日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップバーバラ寺岡(第6回)小松ふみ子(第5回) ポール・ブルーム(第4回)コンタクト

欧州邦人気になる人(第7回)
ベルリン私設大使・中西賢三
Kenzo NAKANISHI, Private Ambassador in Berlin
大堀 聰

<序>

一国を代表する正式な大使に対し、民間人でありながら現地の滞在者のみならず旅行者が頼りにする人物を”私設大使”と呼ぶことがある。現在プロ野球で用いられる“私設応援団”というのも同じ発想であろう。

第2次世界大戦勃発ころまで、ベルリンでその名誉を担っていた民間人は中西賢三であった。彼は「中菅(なかかん)」という店を経営していた。それを報じる当時の朝日新聞によれば
「デパートの孫のようなお店で、1936年ベルリンオリンピック帰りのお土産はみな中菅から出ている。日本人のほとんどは中西君の案内で“ベルリンの空気”(Berliner Luft)を腹いっぱい吸って、神経衰弱まで治してもらう。死ねばお葬式まで出してくれる。まさに利便なデパートである。私設大使である。」と、日本人相手の何でも屋であることを語っている。」

1937年版「日本人名録」に載っている中菅の広告。



<旅行者の拠り所>

戦前の渡欧者の回想から拾ってみる。まずは『欧亜新風景』橋爪檳榔子(はしづめびんろうじ)である。氏は日本で最初の医療評論家とされ、出版は1937年で、作者のドイツの訪問は前年の夏のことだ。

「そこ(ベルリンの日本人クラブ)にはまたナカカン(中菅)の便利ニュースもある。(ナカカンは)欧州のどこの日本人商店よりも古く、手際のよい商店だ。
ナカカンではカメラも書物も日用品も土産物も至れり尽くせりで、目新しいものが出ると、この便利ニュースが倶楽部の告知板に貼り付けられ、おまけに女やホテルやパンジョンの世話までしてくれる。

ナカカンは私立日本大使館だから、一人ぼっちでベルリンに着いたら、先ずわがナカカンを訪ねなければならない。そのナカカンの主人も親孝行をしにドイツ夫人のフラウと久方ぶりに大阪に帰り、日本の移り変わった風物に驚いているらしい。このナカカン式無冠の大使はロンドンにもパリにもいる。そういう人々にも勲何等かを政府が贈ると尚更良いと思った。」

冒頭の「デパートの孫」というのがイメージできる便利なお店で、“便利ニュース”というおそらくガリ版刷りの情報紙であろう。

ついで作家で詩人の深尾須磨子は欧州開戦間際の1939年にベルリンを訪問する。『深尾須磨子日記』からは外国旅行に慣れていない深尾の面倒をしっかり見ていることが分かる。

6月11日 (ベルリン)
午後8時ツオー駅着。ローマの加藤氏が電報を打ってくれたので中菅が出迎えていた。その案内で、ツオー駅の映画館前のゴルフ・ホテルに投宿。夜は中菅の案内で支那料理に行く。

6月21日
午後4時から大使館邸でお茶会。伯林在住婦人20数名集まる。なかなかの美人揃い。帰りに遠藤海軍武官夫人に送っていただく。夜射場(恒三)さん来訪。中菅の所に切符を取りに行ってもらう。この人には実に重ね重ね厄介になって感激の極みである。

6月28日
午後、中菅に行き、パリまでの切符買ってもらう。そこへ射場さん来店され、それと前後して吉岡弥生女史が息子さんと一緒に入って来られびっくりした。吉岡さんとともに東洋館で日本食。

ほかにも当時の人の旅行記を読むと、大体同じような記述が見つかる。



<中西賢三>

“中菅”および、中西賢三に関して、正面から取り上げた資料は見当たらないので、残された記録の端々からその姿を探ってみる。

中菅は「中菅時報」という情報紙を発行している。橋爪が先に書く「便利ニュース」とは異なるものかもしれないが中菅時報の1936年2月号に
「中菅開業15周年記念」という見出しがあり、「1922年農商務省の海外貿易練習店として開業。」と書かれている。

海外実業練習生(かいがいじつぎょうれんしゅうせい)とは、農商務省から補助金を得て海外で実業を学ぶ者のこと。国の産業貿易の発展に寄与できる人材を育てるために明治政府が1896年から始めた制度で、多くの実業家や技術者などを輩出した。

大平賢作(住友銀行頭取・会長)ら多くの実業家、高村光太郎らの芸術家がこの制度を利用して海外に出ている。中西もこの制度を利用してドイツに向かい、さらに「海外貿易練習店」として何らかの援助を国から受けて開店したのであろう。



<文筆家>

中西は本も書いている。『ヒトラー偉人伝』は1938年に出版され、版を重ねているが、その序文には大阪学士会倶楽部 理事兼書記長若林義孝が次のように書いている。

「著者は33回中央大学経済学部出身。大正12年渡欧、現今まで17年、ベルリンにあって民間使節の役割を演じ、恐らくドイツへ留学する学究及び視察の諸氏は必ず面識と相談相手であったはずである。」
大正12年は1923年だが、これまで見たところからすると渡欧は1921年だ。

当時海外で日本商店を開いたとなると、裸一貫日本を飛び出し成功した印象をまず持つが、中西の場合は大学を出て、政府の援助でドイツに行き、ビジネスを始めたことが分かる。

また1940年9月号の「婦人倶楽部」に「独逸婦人の銃後生活」という記事を寄せている。カメラ、中西賢三(在ベルリン)という肩書だ。
ドイツ各地の工場などに入り込み、働く婦人たちの姿を5ページにわたって写真主体に伝えている。他には「独逸国防漫画傑作集」というものを翻訳している。

中西は店主として日本人の面倒を見た入りすると同時に、日本に向けて最新ドイツ事情を発信した。



<一時帰国>

冒頭「1936年ベルリンオリンピック帰りのお土産はみな中菅から出ている。」と書いた。そのオリンピック時のベルリンの日本食堂について、朝日新聞が報じている。
「たった4軒しかなかった日本の料理屋は大繁盛で、女中さんまで増やしてやっていますが、注文してもご飯になかなかありつけない位、賑わっています。どちらかと言えば皆ピーピーしていた連中でしょうが、これでひと財産作ったという形です。」

中西もこの時ひと財産作ったのでなかろうか。夏のベルリンオリンピックが終わり、そのビジネスもひと段落した1936年末、中西は日本に一時帰国する。それを新聞が伝えている。

大阪朝日新聞で1937年1月11日から始まる「東西商売人気質」という特集で第8回目に登場する。
「ベルリン中菅商店主、中西賢三氏はドイツ生れの夫人とともにこの暮17年ぶりに帰国。
1〜2年内地の生活を楽しんで再び渡独するが、こちらが初めてのヘレネ夫人は第二の祖国たる躍進日本文化の世界水準化に驚きの眼をみはりつつ、与えられたテーマの下に"ただ慾をいえば"の一語をつけ足し、そして最後に帰途アメリカのデパートで調べて来た"商品仕入れのこつ"なるものを日本の皆さんへの贈りものとして差出した。」と夫人の言葉が掲載される。

夫妻はパリ、ロンドン、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコと日本へ向かう途中、世界の各都市を回ってきた。普通はベルリンからだと、ナポリに出て、スエズ運河、アジアを経由して日本に戻るが、アメリカを経由して戻ったのは、先進国のデパートなどを見て自分の商売の参考にしようとしたか、オリンピック景気でかなり利益を上げたからのどちらかであろう。



<ヘレネ夫人>

中西の一時帰国に関し、1937年3月2日の読売新聞はヘレナ夫人に焦点を当てた記事を、かなり紙面を割いて書いている。
「日独”防共“愛の実践者。中西夫妻、コーコー帰朝」の見出しだ。

日本独特の“親孝行”が、あの気難し屋のヒトラーを負かして外国種との配合まかりならぬーという鉄(くろがね)の法律の下で、堂々美しい青い目のヒトラー種と天下晴れての結婚をして相携えて日本に洋行、大阪は阪急夙川の丘の上で、親孝行と女房孝行に熱中している青年がいる。
おそらくこの青年はヒトラー治下における雑婚の最後の日本人であろう。」

夙川に中西の母が住む実家であった。新聞には現在は使われない言葉が用いられているが、ヒトラーがドイツ人にアーリア人種のみとの結婚しか認めないという政策をとる中、ヘレナは例外的に中西との結婚が認められたようだ。

実際この後日本人とドイツ人の国際結婚が認められるのは、ドイツの敗戦も迫る1944年のことだ。そして見出しの“コーコー”は“孝行“のことで外人がしゃべる風にカタカナで書かれた。

さらには「その主人公は今年42歳、年のふけた青年であるが、ベルリンなら武者小路大使より名が通っている。」と私設大使たる所以を語る。



<戦争勃発>

1939年9月にドイツが英仏と戦争を開始すると、日本からの貨物が滞り、日本食材などが手に入らなくなる。ベルリンの婦女子はすべて日本に引き揚げる。また逆の渡欧客も激減したので、中菅も厳しい時代を迎えた。

1941年12月8日には、日本も米英に参戦する。1942年4月の「ドイツ国日本人リスト」によれば、中西は読売新聞のベルリン支局勤務となっている。つまりこの時点では中菅を畳んでいる。そして先の新聞記事などで繋がりのあった読売新聞の現地通信員となった。新聞各社は日本から人を送れないため、こうした滞在者を雇い入れた。

ただし、この4月時点でも“ベルリン日本堂(商店 店主田口正男)“、”高田屋(店主 高田英俊)“、”日独屋商店(店主山口茂男)“という同様の店が残っている。中西は一足先に見切りをつけたようだ。

1945年1月、ベルリンの陥落も迫った時の在独邦人リストでは中西は「鉄鋼統制会嘱託」となっている。その後他の日本人とともにマールスドルフに夫人とともに避難し、ソ連軍の手でシベリア鉄道を経由し満州に到着する。そこで日本の敗戦を迎え、その後日本に戻った。



<戦後>

日本に戻ってからの足取りはつかめないが、中西賢三という名で次のような記事が出ている。どれもドイツに絡んでいる話が入っているので、同一人物であろう。 ベルリンの財産をすべて失っての生活であったと思われる。

「食品と科学」1967年9月号:「期待される大豆蛋白精製人工肉 」
肩書は「プロテーン通商」。
「週間ダイヤモンド」1970年1月12日号:「デノミネーションに関する私の提案」 肩書は「通貨研究者」。

次はパリ及びロンドンの私設大使も特定し調べてみたい。
(2020年3月9日)


トップ このページのトップ