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戦時下、小林亀久雄公使のアフガニスタンへの道
Kikuo Kobayashi, Road to Afghanistan in Wartime
大堀 聰

<序>

昨年の秋、三重県にお住いの吉居清さんという方から連絡をいただいた。日本が太平洋戦争に参戦する直前にアフガニスタンで亡くなった、小林亀久雄(こばやしきくお)公使(以下小林と書く)の甥にあたる方である。そこには公使と行動を共にしていた娘さんが昨年亡くなり、自分はひとり公使に関する資料を探しているが、なかなか見つからない、また自分も高齢であるという主旨が書いてあった。そんな中、筆者のホームページの中に小林公使に関する記述を見つけたので、コンタクトを取ったとのことであった。

その記述の箇所とは『戦時下欧州からの手紙』の中で、同盟通信社ベルリン支局長江尻進が
「今は支局での宿直の朝。本社への月例報告を書くので、昨夜は徹夜した。この手紙を託送する小林アフガニスタン公使が、明後日(1941年6月12日)ベルリンを出発されるので、急いでいるわけ。」と書いたものを、紹介しただけある。正直その時筆者は、ベルリンからアフガニスタンに向かう外交官がなぜ、江尻が日本の家族に宛てた手紙を運ぶのか検討がつかなかった。

また吉居さんは集めた資料を提供下さり、手紙の行間からは、筆者の方でさらに調査し小林の記録を残して欲しいとも読み取れた。しかし新たな資料は少なく、ずっとそのままになっていた。それでもポツポツと見つかってきた。特に『日本・アフガニスタン関係全史』(前田耕作、 関根正男)という書籍は、戦時期に関しても両国の間にはいろいろな交流があったことを明らかにしていた。

同書はアラブ方面に門外漢の私には教科書であり、本編でも参考にさせていただいたが、当然日本とアフガニスタン両国内で起こった事柄の包括である。そのため着任早々死亡した小林に関しては、短くその事実が伝えられるのみである。本編では戦時下と言う移動の制限が加わる中で、どのように日本人は両国間を行き来したのかをまとめてみた。筆者は以前『戦時日欧横断記』を書いたが、その姉妹編の位置付けである。



<ジュネーブからアフガニスタン>


小林は、日本が欧米に参戦する直前の1941年10月9日、アフガニスタンの首都カブールで死亡する。前任地はスイスのジュネーブであった。アフガニスタン駐在特命全権公使の信任状が下付されたのは、同年4月22日であった。いったんは家事整理のために日本に戻るつもりであったが、国際情勢の緊迫化のため、大臣の訓令でペルシャ湾経由、直接首都カブールに向かうよう指示を受ける。よって彼はトルコ経由で向かい、自分の信任状を途中のムンバイの領事館で受け取ろうとしたが、松岡洋右大臣の名で、信任状のムンバイ送達は困難、5月15日にベルンへ発送したと電信が届いた。

天皇の名前の信任状なしに任地に向かうことは当時あり得なかった。伝書史によってシベリア鉄道を経由し、2週間ほどで小林の手元に信任状は届く。これを受け取って出発しようとした頃、イラクではクーデターが起こり、バグダッド経由の赴任が不可能となっていた。

中東を経由する道がふさがれ、小林は結局いったん日本に戻ることになる。6月1日にジュネーブを出発、6月12日に冒頭で紹介した同盟通信江尻支局長の手紙を預かって、ベルリンを発つ。そしてシベリア鉄道経由で、満州国の国境の町満州里に到着したのが6月23日、ドイツとソ連が戦端を開いた翌日である。

そこで朝日新聞の求めに応じ、小林は次のように語る。
「何故ドイツがソ連に戦いを挑むかについては、ヨーロッパでは二つの説が語られていた。一つはドイツが対英長期戦を継続していくためには、後方の危機を完全に除去しておく必要があるという説、他の一つはドイツがヨーロッパ共栄圏を確立するためには、どうしてもロシアを参加させねばならない。ところがロシアは応じない、そこでどうしても戦争になるという説である。

もっともドイツ軍部は昔から対ソ戦を主張していたのであって、ソ連の力が増大しないうちに開戦に至ったのではないかと思われる。」
小林はドイツとソ連の間の戦争を予想していたと思われる。

6月28日に東京へ帰着する。これが、冒頭に紹介した小林が江尻の手紙を運んだ理由であった。すでにドイツが英仏と戦うこの頃は、日欧間ですら郵便はままならず、少ない旅行者は多くの手紙を携行した。

6月22日に独ソ戦が始まると、シベリア鉄道での横断が不可能になるので、間一髪の事であった。そして日欧間、日本と中東方面の往来はますます窮屈になる。仮の話だが、もし小林が欧州にいる間に独ソ間の戦争が勃発していたら、アフガニスタン公使の辞令もどうなっていたかは分からない。



<公使の死>


小林の前任の駐アフガニスタン臨時代理公使であった岩崎信太郎が『アフガニスタン協会・会報1942年』に小林の赴任から死に至る経緯ついて書いている。 筆者の補足を加えると、およそ次のようだ。

1941年8月初旬には小林は、日本でアフガニスタン協会の会合に出席した。その後も時局の悪化で船便の都合がつかないので、飛行機にてまずタイに飛び、さらにインドの東の国境カルカッタ(現コルタカ)へと飛行機による旅を続けた。

カブールの日本公使館から斎藤積平書記生がカルカッタまで出迎えに来ることになっていたが、インド政府は斉藤への旅券の査証を拒絶したので、迎えに出られない。小林は一人陸路インドを横断しニューデリー近くの「シムラ」に行く。そこで帰国間近の岡崎勝男カルカッタ総領事と事務の打ち合わせを行う。

その後パキスタン領内に入り、アフガニスタンとの国境の町ペルシャワルを経て、カブールに到着したのは、9月23日であった。最後は岩崎の言葉をそのまま引用する。
「しかしご旅行はきつすぎましたものと見え、カブール着任後、睡眠不可能となられ、ついに10月9日、病気にて逝去せられたのであります。」



<死に至る経緯>


小林は西側からカブール入りが果たせずに、こうして東側から入ったのであった。しかしながら小林は間も亡くなるのであるが、「旅行がきつ過ぎて睡眠不可能になる」というのは少し違和感がある。「旅行がきつ過ぎて体を壊した」のであろうか?人の死に関わる事であり、しかも言論の自由のない戦時下ゆえ、かなりオブラートに包んだ表現となったことは想像に難くない。

その小林の死に関し、当時パリの大使館に勤務した筒井潔が戦後、『風雲急な欧州に使いして』の中で触れている。見出しは「三国同盟反対は私だけではなかった」である。
「良かれあしかれ、三国同盟が日本外交の根本方針と決まった以上、どうにもならないが、ジュネーブ総領事の小林亀久雄君は勇敢に反対し続けたと後になって伝え聞いた。

彼は学生時代から無類の勉強家で、外交官になってからもその博覧強記には誰もかなわぬほどであったが、それだけに国際情勢に明るく、日本がナチにだまされ利用されて、国の運命を危うくするのを黙って見てはいられなかった。
ベルリンへ赴いて大島中将と大激戦を交え、日独同盟を思いとどまらせようと奮闘した位であった。

松岡外相時代にも日独同盟は日本を危うくする、と堂々の意見を電報したが、『貴君の電信は不吉なり』と叱られたという話もあった。

終始、日独同盟に反対し続けた彼は、左遷進級の形でアフガニスタン駐在公使を命ぜられ、赴任はしたものの、日本の前途を憂うるあまり、不眠症となり睡眠薬を次第に増量していたらしく、そのために亡くなってしまった。

なお小林公使は高校時代からドイツ語の大家で、ナチの事を研究しつくした上での日独同盟反対であったわけである。」

以上であるが、反ナチスで、日独提携の推進者大島浩駐独大使にも率直に反対論を述べた小林の像が紹介される。その時局認識から日本の前途を悲観して睡眠薬を服用し始め、アフガニスタン到着後、睡眠薬を増量したのが死亡の原因だと書いている。アフガニスタン到着後2週間ほどでの死である。岩崎の文章「カブール着任後睡眠不可能になった」よりは自然である。

ただし筒井の話は伝聞で大島大使との大激論はいつ、どこで行われたのかはっきりしない。また松岡外務大臣に「不吉なり」といわせたという電報の存在も確認できない。さらには筒井以外にこれらの話を書いた人物はいないようだ。

少し考察を加えてみる。小林がベルギー大使館参事官兼ジュネーブ総領事に任ぜられ、アメリカ経由で家族と共に着任したのは1939年6月のことである。その後欧州で戦争が始まり、ベルギーの日本大使館が閉鎖されると、1940年7月、国際会議帝国事務局次長兼ジュネーブ総領事に任命されジュネーブに赴く。

一方大島が駐独大使を罷免されるのが1939年10月7日である。独ソの不可侵条約が成立したのが8月23日でそれを見通せなかった大島の権威は失墜するので、小林との激論があったとすれば、小林の6月の着任から2か月の間と考えるのが普通である。小林はベルギー大使ではないので、大島大使と直接話す機会は乏しい。確実に顔を合わせたはずの着任の挨拶の場で、そのような議論がなされたのであろうか?

もう一つの可能性は大島が駐独大使に再任され、1941年2月17日にベルリン・アンハルター駅に到着してから、小林に辞令が出る4月22日までということになるが、大島の絶頂期である。そして日本の辞令の事務手続きを考えると時間的には窮屈だ。

また「松岡外相時代にも」と大島大使の時代と別の時を想像させるが、松岡の外相は1940年7月22日から1941年7月18日である。この年の7月から小林がジュネーブを去る、翌年4月位までの間にその電報は送られたのか?以上の点に関し、正確な経緯を知るために、新しい史料の発見を待ちたい。



<左遷進級>


ここで着目すべきは、大島大使の再着任早々に小林のアフガニスタン辞令の出た事実である。前大使時代の苦いやり取りから、大島が早速小林を追い出した可能性は捨てがたい。

小林のそれまでの経歴を見ると、前回の赴任時にフランス大使館、チェコスロバキア公使館に勤務し、今回はブリュッセルとジュネーブである。フランスはもちろんジュネーブもフランス語圏で、ブリュッセルも広くフランス語が話された。それからすると外務省では明らかなフランス派だ。しかも東大法学部卒業でドイツ語も堪能であったという。そんな彼がいきなりイスラム語圏のアフガニスタンと言うのは不自然で、筒井の書く左遷進級は的をはずしていないであろう。

1941年8月、カブール市には16人の日本人がいるのみであった。ベルギー参事官から公使に昇進したとはいえ、外交の舞台は小さくなる。



<家族思い>


先に紹介した岩崎の記録によれば小林家の悲劇は続く。小林の日本出発後、日本郵船の日枝丸がインド方面に回航することになり、小林夫人は2人の娘等を伴い、アフガニスタンに向け出発する。娘等と書くので公使の従者もいたと推測される。

小林夫人らの乗船した日枝丸は10月7日午後3時、ムンバイに到着したが、2日後にそこで公使の悲報に接し、カブールから迎えにきた渡部信濃太郎通訳官及び花井雇と共に、カブールに向け出発する。2人の娘は厳しい道中を考え船に残った。

夫人はインド東国境のペルシャワルまで行ったものの、その先アフガニスタンに入国しては、帰りの日枝丸に間に合わない恐れがあったので、やむを得ずムンバイに引き返した。一方カブールの勝部俊男代理公使が公使の遺骨を携え、ムンバイまでやって来た。そして遺骨を小林夫人に渡した。

「それで夫人は11月2日発の日枝丸にて目下帰朝の途中にて、来る20日神戸到着の予定であります。」と、岩崎のこの文章が悲劇の直後に書かれたことが分かる。



<日枝丸>


小林夫人の乗船した日枝丸の派遣が決まったのは、9月15日であった。海軍省発陸軍次官宛の
「日英両国民の引揚に関する了解並に在留邦人引揚の為船舶派遣の件」という記録が残っている。日枝丸には日本在住の英国人を引き揚げさせるという目的もあったのであろう。そのため、英国側も安全な航行を約束した。

日枝丸の航海予定は以下の様だった。
9月22日 午前神戸出港
10月6日ムンバイ(インド)着
   7日ムンバイ発
その後バンダルシャブール(イラン)、モンバサ(ケニア)に寄り
   30日 ムンバイ着
11月1日 ムンバイ発
   15日神戸着

この船に乗って帰国する検討がベルリンの陸軍武官室でも検討されている。同じく9月15日、ベルリンの陸軍武官室が総務部長宛に書いている。それによると、最近トルコ方面を旅行した樋口少佐の説明によれば、トルコ経由イランに出る道は至難である。バスラに出る道は、鉄道の連絡は遮断され、相当途中の不便を忍べば可能であるが、荷物の携行は至難で、ベルリンよりは最短でも3週間を要する。よって可能であるならば欧州からの帰朝者は全員リスボン経由としたいとの事であった。

荷物の携行が至難というのは、やや不思議に思われるが、この頃赴任者は10個くらいトランクを携行している。引っ越し荷物は全て手持ちで、船、鉄道の場合は駅などで、それらを運ぶサービスがあった。

この時期、日本郵船では各方面に引き揚げ船の派遣をしている。暗黙のうちに年内の日本参戦を示唆されていたのであろう。欧州には9月11日に浅間丸の派遣が決まったが、中止となる。イランから日枝丸の乗船を見送ったベルリンの陸軍武官室が落胆したのはいうまでもない。

また日枝丸を利用してアフガニスタンからは、一等書記官アブドゥル・ガフール・ハーン、シャラール夫妻が着任する。数少ない両国を結ぶ交通手段であった。そして小林公使の遺骨が日本参戦はずか20日ほど前に日本に戻った事は、本当に不幸中の幸いであった。



<横浜帰港>


小林の遺骨の帰港を詳しく報じているのは、読売新聞の神奈川版の11月25である。「半旗も悲し日枝丸 小林公使の遺骨も乗せて還る」の見出しに続く本文は
「日枝丸ははるばる南海を2万里、つつがなく任務を終えて24日午後1時、横浜港に還った。
船尾には折からそぼ降る冷たい雨に打たれて、半旗が重く垂れ下がっていた。
この半旗こそは、アフガンの首都カブールで客死し、今は遺骨となって正子未亡人と愛娘恒子(13)、英子(12)さんに護られて還った小林公使の帰朝に掲げられたのである」と船は半旗で帰港したことを告げている。

そして波止場には外務省欧亜局太田三郎氏、カルカッタ総領事岡崎勝男氏、アメリカ局第三課長大野勝巳氏らが出迎えた。彼らの中に小林の左遷進級に関わった人物がいたとしたら、どんな気持ちで遺骨を迎えたであろう。そして遺骨を抱いて車に乗る正子と恒子の写真が紹介されている。`



<家族>


家族そろっての赴任のはずが、残された家族は遺骨を携えての帰国になってしまった。一家はこれまでも戦乱の中で過ごしてきた。1940年5月、ドイツ軍がオランダ国境を突破し、ブリュッセルに迫ると、ベルギーの日本大使館は日本との連絡も途絶えた。その間に栗山茂大使他の館員は列国の外交団の申し合わせで、ベルギー政府の避難先の北海沿岸のオステンドに移転した。一方大使館には小林参他5人の外交官が籠城した。日章旗を掲げ、ドイツ軍の標的にならない様にした。

その際に小林と共に正子夫人、長女恒子さん(12歳)、次女英子さん(11歳)も残った。小林は16日にパリの澤田廉三大使に電話連絡して、大使らの消息が判明した。当時の朝日新聞に
「命旦夕(落城も近い)の白都(ブリュッセル)に籠城」と言う見出しでは小林家4人の写真と共に英雄的に紹介された。大使館には堅牢な防空壕があったのかは確認できないが、間違いなく砲声はとどろいた。また同盟国故、攻撃を受ける事はないが、流れ弾の可能性もある。

家族だけオステンドに避難させることは可能であったと考えるが、それをしなかったのは小林の考えであろうか。そして近い日本参戦を肌で感じる中、次の過酷な任地カブールにも家族全員で向かおうとしたのには、強い家族の絆を感じる。



<航空路の要衝>


1941年12月8日の日本参戦直後、英−イラン条約の締結によってイランの連合国よりの態度が明らかになる。英国の圧力で枢軸側を代表する各機関は、同国を引き揚げざる得なくなった。

一方アフガニスタンでも同年10月、英ソ両国は枢軸国の人間の国外通報を要求する。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中のすべての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じる。このように中立的態度が外交の基本であった。

こうして中央アジアでは、アフガニスタンが唯一、戦時中も日本と国交を保つ国となる。そこは日欧のちょうど中間地点にあり、無線の中継地点としても重要な位置にあった。こうした事情から日本はアフガニスタンとの国交を重視したと思われる。

日本と欧州を結ぶ航空ルートは早くから考えられたが、カブールは重要な経由地であった。

1937年3月20日、「日満独連絡航空路設定に関する件」が閣議決定される。それによると
とりわけアジアと欧州の航空路の確立が我が国にとって重要であること。すでに英国、フランス、オランダの三国はインド経由のいわゆる南方航路を開設済みで、シベリア経由はソ連の介入により阻まれ、新航空路としては蒙古、新彊を横断する中央経由線しか残らない。

ドイツ「ルフトハンザ」、満州国「満州航空」との相互乗り入れに向け、ドイツと満州国の了解も取れ、定期航空路の開設を目指すとした。そしてその経路は東京を起点とし、ベルリンを終点とする。途中満州国の首都新京、甘粛省安西、カブール、バグダッド、ロードスを経由すると定めたが、実現には至らない。ソ連国境すれすれのコースを取って、ソ連を刺激するのを日本の軍部は極度に恐れたからだ。

また1942年7月、イタリアは自国の飛行機を日本占領下の中国の包頭に飛ばしてきた。そしてその後日本の福生に到着する。黒海からイラク、カブール、そしてゴビ砂漠と経由して来たものの、ソ連国境すれすれのコースであった。これは先に述べた北方ルートである。

ドイツもその直後、ここに定期航路の開設を提案してくる。飛行距離5500キロに対し、フオッケウルフ200Bは7000キロの航続距離を備え、ノンストップ飛行が可能であった。イタリアの経路、ドイツの提案もソ連を刺激するという同じ理由で実現しない。



<日独の夢想>


次のようなエピソードもある。1941年6月22日独ソ戦が始まると、ベルリン陸軍武官室の飯島正義陸軍中佐は「ソ連の野戦軍は支離滅裂になり、空中戦ではソ連の戦闘機さえも(ドイツの)ユンカース軽爆撃機に追いつけぬそうだ」と言ったあげく、

「そのうちドイツ軍はシベリアを手に収めて、日本と満州で国境を接するようになるよ。ノモンハンでソ連軍に悩まされた日本軍などドイツ軍に攻められたら、2週間で満州から追い出されるさ」
と事もなげに言い切った。さらには
「なぜ日本は、ドイツを助けて参戦しないのか。早く参戦してソ連を背後から叩くべきだ」という声もかなり聞かれた。その後ドイツ軍が進撃を続け、晩秋にはモスクワまであと数十キロの所までに迫った時

「ソ連全土を占領したドイツ軍と、インド全土を占領した日本軍は、アフガニスタンに入って歴史的な握手を交わすのだそうだ。その時には、ベルリンにいる日本人留学生はドイツ軍についてアフガニスタンまで行って、通訳の役目をつとめることになるらしい」というまことしやかな情報まで流れた。



<七田公使の赴任>


小林が亡くなると、勝部俊男が代理公使を務めた。そして翌1942年、後任に七田基玄(Motoharu Shichida)が選ばれる。日本からシベリアを経由して現地に向かう一行は5名であった。社交上、公使には妻が同道するのが基本であったが、その役目は長女七田スミが務めた。イランから戻ったばかりの河崎珪一書記生はすでに中央アジアルートを経験していた。また二人の従者北山孝、猪瀬アヤも同行するが、シベリアを経由し難路を赴く彼らには感嘆する。

7月22日、外務省西次官とアフガニスタン公使の間で七田の赴任に関し、会談が持たれた。

アフガニスタンの公使は秘書を帯同するとの話は、自分の判断で査証を出せるが、女中(召使)ならば本国に照会しないといけないとのことであった。その際
「現在東京の公使館より、本国政府に郵便連絡が不可能なので、七田公使出発の際は若干の依頼品を携行して欲しい」と公使は述べた。郵便連絡もない両国であったが、これはシベリア経由でいったん再開される。

彼らのソ連の通過ビザは問題無く下りたようである。ソ連も中央アジアへの赴任についてはそれほど敏感ではなかったのであろう。いよいよアフガニスタンに出発する七田公使一行には5,60箱の携行荷物があった。そこで東郷茂徳外務大臣名でモスクワの佐藤尚武大使に、重要な荷物もあるので一行のオトポールからのソ連内の移動用に、一両の貸し切り車を付けるよう依頼した。同時に満洲里の松田領事代理には彼らのために白米一俵の調達を依頼した。

満州側のハルピンで車両の手配を待つが、ソ連側は一向に対応しない。これに関しモスクワ、満州里、外務省の間の膨大な交信記録が残されている。

査証が切れる心配もしながら、ようやく9月30日、一行はソ連側の用意した車両でソ連入りする。そしてチタ、ノボシビルスクを経由し、そこからはシベリア鉄道の本線を離れ南下、ウズベキスタンの首都タシュケント、さらにアフガニスタンとの国境の町のテルメズまでへと同じ車両で向かう。その間は荷物の積み卸しをしなくてすんだ。

10月15日、テルメズ発汽船にてアムダリヤ河を渡り、アフガニスタンに入る。公使館から井上書記生と渡辺嘱託医が迎えた。その後は馬車及び自動車で21日にカブールに着く。途中地方の総督の歓迎を受けたので移動に時間がかかっている。

こうして七田は小林が当初もくろんだ欧州から直接のルート、実際に入ったインド経由のルートに続き、3番目のシベリアからのルートでアフガニスタンに赴任したが、こちらも決して楽なルートではない。



<横断者>


1943年7月22日、七田公使から、内務省の技師らの帰国申請がなされた。1939年6月に内務省から派遣された小林源次らは、ダム建設の技術指導を同国で行っていた。これに対しモスクワの佐藤大使は
「すでに百数十名に達する目下のソ連通過ビザ交渉に、小林他6名の査証を当地において交渉するのは不適当なのでそちらで交渉されたし」と逆に提案する。イランで市河公使らのビザがあっさりと取れた例に倣い、現地での交渉となる。

予想に反し申請後ひと月も経たない8月11日、七田は当地のソ連領事館より査証発給の通知を受ける。

重光外相の満州里の松田領事、ハルピンの宮川領事に宛てた電文が残っている。
「在アフガニスタン公使館嘱託渡辺および井上書記生家族一行7名満州里経由(7月中頃)帰朝する所、一行の貴地通過の際は便宜供与あり度。尚ソ連およびアフガン等の政治情勢については、新聞記者等に対し、口外せざるよう厳達しおかれ度」(棒線筆者)

ソ連やアフガニスタンの情勢が、すでに日本にとっては好ましく無くなっていたためであろう。このような事情であるから、新聞等にもかれらの帰国話はもう出てこない。



<軍関係者>


先の6名の帰国者一行には体を壊した公使館雇の亀山六蔵もいた。亀山は実は陸軍中野学校を出た諜報の専門家であった。カブールの公使館にも軍の諜報機関の人間が派遣されていた。そして亀山の後任には同じくなかの出身の桜一郎が選ばれたが、もう赴任は出来なかった。

さらに同1943年6月23日には東京のソ連大使館に朝倉延壽三等書記官及び酒井一太郎のアフガニスタンへの通過査証を要求した。佐藤大使への訓令によればこれは軍部の切なる希望によるものであった。おそらく2人も変名を使った軍人であろう。



<他の横断者>


1943年2月19日、アフガニスタンの留学生3人帰国の途につく。当時日本には6人のアフガニスタンからの留学生がいた。彼らは全員このころアフガニスタンに引き揚げている。他にもアフガニスタンの外交官は幾人かシベリアを横断したようだ。ソ連は同国の外交官に通過ビザを発給しない理由はない。

また1943年11月18日、勝部2等書記官がカブールを発ち帰国の途につく。翌年5月13日、勝部は七田公使にシベリア旅行の経験について打電する。
「ソ連旅行経験により、気付きの点、新帰朝者の参考まで左の通り
一.タシュケント、ノボシビルスク、チタに於いて乗り換えあり。その度毎に自分にて汽車及びホテルの予約する要あり。ロシア語を話す事絶対必要なり。
二.荷物は成るべく手荷物預けとし乗り換え毎に積み込みの有無を確かめること便利且安全なり。但し荷造り包装を厳重にすること。
三.南京虫多く駆除剤を用意のこと
四.食堂はシベリア本線のみにあり
五.在チタ領事館へはノボより電報し置くこと

ただし1944年にこのルートで帰国した日本人はもういないはずだ。



<敗戦、引き揚げ>


1945年8月15日に日本の敗戦を迎え、マッカーサーの指令によりカブールから日本に引き揚げるのは以下の12名であった。

特命全権公使 七田基玄
長女 七田スミ
一等書記官 渡部信濃太郎
外務書記生 井上英二
同 河崎珪一
同 斉藤積平
妻 斉藤豊子  子供3名
公使従者 北山孝
同 猪瀬アヤ

ちなみに同じ時期、日本にいたアフガニスタン人は公使一家のみで軽井沢に疎開していた。他の外交官はすべて帰国していたようだ。
公使 ズール・ファカルカン
夫人 アミナ・ファカルカン 子供3人 

1946年1月17日、政府資金、財産、館員の私有所持金引き渡し完了の後、館員及び家族(一行12名)はカブールを出発、ペルシャワル経由、ムンバイに赴き、同地にて日本に進駐する英国軍隊輸送船チェシャイヤ号に便乗する。シンガポール経由3月1日呉へ入港し6日に同地を発ち、翌7日一行は無事帰京を果たす。

帰国経路については七田公使の健康状態、及び一行中に幼児3名がいる関係もあり、極寒季のシベリア旅行を避け、インド経由帰国の希望をアメリカ側に申し出てそれが認められ、インド経由になった。

1946年1月下旬カブール出発。井上英二「我が回想のイラン」で語る。
「アフガン政府は1個小隊の兵士を公使館に派遣し、我々一行をカブール郊外まで護衛をするという、敗戦国の外交官引き揚げには例のない丁寧な措置を取り一行を感激させた。」
日本のそれまでの態度にアフガニスタンは礼を持って答えた。



追記:原稿が完成して確認の意味を込めて吉居清さん宛てに事前にお送りしましたが、返事が入りません。心配です。

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