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欧州邦人気になる人 小松ふみ子


<小松ふみ子とは?>

小松ふみ子は戦時中、フランスに留学していた文学者である。筆者は邦人調査のほとんどを、欧州滞在期間に限って行っているが、そこではあまり出てこないが、日本に戻ってからの行動に興味を持つ場合がある。小松ふみ子はその典型である。

1945年1月にドイツで作成された邦人名簿によると、ふみ子について次のように記されている。

小松富美子(陸軍武官室嘱託) 1911年4月24日生まれ
山形県鶴岡市百人町 (本籍)
渋谷区八幡通     (留守宅)
1938年3月 東京市発行のパスポートを所持

ここから分かることは、富美子の渡仏時期はおそらく、1938年3月ごろである。留学時は27歳なので、大学を出て研究室に入っていたくらいか。なお名前の富美子であるが、戦後の書物はどれも“ふみ子”と記しているので、以降はふみ子と記す。



<フランス留学>

フランスへの公費留学生をみた場合、1939年6月3日の朝日新聞に「仏国留学 初の女性2名」の記事にあるように、ふみ子渡仏の翌年に初めて女性の留学生が現れる。そしてこの2人とは物理学の湯浅年子とフランス文学の片岡美智である。

決定直後に欧州に戦争が始まり、片岡はやっとの思いで渡欧を実現させる。そしてその後間もなくして、日本から渡欧の道は閉ざされる。つまりふみ子は私費、もしくは別の援助を得て渡仏したのであろう。

そして戦時中、パリ大学の一つであるソルボンヌ大学を卒業する。大倉商事の駐在員大崎正二は自著「遥かなる人間風景」に、ふみ子について、次のように書いている。そしてこれが筆者の見つけた唯一のパリ時代の足跡である。

「彼女はソルボンヌ大学で文学を専攻する留学生で、美貌の才女である」とふみ子は美しい女性であったことを語る。そして
「私が編集した戦時中のパリの日本人会発行の小冊子に、彼女が寄稿してくれた文章は、内容は覚えていないが、珍しく雄渾な筆致で、その上たいへんな達筆であった。」と堂々とした文章を書いたという。



<引き揚げから戦後>

1944年8月、パリに連合国が迫ると、小松を含む邦人はベルリンに避難する。ベルリンに引き揚げると早々に小松はウィーンにドイツ語の勉強に行くのであるが、その経緯等は筆者の「西村ソノ」で紹介した。

敗戦で日本に戻った、小松は当然フランス語を生かした。
フランスの女流作家ジョルジュ・サンドが書いた「秘められた情熱」が井上勇・小松ふみ子2人によって訳され、戦後まもなくに出版されている。そしてその本の前書きに翻訳家の井上勇は
「小松ふみ子さんは、フランス文学と言わず英米の文学、とくに女流作家の研究に志されている方で、とくにブロンデ、サンド、コレットなどに傾倒されているようである。

長年フランスに居住され、いままたアメリカに行かれようとしているが、その文体において、長年の外国生活から来るしこりがあるような気がしたので、その点は遠慮なく筆を入れた。
1950年7月25日 井上勇」と記している。

留学までして、フランス語、文学を身につけたふみ子が、戦後は英米の文学も研究している。さらに気になるのが、ふみ子が「アメリカに行こうとしている」という部分である。外国に出かけるのがきわめて困難な時代に、どうしてアメリカに行くのであろうか?



<石垣綾子日記>

そんな疑問にたいする答えが、アメリカ在住25年の石垣綾子の日記の中にあった。途中に筆者のコメント入れながら紹介する。

「1951年 3月1日
夜、小松ふみ子氏来る。彼女は、世界各国より来た芸術家の19名グループの一人にて、国際教育協会の招待を受けた。作家として日本より来た、唯一の人。」
この国際教育協会の招待による渡米は、当時の朝日新聞には載っていない。戦後6年が経ち、渡米もそんなに珍しいことではなくなったためであろうか?

「彼女のことは、(知人の)エデルマンより聞いた。“非常にきれいな人で、アグレッシブで、有名なアメリカ作家に会うことを唯一の仕事と考えている。あの人が来たのはたぶん、その力量よりも、プルがあったからだと思う”とエデルマンは言った。」
エデルマンという人物について詳細は不明であるが、ふみ子が美人で、渡米は自分の実力というよりも、コネの影響力の方が強かったと、石垣に事前に語る。
そして“有名なアメリカ作家に会う”とはノーベル賞受賞のアメリカの作家、W・フォルクナーであるが、これについては後述する。

「そうした予備知識で会ったせいか、第一に、彼女(ふみ子)はすばらしい美人ではなかった。背は高く、いい身体である。あの笑いがアメリカ人にすばらしくアピールするのであろう。
彼女は自分の美しさを知っていて、それを十分に利用する人だとエデルマンは言った。」
石垣の8歳年下のふみ子にたいする嫌悪感が現れている。「美人ではなかった」と容姿にまで触れるのには、「反戦の旗手がそこまで書かなくても」という感想を筆者は持つ。

「戦時中パリにあり。ドイツ占領下にて、日本人なるが故に、フランス人よりも好待遇を受け、食料券もずっと多かった。後ドイツに移り、ロシアを通って、終戦二週間前に帰国した。この旅行記を書いた“ベルリン最後の日”という著書あり。彼女は、その時の支配者を無批判に受け入れ、それに悩みもなく服従していく人。」
フランス滞在中は日独の枢軸思想に染まり、戦後はアメリカに従う変わり身の早さが、石垣には受け入れられなかったという事だろう。

「(彼女とは)夜11時過ぎまで話した。アメリカを心から尊敬しているのではなく、いろいろと軽蔑しているのだが、敗戦の日本は足蹴りにしたいほど嫌な国で、そこから逃れるためには、“アメリカ様々”と拝むより外に途はない、と考える多くの日本人渡米者の一人。」
石垣の説明によればふみ子は、敗戦で落ちぶれた日本に嫌気がさし、これからの時代はアメリカだと考え、自分の専門をフランス語から、英語に代えたことになる。
当時の状況を考えると、筆者はふみ子の合理的考えを否定しない。だが残念ながら、その後の日本の復活を読み間違えたのではないか?

その後も石垣の日記には、ふみ子が登場する。
「3月5日 
顎を少し張って、自信ありげに、ゆっくり話し続ける人。

3月18日 
小松氏は、日本の悪口を言われると、嫌な気持ちがするという。だから何事も日本のことは批判的に観察することが出来ない。
その次は、フランス贔屓。自分の頭の中に、狭い標準の物差しを持ち、それで測ってみる。それに添わないものは、駄目なのである。この制限性があるために、広く客観的に学んで、自己の中に吸収していくことが出来ない。」
石垣は日記の中で、多くの日本人を書いているが、ふみ子ほどスペースを割いた人物はいない。石垣が強い嫌悪感を抱くほどの強い個性がないと、この時期渡米者に選ばれることは不可能であったのであろう。



<W・フォルクナー会見記>

雑誌「群像」1951年6月号にふみ子の「W・フォルクナー会見記」という記事が掲載されている。冒頭
「筆者は ソルボンヌ大学卒業、著書に“伯林最後の日”他、2,3あり。現在19カ国国際教育大会に招待され、ニューヨーク滞在中。
デッサンは滞米中の岡田謙三画伯」とある。そして

「私(ふみ子)がーを北部ミシシッピーに訪ねたのは、去年の11月末、彼がノーベル賞授賞式参加のため、スエーデンへ出かけるちょうど2週間ばかり前であった。」
会見の内容はしっかりしており、筆者は好印象を持った。大崎がパリ時代のふみ子の文章を、“雄渾な筆致”と現したのはうなずける。

またふみ子と石垣が会ったのは日記によれば1951年3月であり、フォルクナーと会見後である。石垣の知人がふみ子に関し「有名なアメリカ作家に会うことを唯一の仕事と考えている。」と述べた作家とは、フォルクナーで間違いない。

ふみ子の記事に挿絵を描いたのは岡本謙三画伯であった。興味深いことに石垣の日記には岡本も登場する。ふみ子と会った数日後である。
「1951年3月23日
岡田謙三夫妻を晩餐によぶ。イースターだからハムを料理する。
岡田氏は真面目で、謙虚な心持ちをもっている。日本で有名な画家として楽な地位にあり、充分に生活費を得ていた彼が、その良い生活を捨てて、アメリカに苦労しに来て、絵の勉強をすると言う。
このような人と話していると、人の世に対する真面目な心を刺激される。」
ふみ子とは全く対照的な書き方である。石垣は謙虚な人物が好きであったようだ。



<その後>

終戦から何年か後、ふみ子はひょっこりと銀座の大崎の会社を訪ねる。大崎は先に紹介したようにパリでふみ子と一緒であった。そして
「大崎さん、さようならを言いに来たのよ。私、アメリカに行ってしまうの。
もう帰らないつもり。いろいろお世話になりました。ではお達者でね。さようなら。」と言って、それから幻のように消えてしまった。
ここから読み取れるのは、日本にはもう未練がないというドライな感覚である。
国際教育協会の招待を受けて渡米して、いったん帰国するが、その時に知り合ったアメリカ人と結婚のため、再度太平洋を渡ったのであろうか?

その後、大崎はおそらく東山魁夷の本を読んでいて、次のような記述を見つけた。多彩な芸術家である北大路魯山人が、個展のためにニューヨーク滞在中のことである。

ある日本人婦人の家に招かれた。壁になかなかいい油絵がかかっているので聞くと、自分が書いた絵だと彼女が答えた。
この女性に魅了されて、魯山人は「もっと若かったらきっと夢中になって結婚していただろうと、残念でならなかった」と述懐した。この女性がなんと小松ふみ子であった。

魯山人がロックフェラー財団の招へいで、ニューヨークで個展を開いたのは1954年の事である。4月3日より、6月18日まで、米欧旅行。アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの順に廻っている。当時74歳の魯山人であるから、確かにふみ子と結婚するには年はいき過ぎていた。

この頃の魯山人に関する記事、東山魁夷の本を調べているが、今のところ、この記述の箇所を見つけることが出来ない。しかしここから分かるのは、ふみ子はやはり美人で、魅力的女性であったという事だ。

戦前にフランス文学を学んで、フランスに留学し、終戦と同時に、英語を学び、「もう帰らないと」言って渡米、そして絵画をも学んだ。そのままふみ子はアメリカに留まったのであろうか?もっと彼女のことが知りたい。美人といわれた彼女の写真を探し出したい。
2016年8月29日)

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