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欧州邦人 気になる人 (バーバラ寺岡と寺岡洪平)

<料理研究家 バーバラ寺岡>

以前はよくテレビでも見かけた料理研究家のバーバラ寺岡さんが、「終戦時ハンガリー代理公使であった外交官寺岡洪平の娘さんである」、と聞いたのは1年ほど前の事である。教えてくれたのは『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』の著者の高川邦子さんである。


ネットでバーバラ寺岡に関する記述を調べると次のようだ。
「1945年ハンガリー生まれ。本名は寺岡たみ子。料理研究家、美容、健康アドバイザー。母は世界の美容の歴史とハーブ医学の研究をするハンガリー人。外交官である父親(寺岡洪平)は日本に戻る直前に、ドイツ軍に連れ去られてしまった。

ハンガリーに残った母と子は、戦後は家も家財も取り上げられて、日本人の外交官家族だと分かったら命も危ない状況。強制収容先の農家でブドウ畑の仕事や、井戸の水くみ、牛の乳しぼりなどをして生き延びた。

8歳でようやく日本に来ることが出来たが、ハーフだったことから、いじめにもあう。以降も世界各地を移り住み、15歳で再び日本に戻る。」
(以上主に「Mの知りたいことだらけ」というサイトより)

終戦の年の1945年に生まれているとすれば、母親がハンガリー人とはいえ、戦時下最後の欧州邦人である。そんなバーバラ寺岡について自分なりに調べてみた。



<欧州時代の寺岡洪平>


寺岡洪平は外務省試験に1932年に受かり、翌33年に東大を卒業する。1943年、戦時中であるが、特別にソ連の通過査証を得て、日本を発ちソ連からトルコに入り、イタリアに赴任する。着任早々の7月、ムッソリーニが失脚するが、寺岡らの日本人はしばらくローマに留まる。

そして同年11月、大久保利隆公使の後任のハンガリー代理公使としてブダペストに転任する。しかし翌1944年9月2日、ソ連軍がハンガリーに侵出、12月24日にはブダペストを包囲する。1945年2月13日にはブダペストが陥落する。

ソ連軍の侵出に対し、寺岡代理公使以下の日本人外交官は1944年12月12日、ブダペストから避難する。その後日本の外務省も彼らの消息をつかめなくなるが、翌年4月18日に、ハンガリー西部、オーストリアとの国境に近いソトバトヘイでソ連軍により発見された。そしてバーバラが生まれたのがちょうどこの頃、3月18日である。(バーバラの誕生日はサイト「年号ワイン」より)

日本とソ連の間には幸いまだ日ソ中立条約が存在していたので、彼らの手で、モスクワ経由で満州との国境の満州里に7月に到着する。日本の敗戦1か月前である。



<ハンガリー人妻との出会い>


この寺岡の行動と、バーバラに関する先述の内容を照らし合わせると、次のようなことに気付く。

1 寺岡とハンガリー人妻が知り合ったのが、寺岡のブダペスト赴任以降とすると1943年11月以降、赴任してほどなく2人は知り合い結婚、バーバラをもうけたことになる。母親は当時、ハーブの研究をしていたとすると、ハンガリーの国情からしても、相当恵まれた家庭環境の人であろう。

2 寺岡がブダペストを出て、ソトバトヘイに避難したのは、ハンガリーを撤退する同盟国ドイツ軍の手引きによるものと思われる。そしてこの動きを冒頭のブログでは「ドイツ軍に連れ去られた」と言っているのであろう。

3 このブダペストからの避難行、およびその後に想像される過酷なシベリア鉄道経由の日本送還を考えると、臨月の女性、もしくは生まれたばかりの乳飲み子には無理だと判断し、寺岡は妻子を現地(おそらくブダペスト)に残したのであろう。



<戦後の寺岡洪平>


戦後、寺岡は外交官として再度外交の表舞台に出る。敗戦間もない1950年4月、初代ニューヨーク在外事務所長に任命される。まだ日本がサンフランシスコ条約に署名して、国際社会に復帰する前である。

戦争中を通してアメリカに留まった社会運動家、石垣綾子の日記に次のような記述がある。
「1950年8月8日
日本海外事務所長、寺岡洪平氏に逢いに行く。佐藤敏人より前に通知があったから、その関係で挨拶をするために、42丁目のリンカーン・ビルの42階に行く。
寺岡所長は37,8歳。洒落た文化的な美男子。これならばエチケット一点張りの吉田首相の(好みの)試験にはパスする。」

ここからは寺岡は美男子であり、かつ吉田茂首相に気に入られていたことをうかがわせる。1951年9月8日、首席全権吉田茂によってサンフランシスコ条約に批准がされる際、寺岡は随員の一人として、ニューヨークから合流している。

次いで1952年、ドイツの海外事務所長となり、その後まもなくして日本に戻る。それは1953年ころのことで、1945年生まれのバーバラが「8歳で初めて日本に来た」という証言と合致する。

その後1956年1月13日の朝日新聞、「人寸描」の欄に「ペルー大使に内定した寺岡洪平」の記事が出る。

そこでは「夫人はハンガリー人、氏が同国在勤中に結ばれたのだが、終戦で別れ別れになったのを、あらゆる手段を尽くして呼び寄せたというエピソードがある」と紹介されている。
家族の再開は、寺岡のアメリカ時代でも、ドイツ時代でもなく、戻った日本だったのであろうか?



<単行本初出版>


バーバラは22歳の時、最初の単行本「デザートとお菓子」という著書で、料理研究家としてデビューする。出版に際し、1967年9月19日の朝日新聞に記事がでる。

「母エリザベスさんの一人娘で、15歳まではほとんど2年ごとに学校も国も変わった。おかげで日本語、ハンガリー語の他に英語、スペイン語、イタリア語を自由にこなす。」

そんな環境にもかかわらず、日本語は完璧であるという。スペイン語は寺岡のペルー大使時代に身につけたのであろう。

そして「食道楽の父親に連れられて、各国の一流料理を知った」のが料理の道に入るきっかけであったと語っている。



<本人の語る母 1>


沢山の料理関係の書物を出版したバーバラであるが、家族について語ったものは少ない。その中で毎日新聞編「わたしとおかあさん」の中に、母親についての記述がある。

バーバラの母エリザベートは、1920年生まれのハンガリー人である。彼女はハンガリー・オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世に仕えた軍人の曾祖父と、エリザベート皇妃と親交のある曾祖母という、由緒ある裕福な家庭に育った。

そして美貌を兼ね備え、イタリアでハーブ医学と世界の美容とファッションの歴史を学び、大恋愛の末に、日本人の有能な外交官(寺岡洪平のことー筆者)と結婚した。

それ以前と異なり第二次世界大戦中、欧州では日本人外交官の国際結婚は好ましくないとされ、ほとんど例はなかった。寺岡の国際結婚に関し、外交史料館に関連する史料を見つけることは出来ないのは、それが理由であろうか?

また寺岡は先述のように、ハンガリー公使になる前、先ずイタリアに赴任している。母エリザベートは、ハンガリーからハーブ医学、美容の研究にイタリアに来たが、同じ時期なのかは、わからない。

付け加えると、バーバラは先述のように美男子の父と、美貌の母にも関わらず、その素養を引き継がずに、自分の容姿へのコンプレックスがあったと自身について控えめに書いている。

「そんな母の人生を一変させたのは戦争でした。」とバーバラは回想する。ソ連軍がブダペストに迫るころはちょうど、臨月の身であった。日本までの同行は無理と考え、夫と生き別れ、一人でバーバラを出産する。

母と子の残ったハンガリーは共産主義国家となった。それ以前の貴族の暮らしをしていた時の財産も、すべて失ったと想像される。

「恵まれた生活と苦難のどん底の両方を味わった母。食べ物もない厳しい生活の中にあって、しかし母は、病気やけが、やけど、貧血も、野草や花、果実を使った秘伝の菓子で治す名人でした。」と最後を結んでいる。



<本人の語る母 2>


別の著書「毒を薬に変える料理法」においても少し母親について語っている。

「私の母は大変な美人でおしゃれで、美容の達人でした。若い頃イタリアで美顔術の勉強をし、資格を取ってハンガリーでサロンを開いていたのです。」

「母の美顔術、オリジナルのローションやクリームがすばらしいので、店は大流行でした。
その母は62歳で亡くなりましたが、62歳とはとてもおもえないほど肌がきれいで、シミひとつない若々しい肌を持ち、白髪もほとんどありませんでした。」
母親の美貌がここでも語られている。また1920年生まれのエリザベートであるが、1943年頃にはブダペストで大流行の店を持っていたとすると、イタリアで勉強したのは、寺岡が同国に赴任した1943年より前の事となる。

「終戦の年に生まれた私は栄養不足でした。そして、同じように栄養失調であった母は、私が4歳の頃結核になりました。1年間、サナトリウムで療養生活を送ってようやく改善しましたが、1年後に私が発病、今度は私が1年間、母と離れてサナトリウムに入ったのです。

私と母が入っていたサナトリウムは、山の上の樹木がいっぱい生い茂った、今でいう森林浴が出来るところにありました。」

敗戦後5年は、バーバラはハンガリーにいたことが分かる。また親子は他の引揚邦人同様、もしくはそれ以上の苦労を味わった。一度ご本人からお話を聞いて、お母様の写真など、見せていただきたいものだ。

(2016年9月17日)



<追記 祖国を捨てた国際愛>

上記のように書き上げ公開後、バーバラ寺岡さんについて教えてくれた方に報告したら、「あなたに似た人」中で澤地久枝さんがバーバラ寺岡さんのお母様について書いていますよ、と親切に教えていただいた。
事前によく調べなかった自分を悔やむが、後の祭り。早速一読したが、切望した一家の写真も載っている。一方筆者の書いたものに大きな間違いはないようだ。特に本文において不明と筆者が書いた部分を中心に、同書から何点か書き記す。

1 1943年暮れ、首都ブダペストのあるダンスパーティーの席で中年の寺岡とエリザベートは偶然となりあわせた。
彼女は早く父と死に別れ、その遺産で母娘2人の生活を続けてきた。美顔術師の仕事が好きで、ローマで2年間学んで帰国したばかりであった。

2 寺岡が独身生活が長かったのは、英国女性と婚約したが、何年たってもその結婚が許されなかったためという。一方彼女もローマ滞在中にアメリカ人男性と恋愛し、婚約していた。

3 寺岡氏はブダペストに来る前の任地がローマだったので、初対面の2人はイタリア語で話し合った。恋は一瞬のうちに2人をとらえた。

4 はじめて会ってから3ヶ月後の1944年の2月、2人は教会で結婚した。しかし外務省と寺岡家の同意が得られず、入籍の問題は未解決であった。

5 1944年12月以降、ドイツ軍はブダペストから、日本の外交官が半ば強制的に連れ去るが、臨月の妻は一人ブダペストに残った。1945年3月28日、たみこが生まれる。

6 彼女は焼け跡の公使館の一室で新生児(たみこ)を育てた。お風呂のための水も燃料もなかった。

7 別れてから2年後、ブダペストから東京の寺岡家に便りが届き、娘の誕生を知る。

8 やがてアメリカ経由で夫からの贈り物が届き始めた。それをもっぱらバーバラが街に出て売りさばいた。(1950年、寺岡のアメリカ駐在時代か?―筆者)

9 寺岡のボン駐在時代、エリザベートは何度も出国申請を出したが、梨のつぶてであった。寺岡が日本に帰国する直前、ついに出国の許可が出て、ウィーンで再会する。9年ぶりであった。

「これを読んだら、筆者のは要らない」などと言わないで下さい!?
(2016年9月19日)

 

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