えびす組劇場見聞録:第51号(2015年1月発行)

第51号のおしながき


新しい年が始まりました。今号は、観劇歴が長い私たちの「新たな気付き」について。
人生がちょっと豊かになる観劇に、今年もどうぞお付き合いください。


演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
劇団肋骨蜜柑同好会meets CLASSICS No.1
「恋の手本〜曾根崎心中〜」
近松門左衛門 原作 
笹瀬川咲 企画・原案
フジタタイセイ 構成・演出
pit北/区域
2015. 12/9〜12/13
恋に手本はいらない〜劇団肋骨蜜柑同好会のリア充〜 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「カッコーの巣の上で」 ケン・キージー 原作
河原雅彦 上演台本・演出
東京芸術劇場 プレイハウス
2014. 7/5〜8/3
優しき女優の熱き闘い−神野三鈴の四本− by コンスタンツェ・アンドウ
「三人姉妹」 アントン・チェーホフ 作
ケラリーノ・サンドロヴィッチ 演出
シアターコクーン
2015. 2/7〜3/1
「メアリー・ステュアート」 ダーチャ・マライーニ 作
マックス・ウェブスター 演出
PARCO劇場
2015. 6/13〜7/5
「タンゴ・冬の終わりに」 清水邦夫 作
行定 勲 演出
PARCO劇場
2015. 9/5〜9/27
「パッション スティーブン・ソンドハイム 作詞・作曲
ジェームス・ラパイン 台本
宮田慶子 演出
新国立劇場 中劇場
2015. 10/16〜11/8
わかりやすいだけが愛じゃない by マーガレット伊万里
あとがき ○●○ 二○一五年の一本 ○●○

  

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恋に手本はいらない〜劇団肋骨蜜柑同好会のリア充〜
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 この意味不明な名を持つ劇団と出会ったのは秋のこと。都営三田線板橋区役所前駅から徒歩五分の演劇フリースペース・サブテレニアンで開催された「板橋ビューネ2015」であった。このフェスティバルは、既存の古典戯曲から「新しい解釈・演技・演出によって古典の魅力を引き出すこと」(パンフレット掲載)を目的とするものだ。
 演技スペースを客席が二方向からはさむサブテレニアンの構造は、まさに演技者と観客が膝を突き合わせるごとく、親密な空間を生み出す。ギリシャ悲劇ありフランス現代劇あり、六つの劇団による舞台は、実に多彩で刺激的であった。
 なかでもひときわ異彩を放っていたのがフジタタイセイが作・演出・出演をつとめる劇団肋骨蜜柑同好会(以下肋骨蜜柑)である。筑波大学の劇団SONICBOOMの卒業生を中心に結成された肋骨蜜柑は、二〇一〇年夏に第一回公演『レインコートの悪魔』を同じサブテレニアンで行い、「楽しいことをしよう。面白いことをしよう。舞台の上で、全力で遊ぶ、常識無用の演劇集団」(公式サイト)を謳う。
 取り上げたのは坂口安吾の小説『散る日本』で、坂口自身と思われる「私」が将棋の名人とその挑戦者の対局の模様をことこまかに実況するものだ。
 将棋の対局といえば、両者が向き合って黙々と行い、関係者が息をつめてそれを見守るというイメージがある。
 しかしこの舞台は、「私」が駒の動きを逐一せわしなく読みあげるだけでなく、棋士の表情の変化や独りごとまで、あたかもリーディング公演のト書き担当の俳優のごとく克明、執拗に語りつづけるのである。ふたりの棋士は自分の一手のたびに将棋盤に乗ったり降りたり、あいだに他の人物を演じるところもあって、汗だくの大熱演。ほとんどアクションものと言ってもいいくらいだ。
 この手法が原作に対して適切なのか、そもそもなぜ『散る日本』なのかなどと疑問はあったものの、あまりの破天荒ぶりにあっけにとられ、何の予備知識もなく突如出会った劇団の舞台が強烈に焼きついたのである。
 そして二カ月後、今度は劇団の本公演である。地下鉄王子駅から地上に上がってすぐのpit北/区域には、入口から階段、通路、そして舞台の壁にも、今回の上演タイトル「恋の手本」はじめ、劇中の台詞などを毛筆で書いた紙がたくさん貼られている。左端には出演俳優の名が細字で書かれており、朱の直しも入って、まるで教室に貼られたお習字の作品集だ。
 舞台には紅白の鉄骨と布を組み合わせた不思議なオブジェと、巨大な脚立が置かれている。上演台本によれば、このオブジェは「三組の連理の枝」だそうで、一階と二階が吹き抜けで、客席が舞台正面と片側の二面であるpit北/区域の特殊な構造を活かした舞台美術であるといえよう。
 フジタ自身が演じる黒子に続いて、三組の若い男女が登場、黒子の司会で「今までいちばん燃え上がった恋は?」のテーマでそれぞれの恋バナがはじまる。高校時代、教育実習生を好きになった、専門学校の同級生とつきあったなどという話だが、いずれも「いちばん燃え上がった恋」にまったく聞こえないのである。相手のどこに惹かれたかという黒子の問いに対しても、あたりさわりのない感想ばかりだ。
 一向に盛り上がらないまま、彼らはいったん退場して着替え(しかしやはり現代の服装のままである)、それぞれ徳兵衛ABC、お初ABCとして再登場し、黒子から心中用の縄と脇差、懐中電灯を渡されて、近松の「曾根崎心中」を演じはじめる。
 台詞はほとんど原作のままと思われ、歌舞伎や文楽の心得がなければ理解しにくい点は否めない。彼らはときおり独白のように徳兵衛やお初の心象を語ったり、現代の若者の恋愛に戻って、江戸時代の若者たちの恋について考えること、自分の恋についての逡巡をつぶやいたりする。
 このように三組の徳兵衛とお初がめまぐるしく出入りし、ときには別の役を演じながら、黒子が演じる悪役の九平次に追い詰められて、ついに心中の道行となる。
 連理の枝のもとで、徳兵衛ABCはそれぞれ脇差でお初ABCを刺し、息も絶えだえになりながら、激しいくちづけを交わす。照明が落ちたところにサザンオールスターズの「恋のジャック・ナイフ」がぶつかるように流れ、明転した舞台にはもう誰もいない。
 俳優たちはそれぞれ自分の名を書いたお習字を高く掲げて登場し、怒濤のようなカーテンコールになだれ込む。この狂おしい恋物語の終幕の清々しさに、思わず前のめりになるほどであった。
 古典戯曲や小説など、既存の作品を時代や場所を現代に置き換えたり、物語の枠組みだけを借り、ほぼオリジナルに近い舞台にする試みは珍しくない。しかし肋骨蜜柑の舞台は、まさに肋骨蜜柑版、フジタタイセイの劇世界というものが展開しており、俳句で言うところの類句類想を見ないものなのである。
 原作を前面に出しており、自己主張はむしろ控えめである。にもかかわらず、最後には江戸の昔と現代の時間と空間の隔たりを突破した。
 「リア充」ということばが思い浮かぶ。ネット上のつきあいではなく、実際の現実の生活が充実していること、すなわち友だちや恋人に恵まれて、充実していることだ。冒頭の若者たちの恋バナは、拍子抜けするくらい淡白で凡庸であった。ネットの話題は出なかったが、彼らは生身の相手と向き合い、ぶつかりあう濃厚で強烈な人間関係を持ち得ていない。つまりリア充ではないと思われる。
 言いかえればもし彼らがリア充ならば、恋愛講座に出たり、お芝居で恋物語を演じたりなどしないのではないか。
 芝居という手本があれば、素直に従って恋愛をし、心中さえしてしまう。けれども舞台がはねたあと、若者たちはそれぞれの恋をどう生きていくのか。内には熱いものを秘めているのかもしれないが、劇中わずかにつぶやかれる彼ら自身のことばからも多くを想像することはむずかしい。
 現代の若者たちのほんとうの顔が見えてこない、あるいは敢えて見せないことに、今回の舞台の狙いがあるとも考えられる。
 フジタタイセイは、最初はもの柔らかに若者たちを導きながら、最後は冷徹に突き放す。現実の恋愛に手本はないのだ。命がけで恋して愛して、死ぬまで生き抜いてみろと。

(十二月十日観劇) 

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優しき女優の熱き闘い−神野三鈴の四本−
コンスタンツェ・アンドウ
 女優・神野三鈴。優しい名前だ。私が彼女に抱いていたイメージも、「優しげ」「控えめだけど芯が強い」「折り目正しい」等で、名前の響きに似ている。一方で、芝居に安心感があるけれど、地味で、強いインパクトが残らない、というのも正直な印象だった。
 それを百八十度覆したのが、『カッコーの巣の上で』(二○一四年七月 東京芸術劇場 原作:ケン・キージー 上演台本・演出:河原雅彦)である。観劇の動機は男性キャストで、映画を見ていないためストーリーは知らないまま、そして、失礼ながら彼女のことはあまり意識しないまま劇場へ向かった。
 舞台は精神病院。小栗旬演じるマクマーフィは、刑務所での重労働から逃れるために精神病を装って入院するが、病院のしきたりや患者の扱われ方に反発し、神野演じるラチェッド婦長とことごとく対立する。ラチェッドは、院内で絶対的な権力を持つ支配者で、自分に逆らう者は許さない。私が神野に抱いていたイメージとは正反対の役柄なのだが、冷徹さや嫌らしさを見事に表現し、目が離せなくなった。あの小さな体から発せられるとは思えないような激しいパワーで、一筋縄ではいかない男たち(医師役の吉田鋼太郎、患者役の小栗・藤木孝・武田真治等)に一人で向き合い、追い詰めていく様は感動的ですらあった。ラチェッドが患者のことを呼ぶ「ボーイズ・・・」というねっとりとした声が、怖くて今も忘れられない。
 カーテンコール。少し上気した彼女の笑顔に、安堵感のようなものがにじむ。まさに全身全霊で演じきったのだろう。私は心からの拍手を送った。
 次に彼女を見たのは、約半年後の『三人姉妹』(二○一五年二月 シアターコクーン 作:アントン・チェーホフ 演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)。観劇の動機は例によって男性キャストで、『カッコー・・・』で感動したにもかかわらず、ナターシャ役で彼女が登場するまで出演していることすら忘れているという始末だった。
 有名な『三人姉妹』、内容は知っているつもりだったが、ナターシャという人物について記憶がない。どんな役かと思えば・・・プローゾロフ家の長男に嫁いだ田舎娘で、家のしきたりや自分の扱われ方に反発し、三人姉妹とことごとく対立する。立場は『カッコー・・・』のマクマーフィのようだが、ナターシャは負けない。一筋縄ではいかない女たち(余貴美子、宮沢りえ、蒼井優)に一人で向き合い、他人を傷付けてでも意志を貫こうとする姿から、病院の実権を握るまでのラチェッド婦長を想像してしまった。そして私は、夢見がちな三人姉妹よりも、現実的なナターシャに強いシンパシーを覚えたのである。
 この二本を通じ、「神野三鈴」は「闘う女優」として、私の観客生活の中で重要な存在になった。
 続く三本目は女性の二人芝居『メアリー・ステュアート』(二○一五年六月 PARCO劇場 作:ダーチャ・マライーニ 演出:マックス・ウェブスター)。一九九〇年に、白石加代子・麻実れいの組合せで見た際にあまり面白さを感じなかったので、かなり迷った。迷った結果、エリザベス一世(神野)とメアリー・ステュアート(中谷美紀)が闘う姿を見るために、チケットを取った。今度こそ、観劇の動機は彼女だ。
 これまでは神野対複数の敵、今回はサシの勝負。二人はそれぞれ、メアリーの乳母とエリザベスの侍女も演じ分ける。舞台経験上は神野が優位だが、中谷も予想外の健闘で(ラストシーンの美しさは絶品)、演技面での闘いはなかなか見応えがあった。
 ただ、作品としては、前回同様、面白さを感じられなかった。演出家が変わり、自分自身も年を重ねたことで、受けとめ方が変わるかと期待していたが・・・残念である。
 四本目は『タンゴ・冬の終わりに』(二○一五年九月 PARCO劇場 作:清水邦夫 演出:行定勲)。蜷川幸雄演出の一九八四年版と二○○六年版を見ており、とても好きな作品だったので、演出家が変わることに不安を抱き、見るかどうか少し迷った。しかし、ここでも、神野の出演が観劇の決め手となった。演じるのは主役・清村盛(三上博史)の妻・ぎん。この役は、清水が妻の松本典子にあてて書いたもので、〇六年版では秋山菜津子が演じた。二人とも「硬質でかっこいい女優さん」(松本が秋山に対して使った表現を拝借)。少し前だったら、神野にぎん役が回ってきたことを疑問に思ったかもしれないが、その点に迷いはなかった。彼女も充分に硬質でかっこいいのだ。
 ぎんは、心を病んだ盛に寄り添って守りながら盛の狂気と闘い、自らが立てた、自らを傷つける計画と闘う。松本や秋山はキツさが立ち、そこに悲しみが映るようだったが、意外にも、神野のぎんは「ソフトタッチ」。優しい人物になった、という意味ではなく、柔らかな雰囲気の中に、澱んだ闇を抱えているようだった。もっとハードに演じることもできたと思うが、演出家の意向なのだろう。この点も含め、作品全体がやや甘めな印象になったが、最終的に私は三度めの『タンゴ・・・』を愛することができた。見逃さずにすんだのは、彼女のおかげである。
 『カッコー・・・』以降、神野が出演した映像作品をいくつか見た。テレビドラマ『おやじの背中 第四話 母の秘密』では活動家の夫に黙って仕え、映画『駆込み女と駆出し男』では縁切寺の中で想像妊娠騒動を起こし、映画『日本のいちばん長い日』では、軍人の妻として家を守る。どれも「たまたま彼女が出ていた」のだが、彼女の仕事をほぼ網羅したことになり、何かの「縁」と思えてくる。
 「この人はこんな人」という思い込みが変わる瞬間はスリリングだ。女優に対しては初めての体験かもしれない。私が神野に抱いていたイメージは、『日本の・・・』で描かれていた、良き妻・優しい母に通じるものだった。それが逆転し、「闘う女優」として定着した今、あえて、かつてのイメージ通りの役を舞台で見てみたい。きっと、とても似合うはず。

プチ回顧二○一五
                 
☆スーパー歌舞伎U『ワンピース』☆ 
見る前の不安はどこへやら、想定外の面白さ。しかし、稽古プラス東京・大阪・博多の公演で、出演者は約半年かかりきり。もっと歌舞伎へ出てほしい人たちなのに・・・。これは、三代目猿之助のスーパー歌舞伎でも感じたこと。再演・続編も視野にあるとは思うが、歌舞伎とのバランスを考えてほしいところ。
☆映画『ギャラクシー街道』☆ 
『ラヂオの時間』では、ぎっしり満員の客席がドカドカ沸いて、「黄金期の映画館は、こんなだったのかも」みたいに思ってちょっと感動したのだが・・・これは・・・。「結果にコミットした慎吾を大画面で見る」という目的に絞って臨んだ私ですら、楽しめず。三谷さん、本当に納得して作ったの?
☆最大の失敗☆ 
観劇日を一週間まちがえて空席にした挙句(ごめんなさい)、完売のためその舞台は見れず(ショック)。二○一六年は、毎週日曜に全ての手持ちチケットを出して確認しよう。

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わかりやすいだけが愛じゃない
マーガレット伊万里
 恍惚とした表情の男女の姿。官能的なちらしのビジュアルだ。ミュージカル界の貴公子・井上芳雄が主演となれば、追加公演もあっと言う間に完売し、チケットは争奪戦。ミュージカル『パッション』の日本初演だ。客席はほとんど女性で、のっけから井上ファンの期待を裏切らない(?)大人のシーンから始まった。
 一九九四年にブロードウェイ初演の『パッション』は、イタリア映画「パッション・ダモーレ」(一九八〇年)をもとにミュージカル界の巨匠スティーブン・ソンドハイム作詞・作曲、ジェームス・ラパイン台本による制作。その年のトニー賞四部門を受賞した。さらに言えば、映画は百年以上前に書かれたイタリアの小説「フォスカ」がもとになっている。
 新国立劇場制作のミュージカルを見るのは初めてだ。日頃セリフ劇を中心に手がけている芸術監督・宮田慶子がブロードウェイ・ミュージカルまで手がけるのかと思ったが、すでに『三文オペラ』の実績がある。『パッション』は、歌やダンスが先行する類いのミュージカルではない。登場人物の感情に緻密によりそうような楽曲の特徴からすると、正解なのかもしれない。
 舞台は十九世紀のイタリア・ミラノ。美しいクララ(和音美桜)との恋に夢中な軍人ジョルジオ(井上芳雄)が、辺鄙な田舎に異動を命ぜられる。恋人と離ればなれになった彼は、その土地で、上官リッチ大佐(福井貴一)のいとこ、フォスカ(シルビア・グラブ)の執拗な求愛に合う。
 このフォスカがとても個性的な人物だ。彼女はもう一人のヒロインながら、容姿は醜く陰鬱な表情、病気を患っている。しかし、自分のプライドなどかなぐり捨てて、一途な想いをジョルジオにぶつけるのだ。彼女はジョルジオに激しく拒絶されながらも、決してあきらめない。相手にしてみれば迷惑きわまりない存在で、まるでストーカーのよう。物語の前半、彼女の姿はひたすら不気味な印象で、恐怖の存在としか映らない。こんな女性が、洗練されたエリート軍人で、フォスカとはまるで正反対の美しい恋人がいる男性を振り向かせることができるとはとても想像できない。
 読書の話題から二人の距離が少し近づくかと思えば、ジョルジオは休暇をとって恋人の元へかけつける。そんな彼の行動に傷つきながらも、フォスカは自分の気持ちを捨てはしない。
 これはいったいなんなのだろう。ジョルジオを深く愛するということを信じて疑わない彼女の姿はしだいに神々しい雰囲気すら帯びて来るのだ。
 さらに自分の気持ちを真っ直ぐに伝えることに長けている。彼に嫌われようと気持ち悪がられようと関係ない。ジョルジオへの揺るぎない気持ちを全身全霊で表すその姿には心を打たれるほど。これこそが人間の美しい姿であるとさえ思えてくる。
 しかし、ここから物語が大きく動く。ジョルジオは、クララと手紙のやりとりで気持ちをつなぐも、恋しい彼女は実は人妻であることが観客に明かされる。ジョルジオはクララに離婚してほしいと告げるが、息子が学校に上がるまで離婚はできないと断られる。男は雷に打たれたようにフォスカの名を叫び、彼女の存在の大きさ、彼女こそが真実の愛だと悟る。一見、不可解な愛のあり方である。
 この展開がアリかナシかと問われれば、それはないでしょうと、つっこみを入れたくなる。クララとフォスカは太陽と月のように対照的な女性である。月といえば美しいが、あれほどフォスカのことを拒んできたジョルジオが人妻に振られた寂しさからフォスカにのりかえるというのは無理があるのでは?と感じるのがふつうだろう。ただ、もしかしたら?と想像したくなるのが演劇を見る楽しみでもある。
 ありそうな三角関係も、彼らの心の動きや行動をつぶさに見せられると、そこには新鮮な人間の姿が浮かび上がってくる。複雑な音楽に乗せたせりふと、役者の歌のすばらしさとの相乗効果で、息詰るようなドラマとなり、深い余韻を残す仕上がりとなっていた。
 それは、主要人物それぞれが自分の愛を歌い幕が下りた後も、観客の心に問いかけてくる。あなたの「愛」はどうですか?と。
 ミュージカルだと、つい音楽のメロディーばかりに気を取られがちだが、役者の発する歌詞が非常に粒だっていて、観客の胸にしっかりと刻み込まれる。
 パンフレットにあるスタッフの鼎談でも、優れた楽曲に感心している様子や、その歌の難易度の高さについて語っているのを目にすると、役者の苦労はいかばかりかと思いを馳せるとともに、主要三人の技術の高さを思い知る。
 フォスカに懇願されて書いた嘘の手紙がリッチ大佐に見つかり、ジョルジオは決闘をせまられる。決闘前夜、フォスカの寝室を訪れたジョルジオは彼女への愛を口にし、受け入れる。翌朝の決闘で二人は命助かるものの、フォスカは亡くなる。
 フォスカは過去に不幸な結婚で心に深い傷を受けていた。そのつらい経験があったからこそ、さらに深い愛を知った彼女の最後は満ち足りたものとなった。そしてジョルジオも真実の愛を知った喜びに満たされてこの物語は終わる。
 人間が不完全だから人を愛するのか、不完全な愛だからこそ人は燃え上がるのか、愛することについて、思考を巡らせてくれる作品である。もともとは、アモーレ(愛)の国、イタリアで生まれたお話。日本の女子は学ぶべき点があるのかもしれません。
(十月三十一日観劇)

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二○一五年の一本  

パラドックス定数公演 野木萌葱作・演出『東京裁判』 秋の俳優座劇場では広い空間にも年配者の多い客層にも動じることなく、年末はpit北/区域閉館公演で有終の美を飾った。新たな劇場との出会いを祈念している。(ビ)



◆半信半疑で出かけた一人芝居の『シンベリン』(楠美津香ひとりシェイクスピア)。上演時間約三時間、登場人物も戯曲も、おそらくほとんどカット無し。シェイクスピア劇全レパートリーを既に制覇したそうです。必見の一人芝居、百聞は一見に如かず。(今号はお休みしました)(C)



◆ゾンビオペラ『死の舞踏』(フェスティバル/トーキョー) コンピュータを使ってリコーダーなどの楽器を自動演奏するゾンビ音楽によるオペラの試み。人の息づかいとは違う制御されない音楽の心地悪さと、生身の人間がふいごを動かす光景との対比は見世物小屋的な禍々しさを醸し出し、忘れたくても忘れられない刺激的な一夜となった。(万)

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