えびす組劇場見聞録:第57号(2017年1月発行)

第57号のおしながき


えびす組結成から早や二十年。紆余曲折の人生ですが、劇場通いだけはやめられない。
演劇は人生の宝です。今年もがんばります!


演劇作品タイトル 作・演出 上演情報 劇評タイトル 執筆者
ビニヰルテアタア第十回公演
「楽屋 流れ去るものはやがてなつかしき
清水邦夫 作
鳥山昌克 演出
雑司ヶ谷・みみずく会館
2017/11/21〜12/3
唐十郎と『楽屋』 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
芸術祭十月大歌舞伎
極付印度伝「マハーバーラタ戦記
青木 豪 脚本
宮城 聰 演出
歌舞伎座
2017/10/1〜25
さまざまな空間で by コンスタンツェ・アンドウ
無名塾
「肝っ玉おっ母と子供たち
ブレヒト 作
隆 巴 演出
能登演劇堂
2017/10/14〜11/12
唖娘カトリンの叫び by C・M・スペンサー
文学座12月アトリエの会
「鳩に水をやる」
ノゾエ征爾 作
生田みゆき 演出
文学座アトリエ
2017/12/7〜21
老いる豊かさとおかしみと by マーガレット伊万里

二○一七年の一本

  

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唐十郎と『楽屋』
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  ここ数年になって、ようやく、唐十郎の劇世界に触れるようになった。若いころ状況劇場の紅テントへ一度行ったきり、気後れして近づけなかったのだ。
  戯曲を読むと、ト書きや登場人物名の表記からしておもしろい。例えば『夜壺』冒頭、「見舞い客」として登場した人物が、しばらくして相手から「織江さん」と名を呼ばれると、ト書きに「という名であった」と書かれていたりする。戯曲を読んだ者だけが味わえる密やかな楽しみであり、劇作家がすぐとなりで物語を書いており、一緒に冒険をしているかのような親しみと期待が湧くのである。
  一方台詞は非常に緻密な構造を持ち、人物や物語の情報を少しずつ示しながら新しい謎の種も蒔き、読む者をじわじわと劇世界に絡めとっていく。
  戯曲を目で読むと、次は耳で聞きたくなるもので、まさにチャンス到来、劇団唐組第六十回公演『動物園が消える日』(唐十郎作 久保井研+唐十郎演出)関連イベントとして、猿楽通り沿い特設紅テント内で行われた本作の朗読ワークショップを見学する機会があった。
  講師は座長代行の演出・久保井研である。久保井は参加者に役を割り振って読み進めては区切り、「ここまでで何がわかったか」、「この人物はどんな背景を持っていそうか」と質問しながら、参加者の答をもとに、また元に戻って台詞のやりとりを丁寧に繰り返す。
  紅テントと言えば、新劇の向こうを張ったアングラ演劇である。役者たちが激しくぶつかり合い、火花を散らすという強烈なイメージがあるが、意外なほど「座学」的で、戯曲への向き合い方は、むしろ新劇系劇団の読み合わせを想起させる。学生時代に俳優としてイプセンや三好十郎作品に取り組み、卒業後青年芸術劇場(青芸)で修業した唐の演劇の原型の表出でもあり、台詞の意味や劇作家の意図をしっかりと心身に落とし込み、生きたことばとして客席に届けるのが唐組の芝居作りと察せられた。
  さらに、「唐戯曲を演じるとき、ほかの劇作家の作品とどんな違いがあるか」という質問に対し、「唐さんの戯曲だから特にこうする、といったことはない」という久保井の答を考えてみると、ワークショップで行われたことは、決して新劇の亜流でも唐戯曲に特化したものでもなく、さまざまな戯曲に対して有効で、実にニュートラルな方法であると思われる。
  さて今回のお題は、ビニヰルテアタア第十回公演、清水邦夫作、鳥山昌克演出の『楽屋』である。一昨年秋に浅草橋のルーサイトギャラリーで初演され、早々に再演の運びとなったものだ。
  ビニヰルテアタアは、かつて劇団唐組の女優であった千絵ノムラが主宰するユニットである。二〇一二年に旗揚げし、千絵自身の作・演出の作品の上演を中心に活動する。副主宰の目黒杏理は、状況劇場を巣立った金守珍がアングラ演劇の継承を掲げて躍進する劇団・新宿梁山泊(以下梁山泊)の出身だ。
  演出の鳥山はかつて唐組の中心的俳優であり、千絵とは「唐十郎という現象を一時期、右と左から観察していた仲間」(当日リーフレット)である。さらに『かもめ』のニーナ役に執念を燃やす中年女優C役の近藤結宥花は梁山泊の旗揚げから参加し、二〇〇〇年代の数年間、唐組に客演の経歴を持つ。戦争で顔に生々しい傷を負った女優A役の沖中咲子も梁山泊の出身だ。若手女優D役の大鶴美仁音は唐十郎の長女、初演で女優Aを演じた多田亜由美は元唐組の女優と、直接間接の違いはあれ、初演再演ともに、不世出の演劇人唐十郎とその戯曲とに濃厚な交わりを持つ俳優たちによる座組なのである。
  当日リーフレットに掲載された演出の鳥山、主宰の千絵の挨拶文は淡々としたことばのなかに、唐十郎との馥郁たる日々の実感が滲み出て、まことに味わい深い。単なるノスタルジーや裏話ではなく、紆余曲折を経て『楽屋』に至った感慨を噛みしめながら、四人の女優と戯曲との闘いに、観客を迎え入れんとしているのだ。
  そこにはかつて互いに火を噴くように激しくぶつかり合った交わりから少し時間と距離を置いた柔らかみがある。
  『楽屋』は初演から四十年を経て、さまざまな座組で上演が続いている戯曲である。自分自身も何度か観劇するうち、目の前で展開する『楽屋』以前の数多の舞台に思いを馳せ、同時にこれから演じられるであろう無数の『楽屋』を夢想する幸福を感じるようになった。
  ビニヰルテアタアの『楽屋』から密やかに香り立ち、漂ってくるのは彼と彼女たちの演劇の父である唐十郎と、その劇世界の匂いと皮膚感覚。そう、紅テントの遅れてきた観客である自分は『楽屋』を通して、唐十郎を感じ取ろうとしているのである。
(十一月二十五日観劇) 

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さまざまな空間で
コンスタンツェ・アンドウ
  ある年齢以上の演劇ファンにとって『マハーバーラタ』といえば、演出家ピーター・ブルック。一九八八年、今はなき銀座セゾン劇場で上演された九時間の長編は見られなかったが、このインド叙事詩の名は、巨匠の名と共に私の脳裏に刻まれた。
  初めて物語に触れたのは、二○○三年、宮城聰主宰のク・ナウカの公演。東京国立博物館東洋館地下、天井の低い空間で、膝を抱えるようにして見つめた舞台は、主人公ナラ王と共に異世界を漂うような体験だった。美加里の得も言われぬ佇まい、阿部一徳の力強い語り、白い衣装、エキゾチックな音楽、観客の頭上にまかれる花びら・・・今も美しく心に残っている。
  それから何度かク・ナウカに通い、宮城の静岡舞台芸術センター(SPAC)芸術総監督就任後は、時折、静岡にも足を伸ばすようになり、二○一二年、野外劇場・有度で『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険』と再会。初演の、息詰まるような濃密な世界とは大きく異なり、本物の風がそよぎ、木々が空へと繋がる開放的な空間で、より祝祭的な色を強めた舞台となった。
  二○一五年、思いがけなく、ピーター・ブルック(九○歳!)版が来日した。タイトルは『バトルフィールド』、再演ではなく続編だ。他のブルック演出作品は何本か見てきたが、やはり『マハーバーラタ』は外せない。上演時間七十分、出演者四名、演奏者一名。限りなくそぎ落とされた土色の空間で、戦争と、戦争を経た人間たちが描かれる。私は、四半世紀以上続いた欠落が埋められたような、自己満足に似た気持ちで新国立劇場を後にした。
  更に思いかげなく『マハーバーラタ』が歌舞伎座で上演されるとの報が。二○一四年、神奈川芸術劇場でのSPAC公演を見た菊之助の希望で実現したとのこと。
  宮城が自作に取り入れた伝統芸能的な演出を、改めて歌舞伎役者がやるのか?日本に置き換えるのか?昼の部まるまるの時間に耐えうるか?等々、疑問や不安があったが、『マハーバーラタ戦記』は、完成度が高く、趣向に富んだ、歌舞伎として楽しめる大作に仕上がっていた。
  華やかな極彩色が、歌舞伎座の絵巻物的な空間に満ち溢れる。序幕と終幕に居並ぶ金ぴかの神々達はなかなかの迫力で、下世話だが、全体的にお金をかけた様子が伺える。「ちゃち」と感じさせないため、かなり努力と工夫をしたのだろう。
  役名はインド風のままながら、衣装や化粧に歌舞伎らしさを生かし、歌舞伎の役柄が勢揃い。舞踊や立ち回りのエッセンスもきっちり押さえている。
  後半、菊之助と松也が一人乗りの馬車で両花道から登場し、本舞台を駆け回って戦うシーンでは、かつてないスピード感に目を奪われた。当然のごとく馬は人間、中の人にMVPを差し上げたい。
  宮城演出の特徴である、スピーカー(語り手)とムーバー(演者)を分ける手法は取られず、音楽面では、SPACがガムランを演奏し、長唄や竹本と不協和音を起こすことなく、新鮮な響きを添えた。
  平成の新作ブーム(勝手に命名)初期は、書下ろしやアレンジが中心だったが、二○一五年『阿弖流為』・二○一七年『野田版 桜の森の満開の下』は、外部の作家・演出家の代表作を、歌舞伎役者だけで演じたという印象だった。なんでも飲み込んでしまう歌舞伎の胃袋が頼もしくもまた恐ろしくもあり、宮城版『マハーバーラタ』も同様かと思ったが、『マハーバーラタ戦記』は、長い原作の別の部分を切り取った、歌舞伎役者のための作品となっていた。
  主役・迦楼奈(菊之助)の心情の推移を実感しにくかったり、会話中心の場面で流れが停滞するなど、調整してほしい点はあるが、近い将来の再演に期待する。
  大御所から若手まで、出演者は適役・好演、特に七之助が素晴らしかった。悪役的な立ち位置だが、その美しさは月の玲瓏、花の妖艶、感情と行動は熱く激しく、壮絶な最期に惚れ惚れ。彼を見るだけでもチケット代の価値あり。前述の『阿弖流為』や『桜の森…』でも、「この人なしでは」と無二の存在感で魅了した七之助は、新作歌舞伎のミューズのようだ。
  『マハーバーラタ戦記』は勧善懲悪のエンターテインメントでは終わらず、「戦うこと」をめぐる人間たちの葛藤をあぶり出し、観客へ問いを投げかけたまま、一応の大団円を迎える。その先は、『バトルフィールド』で描かれた、「戦ったこと」への悔恨や自責へと繋がってゆく。
  さまざまな空間に、さまざまな姿で立ちあらわれ、消えてゆく『マハーバーラタ』。またどこかで巡りあうかもしれない。その時の現実世界は、戦争の苦しみではなく、祝祭の喜びに満ちているだろうか。決めるのは神々ではなく、人間たちである。

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唖娘カトリンの叫び
C・M・スペンサー
  二〇一七年秋、仲代達矢が主宰する無名塾が、『肝っ玉おっ母と子供たち』を能登演劇堂で上演した。初演から二十九年ぶりとなるが、当時のまま隆巴(宮崎恭子の筆名。一九九六年逝去)の演出である。そのなんと人間味の溢れる視点であることか。戦時下に兵隊相手に商売をするおっ母の逞しい生きざまは、仲代を見れば一目瞭然である。しかし泥臭いまでに情の深い眼差しは、おっ母の娘カトリンに注がれていた。
  一六一六年から始まったヨーロッパで起こった三十年戦争真っ只中の物語である。作者のブレヒト自身が、ナチスから逃れて亡命を余儀なくされた背景がある。それゆえ戦時下で生きる肝っ玉おっ母と子供たちの生きざまは空言では無く、身に迫るものがあった。
  冒頭、仲代の扮する肝っ玉おっ母が、二人の息子が引く幌馬車に乗って登場する。おっ母の傍らには末娘のカトリンが座っているが、彼女の視線は前を向いていない。おっ母によると、兵隊に口に何かを押し込まれて以来、彼女は口が利けなくなったのだと言う。それゆえカトリンの行動は、彼女の言葉を代弁している。
  おっ母の幌馬車は、食材から上等なシャツ、太鼓など様々な商品を積む移動商店だ。間もなくして息子たちはおっ母の思惑に反して志願して戦争へ行き、戦地で荒稼ぎをするおっ母に残されたのは、娘カトリンだけとなった。唖娘カトリンの存在が、戦時下に少女がどう生き抜くのか、その問いを突き付けている。
  このカトリンの泥臭い描かれようには胸を突かれた。唖娘のカトリンが激しい怒りをぶつける時は、獣のように唸るだけだ。彼女の心の奥深く、腹の底から発せられる「声」は、聴く者を震えあがらせる。そうやって彼女は主張し、防御して、戦時下を生きてきたということだろう。
  初演時にはカトリンを小宮久美子が演じた。当時の舞台写真では、目鼻立ちのはっきりした美しい顔立ちの彼女が、キリッとした眼差しでおっ母の傍にいる。この再演でも、昨年好評だった無名塾稽古場公演『かもめ』で可憐なニーナを演じた山本雅子が配されている。このような見た目の美しさが、常にカトリンの身に危険がつきまとっていることを暗示させると言うのは、勘ぐり過ぎだろうか。しかしカトリンが編んだお下げ髪を解こうとすると、おっ母がすかさず結っておくように身振りで指示する、そんなやり取りからも、カトリンの置かれている境遇が浮き彫りになっていた。
  この状況下でも、カトリンは女心を失ってはいなかった。押さえることができなかったと言うべきだろうか。彼女は居合わせた娼婦イヴェット(小宮久美子)の靴を盗み、こっそり履いてみる。彼女の表情には、その靴を身に着けることで、自分も同じくらい魅力的に見せたい虚栄心が滲み出ていた。
  それだけではない。火事の家からカトリンは赤ん坊を助け出し、慈しむように抱いていた。赤ん坊だけが、唯一彼女の庇護を必要としているのを知っているような場面である。すると泣き止まない赤ん坊に、カトリンが胸をはだけて乳を吸わせようとする行動に出た。ママゴトのような彼女の仕草は、ほんの一瞬、観客の失笑を誘う。それも束の間、彼女の必死な形相に、乳を与えることのできない彼女の無念が涙を誘った。
  そんなカトリンの身に危険が訪れる。使いに出た彼女は、額に大きな傷を負って帰ってきた。それでもおっ母の商売道具だけは手放さずに。しかしその代償は大きく、彼女の額には大きな傷がついてしまった。それ以来、彼女は下を向き、絶えず髪で顔を隠すようになった。自分自身がどう映るのか、どう見せたいのか、イヴェットの靴の件からわかるように、これまでも意識していた年頃の少女にとって、顔の傷は生涯心の傷となって刻み込まれてしまったのだ。うつむく彼女の仕草は、自身の将来に対する絶望のように映る。その後彼女は、何を生き甲斐として日々を過ごしていたのだろうか。
  おっ母が街へ仕入れに出かけている間に、敵軍が街に闇討ちをかけようと進軍してきた。それを知ったカトリンは、幌馬車に積んでいた太鼓を手に屋根へとよじ登り、高らかに打ち鳴らし始めた。敵軍兵士の警告をものともせず、力の限り打ち続ける。それは彼女の声にも似た叫びであった。おかげで街では異変に気付き、闇討ちは失敗したが、敵の兵士に撃たれてカトリンは命を落とした。
  初演時には能登演劇堂はまだ建立されていなかったが、舞台奥の大扉が開く演出は、この劇場ならではの醍醐味だ。終盤、大扉が開くと、闇夜に兵隊が隊列を組んで通り過ぎる様が見えた。子供達を全て失い、自ら幌馬車を引くおっ母が、商売のために兵隊を追いかけていく現実を突き付けられた恰好だ。劇場外の冷たい空気も客席に吹き込んでくる。隆巴の人間味のある演出が、さらに現実味を帯びて身近に迫って来た。こうしてカトリンの生きざまは、子供たちにとって生きることが戦いである戦争の背景を伝えている。仲代を主演に、今だからこその再演なのだという声が聞こえるようだった。
(十一月十一日観劇)

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老いる豊かさとおかしみと
マーガレット伊万里
  文学座アトリエ公演にノゾエ征爾が書き下ろすと知り、手元の公演チラシをしばらくじっと見つめていた。鳩や蝉が描かれた不思議な世界観のチラシ。タイトルは『鳩に水をやる』。
  リアルなせりふ劇に長けた文学座とユーモアを得意とする劇団はえぎわ主宰のノゾエ征爾というのはあまり結びつかなかった。二〇一七年は文学座創立八十周年記念、アトリエの会のテーマは「新しい台詞との出会い」とのことで、一二年に岸田國士戯曲賞(岸田國士は文学座の創立メンバー)を受賞しているノゾエに白羽の矢が立ったのだろう。演出は文学座で初演出となる座員の生田みゆき。どんな化学反応が起きるかしらと信濃町のアトリエに向かった。
  さて、登場人物は男女三組。年老いた童話作家ドイアラン(外山誠二)と彼のファンだという若い女(宝意紗友莉)。自宅のドアを押している女(増岡裕子)とそこへ通りかかった配達員(相川春樹)。ジャズ歌手の女(塩田朋子)とピアニストの男(上川路啓志)。三組のエピソードが同時並行していく。
  開演して明かりがつくと舞台中央にドイアランと若い女。二人は握手をしたまま、延々と禅問答のようなやりとりを続ける。ドイアランは言動にいささかつじつまが合っていない。少し認知症を患っているようだ。若い女は実は派遣された介護人である。
  小説家を目指す配達員は家のドアを押し続けている女・港のヨーコと出会い、恋に落ち、ままごとのような結婚をする。
  ジャズ歌手とピアニストは大人のロマンチックな雰囲気だが、男は一分後に犬に殺される運命(!)で、しかし、その一分間で二人は出会い、惹かれ合い、これまたたわいもないやりとりが続く。時間と場所がまるで増幅されたかのような、夢オチの話ではないかと思わせる。
  しだいにジャズ歌手とピアニストの子供がドイアランで、配達員は若き日のドイアランの姿、年老いたドイアランが現在の姿というように登場人物が一つの線で繋がる。劇団はえぎわ公演では、劇団員や客演も入れるといつも軽く十名を超える群像劇で当然エピソードが多く、それぞれが独立したまま終わるが、今回はすべてがドイアランの物語として集約し、年老いた彼と全く関係がないかに見えた男女のエピソードは時空を超えた物語として彼の人生に奥行きを与えている。いつも見ているはえぎわとは異なる景色だった。
  文学座ホームページの生田みゆきのコメントによると、夏目漱石の『夢十夜』第七夜のイメージから作家との創作が始まったとある。ノゾエのナンセンスな非日常感に「夢」というキーワードを持ちこむことで、作品と文学座の観客の橋渡しをしていたのではないか。
  文学座のベテランから若手までが繰り出すメリハリのあるせりふも新鮮に感じられ、特に外山誠二演じるドイアランは風変わりな雰囲気がよく似合っていた。  
  一分後に死んでしまう男やドアを押し続ける女とか日常に突如非日常が持ち込まれ、夢と現実の境界線が溶け合っている作風がノゾエ作品の魅力である。しかし、とらえどころのない会話や、ドイアランには妻も子もいないことが発覚し、港のヨーコと配達員の話が童話作家の創作なのか、ただの夢なのかが判然としなくなると、最後は深い余韻を味わうまでには至らなかった。
  ノゾエは高齢者施設での訪問公演の経験から、二〇一〇年に劇団で『ガラパコス〜進化してんのかしてないのか〜』を上演。(『ガラパコスパコス〜進化してんのかしてないのか〜』のタイトルで一三年再々演)施設から抜け出て来た老女を匿う青年の物語を作った。高齢者とのリアルな関わりが彼の中で消化・吸収され、その後も新国立劇場で老女と中年男の心の交流を描いた『ご臨終』(一四年)の演出や、さいたまスーパーアリーナでの高齢者による大規模公演『一万人のゴールドシアター二〇一六』の脚本・演出を手がけるなど、ノゾエ征爾と言えば高齢者がテーマの作品が思い浮かぶようになっている。
  本作での進化を見ると作家の中で老いというものの存在が少しずつ変容しているのかもしれない。今後さらなる洞察力でどのようなテーマに取り組んでいくのかを楽しみに待つ。
(十二月十六日観劇)

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二○一七年の一本  
板橋の小さな地下劇場「サブテレニアン」では、「だいたいこんな話」と思い込んでいた谷崎潤一郎、イヨネスコ、森本薫が別の顔を見せる。大胆、斬新。いずれも作り手の戯曲への真剣な姿勢あってこそ。(ビ)



◆「氷艶―破沙羅―」歌舞伎とフィギュアスケートのプロ達が、自らのわざを見せつけ、相手のわざに挑んだ真剣勝負を、映像と音楽が彩った稀有なエンタメ。観客の予想と頭上を高く遥かに飛び越えた、七代目染五郎の大仕事。(コン)



◆新ロイヤル大衆舎『王将』下北沢・小劇場 楽園にて。わずか九〇席ほどの客席の劇場で、将棋を生業に熱く生きる人々。限られた舞台、役者で、様々な場所と人々の登場は、演劇の原点。一期一会の舞台との出会いでした。(C)



◆『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』(作・演出:柴幸男)。池袋の隣り合う二つの劇場で同じ時刻に同じ作品を上演。不穏な世界で、繰り返す生と死を見つめる眼差しは優しく、静かな感動をもたらす。(万)

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