えびす組劇場見聞録:第48号(2015年1月発行)

第48号のおしながき


生身の人間が、観客と同じ空間でドラマを作る。そこで得た稀有な経験を伝えたいと、
今年も私たちは見聞録をお届けします。皆さんもぜひ劇場に足をお運びください。

演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
十一月新派公演
「京舞」
北條秀司 作
大橋正昭・成瀬芳一 演出
新橋演舞場
11/1〜11/25
カブキヤクシャノフシギ 〜中村勘九郎と市川春猿〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
第十八回みつわ会公演
「舵」
久保田万太郎 作
大橋正昭 演出
六行会ホール
12/9〜12/14
十月花形歌舞伎
「GOEMON」
水口一夫 作・演出 大阪松竹座
10/3〜10/27
誰の都合で? by コンスタンツェ・アンドウ
文学座
「シェイクスピア・リーディング」
3月〜11月 読むことのススメ by C・M・スペンサー
「ご臨終 吉原豊司 翻訳
ノゾエ征爾 演出
新国立劇場小劇場 THE PIT
11/5〜11/24
沈黙する瞳の思い by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ 二○一四年の一本 ○●○

  

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カブキヤクシャノフシギ 〜中村勘九郎と市川春猿〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 歌舞伎俳優には年齢や血縁、性別すら超越した特殊な演劇性があり、実に心地よく、しかも自然に、みる者を劇世界へいざなってくれます。昨年出会った二本の舞台について、しばしお付きあいのほど。
            ♪
 昨年十一月、劇団新派は十七代目中村勘三郎二十七回忌、十八代目勘三郎三回忌の追善と銘打った特別公演を行った。十八代目の息子たち、中村勘九郎と七之助きょうだいが初めて新派の公演に参加し、父や祖父ゆかりの演目『鶴八鶴次郎』(川口松太郎作 成瀬芳一演出)と『京舞』(北條秀司作 大場正昭、成瀬芳一演出)に出演したのである。
 『京舞』は京都の舞、井上流の物語だ。家元三代目井上八千代こと片山春子と、のちに四代目を継ぐ内弟子の愛子が人生のすべてを舞に賭ける歳月が描かれる。かつて十七代目勘三郎が春子役を熱望しながら病で叶わなかったこともあり、十八代目が「父の追善に『京舞』を」と企画を練っていたというから、中村屋にとってもことさらに思い入れの深い作品と言えよう。
 春子に水谷八重子、愛子に波乃久里子と、新派大看板の競演がみどころである。勘九郎は春子の孫で、愛子にとっては兄のような存在の片山博道役を勤めた。
 勘九郎が新内語りの鶴次郎、七之助がその相方の三味線弾き鶴八を演じ、丁々発止のやりとりや、思い合いながら添えない男女の悲哀を余すところなく描いた『鶴八鶴次郎』に比べると、博道役は出番も台詞もかくだんに少ない。春子と愛子が主軸であるから、どうみても脇の人物である。しかしその博道が、ことのほか心に沁み入るものを残したのだ。
 第一幕の終盤で、春子が自分の芸を愛子に託したいと考えていることが明かされる。嬉し涙にくれる愛子。「愛子と博道を夫婦に」という話も出るのだが、そちらには心が動かないらしい。それからあっというまに十八年が過ぎて第二幕、愛子は博道とちゃんと夫婦になっている。おそらく互いに恋愛感情はなく、家と芸のための政略結婚に近い。ならば文学座の『女の一生』のごとく、夫婦の確執や亀裂がと身を乗り出したが、何もなかった。
 勘九郎にとって久里子は父勘三郎の姉、つまり伯母である。甥っ子が伯母さんの夫役をするのだ。しかし師匠に叱責され、ご飯抜きで稽古する愛子に博道がパンを手渡す場面にはじまり、百歳を迎えた師匠を支える様子など、伯母と甥の夫婦に違和感はない。それどころか場面を重ねるごとにしっくりしてくる。
 とくによかったのは終幕である。第二幕からさらに二十年が経つ。三代目の死後、四代目を継いだ自身にも老いの影が迫ってきた愛子が来し方を振りかえり、「いつも静かな心で芸に打ち込んでいられたのはほんまにあんたはんのお蔭どす」と博道に感謝を伝える。彼は照れながら、愛子に見送られて会合に出かけていく。
 数十年に渡る二人の暮らしぶりは描かれない。それなのに愛子の台詞通り、優しく辛抱強い夫であったにちがいないと心から思えるのである。
 愛子と博道にも波風の立つ日々があっただろう。生まれ育ちのちがいは歴然としており、芸と家庭生活の両立もたやすくはなかったはず。終幕の淡々としたやりとりから想像される夫婦の春秋に、思わず胸が熱くなった。
博道は本筋に強く関わる人物ではない。しかしこの人あってこそ春子も愛子も精彩を放つ。舞台に奥行きが生まれ、味わいが深まる。年齢差と血縁を越えて、確かな手ごたえの劇世界が成立したのである(十一月十七日観劇)。
 もう一本は、歌舞伎俳優の市川春猿が客演したみつわ会公演の『舵』(久保田万太郎作 大場正昭演出)である。
 終戦から七〜八年経った三社祭のころ、浅草の袋物職人のうちが舞台である。春猿は証券会社の社長夫人におさまった一家の長女おしまを演じた。
 美しく着飾り、艶やかに結いあげた髪やあでやかな化粧からも羽振りの良さが伺えるが、話があると突然やってきて上の弟の不在に怒り、下の弟相手に泣いたり笑ったり、いささか情緒不安定だ。
 上の弟役の冷泉公裕は文学座出身、その妻役の大原真理子は演劇集団円に所属し、いずれも実年齢は春猿よりも年長だ。さらに末弟役の高.o.k.a.崎拓郎は年齢はともかく、「パフォーマンスとは破壊力」の理念のもとに活動する劇団開幕ペナントレースの俳優である。新劇と小劇場の俳優に加え、歌舞伎俳優の春猿が、それも女形としてともに舞台に立つのである。
 さすがに登場してしばらくのあいだは濃い化粧や女形の台詞の言いまわしが浮いている印象があった。男性が女性をつくるという、ある意味で不自然な造形で現代劇の俳優のなかに入り、日常のやりとりを自然に見せるには、歌舞伎の舞台とは別のむずかしさがあったと想像する。しかし題名の通り「心の舵の取れない」おしまの心のうちがかいま見られるにつれ、淡白な味わいに変容していった。俳優としてのベース、年齢の逆転、性のちがいを市川春猿は小気味よく吹き飛ばしたのだ(十二月十日観劇)。
           ♪
 自分は新派を代表する希代の名優・花柳章太郎の舞台をみることができませんでしたが、今回の中村勘九郎と市川春猿の向こうに花柳章太郎のすがたがみえるのでは?そんな期待を抱いて、今年はもっと新派に親しむことを目標にいたしました。

 

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誰の都合で?
コンスタンツェ・アンドウ
  スーパー歌舞伎、コクーン歌舞伎、野田歌舞伎。数々の舞台が「これは歌舞伎か?」と議論されたのは一昔前。最近はあまり取沙汰されなくなったが、久しぶりに「これは歌舞伎か?」と考えさせられる舞台に出会った。『GOEMON』(作・演出 水口一夫)である。二○一三年に同作品を見た友人から「なんか凄かった」と噂は聞いていたが、インパクトは想像以上だった。
 舞台には「GOEMON」の電飾と鉄骨組の装置、生演奏の室内楽が流れる。時は秀吉の世、カルデロン神父(今井翼)がミサを行う教会を石田局(上村吉弥)が訪れる。ジャニーズアイドルの想い人は還暦近い女方、映像では成立しないカップルだ。「美吉屋!」「ツバサ!」と大向こうが飛ぶ。
 日本人役は歌舞伎の扮装・化粧で、台詞は全体的に平明な時代劇調だが、カルデロンと石田局、二人の子・友市が別れる場面で生の義太夫が入る。吉弥と子役のたっぷりした「クドキ」に、途中から今井も加わる。真剣さが伝わり、健闘もしているが、「糸に乗った」芝居になってはいない。今井にやらせる必要があったのか、疑問を持った。
 盆が回ると突然フラメンコになる。父の祖国スペインを思う友市の心象風景らしいが、時代色はなく、現代のダンサー・佐藤浩希のステージをそのまま見ている感じだった。
 歌舞伎の『石田局』を復活した場面の後、父からバテレンの秘術を授かり、盗賊となった友市・石川五右衛門(片岡愛之助)が登場。秀吉(中村翫雀)にさらわれた出雲の阿国(中村壱太郎)を救出し、「葛籠抜け」の宙乗りに。髪が赤いこと以外、見た目はお馴染みなのだが、音楽はタンゴで照明キラキラ、まるで何かのアトラクションだ。
 めまぐるしく入れ替わる手法の多さと、それぞれの必要性について消化できないまま、休憩へ。大きな不満は、室内楽もフラメンコギターも生なのに、長唄が録音だったこと。歌舞伎と銘打って、それはないだろう…というのが正直な気持ちだった。
 二幕はスペインから。日本に思いをはせてフラメンコを踊る今井の姿は情熱的でスマートで美しく、もっと見たかった。
 五右衛門・名古屋山三(吉弥)・阿国の『鞘当』に続き、人気の落ちた阿国に、五右衛門が父仕込みのフラメンコを教える場面。少し照れくさそうに踊る五右衛門の前に、いつしかカルデロンの幻が現れて共に踊り、やがて消えてゆく。阿国はフラメンコを取り入れた舞を披露し、人気を取り戻す。ここの流れは大いに盛り上がり、楽しく見た。
 「絶景かな」の『山門』の前に、フラメンコのカンテ(歌)と大薩摩が交互に演奏する。どちらも弦楽器と生歌の激しいかけあいだが、個人的に、カンテは「直接的な感情のあらわれ」、大薩摩は「間接的な語り」という印象を持っており、その違いに気をとられて競演の意義や妙味を見出せなかった。
 一・二階客席を巻き込む歌舞伎風大立ち回りから、ドレス姿の女性達によるフラメンコ群舞、そして、再び五右衛門の宙乗りで幕となる。高らかに流れるクラシック調の音楽をバックにした五右衛門の台詞は、シェイクスピア劇の独白のようだった。
 今日、私は何を見にきて、何を見たんだろう?と戸惑いながら、太鼓ならぬ優しい洋楽に送り出され、劇場を後にした。
 『GOEMON』は、「和と洋のコラボレーション」をコンセプトとした「システィーナ歌舞伎」の第三作として二○一一年に徳島県・大谷国際美術館で初演。会場は、バチカンのシスティーナ礼拝堂を原寸大で再現したホールである。第一作から洋楽が用いられ、地元の演奏家や聖歌隊が出演し、舞踊劇的な内容だったようだが、『GOEMON』からは芝居の要素が強まり、歌舞伎役者以外の俳優も参加している。
 西洋文化そのものの空間の中では、おそらく、歌舞伎役者の方がアウェーだっただろう。五右衛門の宙乗りとミケランジェロの天井画を一度に見上げるのも、滅多にない体験である。そこでは確かに、名実ともに和と洋が拮抗しつつ融合し、そこでしか成立しない世界があったのかもしれない。
 二○一三・一四年の松竹座上演時には「和と洋のコラボレーション」という表現はなりをひそめる。歌舞伎のホームたる劇場で、歌舞伎であると明言されたがゆえに、さまざまな様式のパフォーマンスの強烈な交錯は、相乗効果よりも摩擦を生んだと思う。
 この舞台では、歌舞伎と歌舞伎以外の要素がイーブンであり、それを歌舞伎としてひとくくりにするのは、歌舞伎を盛り上げたい・歌舞伎の固定客を取り込みたい関係者の都合に過ぎないのではないだろうか。
 「今井翼が歌舞伎に挑戦」というフレーズをよく耳にしたが、それでは歌舞伎が上位に響く。「今井翼がフラメンコで歌舞伎と対決」の方がまだしっくりくるし、「十月花形歌舞伎」も、昔風だが「片岡愛之助錦秋公演 今井翼 特別参加」のような表現がふさわしいと思う。「歌舞伎」と主張するあまり、足を運んだ観客の困惑を誘い、ターゲットとなりうる人たちに情報が届かなかったのではないかと感じている。
 私はこの舞台を否定しているわけではない。振り返れば、出演者はみな魅力的で、アイディアも面白く、無茶苦茶で荒削りだが、気の抜けた芝居よりもよっぽど刺激的だった。東京で上演されればまた見に行きたいし、この文章を読んで興味を持った人がいれば、是非見てほしい。
 出演者たちが得意分野を生かし、全力でぶつかり合う舞台は無条件で楽しい。そんな舞台が多く生み出され、多くの人達が知り、大劇場の多くの客席が埋まるためには、誰かの都合にとらわれず、演劇を含むパフォーマンスの世界全体を見渡す視点からのアピールが必要なのではないだろうか。
(十月二十五日 観劇)

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読むことのススメ
C・M・スペンサー
 昨年はリーディング公演によく足を運んだ。それというのも劇団文学座が「シェイクスピア祭」と称し、一年を通じてシェイクスピア作品のリーディング公演を行っていたため、例年よりも多く接する機会があったからだ。文学座のリーディング公演の数は、なんと十九本。この他に本公演とアトリエ公演も例年どおり行われていたのだから、劇団員総出の一大イベントである。
 このうち七本観ることができた。そこでリーディングの上演が、演劇に興味を持ち、創作意欲のある者にとって、さらには観客にとっても、初めの一歩としていかに有意義で楽しめるものかを知った。
 リーディングとは、戯曲を読むだけのことだと思うだろうか。それでは長編作品では、幾分か退屈するかもしれない。文学座におけるリーディング公演の特徴は、全てに演出がついていることである。語る口調はもちろん、俳優が立って語る視覚的な演出のみならず、原作のどのエピソードを活かすかに至るまで、演出家が腕をふるうのである。配布された公演プログラムには、舞台美術、照明、舞台監督の名前が連なり、一作一作どれも見応えがあった。
 スケールが大きく意表を突かれたのは、所奏が演出の『真夏の夜の夢』。会場となる稽古場の扉が開け放たれたままの上演だった。付近には大学病院や片側二車線の道路もあり、車の往来の多い場所である。都会の喧騒を森の中で聴く虫の声に見立てたのか、俳優は開け放たれた扉から戸外に飛び出していった。扉のすき間から時折見える二組の恋人たちが叫びながら走る姿は、森を迷い歩く彼らの困惑ぶりを連想させた。さらに驚いたことに、俳優が手にする台本はスマートフォンだった。画面を指でスライドさせながら下を向いて話す姿は、現代の等身大の若者の姿を投影しているのか。一緒に行動していても互いの目を見て会話のできないその様は、彼らがうまく意思の疎通ができないのは妖精パックの仕業ばかりではないのだと、現実社会の風刺とも見て取れた。
 特徴をもう一つあげると、パックを演じる俳優だけが台本を手にすることなく彼らを見つめたまま自由に動きまわっていたことである。リーディング作品において、本来は本を手にしないことはルール違反であろう。しかし敢えて一人だけ本を持たないことで生じる異質性など効果の意味するところを考慮すれば、演出の賜物だと納得せざるを得ない。
 ところでこのリーディング公演は、新人演出家の活躍の場でもあった。最終作品の『あらし』(『テンペスト』の邦題)は、座員若手の的早孝起の演出である。彼は登場人物のほとんどを代わる代わる複数の俳優で演じさせた。中でもミランダは、一場面で一つの独白を三人の俳優が読んでいた。このミランダは、孤島で父親以外の人間に接したことの無い娘である。直面する問題には彼女自身で解決してきたことも多かったことだろう。三人で独白を読む姿は、彼女が自問自答しながら生きてきたことの象徴と見ることもできる。国を追われた前ミラノ大公プロスペローだけは一人の俳優が演じることで、彼が物語を支配し、その行方を達観しているように見えたのだった。
 舞台美術に言及すれば、今回のリーディング公演では大規模なセットが組まれることが無かった分、照明の占める役割は大きかった。台本を持って読む規制の、言わば足かせをはめられた状況から生じる表現のアイディアもあっただろう。観る側も想定外の演出には身を乗り出して物語の渦中にいた。称賛すべきは意表を突いたことではなく、それらの表現が作品の解釈を容易にしたことである。
 舞台上演の志を抱いているものの二の足を踏んでいる若き演劇人に、リーディングによる上演の挑戦をして欲しいものだ。観客も受け止めることに集中できるのがリーディング作品である。作品に寄り添い、両者ともそこからさらに世界が広がることを期待している。
 

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沈黙する瞳の思い
マーガレット伊万里
 新国立劇場の「二人芝居―対話する力」シリーズ第二弾『ご臨終』を観た。カナダの劇作家モーリス・パニッチの作品(翻訳・吉原豊司 演出・ノゾエ征爾)で、老婆と中年男の二人芝居と聞いて臨んだが、一人でしゃべりまくる中年男とほとんど口をきかない老婆とのアンバランスな対話にどうなることかと戸惑いながら見守ることになった。
 叔母本人から「年齢(とし)だ、もうじき死ぬ」との手紙を受け取った甥は三十年ぶりに叔母の家を訪れる。
 しかし、老婆(江波杏子)は自分で呼び寄せたくせに喜ぶでもなく、じーっと男(温水洋一)の顔を見つめたまま一言も口をきかない。
 老婆は一日をベッドで過ごすが、男の目を盗んでいそいそと買い物にでも出かけようとしたり、男のスーツケースを探ったり、どこか様子がおかしい。彼女には何か目的があるのか?
 男は不思議に思いながらも叔母と同居を始める。彼女のために食事を用意し、洗濯をする。もうじき死ぬと聞いてやってきたのだから、遺言や葬儀の準備をしようと一人まくしたてるが、叔母の反応はひどく鈍い。謎が謎を呼ぶ。
 この共同生活は結局一年以上も続く。季節が巡り、クリスマスを迎え、叔母から「メリークリスマス」の言葉とプレゼントが贈られたとき、男は大いに喜ぶ反面、叔母がなかなか死なないので、家に縛られている自分に苛立つ。しかし男の話にじっと耳を傾け続ける叔母の前で、次第に彼は幼い頃の不幸な出来事や人生について語りだす。
 男の父親は鬱病のマジシャンで、後に自殺。母親からのクリスマスプレゼントは家を出て行くためのスーツケースだったと話し、愛情に飢えている男の一面が浮かび上がる。
 事が大きく動くのは二幕目。
 男は叔母の家の住所を間違えており、実は赤の他人の家でずっと過ごしていたのだ。老婆が何も語らなかった理由がここで判明する。なぜひとこと言ってくれなかったのかと男が詰め寄る。老婆は言う。嬉しかったのだと。
 驚愕の事実である。ここまで観客を引っ張っておきながら、そんなのアリですか的な展開にしばし呆然とする。しかし結局、一度出て行った男は、老婆の家に戻って来る。ここから二人のやりとりは、これまでと全く違う意味合いをもってくるのだ。
 老婆には訪ねてくる者もいない、出かけていく所もない、孤独な一人暮らしだった。そこに人が入るのは果たして何年ぶりだったのだろう?男が間違って訪問しなければ、彼女は人知れず息を引き取っていたに違いない。いわゆる孤独死だ。
 老婆の長い沈黙に再び思いを馳せる。彼女に残された時間は限られている。このまま孤独を抱えて死を待つぐらいなら、突然やってきた訪問者に事実を伝えず、何を言われても黙りをきめこもうと。人の孤独の姿とはこんなにも切ない。
 男の実の叔母は向かいの家で甥がやって来るのを待ちながら先に死んでしまったが、男は老婆との生活を優先する。
 普通に考えればあり得ない設定ではないか。現代のおとぎ話といっていい。ただ、ひどく感傷に陥りそうなところを、既の所で踏ん張り、自然でやさしい心温まる作品に演出のノゾエ征爾は仕上げている。
 とうとう老婆に最後の時がやってくる。男は彼女の遺骨を植木鉢に入れ、彼女がなりたいと言っていたアマリリスの球根を植える。球根から清らかな緑の芽が出たとき、彼の心に新しい人生のページが開くのだ。
 誰もが避けては通れぬ死という厳しい現実。しかし、彼女は彼の心に明かりを灯し、その後の人生を照らす。そして彼女も死の直前まで彼という希望の存在によって命を燃やすことができた。
 老いや介護をテーマとしながら、ユーモアを交えて人間が生きるということをしみじみ感じさせてくれる。
 江波杏子演じる老婆はセリフがほとんどないにもかかわらず、もの言わぬ大きな瞳の演技が秀逸。温水も持ち味を発揮して不器用で冴えない中年男を好演している。彼のとぼけた明るさにより、静かな感動を生んでいる。
 思ってもみない縁で出会ったものの、心を通わせようとした二人の関係は、来るべき時が来て一旦終わりを迎える。そのとき男は、二人の名残惜しい時間を慈しむようにして、老女の手に握らせたブラシで自分の(男の)髪をとかす。
 男は言う。みんなが同時に臨終してしまえばよいのに。そうすれば人の死を見なくて済むのにと。男と老婆の姿は、人間の心の交流は血がつながっているとかいないとかに関係なく成立するということを十分に示す。それは今の日本が抱える老いや介護の問題に通じるし、人は一人では決して生きていけない生き物だということ。
 人は人に寄り添い、つながっていく。気配や、視線や、表情だったり、時には言葉を超えた多くのものを人の心に与え生きる力になる。
 相手を失った寂しさは、一人ぼっちには与えられない。その思いがあるから、人はまた前を向いて歩いていける。
(十一月二十二日観劇)

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二○一四年の一本  

スタジオソルト第十八回公演 椎名泉水作・演出『柚木朋子の結婚』。秋の鎌倉・由比ヶ浜の古民家で週末だけ行われた公演は、ダブルキャストの女優を迎えて異なる味わいをみせた。大好きな劇団の久しぶりの舞台が嬉しい。(ビ)



十一月歌舞伎座『勧進帳』、市川染五郎初役の弁慶。その初日は、期待と緊張、驚きと喜びに満ち、客席から舞台へ、舞台から客席へ、双方向で熱い思いが通いあっていた。見続けていて本当に良かった、と心から思えた瞬間。(コン)



◆九月の風琴工房『わが友ヒットラー』。三島作品を詩森ろばの演出で上演。会場は渋谷のクラブ、トランプルーム。至近距離で登場人物が思惑を探る様を目の当たりに。後が無い人間の必死の所業が忘れられない。(C)



◆十月の天王洲銀河劇場『奇跡の人』。二十歳のサリバンがもつ若さゆえの情熱と不安が、演じる木南晴夏の全身から感じられとても印象的。わかっていても、クライマックスに及ぶと自然と涙が溢れました。(万)

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