れたかったとも。
 友人からは、「マクベス、あれってあり?」と驚愕の声が寄せられた。しかし終わってみれば、一本筋の通った翻訳の存在が柱となって、作品の本質は守られていた。あえて言えば、マクベスと夫人がもたらした災難を被った人々に焦点が当てられていたようで、だからこそ観客は、彼らに加担したくなったのだと思うのである。
 上演に先駆けて行われた、翻訳の松岡和子さんによるプレ・レクチャー。そこでは作品の解釈について触れていた。シェイクスピア作品は色々な解釈ができて、これが正解というものは無い。演出家とともに作り上げる新訳の度に新たな発見があるのだと。さる時代にも、こうやって野次りながら、参加しながら、それを楽しみに芝居を観ていたのかもしれないと、想いを馳せた。
 ところで今回マクベスを演じたのは堤真一。かつて彼はジャイルス・ブロック演出の同作品(一九八七年上演)では、名もなき兵士や死体を演じていたと記憶する。その後デヴィッド・ルヴォー演出(一九九六年)ではマクダフを、そして今回はタイトルロールへと。どれも観る機会を得たが、やはりどれもが拡大される事象はそれぞれであった。役柄の変貌とともに変化を遂げたのは、私たちの置かれる環境である。演出家とともに生み出される新訳、そこに映し出される世相。変わらず客席に座り続けることができたなら、それを汲み取るのも観客の役割か。
(十二月十五日観劇)

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「芸術祭」で演劇を見る
コンスタンツェ・アンドウ
 二○一三年十月、瀬戸内国際芸術祭(以下、瀬戸芸)のプログラムの一つである、維新派公演『MAREBITO』(構成・演出 松本雄吉)を見に、犬島(岡山県)を訪れた。
 私にとって、船で島へ渡ることは、滅多にない特別な「旅」だった。伊豆大島、佐渡ヶ島、安芸の宮島、グレートバリアリーフ…船に乗るだけで楽しく、軽い緊張や興奮も感じていた。しかし、この数年、瀬戸内の島へ渡る機会が増え、かつての非日常感覚が薄れつつある。
 中でも多いのが犬島で、目的は全て維新派だ。二○一○年七月『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』、二○一二年九月『風景画』、そして今回である。
 会場は海水浴場。観客は海に向かって座る。木で作られた床に椅子が置かれ、白い枠が窓を形づくる。細く曲がった突堤の先には、海と島と空が青い。赤い夕陽がゆっくりと落ちる頃、舞台がはじまる。
 島へ渡ってくる少年、母への思い、過去の出来事、四角い鞄、街灯、海の生き物、こどものあそび、少女、「そこはどこですか?」と聞く声…。「おなじみ」のリズムが響く中で繰り広げられる情景には、既視感があった。二○○一年の『さかしま』から『MAREBITO』まで、七回(『台湾の…』と『風景画』の関東公演を加えれば九回)しか見ていないが、目の前の何かが過去のどれかに繋がり、記憶の破片が浮かんで結晶し、溶けて流れてゆく。あの時は…この時は…。維新派の舞台には、いつも「自分」と「時間」が映し出される。
 やがて、床の上に水があふれ出して「教室」と思われていた場所が「海」に変わる。繊細な照明に煌めく水の、自然の姿とは異なる美しさに目を奪われた。砂浜へ寄せる白い波もまた、人の手によってタイミングが制御されているのかもしれない。
 作品を劇場の外へ持ち出して自然を装置や背景にするだけでも、野外公演は成立する。それも悪くはないけれど、自然の中で自然を借りて独自の表現が生み出される瞬間にこそ醍醐味があるのではないだろうか。今回は特に、自然の姿と人間の創作とのバランスが良く、野外公演の素晴らしさを味わうことができたと思う。
 昼間は日傘が必要な暑さだったが、開演中にとっぷりと日が暮れ、星と月が出て、ダウンジャケットが役立つ寒さに変わった。一日で夏と冬を過ごし、二時間弱の中で年月の流れを感じながら、『MAREBITO』が自分にとっての「維新派総集編」になったように思えた。
 瀬戸芸は、瀬戸内海の島々と周辺の町を中心とした三年に一度の芸術祭(トリエンナーレ)で、第二回の二○十三年は、春・夏・秋の三会期、一○八日間開催された。現代美術による地域振興の取り組みがベースとなっており、期間中はアート以外のイベントも数多い。
 実際に地元住民のためになっているのか?という点には議論もあると思うが、参加する島が前回より増え、マスコミに頻繁に取り上げられたことからも、関心の高さや影響力の大きさがうかがえる。百万人を超す来場者の中には、アートと無縁の観光客もかなり含まれているだろう。そして、その動員力は演劇にとっても魅力的だ。
 演劇の特性は、観客と演者が時間と場所を共有することだが、興味がない人に高い入場料を払わせ、劇場まで連れ出すのはなかなか至難の業である。しかし、「芸術祭」の一環として上演する場合は、演劇に積極的ではない層へのアプローチがやや容易になる。行ったら隣でやっていたから、夜は時間が空いているから…等の理由による「ついで」観劇だ。
 特にアート志向の若者は、「パフォーミングアート」として演劇を受け入れる下地もあり、新たな観客候補としてのポテンシャルが高い。当然、作品の内容や料金設定も重要になる。
 「芸術祭」は、形式によっては「演劇祭」「音楽祭」「映画祭」等を内包し、ジャンル横断型のコラボレーションや、それぞれの観客が別ジャンルに接する機会を提供する場となりうる。景気に左右されない経済基盤を確保し、長く定着させることができれば、一般の観客も増えるだろう。
 今後、「芸術祭」ブームが加速し、乱立による質の低下や、「多目的」が「無目的」となり、本来の趣旨を見失うリスクは否めない。しかし、演劇側から「芸術祭」へアプローチする価値はあると思う。
 美術も演劇も音楽も映画も生活必需品とはみなされない。これから更に生きにくくなる世の中では、ジャンル別にではなく、束になって活動しなければ、その存在意義を問うのは難しいのではないだろうか。
 瀬戸芸で、維新派や他の演劇を「ついで」に見た人がどの程度いたのかはわからない。しかし、その中の一人でも、演劇との縁を繋げてくれれば、と願っている。
 私自身は、新たな気持ちで維新派の次回作を追いかけたいし、また瀬戸内も旅したい。そして、各地の「芸術祭」のあり方や演劇との関わりについて考え続けてみたい。
(十月十三日観劇)

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虚と実の混合物
マーガレット伊万里
 バック・トゥ・バック・シアターは、知的障害者とみなされる人との演劇創作を目的にオーストラリアで一九八七年に設立された劇団。出演している俳優の多くが障害をもっている。
 今回上演された「ガネーシャVS.第三帝国」は、ナチスによって奪われた幸福の印「卍」を取り戻すため、インドの神ガネーシャが冒険の旅に出るというファンタジーの物語と、それを上演しようとする劇団内でのいざこざが並行して描かれる。
 この作品は高く評価され、世界七カ国十六都市で上演、アジアでの上演は日本が初めてだそうだ。
 作品の中での彼らは、ガネーシャの旅物語上演に向けて、演出家の指示に基づきシーンごとにリハーサルを重ね、演出家と出演者は意見を交わしたり、衝突したり。結果、最後は修復できずに決裂。演出家がその場を立ち去るところで話は終わりを迎える。
 障害者と聞いて、失礼ながら当初はハプニングも覚悟しつつ作品にのぞんだが、とんだ思い違いであることに気づいた。セリフには全てあらかじめ準備した日本語字幕がついているのだから、俳優にアドリブやハプニングは許されていない。プロフェッショナルな集団である。フェスティバル/トーキョー13のメイン・プログラムであり世界の先端を行く作品が並ぶ中においても、芸術性の高い作品だ。
 リハーサルに参加する役者はみな個性的で、時にわがままで協調性に欠ける。だがセリフにはユーモアがあり、それは彼らが障害をもつからではなく、彼らの個性として表現されているということを強く感じた。健常者の演出家と障害をもつ俳優たちの姿はいつしかヒトラーとユダヤ人の関係性と重なって見えたかと思うと、負けじと演出家に食ってかかる俳優たちの奔放さが逞しくも映る。
 ガネーシャが旅をする物語のシーンは、天井からつり下げられた透明なビニールのカーテンが左右に引かれると時空をこえて次の地が現れる。一見簡素な舞台だが、影絵のように投影された列車のシーンなどは特に美しく印象的だった。
 バック・トゥ・バック・シアターでは定期的にワークショップを実施しながら作品づくりを進め、演劇だからこそ許されるトライ&エラーを繰り返し、機が熟すのを待つという根気のいる作業を続けており、その成果が確実に観客の心を捉える。
 演じられているのはフィクションだが、出演者は実名で舞台に登場し、劇団内での創作シーンはまるでドキュメンタリーを思わせる。セリフやシーンの多くは即興から出たアイデアを元にしているらしく、作品中に彼らの本当の姿がどこに潜んでいるのか、どこからがフィクションなのか?虚実ないまぜになっているところが彼らの目論みでもあるのだろう。
 役者の一人がチョビ髭とナチスの制服に着替え、ヒトラーそっくりの格好で演じるのを見たとき、ナチス・ドイツの重大な過ちを犯した役を彼に演じさせるのは負担が大きいのではないかと、少々とまどった。
 障害をもつ彼らは一〇〇%歴史を理解していないかもしれない。では観客の一人一人が完全に歴史を理解し、共通の認識をもっているだろうかと考えたときに、そういった懸念は十分承知の上で、思考を重ねてこの題材に取り組んでいるという演出家(ブルース・グラッドウィン)の言葉を目にし、その点信頼できる試みだと考えを改めることができた。
 過去の歴史的事実を前にして、斜に構えるでもなく自分たちの素直な心と体で向き合う。役者の個性や表現力を尊重しつつ、演出家はそれを最大限生かす努力をする。それこそ演劇のもつ健全な姿ではないだろうか。
 一旦上演されれば、その作品の評価は観客に委ねられる。それを四半世紀にわたって続けてきた彼らの果敢な取り組み、また、表立っては語られない様々な苦労やノウハウが報われるこうした素晴らしい作品との出会いは、私たちの心を豊かにしてくれると同時に、演劇の可能性をさらに押し広げてくれるものだろう。
(十二月八日観劇)

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二○一三年の一本  

◆green flowers第十二回公演 内藤裕子作・演出『かっぽれ!〜夏〜』 
落語家一門をめぐる大騒動の一幕劇は客席を幸福感で満たす。作り手の誠実な姿勢が確かに伝わった証左であり、自身の演劇への愛情を再確認させてくれる作品だ。(ビ)



◆『効率学のススメ』
視覚的にも魅力でしたが、音楽の効果にとても興味を持った作品です。幾何学的なイメージのタイトルとはほど遠い、そこにいる人物の生き方であったり、愛し方であったり、そういう人間的な部分に共感を覚えていきました。(C)



劇団昴公演 森新太郎演出『汚れた手』
六十年以上前のジャン=ポール・サルトルの戯曲だが、自分の居場所を見出せない青年の苦悩や葛藤が、現代に通じる物語として強く心に残りました。(万)



◆「一本」を選べず「一曲」。『ロックオペラ・モーツアルト』、山本耕史サリエリの「殺しのシンフォニー」。歌声とシーン全体がエンドレスで脳内リフレイン。モーツアルト役も良かったので同じダブルキャストで再演希望。(コン)

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